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木下俊懋

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曖昧さ回避 木下利当」あるいは「木下俊愿」とは別人です。
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(2019年12月)
 
木下俊懋
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永元年8月2日(1772年 8月30日)
死没 文政5年7月3日(1822年 8月19日)
改名 千勝、俊茂、俊懋
戒名 謙徳院
墓所 大分県 速見郡 日出町の松屋寺
官位 従五位下 主計頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
豊後 日出藩
氏族 木下氏
父母 木下俊胤木下俊泰養女於久
兄弟 俊懋堀直方正室、横山知雄正室、
高井常房室、山崎義徳正室、
溝口直清正室、小笠原信成正室
太田資愛
ウメ、歌
俊賢俊良 俊敦吉川経礼正室
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木下 俊懋(きのした としまさ)は、豊後国 日出藩11代藩主。官位は従五位下、主計頭。

経歴

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日出若宮八幡神社に寄進した鳥居

幼名は千勝。初名は俊茂。安永5年(1776年)、俊胤の死により跡を継いで日出藩11代藩主となった。天明2年(1782年)5月に俊懋と改名した。寛政6年(1794年)には日出若宮八幡神社に鳥居を寄進した。

藩政においては藩財政が悪化したり、藩主の早世などが相次いで混乱していた藩政を再建するため、殖産興業政策や塔ノ平池の治水工事、藩校である稽古堂の創設や製紙産業の育成に努めている。文化7年(1810年)3月10日、次男の俊良に家督を譲って隠居し、文政5年(1822年)7月3日に51歳で死去した。法号は謙徳院。墓所は大分県 速見郡 日出町の松屋寺。

系譜

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父母

正室

側室

  • ウメ

子女


木下氏日出藩11代藩主 (1776年 - 1810年)

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