コンテンツにスキップ
Wikipedia

五島盛勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
印刷用ページはサポート対象外です。表示エラーが発生する可能性があります。ブラウザーのブックマークを更新し、印刷にはブラウザーの印刷機能を使用してください。
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"五島盛勝" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2023年12月)
 
五島盛勝
時代 江戸時代前期
生誕 正保2年(1645年)
死没 延宝6年2月24日(1678年 4月15日)
改名 吉(幼名)、盛勝
別名 主税(通称)
戒名 羅屋寿休松岩院
墓所 東京都 文京区本駒込の吉祥寺
官位 従五位下 淡路守侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
肥前 福江藩
氏族 五島氏
父母 五島盛次櫛笥隆朝
奥平忠昌四女アキ
盛暢 奥平昌章日向正竹盛延
テンプレートを表示

五島 盛勝(ごとう もりかつ)は、肥前国 福江藩4代藩主。五島家24代当主である。

略歴

正保2年(1645年)、第3代藩主・五島盛次の長男として生まれる。明暦元年(1655年)に父が死去したため、家督を継いだ。しかし幼少のため、叔父の五島盛清が幕命により後見人となり、さらに3000石を分与して富江領を与えたため、福江藩は1万2000石となった。

万治3年(1660年)、16歳に成長した盛勝は、12月28日に従五位下・淡路守に叙位・任官する。そして、叔父から藩の政治を譲られた。盛勝は奉行制度や諸番役、御船方などの諸制度を整備して藩政の確立に努めた。

寛文6年(1666年)、朝鮮に13年間幽閉されていたオランダ東インド会社ヘンドリック・ハメルら8人が、朝鮮を脱出して五島に到着したが、盛勝はこれを保護し出島に送った。その後ハメルらは無事帰国している。

延宝5年(1677年)12月14日に長男・盛暢に家督を譲って隠居する。翌延宝6年(1678年)2月24日、江戸屋敷で死去した。享年34。

系譜

父母

正室

子女

脚注

  1. ^ 奥平昌能の養子。
  2. ^ 旧名は五島盛栄。京都の某女との子。のち旗本の日向正春の養子。正春は元は福江藩士であり、妻は盛次の姉妹。
五島氏福江藩4代藩主 (1655年 - 1677年)

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /