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諏訪部定矩

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諏訪部 定矩
時代 江戸時代前期
死没 寛文元年4月23日(1661年 5月21日)
改名 諏訪部源二郎(源次郎)、元入
戒名 元入
墓所 武蔵国 雑司ヶ谷 法明寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光家綱
氏族 清和源氏 満快流諏訪部氏[1]
父母 諏訪部定吉
兄弟 諏訪部定矩黒沢定幸、山上定正、諏訪部定之、定久、成定
諏訪部定直定治、栗原利実
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諏訪部 定矩(すわべ さだのり[1] )は江戸時代前期の旗本江戸幕府馬預。

経歴

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相模国[1] 諏訪部定吉と先妻の子として生まれた[2] 。通称は源二郎[1] 慶長14年(1609年)徳川秀忠御目見し、大坂の陣では井上正就組に属した[1] 元和2年(1616年)切米を拝領した[1] 。父から八条流馬術を受け継ぎ[3] 、元和7年(1621年)馬役を命じられ[1] 、度々陸奥国武蔵国 府中へ馬を買い付けた[4] 寛永9年(1632年)徳川家光に出仕した[1]

寛永11年(1634年)3月28日江戸城 桜田口で異母弟定久を無礼討ちにし、家光から褒詞を受けたが[5] 、父定吉・継母との間に遺恨を残した[2]

寛永20年(1643年)11月7日から12月5日まで子定直と荒木十左衛門元政と共に馬買衆として陸奥国・出羽国を廻り、馬を買い付けた[6]

慶安2年(1649年)5月27日西ノ丸下厩舎の自宅において、普請場から帰る途中の堀田正盛安藤重長稲葉正則庄田安照に料理を提供するため、次の間で屈んで湯を試飲していたところ、父定吉に脇差で襲われ、帷子の袖を損傷した[2] 。定吉は4人に取り押さえられて相模国の知行地に流され、定矩は山下町の町屋に引き取られた後、自宅に戻った[2]

承応2年(1653年)父が死去すると、12月22日跡を継いで馬預となり、剃髪して元入と号した[4] 万治2年(1659年)7月13日致仕し、養老料200俵を受けた[4] 寛文元年(1661年)4月23日死去した[4] 。法名は元入[4] 雑司ヶ谷 法明寺に葬られ、以降代々の墓地となった[4]

無礼討ち事件

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寛永11年(1634年)3月28日[5] 江戸城和田倉馬場において[2] 水戸頼房邸から帰城途中の家光に対し、松平直政が献上した馬の上覧が行われたが[5] 、定矩が馬に乗ろうとした際、手綱が異母弟定久の顔に当たってしまった[2] 。帰り際に桜田口[5] 定久が「よくも手綱を顔に投げつけて辱めてくれたな。討ち果してやろう。」と憤り、定矩が「そんなことは自分には全く覚えがない。たとえそんなことがあったにしても、責められることではない。」と否定すると、定久は抜刀して斬りかかり、定矩は左頬を負傷したが、太刀で応戦し、定久の臍の辺りを両断した[2]

定矩はすぐに阿部忠秋邸に出頭し、目付衆の僉議の結果、供述に疑義はないとして[2] 無礼討ちと認定され、家光から「処置尤も神妙である。」と褒詞を受け[5] 、忠秋家来鈴木宇右衛門との養生を命じられた[2] 。しかし、父定吉は激怒し、継母の訴えにより見廻りと称して鈴木宅に押し入り、長刀で宇右衛門に斬りかかった[2] 。宇右衛門が「定矩は忠秋様が預っている。」というと、定吉は「定矩が弟を斬って御感に預かったなら、私は嫡子を斬って御感に預かろう。」と主張し、忠秋等に宥められた[2] 。以降同様のことが2,3度あり、定吉は定矩を恨み続け、継母もことあるごとに末弟成定に「定矩はお前の兄の仇だ。必ず復讐してくれ。」と言い聞かせたという[2]

著書

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親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 寛永譜.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 慶安日記増補.
  3. ^ a b 西島 2013, p. 44.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 寛政譜.
  5. ^ a b c d e 徳川実紀 1904, p. 322.
  6. ^ 細井, 兼平 & 杉山 2002, p. 8.

参考文献

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