永山則夫
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永山 則夫(ながやま のりお、1949年 6月27日 - 1997年 8月1日)は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件)を引き起こした元死刑囚である。
1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞。
生い立ち
1949年 6月27日、北海道 網走市呼人番外地に、8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれる。博打に明け暮れる父親の放蕩生活によって、家庭は崩壊状態であり、現在で言うところのネグレクトの犠牲者であった。1954年(当時5歳)に、母親が則夫を含む4人兄弟を網走の家に残し、青森県 板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。残された則夫を含む4人兄弟は屑拾いなど極貧生活に耐えてギリギリの生計を立てたものの、1955年に、4人を見かねた近隣住民による福祉事務所への通報をきっかけに、板柳の母親の元に引き取られた。
1965年3月、板柳から東京に集団就職する。上京後は職を転々とし、どこも長続きしなかった。
連続射殺事件
米軍宿舎から盗んだピストルで、1968年10月から1969年4月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、いわゆる「連続ピストル射殺事件」(広域重要指定108号事件)を引き起こす。永山は1965年に起こった少年ライフル魔事件の現場至近で働いていたためにこの事件を目撃しており、これに刺激された犯行ではないかという見方もある。
1969年4月(当時19歳10ヶ月)に東京で逮捕された。1979年に東京地方裁判所で死刑判決。1981年に東京高等裁判所で無期懲役に一旦は減刑されるが、1990年に最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟たちは凶悪犯罪を犯していない」として死刑判決が確定する。
この判決では死刑を宣告する基準(永山基準)が示された。
作家として
獄中で、読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を開始し、1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表した。この印税は4人の被害者遺族へ支払われ、そのことが1981年の高等裁判所判決において情状の一つとして考慮され、無期懲役への減刑につながった(のち差し戻し審で死刑判決、最高裁による上告棄却により90年に死刑確定)。
1983年には小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞した。1990年には、秋山駿と加賀乙彦の推薦を受けて日本文藝家協会への入会を申し込むが、協会の理事会にて佐伯彰一、杉森久英など理事の一部が、永山が殺人事件の刑事被告人であるため入会させてはならないと反対した結果、入会が認められず、それに抗議した中上健次、筒井康隆、柄谷行人が、日本文藝家協会から脱会するという出来事も起こった。その一方で、1996年、ドイツ・ザール州作家同盟への正式入会を果たしている。
獄中から手記や短歌を自ら発表する死刑囚は多い。しかし、自らの罪を認める一方で、自己の行動を客観的にふりかえるという手法で創作活動を行い、文壇において一定の地位を獲得するまでに至った永山は、死刑囚としては珍しい存在といえる。
処刑後
1997年 8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行された。享年48。全国新聞はいずれも当日の夕刊の第一面で報道。
生前、永山は知人に「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていた。実際に処刑の際、永山が激しく抵抗したとする複数の証言がある[1] 。このため、永山の死体は拘置所内で即座に火葬されたと言われている[2] 。
永山の死刑執行については、執行同年6月28日に逮捕された神戸連続児童殺傷事件の犯人が少年(当時14歳11ヶ月)であったことが、少なからず影響したとの見方も根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発が高まる中、未成年で犯罪を起こし死刑囚となった永山を処刑する事で、その反発を和らげようとしたのではないか、とマスコミは取り上げた[3] 。
永山の告別式は東京都 文京区の林泉寺で行われ、喪主は東京高等裁判所における差戻審、差戻後上告審で弁護人を担当した遠藤誠 弁護士が務めた。永山の遺言により、遺灰は故郷の海であるオホーツク海に、遠藤の手によって散布された。
死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。
主な作品
- 手記
- 『無知の涙』(1971年)
- 『人民をわすれたカナリアたち』(1971年)
- 『愛か-無か』(1973年)
- 『動揺記1』(1973年)
- 『反-寺山修司論』(1977年)
- 小説集
- 『木橋』(1984年)- 第19回新日本文学賞受賞作品
- 『捨て子ごっこ』(1987年)
- 『なぜか、海』(1989年)
- 『異水』(1990年)
- 小説
- 『ソオ連の旅芸人』(1986年)
- 『死刑の涙』(1988年)
- 『華』(1997年)
永山則夫を扱った映画・ドラマ
脚注
- ^ 一例として大道寺将司『死刑確定中』太田出版、1997年12月、ISBN 4872333667 の、「九時前ごろだったか。隣の舎棟から絶叫が聞こえました。抗議の声のようだった。すぐにくぐもったものになって聞こえなくなったので......案じていました」がある。
- ^ 永山子ども基金編『ある遺言のゆくえ 死刑囚永山則夫がのこしたもの』東京シューレ出版、p.25など
- ^ 永山の身元引受人である井戸秋子は、「酒鬼薔薇事件(神戸連続児童殺傷事件)の犯人が少年だったと知ったとき、とっさに永山さんがやられるんじゃないかと思った」と述べている。永山よりも先に死刑が確定した死刑囚は多数存在する。
関連項目
- 永山則夫連続射殺事件
- 島秋人(元死刑囚の歌人)
- 佐木隆三(殺人犯に関する著作が多い作家)