田代まさし
たしろ まさし 田代 まさし | |
---|---|
田代 まさし | |
本名 | 田代 政(たしろ まさし) |
別名義 |
マーシー 田代 マサシ |
生年月日 | (1956年08月31日) 1956年 8月31日(68歳) |
出生地 | 日本の旗 日本 佐賀県 |
国籍 | 日本の旗 日本 |
民族 | 日本人 |
血液型 | A型 |
職業 |
歌手 タレント お笑いタレント 俳優 映画監督 |
ジャンル |
映画 テレビ番組 テレビドラマ オリジナルビデオ |
活動期間 |
1980年 - 2001年 2002年 - 2004年 |
活動内容 |
1980年:鈴木雅之らとシャネルズ(後のラッツ&スター)を結成 1986年:志村けんに見出され、タレント活動を開始 2000年:不祥事を起こし、活動休止 2001年:タレント活動を引退 2002年:Vシネマ監督で復帰 2004年:再び引退 |
公式サイト | 田代まさし公式サイト |
主な作品 | |
テレビコマーシャル メガネスーパー 森永製菓 著作 『田代まさしの道徳読本』 『自爆 -THE JUDGEMENT DAY』 映像 『四国やくざ・戦場の主役たち2』 | |
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田代 まさし(たしろ まさし、本名:田代 政、1956年 8月31日 -)は、日本の元タレント、歌手。Vシネマの監督も務めた。愛称は、マーシー。シャネルズ(後のラッツ&スター)のメンバーとしての活動や作詞活動は田代 マサシの名義で行っていた。インターネット上ではネ申 (神)と呼ばれ人気が高い[1] 。触法行為により公的には芸能活動を停止しているが、「リハビリ」と称してCS放送やインターネット上での活動を展開している。
来歴
デビューまで
母の故郷である佐賀県に生まれるが、出生後まもなくしてキャバレーのチェーン店を経営していた父がほかの女性のもとへ走ったため両親は離婚、中学時まで母との母子家庭だった。母は夜の仕事をしながら政を育て、母が留守の間は大家に預けられていた。ミッション系の幼稚園に入園、その後小学校入学直前に東京都 新宿区へ転居。転居先の百人町でも母との二人暮らしをする。
政が13歳の時、母が再婚。その後間もなくして父や父の再婚相手である女性と一緒に住む事となったが、その生活になじめず素行不良が目立つようになり、酒・煙草・シンナーに手を染める。また、新宿の映画館によく通っていた。
杉並区の中学校への転校を経て、1972年 4月に芝浦工業大学高等学校機械科に入学、同年の11月には早くも普通自動二輪運転免許を取得し、オートバイにも乗るようになる。高校入学直後、同校では田代以上の不良だった鈴木雅之と運命的な出会いを果たす。ソウルミュージック好きだった田代と鈴木はすぐに仲良くなり、相変わらず父との生活になじめなかった田代は鈴木の家によく遊びに行き、鈴木の母からも家族同然にかわいがられていたという。高校生になってからも中学生時代からの素行不良は変わらず、ケンカ、暴走族、ディスコ、ナンパに明け暮れ、傷害事件で警察に留置されたこともあった。一方鈴木は、高校在学中に映画『レッツ・ザ・グッド・タイム・ロール』中に登場するドゥーワップに刺激され、ドゥーワップグループ結成を決意。その後高校を中退し父の工場で働く傍らコーラスやダンスの練習を重ねており、田代もその輪の中に入っていく。当時はまだプロになるという考えは無かった[2] 。
1975年 3月、高校卒業。この時期から田代は車に凝りだし、サニー、グロリア、カマロ、フォード、プレリュード、ベンツなど、次々と車を乗り換えている。同年の6月父と大喧嘩をして家を飛び出す。その後シャネルズのメンバー久保木博之の誘いで同じガソリンスタンドに就職し、会社の寮で暮らす事になる。この頃に大型自動車免許を取得し、3年後の1978年 トラックの運転手に転職する。シャネルズのデビュー後もしばらくは運転手を続けていた。
シャネルズ
1980年に、鈴木雅之や桑野信義らと共に、ドゥーワップ グループの「シャネルズ」の一員としてメジャーデビュー。デビューシングル『ランナウェイ』が110万枚のミリオンセラーを達成する。1980年7月、メンバー10人のうち5人が埼玉県青少年保護育成条例違反(わいせつ行為)の疑いで書類送検され、シャネルズは半年間謹慎する。なお田代はこの件に関わっていない。その後フランスの高級ブランド、シャネルから物言いがついたことで(化粧品会社のCMソングを担当することになり、シャネルズというグループ名を使うことが不適切になったためという説あり)、1983年に同グループが「ラッツ&スター」と改称された後も多数のヒット曲に関わり、『ザ・ベストテン』などの歌謡番組を通じて日本のお茶の間のお馴染みの顔となる。また、ソロデビューとしてシングル『新島の伝説』[3] をリリースし、作詞家としても小泉今日子の楽曲を手がけるなどの活動を行う。
ダジャレの帝王
その後、ザ・ドリフターズの志村けんにそのお笑いセンスを見出され、1986年頃からお笑いタレントとして芸能界に進出。その独自のお笑いセンスから「ダジャレの帝王」、「ギャグの王様」、「小道具の天才」と呼ばれ、レギュラー番組を何本も持ち、大企業のテレビCMに何本も出演するなど人気を博した。さらには自伝やダジャレ語録などの著作本の出版や、自らの名を冠したファミコン用ゲームソフト『田代まさしのプリンセスがいっぱい』の発売、原宿竹下通りの「マーシーズ」や清里へのタレントショップの開店、また映画監督として映画の撮影を行うなど、多彩な活躍を見せていた。
芸能活動の休止と謹慎
その後、2000年 9月24日に東急東横線 都立大学駅構内において帽子、サングラス、マスクという姿で女性の下着を盗撮しようとしている様子を目撃者が通報。不審人物として警察が任意同行し事情聴取、東京都迷惑防止条例違反で書類送検。この事件に触れるメディアが全くないことを疑問に思った通報者が各媒体に連絡を入れて徐々に公になる。この時には覚醒剤を使用していなかった[4] 。
同年10月4日に事件が発覚し、テレビリポーターに盗撮した理由を聞かれ「『ミニにタコができる』というタイトルのギャグ映像を作ろうとしていた」と弁明した。「耳にタコができる」という慣用表現とかけたシャレで、この時、事務所から「ギャグにしよう」と言われて考えたらかえってバッシングを受け裏目に出たと後に語っている[5] 。
同年12月14日に東京簡裁から罰金5万円の略式命令が下り、田代は一時芸能活動を休止した。
この事件や翌年ののぞき事件により2ちゃんねるなどでは盗撮、のぞき行為が「田代」「タシーロ」などと言われるようになり「画像ちゃんねる」のタイトルとして使われたり、Winnyにおける盗撮ジャンルのクラスタワードに使用される[6] などの影響を及ぼすこととなった。
芸能活動再開
その後志村けんらが田代の芸能活動復帰を働きかけ、2001年 7月頃に『ダウンタウンDX』、『めちゃ²イケてるッ!』、『ぐるぐるナインティナイン』等のテレビ番組、志村けんのバカ殿様等に出演し芸能界復帰した。また、『HAMADA COMPANY 弾丸ヒーローズ』では番組レギュラーを目指して出発点の東京から沖縄まで目撃されずにゴールするという企画に挑戦した。結果的には滞在先の京都府にて写真100枚を撮られて失敗に終わったが、その後も連続してゴールデンタイムの番組にたびたび登場するようになった。
逮捕・契約解除
『HAMADA COMPANY』の最後の出演から間もない2001年 12月9日、田代は近所の男性宅風呂を覗いたとして軽犯罪法違反容疑で現行犯逮捕された。さらに自宅から覚醒剤が発見され、覚醒剤所持・使用容疑で12月11日、再逮捕された。これを受け、当時田代の所属していたエムティエムプロダクション(現・ジャパン・ミュージックエンターテインメント)は同年12月11日付で田代を契約解除した。
これに対し、芸能界復帰に協力した志村けんは「あいつは最低な事をしたのだから芸能界から消えてもらいたい」とコメントした。
加えて、2002年 1月に放送された『新春かくし芸大会』や『志村けんのバカ殿様』の収録にも参加していたが、逮捕後の放送のため田代の収録分は全てカットされお蔵入りとなった。フジテレビ側も「今後の彼の出演は考えられない」と語った。その一方で、これらの不祥事が2ちゃんねるで話題となり、一時的にタイムのパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれる「田代祭」と呼ばれる騒動が起きた。
この事件の公判で裁判長から職業を質問された際「元タレント」と答えたことから、その後「元タレント」とテレビなどで表記される様になった。またシャネルズ、ラッツ&スター時代も含めた田代の過去のVTRや写真が地上波において放送・公開される事が極めて難しくなり、現在、地上波において田代のVTRや写真などがテレビで放送される際、田代の音声が薄らかであるか全体を修正されたり、顔を隠されたり、身体の一部しか映らない程度の映像になることが多い。またテレビの報道番組で刑事被告人または犯罪者など「元タレント」としては触れるが、「タレント・田代まさし」について触れる事がほとんど無くなった。ただしCSの有料チャンネルなどでは、過去の出演作品がそのまま放送されている。
なお、田代は後日、お蔵入りになった番組など8,000万円の損害賠償請求をされ、7年経過した2009年になっても未だに返済していることを公表した[7] 。
事実上の引退とその後
更なる不祥事・逮捕
2002年3月、裁判で懲役2年執行猶予3年の判決を受ける。その後はVシネマ監督として復帰し『鯨道』シリーズなどを手がける。また2003年 正月には『サンデージャポン』にVTR出演し、久々にしゃべり出すようになった。現在、田代の報道系以外での地上派テレビ番組の出演はこれが最後である。
2004年春頃にはテレビ界復帰も検討されるようになったが、執行猶予中の2004年6月17日に青梅街道の「転回禁止」の場所でUターンした後、オートバイに乗った男子学生に衝突する人身事故を起こしたため復帰が白紙に戻る。この件で鈴木雅之が田代の代わりに謝罪している。
さらに2004年9月20日夜に再び覚醒剤及び刃渡り8cmのバタフライナイフを所持していたとして銃刀法違反と覚せい剤取締法違反の現行犯で逮捕された[8] 。野方署の留置所に留置された田代は取り調べの時、何度も嘔吐や気絶を繰り返し、病院へ担架で運ばれ点滴を打つという事態にまで至る[9] 。本気で自殺を考えた田代だったが、夢枕に立った母親に止められたという[9] 。
本人は「芸能活動において日頃かなりのプレッシャーを感じていたゆえに犯行に及んだ[4] 」、「盗撮事件後、家族関係が悪くなりヤケになってしまった[10] 」と弁明。また裁判所の法廷で裁判官から「(元々)タレントに向いてないのでは?」との問いかけに「そう思います」と小さく答えた。なお、テレビ出演時に眼鏡やサングラスをしていることが多かったが、実際は伊達眼鏡で眼鏡なしではテレビに出演できないほどのあがり症だと『徹子の部屋』で話したことがある(一部ドラマや『志村けんのバカ殿様』でのみ眼鏡なしで出演している。また、眼鏡メーカーのCMや広告に出演したことがある)。
この不祥事に対して桑野は「もうやってしまったことなので、罪を償ってしっかり心と体を洗い流して欲しい」「二度と芸能界の敷居はまたいで来るな」とコメント。その他多くの芸能関係者が彼の不祥事についてコメントした。
懲役
2005年2月7日、東京地裁で開かれた判決公判で執行猶予中の再犯のため等を主な理由とし懲役3年6月の実刑判決が下され、同年3月16日付で東京高裁への控訴を取り下げたため刑が確定、事実上の芸能界引退となる。また精神的に不安定なため、服役中に睡眠薬や精神安定剤を服用していることが話題になった。美川憲一は「(刑務所から)出てきたら私のところに来てちょうだい。付き人でも何でもさせて一から叩き直してやるわよ」と述べている。収監前から既に妻子とは別居状態にあったが、服役中に正式に離婚が成立した[11] 。
収監中、田代は障害者や老人、元政治家などが作業する工場で刑務作業に従事していたという。これは刑務所側が目立たないようにと気を使ったためのようだが、与えられた作業が単純なものになってしまい辛かったと語っている。[12]
その後もネタにされる田代
芸能界を去った後もネタにされることがしばしばある。日本テレビ系『エンタの神様』では、青木さやかが名前の一部を隠すかたわら、「タンスの中にカメラが入ってます」と発言したり、田上よしえが「田上のたは田代まさしのた、よしえのしは田代まさしのし」と発言しており、同じく日本テレビ系『笑点』でも三遊亭楽太郎が「来賓で出席予定の田代まさし様、萩原健一 [13] 様が来なかったことをお詫び申し上げます」という答えを言ったりしている。また、ダンディ坂野が「ゲッツ・アンド・リターン」の後にかつて田代がバラエティ番組にて小ネタとして使っていた「お久しブリーフ」と発言したりしている。逆に、志村けんが自身の番組のDVD発売記念に「最近見ない家来はもしかしてホリエモンと一緒になったか?」、「5年前にリリースして欲しかった。」と連想的で不謹慎な発言をした事から、発売記念会見の一部がテレビでカットされてしまった。TBS系では、時々『アッコにおまかせ!』などで田代を名指しで取り上げることもあり、TBSラジオの『ストリーム』では、番組内のクイズで当時の事件が取り上げられるなどした[14] 。
出所
栃木県の黒羽刑務所に収監されていた田代は、刑期から未決勾留日数が引かれ、2008年6月26日午前8時半に満期出所した[15] 。仮釈放がつかなかったのは、身元引受人がいなかったためという[11] 。7月16日、阿佐ヶ谷ロフトAにて、雑誌『創』篠田博之編集長主催のトークイベントに出演[16] し、記者会見を行った。会見では一部ろれつが回らないなど、心身ともに衰弱している様子が見受けられた。田代自身、不眠で医師の処方を受けていることを打ち明けている。
活動再開
2008年10月に公式サイトおよび公式ブログを開始。トップページの画像には「神降臨」の文字が記載されている[17] 。インターネットにおいて話題となって100万を超えるアクセス数を記録し、良くも悪くも芸能界を引退して数年経った現在でも田代に対する世間での認知度が高いことを証明する格好となった。
趣味の格闘技観戦を重ね、昔の伝でお笑いライブの司会を務めたり、2009年3月からは動画共有サイト zoomeで冠番組「田代まさしのお久しブリーフ」[18] を持ったり、またニコニコ生放送において長時間のトークを行ったり[19] など、テレビや音楽活動といったかつての表舞台ではないものの、「リハビリ」として段階的に芸能活動を再開させている。また旧知の仲でラッツ&スターのリーダーである鈴木も田代の復帰手助けを自身のイベント内で約束するなどの支援を行っている。
2009年 3月18日にインターネット配信された「田代まさしのお久しブリーフ」第1回では、過去の事件について頭を下げて謝罪するとともに、「ありがたいことに色々なところからお仕事を頂いたり、ブブカやゲームラボの連載を頂いたり、ちょくちょくライブなどに顔を出したりしている。芸能界的なお仕事もそうだが、ちゃんとした仕事もしていきたい。」と近況や自身の今後についての胸の内を明かした。
2009年6月に発売されたニポポのアルバムには、そのうちの2曲に田代がボーカルとして関わり、そのうちの1曲は作曲まで行うことも報じられている[20] 。さらに2009年7月からは、ケーブルテレビ・CS放送のチャンネルであるMONDO21にて、活動再開後初の冠番組である「田代まさしのいらっしゃいマーシー」が放送されている[21] 。
2009年9月24日、公式ブログ上で冠番組『田代まさしのお久しブリーフ!』の放送終了を報告とともに「リハビリ完了」を宣言した。
2009年11月2日、志村けんが自身のブログ上にて楽屋に田代が訪れて土下座された事を報告し、同エントリーに田代へのエールを綴った。更に15日の田代のブログには志村とツーショットの写真がアップロードされ、両エントリーには500件以上のコメントが寄せられた。
主な出演番組
テレビ
フジテレビ
- ものまね王座決定戦
- スターどっきり大作戦
- 笑っていいとも!
- 夕やけニャンニャン
- パラダイスGoGo!!
- 田代まさしのオイシイじゃん
- 週刊スタミナ天国
- たけし・逸見の平成教育委員会
- なるほど!ザ・ワールド
- 志村けんのだいじょうぶだぁ - 2009年現在「ファミリー劇場」にて放送されており、現役当時の彼を唯一電波を通じて見られる番組。
- 志村けんのバカ殿様
- TVクルーズ となりのパパイヤ
- 所さんのただものではない!
- 季節はずれの海岸物語
- SRS
- ライオンのごきげんよう
- キスより簡単
その他の放送局
- クイズダービー(TBS)
- 特捜TV!ガブリンチョ(テレビ朝日)
- ダウンタウンDX(読売テレビ)
- スーパーJチャンネル ANN(金曜日、テレビ朝日)
- それゆけ!マーシー(毎日放送)
- 愛ラブB.I.G(テレビ東京)
- 田代まさしの謹賀新年おめでとう(テレビ朝日)
- 田代まさしのいらっしゃいマーシー(MONDO21)2009年7月2日 - 9月10日 隔週木曜
インターネット配信
ラジオ
- 田代まさしのスーパーギャング(木曜日、TBSラジオ) - 1986.10〜1987.3
- 田代 中村 南部 アクアちゃん(レインボータウンFM) - 2009.7〜
CM
- 住友スリーエム(スコッチ) VHS用テープEG、HG(1988年)
- 松田食品 ベビースターラーメン(1988年)
- モランボン
- メガネスーパー
- 森永製菓 ぬーぼー、パックンチョ、森永ココア
- ゼネラル石油(ラッツ&スターとして)
- ほか多数
音楽作品
シャネルズ、ラッツ&スター名義でリリースされた作品はラッツ&スターを参照のこと。
- 新島の伝説(1986年8月27日発売)
- パラディラタンの夜は更けて(1987年9月21日発売、「慎之介&マーシー」名義)
- ウンジャラゲ(1988年11月2日発売、「志村けん&田代まさしとだいじょうぶだぁファミリー」名義)
- 熱帯夜(1994年7月1日発売、「マーシー&いずみ」名義)
- 婆様と爺様のセレナーデ(1993年12月17日発売、「けん&マーシー」名義)
- 愛が懐かしい(1995年3月8日、「田代まさし&麻木久仁子」名義)
- 監獄ポップ / 監獄アシッドハウス (2009年11月4日発売、「マーシー☆ポルシェ」名義。)
映像作品
- マーシーの不良風 女を口説く方法 あの手この手教えます(1992年)
- マーシーの禁断! お嬢様学園危機イッパツ(1993年)
- クレープ(1994年)
- ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦(1999年)
- マネーギャング 極楽同盟(2002年)
- 企画:吉田達 / 製作:仁平幸男 / プロデューサー:服巻泰三・山本芳久
- 監督:宮坂武志 / 脚本:岩澤勝己 / 音楽:松崎裕子 / 美術:野尻均
- 出演:田代まさし・濱田のり子・TEAH・小沢和義・山田辰夫・桑野信義・天宮良
- 実録やくざ抗争史 LB熊本刑務所 vol.4 刑務所前バス停(2003年、第1回DVシネマ大賞[22] 受賞)
- 実録・プロジェクト893XX 金嬉老 無期懲役・拘禁52年 3(2004年)
- 四国やくざ・戦場の主役たち2(2004年)
著書
- 田代まさしの道徳読本(1988年5月、講談社、ISBN 4061031015)
- マーシーの超法則(1994年4月、マガジンハウス、ISBN 4838705344)
- シネマで愛して―映画の数ほど、恋したい(1993年10月、日本文芸社、ISBN 4537023848)
- 自爆―THE JUDGEMENT DAY(2002年7月、ケイツー出版販売、ISBN 4434022520)
脚注
- ^ 「『俺の面白さはこんなもんじゃない!』――田代まさし氏、降臨 出所後の生活を語る (1/5)」 ITmedia、2009年4月10日。
- ^ 北海道テレビ放送株式会社『夢チカ18 ゲスト 鈴木雅之/Epic Records/マザーポップコーン』
- ^ 『新島の伝説 / パシフィック(夏は罪つくり)』作曲:鈴木雅之、作詞:秋元康。同時収録曲は作曲:鈴木雅之、作詞:田代まさし「パシフィック」。
- ^ a b 「田代まさし「"人生すべてがギャグ"──きっとそう思われている」」 日刊サイゾー、2008年10月9日。
- ^ 2008年10月、「日刊サイゾー」でのロングインタビューより
- ^ 「盗撮大好きタシーロ」、特殊クラスタワードによる。
- ^ J-CASTニュース : 酒井法子の億単位賠償 一体だれが負担するのか
- ^ ZAKZAK『田代まさし逮捕』2004年9月21日
- ^ a b インフォバーン『サイゾー』2004年12月号 中濃用語辞典 ニュースソース - 取り調べ中に気絶した「田代まさし」の心境とは?
- ^ 「『俺の面白さはこんなもんじゃない!』――田代まさし氏、降臨 出所後の生活を語る (4/5)」 ITmedia、2009年4月10日。
- ^ a b ZAKZAK2008年7月8日付
- ^ 田代まさし「獄中で見た景色、あのころの家族の夢」:日刊サイゾー
- ^ 田代の事故と同時期の2004年10月に萩原は交通事故を起こし業務上過失致傷罪で現行犯逮捕され、懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の有罪判決を受けている。
- ^ ストリーム 2005年8月24日「東海林のり子の元現場クイズ」 第3問
- ^ 月刊「創」2008年8月号
- ^ 田代まさしが出所していた! 7月16日トークイベントに出演予定日刊サイゾー
- ^ 「『神降臨』田代まさしさんが公式ブログ 『今度は本物です』」 ITmedia、2008年10月29日。
- ^ a b 田代まさしのお久しブリーフ
- ^ 「田代まさし生アーカイブ公開!」ニコニコニュース、2009年4月8日。なお、ニコニコ生放送はこのほかに数度出演している。
- ^ 田代まさしが音楽活動を再開( オリコン)
- ^ MONDO21 田代まさしのいらっしゃいマーシー
- ^ 元暴力団組長で画家の山本集がプロデュースする映画の賞。DVはデジタルビデオの略。
関連項目
外部リンク
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平日版 |
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週末版 |
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関連項目 |
鈴木雅之 - 田代マサシ - 佐藤善雄 - 久保木博之 - 桑野信義 - 出雲亮一 - 新保清孝 須川泰男 - 高橋進 - 山崎廣明 | |||||||||||||||||||||||||
シングル |
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アルバム |
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映像作品 |
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関連項目 | エピックレコードジャパン - 鈴木聖美 with Rats&Star - 第47回NHK紅白歌合戦 - ゴスペラッツ - マンガチョップ'84 - template:鈴木雅之 - 大瀧詠一 - 桑田佳祐 | ||||||||||||||||||||||||
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