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細川国豊

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細川国豊
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永正15年1月9日(1518年 2月18日)?
幕府 室町幕府 備中 守護
主君 細川高国
氏族 細川氏野州家分家(賢春流)
父母 父:細川春倶
兄弟 国豊尹賢高基、四郎左衛門佐[1]
細川九郎二郎?
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細川 国豊(ほそかわ くにとよ)は、戦国時代武将細川備中守護家当主。

概要

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永正年間の後半に成立したと考えられる『不問物語』に「今ハ備中大守也」とあり、永正12年(1515年)に自殺した細川九郎二郎、あるいは病死した細川政春の跡を継いで備中守護に就任したとされる[2]

馬部隆弘は、細川澄元の兄で文亀3年(1503年)5月以降に備中守護であった細川之持に対抗するために、細川高国永正12年(1515年)以前に国豊を備中守護として送り込んでいたとする[3]

永正15年(1518年)1月に病没した。後継者には細川通董がいるが、関係性は不明。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 岡田謙一「細川右馬頭尹賢小考」、阿部猛編『中世政治史の研究』(日本史史料研究会企画部、2010年)
  2. ^ 畑和良「細川通董の野州家相続とその背景」『倉敷の歴史 22』 p.11〜28(倉敷市総務局総務部総務課、2012年3月)
  3. ^ 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)

関連項目

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