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プロレス

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アメリカのプロレス団体WWEの試合模様

プロレス、またはプロレスリング(: Professional wrestling)とは、「プロフェッショナルレスリング」の略で、打撃、投げ、関節技、時には凶器などを用いた攻防を観客に見せる、格闘技をベースとした興行。その興行においてリングの上で闘う者をプロレスラーと呼ぶ。

概要

興行会社が、試合その他で構成される興行を開催することで、観戦料などの収入を得るビジネスモデル。プロレス業界において、この興行会社は「団体」と呼ばれる。 WWEを代表とする、台本の存在を公にしているエンターテイメント系団体と、日本の主流である競技性を前面に押し出している団体・興行が存在する。また、女性のプロレスラーの行うプロレスは特に女子プロレスとされ区別される。

事業収入を得ない、アマチュアプロレスも存在する。その中でも学生達の愛好家によるものは学生プロレスと呼称される。メキシコを除いては、ライセンス制度も無いため、厳密にアマチュアとプロを分類することは不可能であるが、強いて分類するなら観戦料徴収の有無で分けることが出来る。アマチュアプロレスは地域の催事ないしは祭事でプログラムの一環として行われることが多い。

一つの地域に重点を置く地域密着型(みちのくプロレス・大阪プロレス等)と都市圏を中心に全国を回る巡業型がある。

勝敗を競う形式を取るが、アメリカのプロレス団体のWWEはあらかじめ作られた台本に則って行われている「エンターテインメント」であることを明らかにしている。理由としては、筋肉増強剤などの昨今のプロスポーツと薬物の問題が根底にあるが、その他にも、スポーツ委員会よりも興行(娯楽)として登録する方が保険料が低く済みコストダウンに繋がることや、株式上場の際に経営透明化という観点から業務内容を公開する必要があったためである。

プロレスはテレビやビデオ等を通して世界中の人々が見ているが歴史的に活動が盛んな地域としてはアメリカ合衆国日本メキシコカナダイギリスドイツプエルトリコオーストラリア韓国などが挙げられる。

アメリカではプロレスでもアマレスでも「Wrestling」と呼ぶが、プロレスのみを指す場合、ショービジネスのそれとして「rastling」ないしは「rastlin」と南部訛りで呼ぶことがある。

事業内容

エンターテイメント産業とほぼ同じ事業形態である。事業収入の柱となるものは以下の様なものである。

観戦料
通常は3,000〜20,000円程度、興行の規模により推移する。地方興行などではコンサート同様に、スーパーやコンビニで割引優待券が配布されていることもある。また、他のスポーツ興行と同様に、法人顧客にある程度まとまった数を販売し、その法人が自身の顧客に対し、販促の一環として配布したり、余れば福利厚生の一環として従業員に配布することもある。ビッグマッチを除き、地方興行ではプレイガイドでの販売数はそれほど見込めないため、法人営業力の重要性は高い。
グッズ収入
Tシャツやタオルなどの衣料品、パンフレット。会場での販売が中心だが、スポーツショップでも販売している。これらは粗利が高く日銭を稼ぐことが出来るため、女子団体を筆頭に零細団体ほど比重が高くなる。グッズが製作出来なくなると、その団体は経営的に破綻寸前であることが多い。また、ゲームソフトなどのロイヤリティーも含まれる。
コンテンツ販売
試合を収めたDVDビデオ販売、インターネット配信を行う団体もある。
広告料
リングやパンフレット、チケット裏面などの広告スペース料。冠興行の協賛金など。
テレビ放映料
地上波またはBS専門チャンネル放送事業者からの放映料。かつては地上波テレビ放送が無い団体では経営が成り立たないと言われていたが、UWFがビデオ販売でヒットを飛ばしたことや、ケーブルテレビ・CSで放送される有料専門チャンネルの増加などから、必ずしも地上波での放送がなくとも経営が出来るようになった。
所属レスラーの芸能活動
テレビやラジオ、各種イベントでのトークショー、映画Vシネマなどの出演料。レスラーが主演を務める作品もあり、俳優業を本職としたものもいる。
飲食店経営
喫茶店やレストランの事業収入。全日本女子プロレスは、新人を中心とした所属選手がスタッフとして働く店もあった。
興行権販売
主に地方巡業であるが、各地方のプロモータと呼ばれる興行会社に一定額で興行権を販売する。地域に根ざしたプロモータが営業活動・宣伝活動などの業務を行うため、団体のスタッフの負荷が軽減出来ることや、不入り興行でも安定した収入を得られる点が利点。また、このような興行は「売り興行」と呼ばれる。逆に団体自らが興行を開催し、直接収入を得る興行を「手打ち興行」と言う。
元選手が引退後にプロモータに転身、ないしは入社することもある。現役選手でも、出身地や縁の深い場所で興行を行う場合は興行権を購入して取り仕切ることもある。
祭事・催事のプログラムの一環として、試合を行うこともある。代表例はフリーマーケットや競艇場など。
その他
イレギュラーなものとしては、人望のあった選手などが重い病気や重度の負傷、リング内外の事故により事実上の廃業を余儀なくされた時、その選手やその家族の為に、闘病費用などの一助にしようと、選手有志や縁のあった団体などの協力という形で選手のための興行が行われ、観戦料などの収益がその選手に渡される事もある(ガンで引退した冬木弘道の引退試合など)。

社長レスラー

日本のプロレス団体における特徴のひとつ。現役レスラーが社長業を兼務する。日本のプロレス団体運営システムの始祖である力道山から始まった形式。興行の現場を知るものが社長業を行うことで、現場(レスラー)との乖離を避けることが出来たり、スポンサーとの営業活動などに利点がある。

しかし、個人商店化し、ワンマン体制や血縁・同族企業になりがちな点や、プロレスと経営の能力は別物であるため、優秀なブレーンとなる存在が無ければ維持することは難しい。また、これに対して選手出身ではない者(「背広組」と呼ばれる」)が社長や経営幹部を務める場合、経営と現場を分離できるものの、両者の間に軋轢が生まれがちで、それにより分裂・活動を停止する団体は多い。

また、肩書の上では社長であるが、経営には携わらない社長レスラーもいる。藤波辰爾は社長時代に東京スポーツなどの新聞報道で自社の動きを知って驚いていた。三沢光晴全日本プロレス社長時代は経営権の殆どは馬場元子が握っていたため、実質的には現場監督に近い業務を請け負っていた。

一方、WWEでは、会長であるビンス・マクマホンが試合に出ることもある。彼は元々「背広組」であったが、演出の必要上レスラーとしての訓練を積んだ例である。またかつてFMWの社長をしていた荒井昌一(故人)は、レスラーとしての訓練は積んでいなかったが、演出としてリングでレスラーとの乱闘を演じたことがある。

巡業

日本のプロレス団体でツアー展開をする場合は、相撲の地方興行やサーカスと同様、巡業の形態を取ることがある。メジャーと呼ばれる大規模団体が開催する興行数は年間100試合前後と、格闘技と比べて圧倒的に多い。競技性を売りとするUWF系の団体はコンディション調整に時間を割くため興行数は年間数試合から数十試合程度となっている。リングなどの設営スタッフは別に移動するが、レスラーは集団でバスなどを用いて移動し、同一のホテルなどに宿泊する。競技性を前面に押し出したUWFでは、対戦するレスラー同士が会わないように、別のホテルに宿泊させ、競技性の保持に務めた。

海外の場合は、レスラーは現地集合・解散の方式を取ることが大半で、個別行動が基本。新人や若手レスラーは移動費節約のため、自動車で相乗りで移動することもある。

進行形式

プロレスの興行は、1日で5〜10程度の試合が行われ、間に一度休憩が挟まれる。トータルの興行時間は平均して3時間前後が基本。試合の構成は以下の通り。

  • 選手入場(テーマ曲が流され、会場によってはライトアップなどの演出が取られる)
  • 選手名、身長や体重などの紹介
  • 試合開始
  • 試合終了
  • 選手退場(勝利者のみのテーマ曲が流される)

WWEなどのように、選手名を告知してから入場し、リング上では告知を行わない団体もある。 選手入場の際に用いられるテーマ曲はアーティストによる既存曲と、選手個人または団体が制作を発注したオリジナル曲がある。試合をパッケージ販売する際の著作権処理の煩雑さと使用料回避のため、オリジナル曲を使う傾向が強くなっている。コスト削減のためパッケージ販売時には入場シーンに別の曲を編集で用いたり、入場シーンそのものをカットしているものもある。

また、タッグマッチ(詳細は後述)の入場・退場時に用いられる曲は「格上」のレスラーのものであることが基本である。アングル上の決着戦の場合は通常と異なる前奏を付加したものや、タッグマッチ時に一人ずつテーマ曲に合わせて入場する、といった演出が施される。

ルール

基本ルール

基本的なルールはほぼ以下の通りである。団体により詳細は異なるが、一般的なプロレスルールでは5カウント以内であれば反則が認められることが最大の特徴である。

  • 勝敗は以下の方法で決する。
    • ピンフォール:対戦相手の両肩をマットに押しつけ(フォールという)、レフェリーが3カウントかぞえる。
    • ノックアウト(KO):10カウントの間立ち上がれないでいること
    • リングアウト:20カウントの間リングの外に出ていること(海外では10カウントのことも。PWFルールを採用する全日本プロレスも10カウント)
    • ギブアップ:口頭での敗北意志の提示をする
    • タップアウト:相手の体の一部またはマットを叩くことにより敗北意志の提示をする
    • レフェリーストップ:関節技を受けている選手がギブアップやタップアウトせず、これ以上技を受け続けていると重傷を負うと判断した場合、レフェリー権限で強制的に試合を終わらせる。スリーパーホールドなど絞め技の場合、レフェリーが絞められている選手の腕を上げてから離して、3回腕が落ちれば負けとなる。
    • 反則勝ち(負け):レフェリーに暴行、凶器の使用、セコンドや他レスラーの協力的乱入があった場合、行為を行った側が強制的に負けとなる。ただし例外もある(詳しくは下記参照)。
    • セコンドからのタオル投入(TKO)など。
    • オーバーザトップロープ:トップロープの上を越えて場外に落ちたら失格となるルール。主にバトルロイヤル形式の試合で採用される。また、アメリカでは相手選手をトップロープの上を超えて場外に落とした場合反則負けとなる。
(レフェリーによって、またカードによって、カウントのスピードは異なる。)
  • 基本的な攻撃は投げ技絞め技関節技蹴り技打撃など。
  • 禁止されている攻撃として、目(サミング)、のど(チョーク)、急所への攻撃(ロー・ブロー)、噛みつくこと、拳での突き技、つま先での蹴り技、1本のみの指を取ることなどがある。ただし打撃系の反則技は後述の5秒ルールのため、相手の体に断続的に密着しない限りは注意のみで反則を取られないので事実上は反則技でない事が殆ど。(ロー・ブローのみ例外の場合がある)
  • ロープブレイク:技をかけられた方のレスラーが手足でロープに触れるか、体の部分がロープ外のリングサイドエプロンに完全に出た場合は、技の解除が求められる。フォール中の場合は、カウントはストップされる。
    • 注)原則的に四肢の場合など、手首・足首がロープに届かないとロープブレイクと見做されない為、指先が触れただけの場合などはレフェリーがロープを叩く・蹴るなどして、一旦離し、再度きちんとしたロープブレイクを求める事もある。なので、手の場合は、ただ出すだけで無く、ロープを握るなどしてレフェリーにアピールする事がある)
  • 試合時の服装規定は無い。そのため、普段着で試合をしたり、ニーブレス(金属製の強固な膝サポーター)などを着用しての試合をする選手もいる。
  • 観客用のイスを始めとした武器(凶器)での攻撃は反則とされるが、団体によってはリング内での使用で即時に反則負けとなる場合もあれば、カウント内での使用が認められる場合もある。同じ団体の試合であってもレフェリーによって判断が異なることもある。

試合形式

プロレスの試合はしろまるしろまる本勝負、という形で行われる。1980年代以降の日本では、ほとんどが一本勝負で行われている。かつて日本でもタイトルマッチなどで行われた三本勝負(二本先取で勝利)は、過去現在を通じてメキシコでは主流の試合形式である。試合時間は概ね10分から無制限まで千差万別である。

  • シングルマッチ:2人のレスラーが1対1で行う形式。
  • タッグマッチ:2対2、3対3など、複数人がチームを組んで対戦する試合の総称。各チームの構成人数が3人以上の場合は6人タッグ、8人タッグの様に合計人数を接頭に付けて呼称される。2対2の場合は人数を明示せず「タッグマッチ」と表記されることがほとんど。2対3などチーム構成人数に差がある場合は変則タッグ、またはハンディキャップマッチと呼ばれる。日本ではコーナーに控えている選手とタッチしないと試合権利が移らない方式を取っている団体が多いが、メキシコではタッチをしなくても試合権利が移る方式を取っている。日本でもメキシコに縁のある団体ではタッチしない方式を取っている団体もある。
  • 3WAYダンス(3WAYマッチ・トリプルスレッドマッチ):スリーウェイ〜と呼ばれる、3人で闘う形式。バトルロイヤルと異なり誰か一名が勝利を挙げた時点で試合が終了する方式と、最後まで残った者(チーム)が勝利、の二通りある。タッグマッチで行われることもある。
  • ハンディキャップマッチ:前述の変則タッグのなかでも、少人数のチーム方に圧倒的な実力がある選手がいるものを特にこう呼ぶ。巨漢レスラーの怪物性を示すために採用される形式。1対2、1対3などが基本である。
  • デスマッチ:通常とは異なる要素を加えた試合形式。詳細はデスマッチの項を参照。
  • バトルロイヤル:主に10人以上で行われる形式。敗北したものから退場し、最後に残った者が勝利する。参加選手が開始時に全員リング上にいる場合や、時間差で入場する形式などがある。

リング

リング参照。対戦の舞台となるのは3本のロープを四方に張り巡らせたリングで、形状はボクシングなどとほぼ同じ(ただし、ボクシングの場合ロープ数は4本で、コーナーの形状も異なる。大きさは団体によって異なる。プロレスの特徴として、ロープの反動を積極的に用いたり(ロープワークと呼ばれる)、コーナーに上っての技などがあるため、リングおよびロープは他競技用のものに比べ、頑丈に作られている(ロープの中にはワイヤーが入っている)。デスマッチと呼ばれる試合形式の場合、特殊な加工が施されたリングを用いることがある。詳細はデスマッチを参照。

リング内に敷かれたマットの硬度は大差はないものの、団体によって違うと言われている。柔らかい方が投げ技を受けたときにダメージが軽減される。しかし、あまりに表面が柔らかすぎると踏ん張りが効かなかったり、逆に足をとられて怪我をするおそれもあるため、柔らかさに一定の限度は存在している。

歴史的な経緯は不明だが、現在のほとんどのリングには「スプリング」が入っており、投げ技や跳び技の着地時におけるケガを予防するようになっている。総合格闘技の試合がプロレスのリングで行われた際には、このスプリングを止めて、「固く」していた。

各団体が専用のリングを所有するが、小規模団体は所有していないことが多い。この場合は他団体または「リング屋」と呼ばれる会場設営業者にレンタルする。代表的なリングレンタル会社としてジャッジサポートがある。

日本では闘龍門のプロジェクトT2Pで六角形のリングが使われたことがあり、アメリカではTNA、メキシコではAAAなどの団体で、六角形のリングが使われている。 注)この場合の六角形リングは、単なる目新しさでは無く、メキシコにあるルチャ・リブレ・クラシカという、間接技とポイント制によるルールを用いた競技形式の為に使われたものである。

リング外には転落時の衝撃を和らげるためのマットを敷く団体がある。また、観客席とリングの間に鉄柵を設置する団体もある。

階級

多くの団体はレスラーの体重を基準にヘビー級とジュニアヘビー級(クルーザー級、ライトヘビー級)に区分される。基準は概ね100kgを基準とするが全日本プロレスでは105kgまでがジュニアヘビー級として扱われる。ボクシングと違い公式な計量は存在しない事が殆ど。階級を超えたマッチメイクもしばしば行われ、軽量級に在籍しながらヘビー級戦線で活躍するレスラーも少なくない。旧ZERO-ONEは巨漢レスラーが多く参戦していたためにヘビー級の上に130kg以上のスーパーヘビー級を置いた事がある。NWAはミドル級、ウェルター級などより詳細な階級区分を行っている。ルチャ系の団体では全体的に体重の軽い選手が多い為、ミドル級、ウェルター級で分類されることもある。

なお、女子プロレスにおけるジュニアとは軽量級カテゴリーではなく、経験の浅い若手選手を指すカテゴリーである。

プロレスの歴史

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プロレスの起源

その起源は、イギリスのランカシャー地方のランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)にあると言われている。レスリングのグレコローマンスタイルを賞金マッチで行ったものがアメリカで行われていた記録もあり、もう1つのプロレスのルーツとなっている。

  • 19世紀の初め頃に、ボクシングとともにイギリスで興行が開始されている。有名な「プライズ・ファイター」(現在のボクサー)ジェームス・フィグはベアナックル(素手)、蹴り技投げ技絞め技、噛み付き、目つぶし、髪の毛つかみのある当時のボクシングのほか、レスリングも得意であった。
  • 1830年代にはアメリカにレスリング勝者に懸賞金が与えられるという興行が伝えられエイブラハム・リンカーンも行っていた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとグレコローマンのミックスマッチ(3本勝負で混ぜる)や、更に腰から下へのキックを認めるというような変則的なルールが各地・各試合毎に行われていた。

現在のプロレスに直接つながっているのは、19世紀後半のアメリカに広まったカーニバル・レスリングとされる。カーニバル・レスリングは、"athletic show"あるいは短く"at show"と呼ばれた、いわゆるサーカスの出し物の一つとして行われ、その中では、レスラーは観客の挑戦を受けて試合(いわゆる"all comers")をしたり、レスラー同士、あるいはボクサーとの模範試合を披露していた。19世紀末まではレスリングのみのショーは試合数が限られていたため、レスリングを職業として生活するためには、このようなカーニバル・レスリングに参加するか、一人で旅芸人として巡業する必要があった。 大仁田厚は自身が設立したFMWへの批判に対して「プロレスの起源はサーカスの見世物」と反論し、大仁田とは対照的な正統派ルー・テーズも、自伝においてカーニバル・レスリングと旅芸人がプロレスの起源と述べている。カーニバル・レスリングをプロレスの起源とする考えはアメリカでは一般的であり、kayfabe(ケーフェイ)、mark(マーク)、boy(プロレスラー)、bump(受け身)といったプロレスの隠語も、カーニバル・レスリングで用いられた言葉とされる。 一方、日本のプロレス研究家、あるいは、マーク向けライターはカーニバル・レスリングをプロレスの起源とすることに否定的である。例えば、日本において出版されたルー・テーズの自伝では、前述のプロレスの起源に関する記述はない。これは、"at show"の内容が非常に娯楽色が強く、プロレスを真剣勝負として紹介している人たちのビジネスに都合が悪いためと思われる。

1880年代に、人気レスラーであり、警察官でもあったウィリアム・マルドゥーンが警察を退職、専業という意味で最初のプロレスラーとなった。マルドゥーンは劇場などの常設施設で行われるレスリング・ショーの発展に努力し、後に「アメリカン・レスリングの父」とも呼ばれるようになる。 1890年代にはカーニバル・レスリング出身のマーティン・ファーマー・バーンズイバン・ストラングラー・ルイストム・ジェンキンスらとの試合で人気を集めた。その後、バーンズはフランク・ゴッチを始めとする多くのレスラーを育て、レスリングの通信教育も行った。バーンズもまた「アメリカン・レスリングの父」と呼ばれる。

20世紀に入ると、ジョージ・ハッケンシュミットスタニスラウス・ズビスコといったヨーロッパの強豪レスラーがアメリカを訪れ、トム・ジェンキンス、フランク・ゴッチ、アドルフ・エルンスト(後のアド・サンテル)らアメリカのレスラーと対戦し、レスリング・ショーを盛り上げた。 1910年代よりアメリカの人口は都市に集中し始め、その結果、町から町へ渡り歩く"at show"は下火となった。代わりに、劇場などで行われるレスリング・ショーが増え、レスラーは都市を中心としたテリトリー内を巡業するようになった。このことは、レスラー間のつながりを強め、事前に試合内容を調整することを容易にした。 1920年代になるとエド・ルイストーツ・モントビリー・サンドウ(通称「ゴールドダストトリオ」)が数百名のプロレスラーを配下にし、プロレスラー同士で架空のストーリー(最も分かりやすいのは「善玉」と「悪玉」の闘い)を演じさせた。また、従来の試合では基本的に1回のショーでは1試合だけを行っていた。プロレスラーにほとんど動きがないまま1時間以上経過するようなことも珍しくなかったためである。これを改め、事前に試合時間と結末を調整することにより、複数の試合からなるショーを行った。これらによりプロレスの人気は高まったが、一方で、報道、賭博など社会的な場において、プロレスが普通の意味でのスポーツとして扱われる機会は激減した。 こうして1920年代にはプロレス・ショーの仕組みは完成し、その後、メキシコ日本カナダなどにも伝わる。なお、メキシコのプロレスはルチャリブレと呼ばれる。

新しい試み

2005年 3月に、アメリカ合衆国RPW(Real Pro Wrestling)なる新しいプロリーグが誕生し活動している。これは全米大学体育協会(NCAA)レスリング大会などのレスリングで活躍した選手が全米各地区のチームに所属して、純粋な競技スポーツとしてプロ・レスリングの活動を行うというもので、活動の成否と今後の動向が注目されている。

日本におけるプロレスの歴史

戦前

最初の日本人プロレスラーはソラキチ・マツダとされている。戦前にはハワイでキラー・シクマ(志熊俊一)が日本人初の重量級プロレスラーとして活躍した事が、プロレス系の個人サイトに遺族が投稿したのを機に近年、明らかになった(後に週刊ゴングで漫画化されている)。その他、数名の日本人が主にアメリカでプロレスラーとして活動していた事が確認されている。

戦後・力道山の時代

日本の大手プロレス団体は力道山がデビューした1951年を日本におけるプロレス元年としている。プロレス興行が根付いたのは戦後、力道山が1953年日本プロレスを旗揚げしてからの事である。しかし戦前にもいくつかのプロレス興行があったことが確認されている。また、戦後連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPによる武道の禁止指令により柔道が禁止されていたため柔道家の牛島辰熊が1950年(昭和25年)2月に国際柔道協会(国際プロ柔道協会)を設立し木村政彦山口利夫、坂部保幸らが参加したプロ柔道として力道山より早くプロ柔道興行を始めていたが、4ヶ月10回の興行後、木村政彦、山口利夫、坂部保幸が日本プロレスに移籍し最終的には力道山の手によって統一される。戦後間もない頃で多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップでなぎ倒す姿は街頭テレビを中心に人気を獲得し、プロ野球大相撲と並び国民的な人気を獲得した。

昭和後期・BI砲の時代

その後、日本国内においては力道山の率いる日本プロレスの独占市場であったが、力道山の死去後、東京プロレス・国際プロレス(現在は消滅)が相次いで旗揚げし、さらに力道山死去後の日本のプロレスを支えていた、アントニオ猪木が新日本プロレスを、そして、ジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げし、両エースを失った日本プロレスは崩壊する。それ以降しばらくの間、上記の2団体と当時は健在だった国際プロレス、そして女子プロレス団体である全日本女子プロレスの4団体時代が続く事になる。1970年代以降、猪木はプロレス最強を掲げてウィレム・ルスカモハメド・アリらと異種格闘技戦を行い、馬場もNWAとのコネクションから多くの大物外国人レスラーを招聘しそれぞれ人気を獲得した。

1980年代に入ると猪木の弟子である藤波辰巳長州力、馬場の弟子であるジャンボ鶴田天龍源一郎らいわゆる鶴藤長天が台頭する。また、新日本では佐山聡タイガーマスクとしてデビューし、それまでヘビー級の過渡期として位置付けられていたジュニアヘビー級をヘビー級から独立した独自のカテゴリーとしてその礎を築く。1984年にはUWFが旗揚げされ、ショー的要素を排除したシュートスタイルのプロレスを確立し、後の総合格闘技の台頭への布石となる。

平成期・プロレス人気の低迷と団体乱立

1988年には大仁田厚FMWを旗揚げ。デスマッチを主体とした興行で成功を収め、インディー団体というカテゴリーを確立。1990年代に入るとFMWの成功を受けて多くのインディー団体が相次いで旗揚げされ、団体乱立の時代を迎える。この頃から馬場、猪木が第一線を退き、プロレス人気に翳りが見えるようになる。それまでゴールデンタイムで中継されていたプロレス中継は深夜帯へと移動し、ジャンルのマニアック化が進む。一方、興行面では東京ドームなどの大会場の使用が進んだ事もあって観客動員においては最高潮を迎える。この頃からアメリカンプロレスがテレビ主導の興行に切り替えを行ったため外国人レスラーの招聘が困難になり、日本のプロレスは日本人レスラー同士の闘いに重点を置くようになる。新日本では闘魂三銃士、全日本では四天王が台頭し、現在まで業界を牽引している。一方、第2次UWFリングスUWFインターナショナル藤原組に分裂(藤原組はその後さらにパンクラス格闘探偵団バトラーツに分裂)し、細分化が進む。1990年代後半に入るとK-1PRIDEなど総合格闘技が台頭し、それまでプロレスが請け負っていた異種格闘技としての側面を奪われる形となる。古くからアントニオ猪木が「プロレス最強」を掲げていた背景から、これを受けて多くのプロレスラーが総合のリングに参戦するが、結果を残したレスラーは少なく人気低迷に拍車をかける。

現在

2000年代に入ると日本のプロレス界の勢力が一変する。全日本では馬場の死後、社長に就いた三沢光晴と馬場の未亡人として経営の権限を持つ馬場元子が団体運営を巡って対立、三沢は殆どの所属選手と共に団体を退団し、プロレスリング・ノアを旗揚げする。新日本でも橋本真也が団体を解雇され、新たにZERO-ONEを旗揚げし、新たな4団体時代を迎える。一方、所属選手の殆どを失った全日本は団体存続をかけて新日本との交流に踏み切る。2002年武藤敬司が新日本を退団し全日本に移籍、同年10月に同団体の社長に就任する。メジャー団体とインディー団体の交流は1990年代から頻繁に行われていたが、2000年代以降はメジャー団体同士の交流が盛んに行われている。また、この頃からWWEが日本でも人気を博し、その流れを受けてWRESTLE-1ハッスルなどエンターテイメント志向のプロレス興行が行われるようになる。2006年にはグローバル・レスリング連盟が発足し、国内初のプロレス統一機構の確立を目指している。

女子プロレス

女性レスラーによって行われるプロレス全般を指す。アメリカでは、すでに1930年代末には女性レスラーが存在し、男のプロレス興行の中で試合を行っていたと言われている。

日本においては、戦後間も無く進駐軍相手の興行としてスタートし、歴史的には力道山がプロレスを始めるよりも前に存在している。

ただし、その当時の女子プロレスは、主な会場が芝居小屋やキャバレーストリップ劇場等で、試合も対戦相手のガーター(下着)を奪い合うと言った、お色気を強調したものであり、今現在行われている女子プロレスとはかなり違うため(現在に当てはめると、キャットファイトに近い)、これを『プロレス』と呼ぶべきかは意見の分かれる所である。

尚、上記を女子プロレスと定義した場合、日本人最初の女子プロレスラーは東京コミックショーショパン猪狩の妹である、猪狩定子だと言われている(尚。猪狩定子は全日本女子プロレスの記念興行で、『日本人最初の女子プロレスラー』とされる事から、女子プロレスの殿堂入りとして表彰されている)。

この様な形で始まった日本の女子プロレスだが、しばらくの後、当時の全米トップレスラー達を招いて蔵前国技館を始めとした大会場にて興行を行い、満員の観衆を集め大反響を得たため、それまでのお色気を強調したものから、現在のプロレスに近い形が出来上がって行く事になる。

これを機にいくつもの団体が乱立したものの、最終的には現在の興行形態を作った全日本女子プロレスが女子プロレス団体として勝ち残り、後にビューティーペアの登場により女性ファンの人気を集めブームとなり、それ以降もクラッシュギャルズなどスター女子レスラーは女性人気を得る事となる。

1990年代に入り、ユニバーサル・プロレスW★INGと提携した全日本女子が選手・試合を提供したことで、男性のプロレスファンから注目を集め、FMW女子部と全日本女子の対抗戦が契機となり、全日本女子プロレスを中心に団体対抗戦が東京ドームなど大会場で行われるほどの人気を得た。クラッシュギャルズ以来の女子プロレスブームが起こり、女子プロレス単体でゲームソフトが発売されるほどだった。

現在は、女子単独団体の場合、後楽園ホールでの興行がビッグマッチとなる程度の規模にまで縮小している。主な理由として、以下の様なものが挙げられる。

  • 対抗戦による大物同士のカードが消尽された
    全日本女子とFMW女子部の試合を契機に、当時の全ての女子団体(全日本女子・FMW・JWPLLPW)が対抗戦に参加し、人気を博すものの、各団体の思惑から対抗戦が乱発され、大物同士の対抗戦ですら日常的になってしまい、試合カードの希少性が失われた。また、団体を超えたチームも多く組まれ、対抗戦から交流戦に質が変化したものの、対抗戦ほどの熱狂は得られなかった。
  • 団体分裂・小規模団体乱立
    日本女子プロレスの中心となっていた全日本女子プロレスから人気レスラーが相次いで退団し、新団体を発足したりフリーになる者が増えた。また、団体のみならず選手が単独あるいは複数のユニットによる興行(プロモーション)も行われるが、選手の貸し借りが恒常的に行われているため、どの興行でも参加しているレスラーに差が見られず、興行の差が乏しい。法人登記するよりも、個人ないしはユニットで興行を行う方が金銭的などのリスクが少ないことも興行数の増加を招いた。
  • 認知度不足
    細分化により発生した小規模団体は資金力が乏しいため、移動・宿泊などの経費がかかる地方巡業・興行が行えない。当然、興行は首都圏での開催に集中し、ブームが去って減少したファン・観客(後述)を奪い合うことになる。また、地上波テレビ放送は全日本女子の放送が打ち切られて以降行われていない。スポーツ新聞などマスコミでの取り扱いもごくわずかである。
  • 新人スターレスラーが生まれなかった、高年齢レスラー中心の運営
    ほとんどの団体に共通して発生した問題。ベテランレスラーは対抗戦ブームの際に得た知名度のため、各団体の中核となりメインイベントに出場し、一線から引かなかった。彼女らがキャリアを積み重ねる一方、多くの新人がデビュー後から数年で引退した。ベテランレスラーの知名度・集客力・スポンサーへの訴求力は経営上必要であったが、結果として若手レスラーが注目を浴びる機会が減少していった。全日本女子プロレスはかつて「25歳定年制」を定めていたため、選手層の入れ替えが強制的に行われていた。しかし対抗戦ブームの際当時の人気レスラー、ブル中野に定年免除を認めて以降、同制度は事実上消滅した。この結果、現在の女子プロレスでは、トップクラスのレスラーの年齢はジャガー横田など40歳前後となっている。女子プロレスの持つ華やかさが薄れ、強さや激しさを求めることとなる一方で、若い選手が多く出場する女子総合格闘技の興行が増え、一部のファンが流れたことも衰退の原因のひとつである。また、他の女子スポーツの人気が高くなり、プロレスラー志望の女性は少なく珍しいものとなっている。
  • プロスポーツの細分化
    上記の話に関係するが。かつては女子のプロスポーツと言えばプロレス以外にはゴルフテニスボウリング等限られたものしか無く、それらはプロとして生活するには相当の投資が必要となるため、何も無い状況からプロとして生活出来るのはプロレスしか無い状況だった。しかし現在はどんなスポーツでもスポンサーがつけばプロとしてやっていけるため、プロレス以外の、自分の好きなスポーツを職業として選ぶ女性が増えてきた事も挙げられる。
  • ファン層の変化
    ビューティペアやクラッシュギャルズがスターとして活躍していた際は、宝塚歌劇団の様に女性ファンが大半を占めていた。その後90年代の対抗戦ブームでは男性のプロレスファンの割合が高まる代わりに、従来の女性ファンは減ってしまった。ブームが去り、団体の分裂・縮小期に入ると対抗戦ブーム時の男性ファンも去ってしまったため、ファンの絶対数が激減した。辛うじて元クラッシュギャルズの長与千種を中心としたGAEA JAPANが90年代以降も女性ファンを多く獲得していたが、参戦選手の半分近くをフリーランスに依存していた事などが原因となり現在は解散している。

以上のことから、女子単独団体による女子プロレスは、初心者への参入障壁が高く、しかも新規ファン層を取り込む機会が乏しいジャンルとなり、固定ファン向けの方向性を進み続けている。

ちなみに、女子選手のみ単独団体が興行を行っている国は、世界中でも日本だけである。女子プロレス自体はメキシコ韓国、そしてアメリカ合衆国にも存在するが(かつてはイギリスでも女子プロレスラーが存在していたと言われている)、メキシコや韓国では女子だけで興行を行う事は無く、アメリカでは以前は女子のみの団体も存在したが、スタジオマッチ等の興行が主であり、日本のような全国を回るような興行形態では無い。それを考えると日本の女子プロレスは非常に稀有な存在でもあると言える。

マスコミにおける取扱

かつて、各新聞社やテレビ局において、スポーツエンターテインメントか議論となったが、新聞では一応はエンターテインメントという形で決着した。

テレビ(中継対象として)
日本の地上波では、日本テレビテレビ朝日、およびその関連局が大手団体の興行を中継(主に録画)している。かつてはゴールデンまたはプライムタイムに60分の番組枠を持っていたが、現在は深夜に30分と縮小されている。ケーブルテレビやCSといった有料放送でも放送しており、専門チャンネルも存在する。アメリカでは、USA NetworkやSpike TVが放送を行っている。
テレビ(報道対象として)
エンターテイメントであると同時にスポーツでもあるという認識で、スポーツ番組でもまれに取り上げる。NTVやテレビ朝日など、プロレス中継を行う局が取り上げることが大半。芸能人が試合を行う場合は、ワイドショーで扱われることがある。
一般新聞
スポーツ面に掲載されることはほとんどない。著名レスラーの死去、興行会社の倒産、関係者が刑事事件を起こす、といった場合に報道される程度である。しかし2007年8月下旬から10回に渡り朝日新聞夕刊一面でプロレスの特集が組まれ、レスラー(現役、元)、関係者、古舘伊知郎、プロレスファンである内館牧子など、約30名のインタビューが掲載された。一般紙でこれだけ長期に渡り、さらに一面でプロレスの特集が組まれたのは異例中の異例である。
スポーツ新聞
紙面上の扱いに新聞間で差があるものの、格闘技と同様に報道される。試合結果、インタビューなどが掲載される。
かつては、試合内容を載せるのは日刊スポーツ東京スポーツのみ、そのほか報知新聞デイリースポーツが試合結果を掲載するだけだったが、小川直也のプロレス参戦と同時に、各紙とも掲載するようになった。
専門誌(紙)
新聞と同様、試合結果(詳細な試合レポート)、選手インタビュー、その他企画記事などを掲載している。新聞よりも、各団体のアングルの展開状況を解説する役割が強い。基本的にマーク層を主要購買層とし、プロレスを純粋な勝負であることとして扱う。
団体が増え、その一方でテレビ・新聞報道が少なかった時期(主に1990年代)は、試合内容を早く・詳しく知るための中心的な存在であり、ビッグマッチの数日後に「速報」という形で増刊号を発行することも多かったが、インターネットの普及により、その優位性はほぼ失われた。そのため、電子メディアとの差別化に苦しんで、発行部数は減少しつつある。それに伴い、掲載広告はプロレス関連企業の比率は低下し、消費者金融や出会い系サイトなどの割合が高くなっている。週刊ゴングはプロレスとは全く関係ない玩具やアクセサリの誌上通販、出会い系サイトの広告を行っている。以下は専門誌の代表的なもの。
報道における特徴
プロレス報道における最大の特徴は「選手経験を持つ、専門の技術解説者がいない」ことである。テレビ放送時はアナウンサーと解説が付くことが通例であるが、その場合の解説者は、現役レスラー、OBレスラー、マスコミ関係者である。
野球やサッカーにおいては、解説者は必ずしもその球団のOBではない。異なるリーグで一度も対戦経験の無かった、元選手が解説をすることも珍しくはない。しかし、プロレスの場合、引退後にフリーの技術解説者になって様々な団体の中継で解説を行うことは無い。
活字メディアにおいても同様であり、引退した選手がコラムを寄稿することはあっても、その選手が全く関係を持たなかった団体の試合分析を行うことは無い。プロレスラーには厳密な引退は存在せず廃業のみがあり、現役復帰が極めて多いことも原因のひとつであると思われる。
プロレスがプロ野球プロサッカーと違い、スポーツとして取り扱われない理由のひとつが、この技術解説者の件であると思われる(逆にアマチュアレスリングの方がスポーツとして扱われている)。その競技経験の全く無いマスコミ関係者が、技術面について語る競技は公営競技を除けば他には存在しない。また、マスコミ関係者による解説は「気合」「殺伐」といった精神論的・抽象的表現に終始してしまうことが大きい。
一時期、大仁田厚がフリーの解説者になると表明したことがあったが、結局活動は行われなかった。
ジャーナリズム
プロレスにはスポーツジャーナリズムは存在しないことも特徴のひとつである。芸能産業・興行ビジネスであるため、何らかの形で各地域の暴力団と関係を持ちトラブルが発生したり、レスラーがマルチ商法の広告塔としてメディアに露出した場合は、前述の専門誌やスポーツ新聞は黙殺・無視のスタンスを取り、報道を行わない。この様なトラブルを扱うのは主に一般週刊誌などである。近年では暴露本の類のムックが多く発行される様になった。
日本のプロレスにおいては、しばしば団体から報道各社に対し「取材拒否」が行われることがある。これは、団体に対し不利益な記事を書いたために行われることが大半である。取材拒否はそのまま販売部数の減少に繋がるため、広告収入で成り立つマスメディアにとって致命的となるため、プロレス紙誌は各団体の機関誌・広報誌以上の内容にはならないことが大半である。
力道山時代からプロレスは「プロレス村」と表現される程に閉鎖的・排他的傾向を持ち、プロレスマスコミもその閉鎖性を保持・維持する立場を取ることが多い。PRIDEKRSによる主催であった時代「あなた達(KRS)は何者なんですか」という質問がなされたことを代表に、詳細な取材よりも団体から流されるリリースをそのまま掲載することが大半である。
選手インタビューと銘打たれていても、事実を述べてそれに対しての選手や考え方を訊くような質問の意図が明確な内容よりも、選手の独白形式に記者が解説・脚注を加える程度のものが掲載されることは珍しくない。簡潔な文章よりも詩的修飾語が多用された記事が載ることも特徴のひとつである。
後述する台本などの存在は、一般ファンにもその存在が広く認知されるようになっても専門紙誌に公表されることはない。そのため、台本の存在を肯定したWWEなどの興行を「大会」や「試合」でなく「公演」と表現し、暗に日本のプロレスと違う、という線引きをしているマスコミも存在する。

ショー的側面

プロレスにおいては他の興行スポーツ格闘技などとは比較にならないほど細かい部分にメッセージが込められていることが多い。レスラーが自らのイデオロギーを入場時のテーマ曲コスチューム、ひとつひとつのパフォーマンスあるいはアピール、試合中の技のひとつひとつ、マイクパフォーマンスなどに込めることで、自らのキャラクタを作り上げていくのである。プロレスファンは自らの知識と想像力で、「この部分、この変化にはどんな意味が込められているのか」を考えながら楽しむのである。

台本(ブック)

ブックとはプロレスの試合における段取りや勝敗の付け方についての台本のこと。この台本を考える人間を「ブッカー」または「マッチメイカー」と呼ぶ(ただしbookerのbookは「出演契約を取る」という意味のbookであり、「脚本家」という意味ではない)。ブッカーは試合展開や決着方法についての台本を考え、レスラーはそれに合わせた試合を行う。勝敗以外の詳細な試合展開については、試合を行うもの同士の裁量に任されることが多いと言われる。

基本的にブックは当事者以外には知らされないとされているが、音響・撮影スタッフに伝達されることがある。インターネットオークションZERO-ONEの興行「ZERO-ONE USA」の進行用台本が出品されることがあった。日本では、FEG全日本プロレスが中心になって開催されたイベント、「WRESTLE-1」において、小島聡の叫び声と同じ言葉「いっちゃうぞバカヤロー」が電光掲示板に表示され、レスラーと会場スタッフ間での段取り決めがあることを示した。また、日本の週刊誌(アサヒ芸能)が、「ハッスル2」の会場スタッフ用台本を誌面に掲載したことがあり、それには勝者用のテーマ音楽についてなどの指示が記載されていた。

WWEの内幕を描いたドキュメンタリー映画『BEYOND THE MAT』では、ザ・ロックミック・フォーリーが場外乱闘時の観客席の移動ルートや、パイプ椅子での殴打回数などを打合せするシーンが見られる。またWWEは税制上の理由(スポーツよりショービジネスとして登録する方が税金保険料が低くなる)から台本の存在を公言した。また、所属レスラーが死亡した際に、物語上で対立していたレスラーが「対立はあくまでもエンターテインメントであり、リング外では家族の様な関係であった」と自身のWebサイトで弔意コメントを出した。

日本の場合は団体自らが台本の存在を公言したことは無い。芸能人タレントも試合を行うハッスルの様に「エンターテインメント」をキャッチコピーとして用いる団体は存在する。日本のプロレスで台本の存在が公になったのは法廷である。大仁田厚渡辺幸正の試合終了後の乱闘で渡辺が負傷したことについての裁判では、東京地方裁判所が「通常のプロレス興行で、事前の打ち合わせ無しに相手に攻撃を仕掛けることは許容されておらず、観客に見せるプロレス興行としては異質の暴行」との裁判例を示した。また、女子プロレス(アルシオン)でもアジャ・コングロッシー小川(小川宏)社長間の名誉毀損や肖像権をめぐる裁判で、台本の存在を認定した上で判決が行われた。

裁判以外でも、個人が日本の団体における台本の存在を明かすことはある。

マット・モーガンが海外でのインタビューで、新日本プロレスで永田裕志と試合を行った時、フィニッシュ(決着を付ける技)だけは前もって説明が必要であったが、それ以外は話すことなく試合をさせてくれるので自由で良い団体だ、と語った。近年多く出版されるプロレス内情暴露本では新日本のOBレスラーが、昔は台本はあってもそれ以外の部分は必死に闘っていたのに、今のレスラーは必死さが足りないと嘆く形で、存在が明示された。

台本の存在や取り決め方は新日本プロレスレフェリーであった、ミスター高橋が自著で詳しく述べている。また、プロレスの台本の存在をトリックに組み込んだミステリー小説『マッチメイク』が江戸川乱歩賞を受賞した。

新日本プロレスで行われた異種格闘技戦も台本が存在したとミスター高橋は著書で述べている。代表的なものとして、柔道メダリストのウィレム・ルスカとアントニオ猪木が試合をした場合も、ルスカはプロレス技を数多く受ける台本を打ち合わせの時点で了承していたと述べた。

金子達仁による高田延彦を扱った書籍『泣き虫』において、高田が台本の存在を明示している記述がある。

ただし、個人が台本の存在を明示することはあっても、全ての団体・全ての試合に台本があるという証明がされているわけではないので、その点においては理解が必要である。

ラジオ番組ANNで、ゲスト出演した構成作家が某女子プロレス団体でも仕事を行ってると発言した。

アングル

試合以外にも、リング外での選手・グループ・団体間の衝突(主に抗争、と表現される)のアングルと呼ばれるストーリー展開も重要な要素であるいかに観客の注目を集め、継続性の強いアングルを展開出来るかが、観客動員に大きく影響する。

アングルを巡業(シリーズ)を通じて展開・消化し、最終戦において(大会場で開催され、テレビ放送ではペイ・パー・ビューとなる場合が多い)決着を着ける。そして新しいアングルを展開する。プロレスは試合とアングルを楽しむものであり、連続ドラマと類似している。

インディーと呼ばれる小規模団体・プロモーションもアングルの展開はあるが大手団体と異なり、専門誌以外でのメディア露出度が低いため、一見の観客には理解しにくいことが多い。また、学生プロレスやアマチュアプロレスではアングルはほとんど無く、ギミック(詳細は後述)や試合で楽しませることが中心である。

ギミック

特に20世紀中期以降のアメリカ合衆国のプロレスなどの場合、選手には一定のキャラクターギミックが要求された。特定の人物が悪役(ヒール)として振る舞う。悪役は反則するのが当たり前で、審判の目を盗み、あるいはその制止をも無視して反則技を振るい、客の正義感を沸き立たせる。大半は最後に敗北し、客は溜飲を下げるが、場合によっては反則攻撃などの汚い手段で勝利・反則負けをする。悪役が勝っても反則負けをしても、次回の試合への客の関心を集める役を果たす。これに対して、正義漢・善玉の役割を演じるのをベビーフェイスという。やられ役が負けることをジョブという。

特にアメリカのプロレスではその面が顕著で、日本でも昭和期のプロレスにはその色が強かった[1] 。悪役は往々にしてステレオタイプな嫌われ者を体現し、特に外国選手では、人種的民族的偏見を明確に示す場合があった。第二次大戦後のアメリカでの日本人プロレスラーは、背が低く、目は細く、刈り上げで小太り、黒タイツに下駄を履いている。試合開始を待たずに奇襲攻撃し、下駄を凶器として使用し、最後は負けて土下座をする、など。現在でもWWEを初めとしてギミックレスラーは存在している。ギミックはレスラーが考えることもあれば、団体から提示されるものもある。

またギミックは、世相が反映される場合が多い。特にアメリカではその傾向が強く、米ソ冷戦時代はロシア出身を名乗るレスラーが多数いたり、湾岸戦争時にはサダム・フセインの側近を名乗ることで観客のヒート(興奮)を買う、といったことが繰り返された。

スポーツ的側面

ショー的側面、そして総合格闘技の隆盛によりプロレスを「八百長」「真剣勝負ではない」「格闘技とは言えない大道芸」とする声が多々あり、スポーツ的要素などは皆無だと思われがちである。 だが、スポーツという概念はジョギングエアロビクスダンスなどのように、勝敗を競わない運動も含まれている。本来プロレスは極めて激しくまた高度な技術を要求される運動であり、その運動強度は数あるスポーツの中でも屈指である。

多くの格闘技の試合は、ルール内で許されているあらゆる選択肢の中から勝利に対して最も合理的と考えるものを選択してゆくことで成立しているのに対し、プロレスの競技者はしばしば勝利から遠ざかるような選択を行う(リングアウト寸前の対戦相手をリングに戻す、対戦相手の技を回避せずに受けるなど)。プロレスは、勝敗だけではなく「いかにして観客に感動を与えるか」というエンタテイナーとしての美的課題にも同時に挑戦しなければならない、極めてユニークなアスリートなのである。

試合を生み出す為の方法論として広く知られているのが「受け(bump)」である。プロレスの競技者は相手の攻撃を敢えて「受け」る。「受け」は、攻撃側の技術の完成度や威力、物語などを観客に享受させる最も有効な手段なのであり、プロレスの競技者はお互いの攻撃を「受け」あうことで、観客の美的関心を満足させてゆく。また「受け」はそれ自体が極めて過酷な運動でもあり、「受け」の質および量に秀でた競技者は、一般的に言って優秀なプロレスラーと目される。

また、プロレスは競技スポーツであると同時に舞台演劇でもあるため、そのどちらの要素をどれだけ重視するかによって、試合/作品に幅広いバリエーションを持たせることが出来る。その一方には小川直也橋本真也のような「シュート」(演劇的要素を無視した試合)から、反対に「ハッスル」の試合のような「ケーフェイ」(筋書きが予め決められている演劇作品)があり、プロレスとは「プロレスという競技過程を見せる、極めて特異なジャンルのエンタテイメント・プロスポーツ(観客がいて初めて成り立つスポーツ)」とされる。実際リング上などにおける怪我で死者や、障害、後遺症を持った選手も出ており、非常に危険なショー・エンタテイメントである。

特殊世界

  • この業界は「一旦退団した団体に復帰する」、「引退した後現役に復帰」といった例を初めとして、離合集散が多い。長州力の2度にわたる新日本マット復帰は、一般企業ではあまり例の見られないケースである。
  • 「絶対」という言葉の信用性が無い世界である。ジャイアント馬場の生存時は、馬場自身嘘が嫌いだった事もあり、その言葉には信用性があった(馬場は全日本を退団した日本人選手は絶対に再び全日本マットに上げる事はなかった)。しかし馬場が亡くなってからは、プロレス界におけるその言葉の信用性は完全に崩れさり、これまで絶対にありえないと言われていた事が、数年後には時代の変化とともに現実になったという事が多々ある。また、「絶縁」(団体、或いは選手個人に対して)という言葉も多い世界だが、それも過去の歴史を振り返れば、数年後にはどうなっているかわからない。WWEのストーリー上では「決して〜ない、ということはない」の意味で「Never say never」が使われたこともある。
    • 馬場が最後まで認めなかった天龍源一郎の全日本マット復帰が馬場死去後僅か1年半で実現。
    • 新日本と全日本の対抗戦が実現。川田利明が新日本マットに参戦し、当時の新日本トップ佐々木健介と対戦。
    • 三沢光晴小川直也の禁断のタッグマッチ。
    • 武藤敬司の全日本プロレス社長就任。
    • NOAHを立ち上げ、絶対に二度と無いと思われていた三沢の4年ぶりの古巣全日本参戦(三沢自身も全日本離脱時「もう二度と無い。馬場さんが生きていたら別だけど」とコメントしていた)。

用語の特殊性

日本のプロレスにおいては、企業経営で用いられる言葉を、他の表現に言い換えることが多い。以下はその代表例。また、日本のプロレスのビジネスモデルの基盤を成立させた力道山が相撲取り出身だったため、隠語は相撲と共通するものが多い。

団体
プロレスラーあるいは他のスタッフと契約し、興行を行う一般では興行会社と呼ばれるものをプロレスではこう称する。レスラーが所属せず興行ごとに要員を契約する会社を、「プロモーション」と呼ぶ場合もある。道場(練習施設)を自社保有していれば団体と呼べる、と指摘されることもあるが、厳密に団体・プロモーションを分ける基準は無い。そのため、数人程度の所属選手とフロントのみで、練習は他団体の道場やジムで行っている興行会社であっても「団体」を自称する興行会社は多い。
規模によってメジャーあるいはインディーと分類される(詳細は後述)。また、地方興行において、団体から興行権を買って興行を行い、事業収入を得る法人は「プロモーター」と呼ばれる。
旗揚げ
前述の興行会社が登記、開業することを指す。開業後に初めて行われる興行は「旗揚げ戦」と呼ばれる。
参戦
業務提携により、興行会社間でレスラーを人材派遣する場合に用いる表現。レフェリーなどその他裏方と呼ばれる人材も派遣する場合があるが、参戦という表現は用いられない。
メジャー/インディー
プロレス団体は、メジャー(ないしはインディー)団体と表現される場合がある。規模の大きさに依存する概念である。海外の場合WWEは株式上場しているが、現在のところ日本では上場している団体は無い(2006年9月に大阪プロレスが株式を公開し、将来的に上場するという予定を発表している)。基本的に独立系興行会社であり、いわゆる「メジャー団体」であっても、日本の場合は社員数が50名弱ほどの規模であり一般的な基準から言えば、一般的な大手芸能プロダクションや興行事務所と同じように中小企業にしか過ぎない。そのため、日本においては中小企業をメジャー、それ以下の零細企業をインディーと区別していることになる。運営規模から総じて地域密着型の団体が多く、所属レスラーもメジャー団体に比べて小柄なレスラーが多い。規模や旗揚げの経緯からメジャーにもインディーにも括りきれない団体(パンクラスZERO1-MAXなど)は「準メジャー」「ボーダー」と表現される事もある。
メジャー/インディーの区分の基準には団体規模以外にも以下のものを提唱する人間が一部いる。
  • 地上波テレビ中継の有無
  • 全国規模の巡業
  • 団体または関連会社が管理する道場(寮とリング他練習用具が一体となった施設)の有無
かつては小規模団体は自前でリングを持たないため、練習は他団体の施設を空き時間に借り、興行ではリング屋から賃貸することが多かったが、近年は小規模団体でも練習設備が充実している団体が多い事から現在使用される事はほとんどない。
X(エックス)
試合カードが『くろまるくろまる vs X(エックス)』という形で発表されることがある。この「X」とは「出場者未定」の意味。詳細はX (プロレス)の項を参照。

団体/プロモーション

日本の団体/プロモーション

現存する団体(男子)

消滅または休止している団体(男子)

現存する団体(女子)

(注記)女男混合団体は『現存する団体(男子)』参照

消滅または休止している団体(女子)

(注記)女男混合団体は『消滅または休止している団体(男子)』参照

現存するプロモーション

アメリカ合衆国の団体

カナダの団体

ヨーロッパの団体/プロモーション

メキシコ(ルチャリブレ)の団体/プロモーション

プロレスを題材としたフィクション作品

小説

漫画・アニメ

実写作品

ゲーム

詳細は「:Category:プロレスゲーム」を参照

  1. ^ なお、ギミックはプロレスに限った話ではなく、例えばボクシングの「亀田三兄弟」など、格闘技においてもギミックと理解出来るユニットが登場している。

関連項目

外部リンク

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