ドス・カラス
これはこのページの過去の版です。Wormybaaed (会話 | 投稿記録) による 2021年3月31日 (水) 22:08 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版 とは大きく異なる場合があります。
ドス・カラス | |
---|---|
ドス・カラスの画像 | |
プロフィール | |
リングネーム | ドス・カラス |
本名 | ホセ・ルイス・ロドリゲス・アレジャーノ |
ニックネーム | 飛鳥仮面 |
身長 | 178cm |
体重 | 96kg(全盛時) |
誕生日 | (1951年02月20日) 1951年 2月20日(73歳) |
出身地 |
メキシコの旗 メキシコ サン・ルイス・ポトシ州 サン・ルイス・ポトシ |
スポーツ歴 | ボディビル |
トレーナー |
ラファエル・サラマンカ ゴリー・メディナ |
デビュー | 1970年1月6日 |
テンプレートを表示 |
ドス・カラス(Dos Caras、1951年 2月21日 - )は、メキシコの覆面レスラー。サン・ルイス・ポトシ州 サン・ルイス・ポトシ出身。本名はホセ・ルイス・ロドリゲス・アレジャーノ(José Luis Rodríguez Arellano)、愛称はペペ(Pepe)。
同じく覆面レスラーとして活躍したミル・マスカラス、エル・シコデリコの実弟。息子のアルベルト・ロドリゲスとギジェルモ・ロドリゲスもプロレスラーである。
来歴
少年時代より高飛び込みの選手として実績を上げていたが、中耳炎の発症を期にボディビルに打ち込み、16歳でミスター・オリンピアの新人賞を獲得[1] 。兄のアーロン(ミル・マスカラス)やパブロ(エル・シコデリコ)に続いてミスター・サン・ルイス・ポトシにも戴冠した[2] 。グアナファト州大会にも出場して優勝している。
その後サン・ルイス・ポトシ自治大学に進学し、一方でペンダロン・デ・デポルテスというスポーツクラブでアマレスを始めるが、1967年にメキシコシティに出て、ヒムナシオ・メトロポリターノ・ボディビルのインストラクターを務めながら、競技に打ち込んでミスター・ラティやミスター・メキシコD.C.に戴冠する一方でルチャを、初代ファスタスマ・デ・ラ・ケブラーダに、柔道を元NWA世界ミドル級王者のエンリケ・ジャネスに教わる。1968年よりバーニョ・フランチェスカ・ジムに週3回エルネスト・ゴリー・メディナのもとでルチャのトレーニングを積み[2] 、1970年1月にデビュー[3] 。リングネームを付けるにあたってプロモーターからいくつかの名前のリストを提示されたところ、人間の二面性(喜びと怒り)を自身のキャラクターに表現すべく、「2つの顔」を意味するドス・カラスを選んだ[3] 。
デビュー当時の覆面も怒顔や笑顔をデザインしたものを被っていたが、これは不評だったという[4] 。そこで1971年夏、兄マスカラスが2回目の日本遠征から帰国した際、日本の専門誌『月刊ゴング』が企画したマスカラスのマスクデザイン・コンクールに寄せられた読者のハガキの束をドス・カラスに渡し、その中から気に入ったものを選ぶよう助言[4] 。ドス・カラスはそこから双頭の鷲がデザインされた覆面を選び出し、以降自身のマスクとした[4] 。彼はそのハガキを、現在でも大切に保管しているという[4] 。
1970年代前半は、マスカラスのアメリカでの主戦場でもあったテキサス州 サンアントニオに遠征し、ホセ・ロザリオとのタッグで活動[5] 。1975年からは、EMLLを脱退したフランシスコ・フローレスが旗揚げしたLLIに参戦[6] 。以降メキシコでの主戦場をLLIに移し、1978年6月20日、カネックを破りナショナル・ライトヘビー級王座を獲得した[7] 。
同年8月、全日本プロレスに初来日[8] 。8月24日の田園コロシアム大会において、兄マスカラスとのマスカラス・ブラザーズでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦[9] 、好勝負を残した[10] 。翌1979年3月は単独で再来日して『第7回チャンピオン・カーニバル』に出場[11] 。同年の末にはマスカラス・ブラザーズとして『'79世界最強タッグ決定リーグ戦』に参戦。馬場&鶴田、ザ・ファンクス、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク、大木金太郎&キラー・トーア・カマタ、ミスター・レスリング&マスクド・ストラングラー、ワフー・マクダニエル&フランク・ヒルなどのチームと対戦した[12] 。
以降も全日本プロレスの常連外国人選手となり、1980年2月の来日時は、大先輩ドクトル・ワグナーとの「UWAメキシコ・ライトヘビー級選手権」と銘打たれた架空のタイトルマッチが実現、技巧戦の末に勝利を収めた[13] 。同年8月の来日時にはマスカラスと組んでPWF杯争奪タッグトーナメントの第1回大会に出場、1回戦でクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・スタイガー、2回戦で極道コンビ、決勝でザ・デストロイヤー&ザ・クルーザーを破り、優勝を果たした[14] 。翌1981年8月に行われた第2回大会にもマスカラス・ブラザーズとして出場、決勝でリッキー・スティムボート&チャボ・ゲレロを下して2連覇を遂げた[14] 。
1983年2月25日には愛知県体育館にて、当時大仁田厚が保持していたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦[15] 。同年11月開幕の『'83世界最強タッグ決定リーグ戦』にもマスカラスとの兄弟タッグチームで参加し、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビやタイガー・ジェット・シン&上田馬之助の凶悪コンビとも対戦[16] 、これが昭和期の全日本プロレスへの最後の来日となった。
1984年2月26日、エンリケ・ベラからUWA世界ヘビー級王座を奪取[17] 。1985年1月20日にはUWAの総本山エル・トレオにてハンセンとシングルマッチで対戦[18] 、テクニコに転向した宿敵カネックともタッグを組み、翌週の『UWA10周年記念興行』にてハンセン&ベビー・フェイス(ホセ・グアダルーペ・フェンテス)のチームを破った[19] 。
同年より新日本プロレスへ転出し、11月開幕の『IWGPタッグ・リーグ戦』にカネックとのコンビで参加[20] 。藤波辰巳とのシングルマッチも実現したが、リーグ戦はアントニオ猪木&坂口征二、藤波&木村健悟、ブロディ&ジミー・スヌーカ、ディック・マードック&マスクド・スーパースター、ハクソー・ヒギンズ&ザ・バーバリアンなどのチームを相手に1勝4敗2分けで参加8チーム中6位の戦績で終わった[19] 。翌1986年5月の再来日ではザ・コブラとの試合で左腕を負傷、途中帰国を余儀なくされている[19] 。
以後、しばらく来日は途絶えることとなったが、1986年はEMLLのリングにも登場し、1月28日にビジャノ3号&ビジャノ5号と組んでロス・ブラソス(ブラソ・デ・オロ、エル・ブラソ、ブラソ・デ・プラタ)からナショナル・トリオ王座を奪取[21] 。同年12月30日にはカネックを破りUWA世界ヘビー級王座を再び獲得している[17] 。1989年にはWWAの世界ヘビー級王者にも認定された[22] 。
1990年代に入り、日本へはW★ING、ユニバーサル・プロレスリング、WARなどインディー系の団体に参戦。1995年7月にはみちのくプロレスに来日、『第1回ふく面ワールドリーグ戦』でザ・グレート・サスケを破り優勝した[23] 。
1992年2月2日、カネックからUWA世界ヘビー級王座を奪取して同タイトルへの3度目の戴冠を果たすも[17] 、AAAの出現などでLLIは崩壊寸前となり、1994年10月よりCMLLに移籍[24] 。1996年3月22日にはエクトール・ガルサとラ・フィエラをパートナーにCMLL世界トリオ王座を獲得した[25] 。しかし、1997年6月にAAAから選手を借り受けて単独興行を主催したことによりCMLLを解雇され、以降は準レギュラーのポジションでAAAに出場[26] 。2000年9月にデビューしたドス・カラス・ジュニアとも親子タッグを結成した。
2002年7月、全日本プロレスへの約19年ぶりの来日が実現。かつての全日本マットで「夏の風物詩」と謳われたマスカラス・ブラザーズを再結成し、武藤敬司ともタッグを組んだ。セミリタイア後の2010年5月8日には、WWEのメキシコシティでの興行にスペシャルゲストとして登場[27] 、チャボ・ゲレロ・ジュニアを相手に凱旋試合を行うドス・カラス・ジュニアをリング上から紹介した[26] 。
2019年2月19日、両国国技館で行われたジャイアント馬場没後20年追善興行にマスカラスと共に出場、カズ・ハヤシ&NOSAWA論外から勝利を収めた[28] 。
得意技
獲得タイトル
- UWA世界ヘビー級王座:3回[17]
- ナショナル・ライトヘビー級王座:1回[7]
- WWA世界ヘビー級王座:1回[22]
- ふく面ワールドリーグ戦優勝 : 1回
入場テーマ曲
- 全日本プロレスで使用されたのは、映画主題歌としての「メインタイトル」バージョンである。他団体参戦時には、アップテンポなシングルカット版も使われた。
参考文献
- 『Gスピリッツ Vol.16』辰巳出版、2010年。ISBN 4777808017。
- 『Gスピリッツ Vol.17』辰巳出版、2010年。ISBN 4777808297。
脚注
- ^ 『Gスピリッツ Vol.16』、P104。
- ^ a b 『Gスピリッツ Vol.16』、P105。
- ^ a b 『Gスピリッツ Vol.16』、P106。
- ^ a b c d 『Gスピリッツ Vol.16』、P107。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.16』、P109。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.16』、P110。
- ^ a b "National Light Heavyweight Title". Wrestling-Titles.com. 2011年2月3日閲覧。
- ^ "The AJPW matches fought by Dos Caras in 1978". Wrestlingdata.com. 2016年11月27日閲覧。
- ^ "AJPW Summer Action Series II 1978 - Tag 7". Cagematch.net. 2016年11月27日閲覧。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.17』、P91。
- ^ "AJPW 7th Champion Carnival - Tag 1". Cagematch.net. 2016年11月27日閲覧。
- ^ "AJPW 1979 Real World Tag Team League". Puroresu.com. 2016年11月27日閲覧。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.17』、P92。
- ^ a b "PWF杯争奪タッグトーナメント". ミック博士の昭和プロレス研究室. 2016年11月27日閲覧。
- ^ "AJPW Excite Series 1983 - Tag 12". Cagematch.net. 2016年11月27日閲覧。
- ^ "The AJPW matches fought by Dos Caras in 1983". Wrestlingdata.com. 2016年11月27日閲覧。
- ^ a b c d "UWA World Heavyweight Title". Wrestling-Titles.com. 2011年2月3日閲覧。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.17』、P94。
- ^ a b c 『Gスピリッツ Vol.17』、P95。
- ^ "NJPW 1985 IWGP Tag Team League". Puroresu.com. 2016年11月27日閲覧。
- ^ a b "National Trios Title". Wrestling-Titles.com. 2011年2月4日閲覧。
- ^ a b "WWA World Heavyweight Title". Wrestling-Titles.com. 2011年2月4日閲覧。
- ^ "The Michinoku Pro matches fought by Dos Caras in 1995". Wrestlingdata.com. 2016年11月27日閲覧。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.17』、P96。
- ^ a b "CMLL World Trios Title". Wrestling-Titles.com. 2011年2月4日閲覧。
- ^ a b 『Gスピリッツ Vol.17』、P97。
- ^ "WWE Yearly Results 2010". The History of WWE. 2011年2月4日閲覧。
- ^ "マスカラス兄弟、空中飛行で勝利". スポーツ報知 (2019年2月19日). 2019年6月15日閲覧。