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古屋英夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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曖昧さ回避 古屋英雄」とは別人です。
古屋 英夫
阪神二軍監督時代(2015年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県 富津市
生年月日 (1955年08月01日) 1955年 8月1日(69歳)
身長
体重
173 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1977年 ドラフト2位
初出場 1978年4月14日
最終出場 1992年5月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
この表について
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古屋 英夫(ふるや ひでお、1955年 8月1日 - )は、千葉県 富津市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ。

現役時代は日本ハムファイターズの主力選手として活躍。小柄ながらがっしりした体格で、長打力を持ち合わせていたことからボンバーという愛称で知られた[1] [注 1]

経歴

アマチュア時代

富津市漁師の家庭に生まれる。小学校3年生の時に肋骨カリエスが見つかって摘出手術を行ない、回復のため父親の勧めで野球を始めた[4] 。優れた野球の才能を見せて6年生の頃から中学の練習にも参加し、天羽中学に進むと投手で四番打者を務めている。

複数の高校野球部から誘いを受け、木更津中央高校に進学。高校でも1年生の秋からエース、四番打者となる。1972年 夏の甲子園県予選では2回戦で成東高鈴木孝政と投げ合い、4-5で惜敗。3年生の1973年6月には来日したハワイ高校選抜との交流試合のため編成された千葉県選抜チームで四番を務めるが、このチームでは掛布雅之が三番打者として起用されている[5] 。同年夏の県予選準々決勝で、掛布が四番打者であった習志野高と対戦、延長11回に1-2xでサヨナラ勝ち。しかし決勝ではエース土屋正勝を擁する銚子商と延長12回の熱戦の末、7-9で敗れ、甲子園出場を逸する。

高校卒業後は亜細亜大学に進学。当時の東都大学野球リーグ駒大の全盛期であり、優勝には届かなかった。1年生の1974年春季からリーグ戦に登板、2年生の秋季リーグまでに5試合の登板を経験したが、3年春に矢野祐弘監督の勧めで三塁手に転向。直後の1976年春季リーグで四番を務め、打率.442で首位打者を獲得している。リーグ通算56試合出場、181打数60安打、打率.331、6本塁打、31打点。ベストナイン3回(三塁手2回、遊撃手1回)受賞。1977年には第6回日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、ここでも四番を任された。大学同期に矢野隆司高橋周司両投手がいる。

ヤクルトをはじめ多くの球団から1977年のドラフト会議での1位指名を約束されていた[6] が、実際には日本ハムから2位指名を受ける形となった。約束を反故にされたことに対して野球部監督の矢野が激しく怒った[7] ものの、古屋自身がプロ入りを望んでいたこともあって入団が決まった。

プロ野球選手時代

1978年の日本ハムは、前年に二塁手および遊撃手を務めた行沢久隆菅野光夫の打率がそれぞれ.196、.185と低迷していた事から、大沢啓二監督は強打の古屋を春季キャンプで遊撃手にコンバートしようとした[8] 。しかし捕球しそこなった牽制球を顔面に当てるなど守備にかなりの難があり[8] 、コンバートを断念されて開幕は二軍で迎えている。だが開幕直後に三塁手のレギュラーの富田勝が故障したため、4月13日に一軍に昇格。翌4月14日の対近鉄戦では三塁手としてスタメン起用されると三回のプロ初打席で太田幸司から安打を打ち、翌日には井本隆からプロでの初本塁打を記録している[9] 。4月19日の対ロッテ戦では村田兆治から本塁打を打った一方で3失策を犯すなど、日本初の人工芝であった本拠地・後楽園球場での守備を特に苦手とした[10] が、大沢監督の若手起用の方針により4月下旬に復帰した富田は二塁手にコンバートされて古屋は起用され続けた。

なお、球団の投票呼びかけもあって同年のオールスターゲームには2割台前半の打率で選出されたが、投票結果が大きく問題視されてチームメイトの菅野とともに出場は辞退した。変化球への対応が未熟だった事などから1年目の成績は打率.218、7本塁打に終わった[11] が主に八番打者として108試合に出場している。この経験を糧として翌1979年はチーム最高の打率.312を記録し、晴れて同年のオールスターゲームにも出場した。なお、このオールスターでは4打席でノーヒットに終わっている。同年の打順は、ボビー・ミッチェル柏原純一サム・ユーイングの後の六番を主に務めた[12] 。この頃から三塁の守備にも自信を持てるようになったという[13]

4年目の1981年は初めて全試合に出場し、トミー・クルーズ、柏原、トニー・ソレイタに続く六番[13] で73打点を挙げ、勝負強い打撃でリーグ優勝に貢献している[14] 同年の日本シリーズでは第3戦で猛打賞を記録するなど六番・三塁手として全イニング出場を果たしたが、打率は.217にとどまった[15] 。この年のダイヤモンドグラブ賞の選出では、惜しくも1票差で藤原満に敗れている[16] 1982年は2年連続で全試合出場を果たし、打率と本塁打で前年の成績を上回るとともに初のダイヤモンドグラブ賞を受賞した。1983年は自身2度目の打率3割を記録して2年連続のダイヤモンドグラブ賞にも輝いたが、植村義信が監督となった1984年は最下位となったチームの不振にあわせて打率を.248に下げている。なお、同年まで4年連続で全試合出場を達成している。

1985年高田繁が監督に就任し、5月に柏原純一が死球を受けて欠場したのを契機に津末英明が代わって一塁手を務める機会が増えた[17] 。同じく柏原に代わる四番打者としてはクルーズやマイク・パターソンが候補に上がったが、それぞれ長打力や安定感に難があり[18] 、6月20日の対南海戦で古屋が四番に起用された。かつて柏原に対して江夏豊が「チャンスの場面では、四番は本塁打か三振で良い」と言っていたことを思い出してリラックスし[18] 、この試合で2本塁打を打つとそのまま四番に定着した。

7月9日対近鉄戦で先発投手鈴木啓示から右中間を破る三塁打を打ち、ショックを受けた鈴木はそのまま現役を引退した[19] [20] 。7月20日から23日まで、6年ぶりのオールスターゲームに出場し、第2戦では2打数2安打1打点の記録を残した。8月14日の対南海戦で右足かかとを痛め、その後数日は代打として連続試合出場を続けていたが、8月19日の対近鉄戦で九回一死の場面でネクストバッターズサークルに入っていたところ、前打者の二村忠美がサヨナラ本塁打を打ったため記録は646試合で終わった[21] 。同年はキャリアハイの33本塁打、96打点を記録し、初の打撃タイトルとなる最多勝利打点を獲得した。また、2年ぶりにダイヤモンドグラブ賞も受賞している。オフの契約更改では年俸が前年の2,400万円から3,200万円(いずれも推定)に大きく上がった[22]

1986年は新しく加入したパット・パットナムが四番に入ったため五番に回り[22] 、2年ぶりに全試合に出場してゴールデングラブ賞を受賞している。1988年には中日から大島康徳が移籍して五番打者となり、古屋は六番を務めた[22] 1989年に監督に就任した近藤貞雄は二村を三塁手にコンバートしようとしたが、打撃の伸び悩みもあってすぐに外野手に戻っている[23] 。同年は5月5日の対オリックス戦で九番打者として本塁打を打ち、史上初の全打順本塁打を達成した。この年はトニー・ブリューワに次ぐチーム2位の打率.272、同じくチーム3位の14本塁打を記録している。

1990年は近藤が中島輝士を三塁手にコンバートし、オープン戦で積極的に起用すると中島も82打数28安打で打率.341の好成績を残した[24] 。一方で古屋は10試合の出場にとどまり、21打数4安打で打率は.214だった。シーズンに入っても三塁手のレギュラーは中島が務めたが、6月には打率が.250を切り、守備でも失策が目立った[25] 。レギュラー剥奪について古屋に対する首脳陣からの説明が全くなかったことが寂しかったという[25] 。7月には中島が外野に戻って古屋の出番も増えたが、プロ入り以来最低の成績に終わった。日本シリーズ直後の10月27日に大沢啓二に呼ばれてスカウトへの転向を勧められたがこれを断り、トレードを志願している[26] 。球団によるトレード交渉は不調に終わったため自由契約を希望し、12月に阪神からオファーを受けて1,000万円減の年俸2,300万円(推定)で契約を結んだ[27]

1991年代打の切り札として活躍し、打率.311を記録した。広島東洋カープがリーグ優勝を決めた10月13日の試合では大野豊から三振で打ち取られ最後の打者になっている。翌1992年は13試合の出場に終わり、同年限りで現役を引退している。

現役引退後

1993年から2002年までは日本ハムで打撃コーチ、内野守備走塁コーチ、チーフ打撃コーチ、チーフコーチを務めた。2003年からの5年間は、オリックスのスカウトとして各地を回った。当時見た選手では鳥谷敬田中将大が印象に残ったという[28] 。また自身の経験と照らし合わせ、野手の目線から身体能力や投球の打ちにくさを評価していた[29]

2008年は同球団の二軍(サーパス)打撃コーチに就任したが、テリー・コリンズ監督の退団に伴って住友平二軍監督が6月から一軍チーフコーチに異動したため、二軍監督を兼任する事になった。2009年は二軍監督に専念し、明るさと厳しさを兼ね備えた指導で、選手同士が意見を出し合える雰囲気作りを目指した[30] 。育成を重視しつつも、時には勝負にこだわって勝ち試合を守り抜く事により精神面を鍛えた[30]

2010年東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍打撃コーチを務めた[31] が、2011年からオリックスにフロント職で復帰。球団本部編成部の国内グループ長として、スカウティング活動を再開していた。

2014年には、阪神の二軍チーフ兼打撃コーチとして現場に復帰[32] 2015年には、二軍監督へ転じる[33] 一方で、6月29日に神宮球場で催された「侍ジャパン大学日本代表 対 NPB選抜」でNPB選抜のコーチを務めた[34] 。なお、掛布雅之球団本部付育成&打撃コーディネーター(DC)が二軍監督へ就任した2016年も、二軍チーフ兼守備走塁コーチとしてチームに残留[35] 2017年に二軍チーフ兼育成コーチへ異動したが、シーズン終了後に阪神を退団した[36]

2018年2019年には、オリックス球団本部の編成部副部長として、スカウティング活動を統括していた[37] [38]

プレースタイル

全打順本塁打に象徴されるように、現役時代は様々な打順で起用された。自身は打順にはこだわりはなく、試合に出場することを重視していた[39] 。練習中から高い集中力を保つなど、野球に対する真摯な姿勢は江夏豊に高く評価されている[14]

三塁手としての守備はプロ入り後にグラブの使い方から教えられたが、瞬発力があるため横への反応が良かったという[13] 。通算では4度のゴールデングラブ賞を受賞している。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1978 日本ハム 108 368 330 37 72 14 0 7 107 32 3 3 8 2 15 0 13 50 9 .218 .278 .324 .602
1979 109 423 390 58 122 23 2 15 194 56 14 8 1 5 21 1 6 38 9 .313 .353 .497 .851
1980 84 308 287 38 69 10 0 9 106 30 12 3 3 1 12 0 5 30 8 .240 .282 .369 .651
1981 130 513 465 55 135 22 2 11 194 73 18 5 11 3 27 0 7 45 17 .290 .337 .417 .754
1982 130 520 471 57 137 25 4 13 209 52 9 5 13 2 21 2 13 41 18 .291 .337 .444 .781
1983 130 533 487 67 149 20 0 19 226 65 10 3 9 6 25 2 6 33 14 .306 .344 .464 .810
1984 130 508 468 49 116 24 2 13 183 52 12 3 8 1 29 2 2 33 8 .248 .294 .391 .685
1985 127 534 470 80 141 25 2 33 269 96 2 1 3 2 55 6 4 52 13 .300 .377 .572 .949
1986 130 544 492 62 140 27 1 21 232 68 23 3 3 2 44 1 3 92 19 .285 .346 .472 .817
1987 104 405 366 56 95 14 1 15 156 69 2 0 0 3 32 1 4 49 12 .260 .323 .426 .750
1988 106 379 351 27 87 12 1 6 119 31 7 0 7 1 18 0 2 59 8 .248 .288 .339 .627
1989 109 367 323 37 88 7 1 14 139 42 7 4 13 2 27 1 2 41 11 .272 .331 .430 .761
1990 67 207 181 18 40 8 1 4 62 17 2 1 7 2 16 0 1 27 7 .221 .285 .343 .628
1991 阪神 44 48 45 1 14 2 0 0 16 2 0 0 0 0 2 0 1 12 3 .311 .354 .356 .710
1992 13 19 17 0 1 0 0 0 1 1 1 0 0 0 2 0 0 2 1 .059 .059 .158 .217
通算:15年 1521 5676 5143 642 1406 233 17 180 2213 686 122 39 86 32 346 16 69 604 157 .273 .326 .430 .756
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 5(1978年 - 1990年)
  • 12(1991年 - 1992年)
  • 71(1993年 - 2002年、2008年 - 2009年)
  • 77(2010年)
  • 83(2014年 - 2017年)

脚注

注釈

  1. ^ このボンバーという愛称は1年目のシーズン終了後に公募によってつけられた[2] [3]

出典

  1. ^ 週刊ベースボール、2005年2月1日号、P.76
  2. ^ 松井進作 「V戦士になった『ボンバー』古屋英夫」週刊ベースボール別冊 よみがえる1980年代のプロ野球 [Part.7] 1981年編 巨人8年ぶり日本一 ベースボール・マガジン社.2020年.P24
  3. ^ "古屋英夫 パワフルな攻守走で異彩を放った"ボンバー"/プロ野球1980年代の名選手". 週刊ベースボールONLINE (2019年3月1日). 2022年2月6日閲覧。
  4. ^ 海老沢泰久『ヴェテラン』文春文庫、1996年、P.187
  5. ^ 海老沢、1996年、P.189
  6. ^ 海老沢、1996年、P.190
  7. ^ 海老沢、1996年、P.192
  8. ^ a b 海老沢、1996年、P.194
  9. ^ 海老沢、1996年、P.195
  10. ^ 海老沢、1996年、P.196
  11. ^ 海老沢、1996年、P.197
  12. ^ 海老沢、1996年、P.200
  13. ^ a b c 海老沢、1996年、P.203
  14. ^ a b 週刊ベースボール、2005年2月1日号、P.77
  15. ^ "1981年の日本シリーズ NPB公式記録". 日本野球機構. 2021年7月11日閲覧。
  16. ^ 海老沢、1996年、P.204
  17. ^ 海老沢、1996年、P.206
  18. ^ a b 海老沢、1996年、P.208
  19. ^ "【虎のソナタ】新米記者に「おい、ピカピカ...いや、なんだっけ」 古屋コーチ、そりゃないですよ〜". 産経新聞 (2016年6月24日). 2021年7月11日閲覧。
  20. ^ "【3月16日】1985年(昭60) 20年目"草魂"の意地!オープン戦1失点完投". スポニチ Sponichi Annex (2011年3月16日). 2011年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月11日閲覧。
  21. ^ 海老沢、1996年、P.209
  22. ^ a b c 海老沢、1996年、P.210
  23. ^ 海老沢、1996年、P.212
  24. ^ 海老沢、1996年、P.216
  25. ^ a b 海老沢、1996年、P.218
  26. ^ 海老沢、1996年、P.219
  27. ^ 海老沢、1996年、P.220
  28. ^ "オリックス2軍打撃コーチ 古屋英夫さん". 高校野球.com. p. 2 (2008年1月14日). 2021年7月11日閲覧。
  29. ^ "オリックス2軍打撃コーチ 古屋英夫さん". 高校野球.com. p. 1 (2008年1月14日). 2021年7月11日閲覧。
  30. ^ a b 週刊ベースボール、2009年3月16日号、P.77
  31. ^ "来季のコーチ契約について". 東北楽天ゴールデンイーグルス (2010年10月7日). 2021年7月11日閲覧。
  32. ^ "古屋英夫氏のコーチ就任について". 阪神タイガース公式サイト (2013年10月28日). 2021年7月11日閲覧。
  33. ^ "2015年度 監督・コーチについて". 阪神タイガース公式サイト (2014年11月6日). 2014年11月6日閲覧。
  34. ^ "侍J大学代表vsNPB選抜 メンバー発表". 日本野球機構公式サイト (2015年4月28日). 2015年5月24日閲覧。
  35. ^ "阪神、金本新監督率いる来季コーチ陣発表". サンケイスポーツ (2015年10月27日). 2021年7月11日閲覧。
  36. ^ "来季のコーチ契約について". 阪神タイガース公式サイト (2017年9月29日). 2017年9月29日閲覧。
  37. ^ "オリックス、古屋英夫氏が編成部副部長で入団". 日刊スポーツ (2017年12月28日). 2021年7月11日閲覧。
  38. ^ "オリックス、スカウト体制一新 古屋氏と中川氏が退団へ 来季も育成路線は継続". スポーツニッポン (2019年12月17日). 2021年7月11日閲覧。
  39. ^ 海老沢、1996年、P.211
  40. ^ "意外なレア記録? 全球団本塁打と全打順本塁打の両方を達成した選手は?". 週刊ベースボール (2020年4月8日). 2022年6月1日閲覧。

関連項目

外部リンク

 
業績
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞

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