コンテンツにスキップ
Wikipedia

小笠原長恭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2024年8月10日 (土) 05:01; 2400:4053:2042:db00:c156:1c29:31f5:b6a5 (会話) による版(日時は個人設定で未設定ならUTC)

2400:4053:2042:db00:c156:1c29:31f5:b6a5 (会話)による2024年8月10日 (土) 05:01時点の版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
曖昧さ回避 小笠原長之」とは別人です。
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"小笠原長恭" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2017年3月)
 
小笠原長恭
時代 江戸時代中期
生誕 元文5年(1740年)
死没 安永5年5月29日(1776年 7月14日)
改名 土丸(幼名)、長恭
戒名 茲雲院殿本源崇徳大居士
墓所 東京都 文京区 本駒込の龍光寺
官位 従五位下 佐渡守能登守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
遠江 掛川藩主→陸奥 棚倉藩
氏族 小笠原氏
父母 小笠原長庸
兄弟 長恭、鍋姫、銀、九鬼隆貞継々室
小笠原忠基養女・永姫
長堯 長富、長英、光子
テンプレートを表示

小笠原 長恭(おがさわら ながゆき)は、江戸時代中期の大名遠江国 掛川藩3代藩主、陸奥国 棚倉藩初代藩主。官位従五位下佐渡守能登守忠知小笠原家7代。

生涯

[編集 ]

元文5年(1740年)、掛川藩2代藩主・小笠原長庸の長男として誕生。延享元年(1744年)に父が死去したため、家督を継いで掛川藩3代藩主となる。延享3年(1746年)9月25日、陸奥棚倉藩へ移封。延享4年(1747年)3月16日、日本左衛門と名乗る盗賊が、旧領掛川において賊をなしたことを白状した為、出仕を止められる。(4月6日許される)

寛延2年(1749年)2月、隣の天領 白川郡において百姓が代官を殺害するという戸塚騒動が起こると、幕命により藩軍を送って鎮圧している。藩財政が苦しかったため、殖産興業政策を推進し、特に製陶を奨励したが、棚倉鹿の子焼は長恭が創始したものとされている。

安永5年(1776年)5月29日に死去した。享年37。跡を長男の長堯が継いだ。

系譜

[編集 ]

父母

子女


小笠原家掛川藩3代藩主 (1744年 - 1746年)
久松松平家(定勝系)
安藤家
久松松平家(定綱系)
朝倉家
青山家
桜井松平家
本多家
藤井松平家
北条家
井伊家
桜井松平家
小笠原家
太田家
小笠原家棚倉藩初代藩主 (1746年 - 1776年)
立花家
丹羽家
内藤家
太田家
越智松平家
小笠原家
井上家
松井松平家
阿部家

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /