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アルグンサリ

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アルグンサリ(モンゴル語: Alγunsali1245年 - 1307年)は、13世紀末から14世紀初頭にかけてモンゴル帝国(大元ウルス)に仕えたウイグル人の一人。

元史』などの漢文 史料では阿魯渾薩理(ālǔhúnsàlǐ)と記される。

概要

アルグンサリの祖父アダイサリは天山ウイグル国王バルチュク・アルト・テギンがモンゴル帝国に降った時、チンギス・カンに仕えるようになったウイグル人であった。その息子キタイサリは経・律・論などの学問を修めて師より 「万全」 と称されるほどの知識人であった。キタイサリは1275年(至元12年)に釈教都総統・正議大夫・同知総制院事の地位を得た後、70歳で亡くなった[1]

キタイサリの次男がアルグンサリで、幼いころから聡明なことで知られた。アルグンサリはまずチベット仏教僧のパクパに学んで仏教・諸国語に通じるようになり、その後はクビライの働きかけにより経・史・百家及陰陽・曆数・図緯・方技を学んだ[2] 。様々な学問を修めたアルグンサリはその学識を見込まれ、皇太子チンキムケシクテイ(宿衛)に入り重用された[3]

1283年(至元20年)、西域僧で天象をよく知る者がいることが話題になったが、通訳をできる者がいなかった。そこで侍臣のトレ(Töre)という人物がアルグンサリを推薦し、アルグンサリは西域僧と議論して屈服させた。クビライは大いに喜び、アルグンサリを宿衛に入れて内朝に仕えさせるようになった。またある時、南宋の宗室で叛乱を起こそうとしている者がいることが問題となり、使者を派遣してこれを捕らえさせることになった。使者が出発してしまった後、アルグンサリは「反乱を起こす」という報告は妄言であって使者を派遣する必要はないと述べた。これを受けてクビライがなぜ安言と分かるのだと尋ねたところ、アルグンサリは「もし本当に叛乱の計画があるのならばどうして郡県が察知していないことがありましょうか?このことを朝廷に密告したのは、南宋宗室を仇とする者に違いありません。また江南が最初に平定された時、民はモンゴルの支配に疑心を抱いてなかなか従いませんでした。今浮言でもって無実の者を捕らえ、再び人心が揺らぐことを恐れます」と答えた。クビライはアルグンサリの意見を受け容れて再び使者を派遣したところ、アルグンサリの推察した通り叛乱の密告は偽りであったことが分かった。そこでクビライはアルグンサリに「卿の進言がなければ誤るところであった。今はただ卿を用い始めるのが遅かったことを恨んでいる」と語りかけ、以後左右に侍らせて重用するようになった[4]

1284年(至元21年)朝列大夫・左侍儀奉御とされたアルグンサリは「江南の諸老や山林の道芸の士」を採用するための「集賢館」の設立を要請した[5] 。これより先、1281年(至元18年) にサルバンの下で翰林院に属する「集賢院」が発足していたが、アルグンサリの要請によって独立した機関として改めて発足した形となる[6] 。そこで従来通りサルバンが集賢館の長官を務め、アルグンサリは~としてその次官となった[7] 1285年(至元22年)6月には嘉議大夫とされ、更に1286年(至元23年)には集賢大学士・中奉大夫の地位を得た[8] 。『元史』に記載はないが、「秘書監志」にはこの頃、地志編纂のために集められた人材の選抜にも携わっていたことが記されている[9]

1287年(至元24年)春には一度廃止された尚書省が再設置され、サンガがこれを統括するようになった。アルグンサリにはサンガとともに尚書省を統括するよう詔が下され、アルグンサリは当初固辞したものの許されず資徳大夫・尚書右丞、ついで栄禄大夫・平章政事の地位を授けられた。サンガはアフマドと同様に利己的な政策が多いことで評判が悪く、アルグンサリもしばしばサンガを批判していた[10] 。ある時、サンガは徵理司という部署を設立したが、アルグンサリは地震が起こったことを切っ掛けにこれを廃止してしまった等の逸話が知られている。その後、サンガが失脚すると同僚のアルグンサリも連座し、クビライはアルグンサリに「サンガがこのような政治を行っていたのに、卿はなぜ一言も無かったのか」と問いかけた。そこでアルグンサリは「臣はサンガの悪政について何も進言しなかったわけではありませんが、陛下が顧みて用いられなかっただけです。陛下はサンガを信任されること甚だしく、彼は臣を忌んでいました。」と述べたため、クビライもアルグンサリの意見をもっともであると認めた。サンガが刑に処されるに当たり、吏は改めてアルグンサリとの関係を問うたが、サンガは「我はアルグンサリの言葉を用いなかったためにこのような状況に至っている。彼が何に関わったというのか?」と答えた。そこで改めてアルグンサリの無罪が認められ、没収された財産も返却された。更にクビライは張九思を派遣して金帛を下賜しようとしたが、アルグンサリは辞して受け取らなかった[11]

1291年(至元28年)秋には宰相の地位を退くことを請い、あわせて太史院使も罷免された[12] 1293年(至元30年)には再び太史院使を領するようになったが、その翌年にクビライは死去してしまった。この時、クビライの有力な後継者候補として孫のカマラとテムルが注目されていた。しかし、両者の母親である裕宗太后ココジン・カトンはテムルが後継者となることを願い、アルグンサリを始め翰林・集賢・礼官を集めて礼冊を作らせた。これより前、チンキムが早世した時にクビライは新たな皇太子を定めようとしたが迷い、アルグンサリの進言を受けてテムルを皇太子に決めたとされる。しかしテムル自身も太后もこのことを知らず、またクビライの在世中にテムルがアルグンサリを招聘してもこれに応じることがなかった。また、テムルがモンゴル高原で駐屯している時には「皇太子宝」を届ける役目を担っている[13] 。テムルは即位後、アルグンサリがテムルが皇太子となるよう尽力していたことを知ると、「即位前、誰もが朕に仕えようと願ってきたが、ただアルグンサリのみがこれを断った。今になってアルグンサリこそが大臣として真にふさわしい体裁を取っていたことが分かった」と述べ、アルグンサリを諸王侯と同等に遇したいう[14]

1299年(大徳3年)に再び中書平章政事に任命されたが[15] 、1307年(大徳11年)に63歳にして亡くなった[16] 岳柱・久著・異住という3人の息子が知られている[17]

アダイサリ家

  • キチク(Kičig Yenu Inal >乞赤也奴亦納里,qǐchìyěnúyìnàlǐ)
    • アダイサリ(Atai sali >阿台薩理,ātáisàlǐ)
      • キタイサリ(Qitai sali >乞台薩理,qǐtáisàlǐ)
        • ウイグルサリ(Uyγur sali >畏吾児薩理,wèiwúérsàlǐ)
        • アルグンサリ(Alγun sali >阿魯渾薩理,ālǔhúnsàlǐ)
          • 岳柱 (yuèzhù)
            • 普達(pǔdá)
            • 荅里麻(dálǐmá)
            • 安僧(ānsēng)
            • 仁寿(rénshòu)
          • 久著(jiǔzhù)
          • 異住(yìzhù)
        • タブガチュサリ(Tabγaču sali >島瓦赤薩理,dǎowǎchìsàlǐ)

脚注

  1. ^ 『元史』巻130列伝17阿魯渾薩理伝「阿魯渾薩理、畏兀人。祖阿台薩理、当太祖定西域還時、因従至燕。会畏兀国王亦都護請于朝、尽帰其民、詔許之、遂復西還。精仏氏学。生乞台薩理、襲先業、通経・律・論。業既成、師名之曰万全。至元十二年、入為釈教都総統、拝正議大夫・同知総制院事、加資徳大夫・統制使。年七十卒」
  2. ^ 櫻井2000,135頁
  3. ^ 『元史』巻130列伝17阿魯渾薩理伝「子三人長曰畏吾児薩理、累官資徳大夫・中書右丞・行泉府太卿;季曰島瓦赤薩理;阿魯渾薩理其中子也、以父字為全氏、幼聡慧、受業於国師八哈思巴、既通其学、且解諸国語。世祖聞其材、俾習中国之学、於是経・史・百家及陰陽・曆数・図緯・方技之説皆通習之。後事裕宗、入宿衛、深見器重」
  4. ^ 『元史』巻130列伝17阿魯渾薩理伝「至元二十年、有西域僧自言能知天象、訳者皆莫能通其説。帝問左右、誰可使者。侍臣脱烈対曰『阿魯渾薩理可』。即召与論難、僧大屈服、帝悦、令宿衛内朝。会有江南人言宋宗室反者、命遣使捕至闕下。使已発、阿魯渾薩理趣入諫曰『言者必妄、使不可遣』。帝曰『卿何以言之』。対曰『若果反、郡県何以不知。言者不由郡県、而言之闕庭、必其仇也。且江南初定、民疑未附、一旦以小民浮言輒捕之、恐人人自危、徒中言者之計』。帝悟、立召使者還、俾械繁言者下郡治之、言者立伏、果以嘗貸銭不従誣之。帝曰『非卿言、幾誤、但恨用卿晚耳』。自是命日侍左右」
  5. ^ なお、従来の「集賢院」でなく「集賢館」の名称を用いたのは、単に人材収集を任務とするのではなく、招集した人材を住まわせる施設を設立・維持することも想定されたためと考えられる(櫻井2000,139頁)
  6. ^ 櫻井2000,133頁
  7. ^ 櫻井2000,134頁
  8. ^ 『元史』巻130列伝17阿魯渾薩理伝「二十一年、擢朝列大夫・左侍儀奉御。遂勧帝治天下必用儒術、宜招致山沢道藝之士、以備任使。帝嘉納之、遣使求賢、置集賢舘以待之。秋九月、命領舘事、阿魯渾薩理曰『陛下初置集賢以待士、宜擇重望大臣領之、以新観聴』。請以司徒撒里蛮領其事、帝従之。仍以阿魯渾薩理為中順大夫・集賢舘学士、兼太史院事、仍兼左侍儀奉御。士之応詔者、尽命舘穀之、凡飲食供帳、車服之盛、皆喜過望。其弗称旨者、亦請加賚而遣之。有官於宣徽者、欲陰敗其事、故盛陳所給廩餼於内前、冀帝見之。帝果過而問焉、対曰『此一士之日給也』。帝怒曰『汝欲使朕見而損之乎。十倍此以待天下士、猶恐不至、況欲損之、誰肯至者』。阿魯渾薩理又言於帝曰『国学人材之本、立国子監、置博士弟子員、宜優其廩餼、使学者日盛』。従之。二十二年夏六月、遷嘉議大夫。二十三年、進集賢大学士・中奉大夫」
  9. ^ 櫻井2000,136頁
  10. ^ 植松1997, p. 31,60.
  11. ^ 『元史』巻130列伝17阿魯渾薩理伝「二十四年春、立尚書省、桑哥用事、詔阿魯渾薩理与同視事、固辞、不許、授資徳大夫・尚書右丞、継拝栄禄大夫・平章政事。桑哥為政暴横、且進其党与。阿魯渾薩理数切諍之、久与乖剌、惟以廉正自持。桑哥奏立徵理司、理天下逋欠、使者相望於道、所在囹圄皆満、道路側目、無敢言者。会地震北京、阿魯渾薩理請罷徵理司、以塞天変。詔下之日、百姓相慶。未幾、桑哥敗、以連坐、亦籍其産。帝問『桑哥為政如此、卿何故無一言』。対曰『臣未嘗不言、顧言不用耳。陛下方信任桑哥甚、彼所忌独臣、臣数言不行、若抱柴救火、祇益其暴、不若彌縫其間、使無傷国家大本、陛下久必自悟也』。帝亦以為然、且曰『吾甚愧卿』。桑哥臨刑、吏猶以阿魯渾薩理為問、桑哥曰『我惟不用其言、故至於敗、彼何与焉』。帝益信其無罪、詔還所籍財産、仍遣張九思賜以金帛、辞不受」
  12. ^ 『元史』巻130列伝17阿魯渾薩理伝「二十八年秋、乞罷政事、并免太史院使、詔以為集賢大学士。司天劉監丞言、阿魯渾薩理在太史院時、数言国家災祥事、大不敬、請下吏治。帝大怒、以為誹謗大臣、当抵罪。阿魯渾薩理頓首謝曰『臣不佞、頼陛下天地含容之徳、雖万死莫報。然欲致言者罪、臣恐自是無為陛下言事者』。力争之、乃得釈。帝曰『卿真長者』。後雖罷政、或通夕召入論事、知無不言」
  13. ^ 吉野2009.45頁
  14. ^ 『元史』巻130列伝17阿魯渾薩理伝「三十年、復領太史院事。明年、帝崩、成宗在辺、裕宗太后命為書趣成宗入正大位、又命率翰林・集賢・礼官備礼冊命。明年春、加守司徒・集賢院使、領太史院事。初、裕宗即世、世祖欲定皇太子、未知所立、以問阿魯渾薩理、即以成宗為対、且言成宗仁孝恭儉宜立、於是大計乃決。成宗及裕宗皇后皆莫之知也。数召阿魯渾薩理不往、成宗撫軍北辺、帝遣阿魯渾薩理奉皇太子宝于成宗、乃一至其邸。及即位、語阿魯渾薩理曰『朕在潜邸、誰不願事朕者、惟卿雖召不至、今乃知卿真得大臣体』。自是召対不名、賜坐視諸侯王等。嘗語左右曰『若全平章者、真全材也、於今殆無其比』」
  15. ^ 宮2018,353頁
  16. ^ 『元史』巻130列伝17阿魯渾薩理伝「大徳三年、復拝中書平章政事。十一年、薨、年六十有三。延祐四年、贈推忠佐理翊亮功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、追封趙国公、諡文定」
  17. ^ 『元史』巻130列伝17阿魯渾薩理伝「子三人長岳柱。次久著、終翰林侍読学士。次買住、蚤卒。岳柱自有伝。阿台薩理贈保徳功臣・銀青栄禄大夫・司徒・柱国、追封趙国公、諡端愿。乞台薩理、累贈純誠守正功臣・太保・儀同三司・上柱国、追封趙国公、諡通敏」

参考文献

外部リンク

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