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東海散士

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柴 四朗
しば しろう
生年月日 1853年 1月11日(嘉永5年12月2日)
出生地 江戸幕府上総国 会津藩陣屋
没年月日 (1922年09月25日) 1922年 9月25日(69歳没)
死没地 日本の旗 日本静岡県 熱海
出身校 日新館
ペンシルベニア大学 ウォートン・スクール
前職 政治小説家
所属政党 立憲革新党 進歩党憲政本党立憲同志会大同倶楽部


内閣 第1次大隈内閣
在任期間 1898年 7月5日 - 1898年11月8日

内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1915年 10月30日 - 1916年 10月9日
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東海 散士(とうかい さんし、1853年 1月11日(嘉永5年12月2日) - 1922年(大正11年)9月25日)は、旧会津藩臣(白虎隊士)で、明治から大正にかけての小説家政治家。本名は柴 四朗(しば しろう)。財務学士陸軍大将 柴五郎は実弟。

生涯

会津藩士で御物頭格役黒紐(280石)であった柴佐多蔵繁吉(1812–1882)と妻フジの四男(第8子)として、上総国 富津の会津藩陣屋(弘化4年から嘉永7年まで会津藩が富津台場の警備を担当[1] )に生まれる。幼名は茂四朗。幼少期より病弱であったが文才に恵まれていたという。[2]

会津戦争

藩士子弟の通例に従い数え10歳より藩校 日新館小笠原午橋南摩綱紀に随い漢学を修め[3] 、大学部を経たのち上洛。慶応4年初めの鳥羽・伏見の戦いには父・兄とともに出陣、5ヶ月後の会津戦争では白虎隊に配属されたが、途中で病のため籠城組となり生き残った[2] 。ただし、柴家の女性5名(祖母・母・兄嫁・姉妹ら)は、足手纏いとなることを避けるために私邸で自刃に及んだ[2] 。なお、籠城戦をくぐり抜けた同年代の後輩には、山川健次郎高嶺秀夫井深梶之助高木盛之輔赤羽四郎山際永吾らがいた。

英学修業と西南戦争従軍

降伏開城後は諸士とともに猪苗代謹慎所、次いで東京の護国寺に移送された。明治3年(1870年)の赦免後は移封先の斗南藩(旧盛岡藩領内に設置)へ移住し、藩設置の英学校に通ったが、まもなく上京。沼間守一の私塾や山東直砥北門社などで英学を学び、横浜在住英国人の書生を経て、斗南へ戻り広沢安任経営の牧場で英国人技師の通訳兼案内役として働き、実家では開墾に従事。その後、函館・弘前(東奥義塾)・会津へと転々とした末、再び上京。長兄太一郎の周旋で唐通事出身の横浜税関柳谷謙太郎(1847–1923)の書生となり、新暦 1875年(明治8年)より3年間学資援助をうけて学業に専念するとともに、東京日日新聞などへの寄稿で言論活動にも手を染めた。[2] [4]

1877年(明治10年)に西南戦争が勃発すると、旧会津藩士が多く属した別働第二旅団に従軍、旅団御用掛を務め、平定後は翌年末まで同旅団の戦記編纂に従事した[3] 。この際、熊本鎮台司令長官谷干城に見出され、さらに谷を通して豊川良平(岩崎弥太郎の従兄弟)との知遇を得、岩崎家の援助を受けて27歳で1879年(明治12年)1月よりアメリカへの留学を果たした[2]

アメリカ留学

渡航後は当時柳谷が領事として駐在していたサンフランシスコにおいて、岩崎家の意向からパシフィック・ビジネス・カレッジ(商業専門学校)に通いディプロマ(修了証書)を取得[5] 。さらに東海岸へ移ってマサチューセッツ州のハーバード大学で短期間ながら政治経済学を学んだ後、フィラデルフィアへ移り、全米初のビジネススクールとして同年に設立されたペンシルベニア大学 ウォートン校(Wharton School of Finance and Economy)にSpecial Student(特別生)として籍を置き、1884年(明治17年)6月に第1期卒業生としてBachelor of Finance(財務学士)の学位を取得[5] [6] 。柴の論文「Taxation in Japan」は同校の政治科学年報創刊号に掲載・紹介された[7]

『佳人之奇遇』の出版

1885年(明治18年)初めの帰国後、保護主義を旨とする当時のアメリカ流の経済学を専修した立場から、柴は同年6月に、保護貿易主義を標榜する学術団体「日本経済会」の創立に参加、柳谷謙太郎・若山儀一犬養毅和田垣謙三とともに事務委員に選定された[8] 。さらに同年10月には、持論である「国権伸長」論を基調とするナショナリズム小説『佳人之奇遇』初編を東海散士の筆名で発表(以後1897年までに全8編16巻を刊行)。同書は矢野龍渓経国美談』、末広鉄腸雪中梅』とともに自由民権運動期より人気を博した政治小説の代表作に数えられている。

農商務大臣秘書官として洋行

1886年(明治19年)2月、外務省から転じた柳谷とともに初代農商務大臣谷干城の秘書官に任命され[9] 、さらに谷大臣のヨーロッパ派遣への随行を被命[10] 。同年3月からの15か月間の洋行で、柴はエジプトフランススイスオーストリア=ハンガリードイツトルコギリシャイタリア英国・アメリカを訪問する機会に恵まれた[11]

また、途中寄航した英領セイロン島では流刑中のエジプトの軍人革命家 アフマド・オラービー、イタリアのトリノではハンガリーの亡命革命家コシュート・ラヨシュと面会し、後に『佳人之奇遇』続編に彼らを登場させた[12] 1887年(明治20年)6月の帰国直後、欧化主義から国粋主義に転じた谷大臣が条約改正案に反対して井上馨外相と対立、7月26日に辞職[13] すると、柴も30日に辞表を提出した[14]

言論人・代議士として

1888年(明治21年)11月には大阪毎日新聞の主筆として迎えられた(翌年5月迄)[15] [16] 。この前後より後藤象二郎らによる大同団結運動に参加するなど言論・政治活動を活発化させ、1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では福島県第4区から立候補し初当選。以後、福島県選出の代議士として活動し、計10回当選(立憲革新党進歩党憲政党憲政本党大同倶楽部立憲同志会憲政会に所属)。この間、鉄道会議議員(1895年)、農商務次官(1898年:隈板内閣)、教科用図書調査委員会委員(1908年)、議院建築準備委員会委員(1910年)、広軌鉄道改築準備委員会委員(1911年)、外務参政官・外務省所轄事務政府委員(1915-16年:第2次大隈内閣)などを歴任した。

また、1900年(明治33年)5月、山川健次郎・今泉六郎らとともに「会津図書館共立会」を設立し、会津若松に図書館を建設する運動を展開した[17] (若松市会津図書館として1904年2月開館[18] )。

閔妃暗殺事件

この間、柴は日清戦争後に駐 特命全権公使に任命された三浦梧楼の顧問として渡韓、1895年(明治38年)10月に三浦らが漢城で惹き起こした乙未事変(閔妃暗殺事件)により、事件に関与した容疑者の一人として広島監獄署に勾留、予審取調を受けたが事件との関係自体が証拠不十分とされ、翌年1月に予審免訴となった[19] [20]

家族・晩年

1901年(明治34年)12月、水田新太郎の次男・守明(1895年生)を養嗣子として迎え、1909年(明治42年)10月には深川芸者であったとされるキク(慶応元年生)と婚姻、キクにも養子庄作がおり、ともに入籍した[21]

政界引退後は、悠々自適の生活を送り、1922年(大正11年)9月、熱海の山荘で脳溢血により死去(享年71・満69歳没)[21] 。墓所は柴家の菩提寺である恵倫寺(会津若松市)。熱海市の海蔵寺には東海散士墓碑が所在。

著作

  • 佳人之奇遇(柴四朗、1885–1897年)
  • 東洋之佳人(博文堂、1888年)
  • 埃及近世史(柴四朗、1889年)
  • 広沢牧老人遺稿:経済問題に付要旨を述ふ(柴四朗編刊、1891年)
  • 日露戦争 羽川六郎(有朋館、1903年)
  • 世界盲人列伝(柴守明、1932年)

栄典

外国勲章佩用允許

脚注

  1. ^ 岡山大学池田家文庫・絵図公開データベースシステム「上総国富津台場之絵図 会津藩請持」説明参照。
  2. ^ a b c d e 上野格「東海散士(柴四朗)の蔵書」
  3. ^ a b 国立公文書館所蔵・柴四朗履歴書より
  4. ^ 高井多佳子「柴四朗の言論活動」
  5. ^ a b 戸田徹子「フィラデルフィアにおける柴四朗」
  6. ^ University of Pennsylvania: Catalogue and Announcements 1884-1885, Philadelphia: printed for the University, 1885, p.120,126. なお、同期のBachelor of Finance 取得者は柴を含め5名、そのうち1名にSecond Class Honors、柴を含む2名にThird Class Honorsが授与された。
  7. ^ The Wharton School Annals of Political Science. No.1. March, 1885, Philadelphia: Wharton School of Finance and Economy, University of Pennsylvania, pp.86-101.
  8. ^ 三島憲之「日本経済会の設立と背景」『東北公益文科大学総合研究論集 : forum21』8号、2004年
  9. ^ 『官報』1886年2月12日「叙任」
  10. ^ 『官報』1886年2月20日「官庁事項」
  11. ^ 農商務省編刊『欧米巡回取調書一 総覧』1888年、55-58頁
  12. ^ 高井多佳子「『佳人之奇遇』を読む」
  13. ^ 『官報』1887年7月26日・号外
  14. ^ 『官報』1887年8月1日「辞令」
  15. ^ 大阪毎日新聞社・東京日日新聞社共編『毎日年鑑』1931年、213頁「大阪毎日新聞五十年」
  16. ^ 高井多佳子「柴四朗の「国粋保存主義」」
  17. ^ 寄川 2015, p. 37, 49.
  18. ^ 寄川 2015, p. 50.
  19. ^ 宮崎十三八『手作り会津史』より「伊豆熱海の柴四朗」
  20. ^ 1896年1月23日付時事新報記事(『新聞集成明治編年史』第九卷、林泉社、1940年、361-362頁)
  21. ^ a b 昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書』21巻、345頁
  22. ^ 『官報』1886年7月12日「叙任及辞令」
  23. ^ 『官報』1898年8月5日「叙任及辞令」
  24. ^ 『官報』1907年9月23日「叙任及辞令」
  25. ^ 『官報』1916年8月21日「叙任及辞令」
  26. ^ 『官報』1890年2月17日「叙任及辞令」

参考文献

  • 国立公文書館所蔵「農商務権大書記官柳谷謙太郎外一名農商務大臣秘書官ニ被任ノ件」添付の柴四朗履歴書(明治19年2月10日)。
  • 昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書』21巻(饗庭篁村・宮崎湖処子・大口鯛二・東海散士)、1964年。
  • 宮崎十三八『手作り会津史』歴史春秋社、1996年。
  • 上野格「東海散士(柴四朗)の蔵書―明治初期経済学導入史の一齣」『成城大学經濟研究』55-56合併号、223-249頁、1976年12月。
  • 高井多佳子「『佳人之奇遇』を読む―小説と現実の「時差」」京都女子大学史学研究室『史窓』58号、2001年。
  • 高井多佳子「柴四朗の「国粋保存主義」―『大阪毎日新聞』主筆就任から退社まで」京都女子大学大学院文学研究科研究紀要・史学編1号、2002年。
  • 高井多佳子「柴四朗の言論活動―政治と思想の実践」京都女子大学大学院文学研究科研究紀要・史学編8号、2009年。
  • 戸田徹子「フィラデルフィアにおける柴四朗―日米交流の起点として」山梨県立大学国際政策学部『山梨国際研究』9号、2014年。
  • 寄川条路「今泉六郎寄贈図書(洋書)の研究―日本で発見されたドイツの哲学者の自筆本をめぐって」『明治学院大学教養教育センター紀要 カルチュール』第9巻第1号、2015年3月24日、31-54頁、NAID 120005603059 

関連文献

  • 榊時敏編『福島県名士列伝 一名衆議院議員候補者略伝(前編)』福島活版舎、1890年。
  • 柳田泉『明治文学叢刊 政治小説研究 上』春秋社・松柏館、1935年(『佳人之奇遇』と東海散士)。
  • 井上弘『近代文学成立過程の研究―柳北・学海・東海散士・蘇峰』有朋堂、1995年。
  • 鈴木明『日本畸人伝―明治・七人の侍』潮書房光人新社、2000年。
  • 大沼敏男「東海散士柴四朗略伝―人と思想」『新日本古典文学大系 明治編17 政治小説集2』岩波書店、2006年。
  • 中井けやき『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』文芸社、2008年。
  • 越智治雄「東海散士の系譜(ノート)」共立女子大学短期大学部紀要5巻、1961年(同著『近代文学成立期の研究』岩波書店・1984年所収)。
  • 高井多佳子「東海散士柴四朗の政治思想―政治小説『佳人之奇遇』発刊以前」京都女子大学史学会『史窓』56号、1999年。
  • 高井多佳子「柴四朗の国権論―『佳人之奇遇』における「自由」」京都女子大学史学研究室『史窓』60号、2003年。
  • 高井多佳子「『東京電報』における柴四朗―高島炭坑視察実記」京都女子大学大学院文学研究科研究紀要・史学編2号、2003年。
  • 熊谷昭宏「飛行と〈未来〉の日露戦争―東海散士『日露戦争羽川六郎』を中心に」同志社大学国文学会『同志社國文学』61号、2004年。

関連項目

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