円明流
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円明流(えんめいりゅう)は宮本武蔵玄信が二天一流創始以前に開いた武術流派。二天一流と異なり投剣(脇差や短刀を投げる手裏剣術)など剣術以外の武術も多岐に含んでいた。
幕末まで、尾張藩、岡崎藩、龍野藩などで伝えられた。現在では名古屋市において宮本武蔵玄信が尾張滞在中に伝えたとされる正統尾張円明流が再現され伝承されている。
尾張藩に伝承された系統
尾張藩での円明流は、武蔵が寛永元年(1624年)年に尾張に立ち寄った際に教えたことに始まる。武蔵が尾張を去った後、尾張藩士の寺尾直正が教えを請うたので、武蔵は養子の竹村頼角(竹村与右衛門)を尾張藩に推薦した。竹村頼角は尾張藩で円明流を教えたことにより、尾張藩では円明流が藩の主要な剣術流派の一つになるほど盛んになり、尾張藩の支藩の高須藩にも伝わった。頼角の孫弟子にあたる左右田邦俊が、武蔵の百回忌の延享元年(1744年)に建立した「新免武蔵守玄信之碑」が、現在も愛知県 名古屋市南区の笠覆寺に残っている。
龍野藩に伝承された系統
龍野藩での円明流は、武蔵が龍野城下の円光寺に立ち寄った際に教えたことに始まる。龍野藩では幕末まで円明流が盛んであった。武蔵より円明流を学んだ多田頼祐の養子の多田祐久は広島藩に仕官し、二天一流の技法も採り入れた多田円明流を開いた。
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