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石見銀山

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座標: 北緯35度06分46秒 東経132度26分06秒 / 北緯35.11278度 東経132.43500度 / 35.11278; 132.43500

世界遺産 石見銀山遺跡とその文化的景観
(日本)
龍源寺間歩(入口)
龍源寺間歩(入口)
英名 Iwami Ginzan Silver Mine and its Cultural Landscape
仏名 Mine d'argent de Iwami Ginzan et son paysage culturel
面積 核心地域 442 ha
緩衝地域 3221 ha
登録区分 文化遺産
登録基準 (2), (3), (5)
登録年 2007年
公式サイト 世界遺産センター (英語)
使用方法表示
清水谷精錬所跡(2007年5月2日撮影)

石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県 大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。当時世界の銀の3割を産出したと推定される。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれた。明治期以降は銅などの鉱物が主に採鉱された。

概要

鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山 遺跡として1969年(昭和44年)に国によって史跡に指定。2007年(平成19年)6月28日ニュージーランドクライストチャーチで開催されていた世界遺産委員会ユネスコ世界遺産(文化遺産)への登録が決まり、7月2日に正式登録された。一般に銀山開発においては銀の精錬のため大量の薪炭用木材が必要とされたが、石見銀山では適切な森林の管理がなされたことにより環境への負荷の少ない開発がなされ、今日に至るまで銀山一帯には広葉樹などを含む森林が残されてきている点が特に評価されている[1] (後述の「登録までの経緯」の節参照)。2007年には日本の地質百選にも選定されている。

初期には仙ノ山山頂付近から自然銀に富む福石(ふくいし)が主に産出し、開発が進行するにつれ地下深くなり、銀を多く含む黄銅鉱黄鉄鉱方鉛鉱などの永久鉱床(えいきゅうこうしょう)の採掘に移行していった。

石見銀山の発見

石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩(北極星)のお告げによりを発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の採掘がなされていたものと考えられている[2]

その後、大内氏が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞(姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)であるとされている[3] 。海上から山が光るのを見た神谷は[4] 領主大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した[5] 。義興の死後、大内義隆九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法 [6] に日本で初めて成功した[7] 。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。

銀山争奪

1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、1556年(弘治2年)忍原崩れ、1559年(永禄2年)降露坂の戦い、1561年(永禄4年)~1562年(永禄5年)の雲芸和議をへて最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた[8] 。同年12月には石見銀山を朝廷御料所として献呈する。その後、1584年(天正12年)に毛利氏が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた[9] 天正19年(1591年)、毛利輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため林就長および柳沢元政を奉行に任命した。慶長2年(1597年)には輝元より秀吉に銀3000枚(129、約480キログラム)が運上されている[10]

商業への影響

石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、製錬された灰吹銀はソーマ銀と呼ばれ、そのまま日本産銀の銘柄のひとつとして商取引に利用され、またこの灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀およびその後の徳川幕府による慶長丁銀は基本通貨として広く国内(主に商人が活躍した上方を中心とする西日本)で流通したばかりでなく、中国16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガル17世紀初めに来航したオランダ東インド会社などとの間で、石見銀山の銀を媒介とする世界規模の交易が行われた。特に中国は大口の商取引、兵士への給与などのため広く秤量銀貨が使用され、この多額に上る銀需要の吸引力は莫大なものであった[11] 。また、私貿易を禁止する明の海禁政策にもかかわらず、日中間の密貿易が活発となり、海賊化していった(後期倭寇)。当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一(その生産量の平均は年間200トン程度、内石見銀山が38トン(10000)程度であったと推測されている[10] )に達し、スペインのペルー副王領ポトシ(現ボリビア世界遺産)のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西欧・中国でも有名になった。石州丁銀秤量貨幣(額面が無く重量で価値が決定。取引の際は必要に応じ切り分けて使用)のため、原形をとどめる物は希少であるが、島根県は2007年までに石見銀山の銀で製作されたとされる御取納丁銀、文禄石州丁銀、御公用丁銀を購入し、これらは島根県立古代出雲歴史博物館における企画展などで展示される。

その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されている。航海術の発展に伴って西欧諸国の王侯、特にスペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、更には独自にかなりの地図を作成した。この地図を持った船団が、インドマレー半島中国・日本にも貿易の手を伸ばし、石見銀山で産出される銀を求めてやってきた。

銀山を手中にした武将(大内氏尼子氏毛利氏豊臣氏)は積極的にこれらの海外諸国と貿易を行い、その輸入品の中に当時貴重であった『火縄銃』が含まれていた可能性も指摘されている。

なお、イギリス船やオランダ船は日本で産出される銀を「ソモSomo」あるいは「ソーマSoma」と呼んでいたといわれるが、これは銀鉱のある大森地区の旧名である「佐摩」に由来するとされる[12]

江戸幕府による支配

石見銀山領の設置

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1600年(慶長5年)11月に石見銀山の接収のために大久保長安彦坂元正を下向させ、石見の江の川以東を中心とする地域(石見銀山の所在地、邇摩郡大森を中心に安濃郡邑智郡那賀郡の4郡146か村と、美濃郡鹿足郡で6か村の飛地)を幕府直轄領(天領)とし、翌1601年(慶長6年)8月に初代銀山奉行として大久保長安を任命した[13] (なお、初代奉行については『石見銀山旧記』や『石見銀山紀聞』などで大久保長安とされているが、『石見国名跡考』では彦坂元正であるとされている[14] )。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村には直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置された。大久保長安は山吹城の下屋敷のあった吉迫の陣屋で支配を行ったが、後任の竹村丹後守により大森に奉行所が置かれた[15] 。同時期に石見銀山処刑場、大森関所が設けられ統治力を高め犯罪に対し厳しい処罰がなされ治安維持に務めた。

幕府による銀山開発

大久保長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。1602年(慶長7年)に安原伝兵衛が釜屋間歩を発見して産出された銀を家康に献上すると、家康は非常に喜び、安原伝兵衛に「備中」の名と身につけていた辻ヶ花染胴服を与えた[16]

安原伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に銀の産出はピークに達し、『当代記』によれば慶長7年(1602年)の運上銀は4〜5千貫に達したといわれる[17] 。その後、銀産出量は次第に減少し、1675年(延宝3年)に銀山奉行の職は大森代官に格下げされた(大森の奉行所大森代官所となる)。

銀の輸送

かつての外港の一つ、温泉津の町並み。

当初、産出した灰吹銀は現大田市の鞆ヶ浦(仁摩町)や沖泊(温泉津町)から船で搬出されていた。冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、大久保長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」(大森〜粕淵〜九日市(美郷町)〜三次甲山御調〜尾道)を整備し、尾道から京都伏見(1608年(慶長13年)に洛中の両替町に移転)の「銀座」へ輸送するようにした。大森町にある熊谷家は幕府に上納するための公儀灰吹銀を天秤で掛け改め勘定を行う掛屋として任命され、現在、この熊谷家住宅は内部が見学可能である。幕府(直轄地外では沿道各藩)による取り締まりの下、直轄地内の郷村に対する人的・物的負担や、街道各村にも銀の輸送にあたる人馬や経費負担(警備・接待など)の提供が厳しく課せられ、大きな負担となった。時として訴え出る者や争議が起こったが、この輸送は幕末まで続いた。

井戸平左衛門

1731年(享保16年)、大岡忠相の推挙により任ぜられた、第十九代代官の、井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)は60歳の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、領民から「いも代官」として慕われ、現在の島根県だけでなく鳥取広島県にも功績を称える多くの頌徳碑が建てられている。その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(さつまいも)導入・普及をもたらし、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免した(後年、備中国 笠岡で没した原因として病死説と切腹説があり、前者が概ね定説となっているが論議も続いている)。

なお、1977年(昭和52年)に作家杉本苑子は代官井戸平左衛門正明を題材にした小説「終焉」を発表している。

幕府による銀山支配の終焉

石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えた(も産出)が、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期には深く掘らなければ銀を産出できなくなり地下水にも悩まされ採算がとれなくなっていった。

1866年(慶応2年)6月の第二次長州戦争において、幕府は石見国紀州藩備後福山藩浜田藩松江藩の藩兵を出動させたが、長州軍の進発を食い止めることができず、7月に浜田藩主・松平武聡浜田城を脱出しその後落城した。これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は7月20日の夜に銀山付の役人を引き連れて備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた[18]

以後、旧石見銀山領は長州藩によって支配されることとなり、鍋田成憲が逃亡したのちに発生した一揆は長州藩などによって鎮められた。そして、1869年(明治2年)8月に大森県が設置されたことによって長州藩による支配は終わった[19]

明治期以降の石見銀山と終末

石見銀山は1867年(明治元年)の太政官布告による民間払い下げにより田中義太郎が経営権を取得したものの、1872年(明治5年)の浜田地震の被害を受けてしばらく休山となった[20] (1873年(明治6年)頃に松江市の安達惣右衛門が別の鉱区を経営していたともいわれるが記録が少なく詳細についてはわかっていない[21] 。)。その後、1887年(明治19年)からは大阪の藤田組(後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス)により再開発の試みが続けられた。藤田組は採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)の「永久鉱山」に移したが、鉱山から主に採掘されていた銅の価格の暴落や坑内の環境の悪化などにより1923年(大正12年)には休山するに至った[22] 。その後、日中戦争太平洋戦争の最中、軍需物資としての銅の国産化を目論んで、1941年(昭和16年)より銅の再産出を試みるものの、1943年(昭和18年)の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となる。鉱業権DOWAホールディングスが保有している。

現在でも銀山採掘のために掘られた「間歩」と呼ばれる坑道が500余り残り、大久保間歩及び龍源寺間歩の一部が一般公開されている(大久保間歩の公開はツアー形式での限定公開)。

副産物

  • 石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石(自然砒素硫砒鉄鉱など)と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物を大量に含んでおり、これを焼成した上で細かく砕いたものは亜ヒ酸を主成分とし、殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた。
  • 金銀の精錬工程として当時の日本においては先進的であった「灰吹法」という技術が使われ、その際に酸化鉛の粉塵を吸い込んだ鉱夫たちは急性または慢性の鉛中毒を発症した。鉛には発がん性もあると考えられているので、坑道内の出水・高温多湿や鉱滓煤塵などの劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であったといわれる。大森地内に各宗派の寺院が多数あることや、古文書の研究からその平均寿命はおよそ30歳程度であり、家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみ、と伝えられている。「灰吹法」と似たものとして、水銀を用いるアマルガム法がある。

世界遺産

市・県・国による文化財指定と保護

石見銀山にある歴史的な建造物や遺構は市・県・国などによって文化財に指定・選定され保護されてきた。1967年(昭和42年)に石見銀山は島根県から「大森銀山遺跡」として県指定史跡に指定され、さらに1969年(昭和44年)には国から「石見銀山遺跡」として史跡に指定された。さらに、大森銀山地区の町並みは1987年(昭和62年)に重要伝統的建造物群保存地区(種別 鉱山町)として選定され、銀の積出港であった温泉津地区の町並みは港町・温泉町として2004年(平成16年)に重要伝統的建造物群保存地区(種別 港町・鉱山町)として選定された。なお、大森銀山伝統的建造物群保存地区は2007年に、温泉津伝統的建造物群保存地区は2009年に、それぞれ選定区域を拡大している。

登録までの経緯

日本政府は「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」として、「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、2001年に世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」に掲載し、2006年 1月ユネスコ 世界遺産委員会に推薦書を提出した。

2007年 5月、各国から推薦された世界遺産登録候補を審査するユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が、遺跡の「顕著な普遍的価値」の証明が不十分であることを理由に「石見銀山は登録延期が適当」と勧告した。それを受け、日本政府や地元は「世界遺産への登録は極めて厳しい」と判断したが、ユネスコの日本政府代表部は、委員会構成国の大使や専門家に、勧告に反論する110ページにわたる英文の「補足情報」を送るなどして、石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開した。

結果、「21世紀が必要としている環境への配慮」がすでにこの場所で行われていたことが委員の反響を呼び、6月28日、世界遺産委員会の審議により、世界遺産(文化遺産)としての登録が満場一致で決定された。日本の世界遺産登録としては14件目であり、文化遺産としては11件目、産業遺産としては日本国内初の登録となる。

石見銀山の登録に向けて日本側の代表として外交活動を率いた、近藤誠一ユネスコ大使は、2007年 9月8日に、島根県 大田市で開かれたシンポジウムの中で、銀山周辺に残る自然が逆転登録の決め手になったことを明かしている。近藤大使はICOMOSによる登録延期勧告を受け、各国の政府代表などに対し、石見銀山が伐採した分だけ植林していたことなど、自然に対する配慮の歴史を積極的に説明したところ、政府代表らの反応が良く強い手ごたえを感じたという。[23]

登録対象

和名は島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室による公式サイトの表記、英語表記と数字はユネスコ世界遺産センターによる世界遺産登録物件名と世界遺産登録ID。

銀鉱山跡と鉱山町

上記史跡は2008年(平成20年)よりガイド付きのツアー形式で(完全予約制)で一般公開されている[25]

石見銀山街道

  • 鞆ヶ浦道 (Iwami Ginzan Kaidô Tomogauradô, 1246-002a)
  • 温泉津沖泊道 (Iwami Ginzan Kaidô Yunotsu-Okidomaridô, 1246-002b)

港と港町

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。

地元住民の反応

単なる「穴」だ、として世界遺産指定に困惑している地元住民の声もあるという[26]

アクセス

脚注

  1. ^ 島根県教育委員会『石見銀山とその文化的景観』(53頁)2007年
  2. ^ 豊田有恒『世界史の中の石見銀山』祥伝社新書、2010年、pp.31-32頁。ISBN 9784396112028 
  3. ^ 大田市三十周年記念誌編さん事務局編『大田市三十年誌』(53頁〜54頁)1983年
  4. ^ これは山頂に露頭した自然銀が月光に反射したものであると考えられている。(豊田p.36)
  5. ^ 豊田有恒『世界史の中の石見銀山』祥伝社新書、2010年、p.34頁。ISBN 9784396112028 
  6. ^ 灰吹法の伝播経路は、中国由来説と朝鮮由来説がある。前者は田中健夫『中世海外交渉史の研究』(東京大学出版会、1959年)など、後者は小葉田淳『日本鉱山史の研究 』(岩波書店、1968年)など。
  7. ^ 『大田市三十年誌』(54頁)
  8. ^ 仁摩町誌編纂委員会編『仁摩町誌』(169頁)1972年
  9. ^ 『仁摩町誌』(169頁)
  10. ^ a b 小葉田淳 『日本鉱山史の研究』 岩波書店、1968年
  11. ^ 『輝きふたたび 石見銀山展』島根県立古代出雲歴史博物館,石見銀山資料館,2007年
  12. ^ 石村禎久著『石見銀山-戦国の争乱・鉱山社会・天領』(84頁)1988年
  13. ^ 『大田市三十年誌』(57頁)
  14. ^ 『仁摩町誌』(178頁)
  15. ^ 温泉津町誌編さん委員会編『温泉津町誌(中巻)』(91頁)1995年
  16. ^ 石村禎久著『石見銀山-戦国の争乱・鉱山社会・天領』(99頁)1988年
  17. ^ 『仁摩町誌』(177頁)
  18. ^ 『温泉津町誌(中巻)』(522頁)
  19. ^ 石村禎久著『石見銀山-戦国の争乱・鉱山社会・天領』(189頁)1988年
  20. ^ 原龍雄編『目で見る石見の100年』(42頁)1999年,郷土出版社
  21. ^ 石村禎久著『石見銀山-戦国の争乱・鉱山社会・天領』(195頁)1988年
  22. ^ 『大田市三十年誌』(69頁)
  23. ^ 銀山登録の秘話、大使が語る / 中国新聞 / 2007年 9月9日
  24. ^ 大久保間歩
  25. ^ 石見銀山大久保間歩一般公開限定ツアー
  26. ^ Wired 2011, 11

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、石見銀山 に関連するカテゴリがあります。

外部リンク

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