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村上秀一

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村上"ポンタ"秀一
出生名 村上秀一
別名 ポンタさん
生誕 (1951年01月01日) 1951年 1月1日(73歳)
出身地 日本の旗 日本 兵庫県 西宮市
学歴 大阪教育大学
ジャンル ジャズ
ロック
J-POP
歌謡曲
職業 ドラマー
担当楽器 ドラムス
活動期間 1972年 -
共同作業者 赤い鳥
バンブー
カミーノ

村上"ポンタ"秀一(むらかみ ぽんた しゅういち、1951年 1月1日 - )は、日本のドラム奏者。兵庫県 西宮市出身。大阪教育大学中退。O型。愛称は「ポンタさん」。

ジャズロックJ-POP歌謡曲などジャンルを問わず、国内外でセッション ドラマー/スタジオ・ミュージシャンとして活躍。セッションドラマーとしては日本で最も有名な人物のひとり。最盛期には年間ライブ本数200本以上、1日に複数のアーティストのレコーディングを担当することもあったほどの人気を誇る。ドラマーとして参加したアルバムは1万枚を超えるといわれる。

弟子には、「ほっとけないよ」のヒットで知られる楠瀬誠志郎がいる(かばん持ち兼付き人)。

経歴

兵庫県 西宮市生まれ。生まれてから4歳半になるまで京都の祇園に預けられ、母親の親友の芸妓「ポンタ姐さん」に育てられた。愛称のポンタは彼女に由来し、親元に戻って以来のあだ名である。

西宮市立今津中学校の吹奏楽部で得津武史の指導でフレンチホルンを始める。同校2年のときに、得津の親友朝比奈隆が来校。朝比奈からリストの強さを見込まれティンパニを勧められ、ティンパニに転向する。西宮市立西宮高等学校のブラスバンド部では、1年生の時から部長兼指揮者を務めた。

1969年大阪教育大学に入学するが、当時最盛期を迎えていた学生運動に呆れて退学し、両親から勘当される。その後、得津の紹介で、大阪ロイヤルホテル付きの音楽事務所でバンドボーイを始める。この時期にクラブ歌手時代の和田アキ子ピーターカルーセル麻紀らと知り合っている。

根っからのクラシック少年[1] だったが、ジョン・コルトレーンの『インプレッションズ』でのエルヴィン・ジョーンズのプレイに刺激を受け、1970年初頭からドラムを始める。

1972年赤い鳥のドラマーのオーディションに合格し、プロデビュー[2] するとともに上京。世田谷区桜新町のアパートを合宿地として使用。この時にメンバーの影響でポップスやロックなどに触れるようになる。翌1973年、ギターの大村憲司とともに赤い鳥を脱退。末期にはドラムソロが20分以上もインプロヴィゼーションで続くこともあった。

赤い鳥脱退後すぐに、エントランス(村上、大村、高水健司 [3] )を結成。赤い鳥時代に知り合った五輪真弓のバックバンドを始める。翌1974年、高水の「メンバーを増やして仕切りなおそう」という発案によりエントランスを一時的に解散するものの、その後も高水が五輪のバックを続けたことにより大村が極度の人間不信になり実家に戻ったため、エントランスは解散。

エントランス解散後、本格的にスタジオ・ミュージシャンとして活動をはじめ、アニメソングから歌謡曲演歌まで幅広いジャンルの曲のレコーディングに参加。1975年頃にバンブーに参加し、同年後半にはカミーノを結成するなどセッションミュージシャンとしても活動した。

1978年にドラムの海外修行を控えて行われた壮行コンサートの直後にヘロインの不法所持で逮捕される。出所後は再びスタジオ・ミュージシャンとして復帰。

1986年には渡辺香津美との全米ツアー、1987年には国際交流基金によるアフリカツアーを行った後、島健 トリオ山羊智詞ソロプロジェクトを母体とした、ハードロックバンド「ザ・メーカーズ」を結成。1990年より、「山羊智詞&赤羽楽団」に参加するなど、活動の幅を広げている。

1998年発表の活動25周年記念アルバム「Welcome To My Life」と、2003年発表の活動30周年記念アルバム「マイ・プレジャー」には、それぞれ日本を代表するアーティストがゲストとして多数参加しており、セッションドラマーとしての幅の広さを伺わせる。

PONTA BOX と 3 VIEWS

PONTA BOX」(ポンタ・ボックス)は村上が結成したバンド。一般的にジャズのカテゴリーに入る音楽だが、ポンタ自身はジャズだと考えていない。村上と佐山雅弘 (Pf) と水野正敏 (B) の3名で結成し、1994年にアルバム「PONTA BOX」を発表。以後、モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演の他、1999年までに8枚のアルバムをリリースしている(途中でベースはバカボン鈴木に交代)。活動休止の後、2004年には若手ミュージシャンの石村順 (b)、柴田敏弥 (p & kbds)と新生PONTA BOXを結成し、「NEW PONTA BOX」をリリースした。PONTA BOXのアルバムは、愛称の"ポンタ"にちなんで、タヌキの顔のイラスト(杉浦茂の「八百八だぬき」のもの)がトレードマークとなっている。

一方、2000年には村上・佐山と村田陽一 (Tb) の3人でオリジナルレーベル「3 VIEWS」を設立。3人でのアルバム制作の他、相互のソロ活動に参加するなどしている。2000年以後はPONTA BOXも3VIEWSからのリリースとなっている。

1999年にPONTA BOXとして『FNNスーパーニュース』のテーマ曲の作曲をした(99年度)。曲名は『Wandering Stella(Love Circle)』。

エピソード

  • 一番好きなドラマーは元ビートルズリンゴ・スターだという。
  • かつて細野晴臣経由で来日中のマイルス・デイヴィスからのオファーが来たが、師匠筋でもある仙波清彦率いる「はにわオールスターズ」のライブシューティングの仕事が入っていたため、やむを得ずオファーを断り、日本人にとっての夢の共演は実現しなかった。
  • ポケットトランペットが大好きで、過去、タモリの家に遊びに行った時にタモリのトランペットコレクションの中にベンジのポケットトランペットがあるのを見つけて、「これ貰っていい?」と、冗談半分でタモリに聞いたら快諾されてしまい、トランペットの価値におののいて慌ててそのトランペットを抱えたまま帰宅、後日、ドラムセット一式をタモリにお礼としてあげた経緯がある。
  • ドラムのレッスンをする時は、「なめんなよ!」とドラムに蹴りを入れて活を入れることから始めるという。また、入手したドラムセットがどう対処しても鳴らないことに業を煮やし、新しく届いたドラムセットと共に河原に持って行き、二つのドラムセットを並べて、鳴らないドラムセットにガソリンを振り掛け、燃やしてしまったことがある。本人曰く「鳴らないとお前もこうなるんだからな」と、新しいドラムに対して叩き込んだということである(実際にガソリンに引火させた場合かなりの爆発が起こり、焼死する可能性がある。ポンタの作り話である可能性が高い)。
  • 赤い鳥以来の盟友であったギタリスト、大村憲司が1998年に他界した際には、通夜葬儀で、人前で涙を見せることがなかったという彼も、その時ばかりは人目を憚らず嗚咽したという。「母親が亡くなった時だってあんなに泣いたことは無かった」と後に語っている。

ディスコグラフィ

信之PONTAユニット

清水信之とのユニット

  • The rhythm boxer (12インチシングル)

主な参加作品

主な出演

テレビ番組

脚注

  1. ^ 山下洋輔のピアノ肘打ちを見て、長い間彼のことを嫌悪していた。
  2. ^ ポンタは赤い鳥自体にはさほど興味が無く、ギタリストの大村憲司に興味があったという。『自暴自伝』 P.27
  3. ^ エントランスには石田長生も参加する予定だったが、処々の理由により流れた。

外部リンク

  • www.ponta.bz - 村上"ポンタ"秀一 オフィシャルサイト
  • 村上"ポンタ"秀一 - ビクターエンターテイメントによるアーティストページ
  • PONTA BOX - ビクターエンターテイメントによるアーティストページ
  • 3 VIEWS - ビクターエンターテイメントによる3 VIEWS公式サイト

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