コンテンツにスキップ
Wikipedia

徳川和子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。あるふぁるふぁ (会話 | 投稿記録) による 2009年5月7日 (木) 12:16 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎人物: typo)であり、現在の版 とは大きく異なる場合があります。

あるふぁるふぁ (会話 | 投稿記録)による2009年5月7日 (木) 12:16時点の版 (→‎人物: typo)

徳川 和子(とくがわ まさこ慶長12年10月4日(1607年 11月23日) - 延宝6年6月15日(1678年 8月2日))は、徳川秀忠の娘(五女)で、後水尾天皇中宮。宮中では源和子と称す。明正天皇の生母。

略歴

慶長12年(1607年)10月4日、徳川家康より将軍職を譲られた徳川秀忠正室 夫妻の間に7番目の子(5女)として江戸城 大奥で誕生する。最初の名は松姫(まつひめ)(和姫(かずひめ)とする説もある)。慶長17年(1612年)には後水尾天皇即位するが、大御所 家康は和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。入内は豊臣家との大坂の陣や元和2年(1616年)の大御所 家康の死去、後陽成院崩御などが続いたため延期された。

元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、後水尾天皇の寵愛する女官四辻与津子(お与津御寮人)が皇子賀茂宮を出産していたことが判明すると入内は問題視される。翌元和5年には秀忠自身が上洛して参内し、与津子の兄弟である四辻季継高倉嗣良を含む近臣らを配流し、与津子と所生の皇女梅宮らを宮中より追放することなどで合意した(およつ一件、お与津御寮人事件)。[1]

元和6年(1620年)6月18日に後水尾天皇女御として入内する。このときは二条城から盛大な行列を伴い、『東福門院入内図屏風』にはその様子が描かれている。元和9年(1623年)には懐妊し、同年6月には秀忠と嫡男家光将軍宣下のため上洛し、禁裏御領一万石を寄進される。同年11月19日には女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。

翌寛永元年には冊立され中宮となり、翌寛永2年9月には女二宮が誕生する。翌寛永3年には秀忠・家光が上洛し後水尾天皇二条城 行幸が行われ、和子は同年11月13日には高仁親王を出産している(早世)。寛永6年(1627年)には朝幕間で紫衣事件が発生し、同年10月8日に後水尾天皇は突然譲位し、女一宮に内親王宣下が下される。同年11月9日には院号を東福門院(とうふくもんいん)と称する。翌寛永7年(1630年)9月12日、女一宮は即位し、明正天皇となる。

寛永11年(1634年)には新将軍となった家光が上洛し、にあたる明正天皇に拝謁し東福門院の御所も訪れている。延宝6年(1678年)6月15日、没し、亡骸は京都泉涌寺月輪陵域に葬られた。

人物

家康徳川家天皇外戚とするべく皇子誕生の期待を持って和子を宮中に送り込んだ意図があったと考えられているが、出生した2男5女のうち、2皇子はすべて早世している。そのため、夫と別の女性との間に生まれた後光明天皇を養子として実娘・明正天皇の後継者とし、夫と徳川家双方の面目を立てた。その他、気が強い夫・後水尾天皇天皇家を押さえつけようとする幕府の間を取り持つことに奔走する気苦労の多い生涯であった。修学院離宮を建てた費用の大半が和子の要請により幕府から捻出された物とされる。また、後光明天皇崩御直後にその弟の後西天皇即位を渋る(後西天皇が仙台藩主 伊達綱宗の従兄弟であったため)幕府を説得して即位を実現させたのも彼女の尽力によるとされる。

夫・後水尾天皇は後に寛永文化といわれる様々な文芸芸術の振興に尽くしたことで知られるが、妻の和子自身もかなりのセンスの持ち主であった。茶道を好み、千利休の孫である千宗旦を御所に招き茶事を行い、茶道具に好み物も多く、野々村仁清に焼かせた長耳付水指(三井記念美術館所蔵)が現存する。宮中に小袖を着用する習慣を持ち込んだのは和子といわれ、尾形光琳乾山兄弟の実家である雁金屋を取り立てたとされる[2] 。和子の注文した小袖のデザインは後に年号から"寛文小袖"と言われるようになった。

また、手先が非常に器用な女性であり、特に押絵を得意とした。現在日本現存最古の押絵は和子の作成の物と言われる。また、京の文化人にとっては和子の押絵を拝領することは一種のステータスであり、現在千家では和子作の押絵を多数所蔵しているという[3]

参考文献

徳川和子が主人公の作品

徳川和子を演じた人物

脚注

  1. ^ なお上杉景勝側室 四辻氏は、与津子・季継・嗣良らの姉妹である。
  2. ^ 自分や娘、女官達の着物を自ら図案を考案した上、大量に注文した。その注文書は『雁金屋関係史料』といわれ、現在大阪市立美術館川島織物が所蔵している。ちなみにその費用は1着:500とされ、当時の大奥で定められた最高額(1着:銀300匁)を遙かに越える物であった。その費用は勿論、和子に引け目のあった幕府が負担した物である。この出費は上方町人を豊かにし、後の元禄文化の流行の元となったとされるが、江戸時代中期以降、幕府が困窮するきっかけともなった。京都国立博物館 編『花洛のモード きものの時代 Kyoto style Trends in 16th‐19th century kimono』(思文閣出版、2001年) ISBN 4-7842-1072-5 を参照。
  3. ^ 淡交社『名物裂』(淡交別冊35号)を参照。

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /