小堀政弘
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時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 延享3年(1746年) |
死没 | 天明8年8月6日(1788年 9月5日)[1] [2] |
別名 | 貞五郎、内記、宗道(号) |
官位 | 従五位下 河内守 [1] |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
氏族 | 小堀氏 |
父母 | 父:小堀政展、母:遠藤胤親の娘 |
妻 | 渡辺貞綱娘[1] |
子 | 内藤忠高妻、政徳、椿井政堯、梶正員、政幸、小山英昌、政周、三河口輝清妻、養女:正木康満妻(渡辺貞綱の娘) |
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小堀 政弘(こぼり まさひろ)は、江戸時代中期の旗本。禄高は3000石[3] 。茶道小堀遠州流第9世で、号は「宗道」[1] 。
小堀政展の長男として生まれる[1] 。幼名は貞五郎、のち内記を名乗る[1] 。
明和元年(1764年)8月4日に父の遺跡を継ぎ、同年閏12月9日に中奥の小姓となる。明和3年(1766年)12月19日に従五位下河内守に叙任。安永4年(1775年)閏12月4日に小姓組番頭、天明元年(1781年)閏5月26日に書院番頭となるが、天明7年(1787年)2月23日にその職にふさわしくない振る舞いがあったとして解任されて、4月29日まで出仕を止められた。天明8年(1788年)に43歳で死去[3] 。
脚注
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