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バリーが所属した騎士団の地方支部は当時、1,500人の会員を擁していた<ref name="naw101" />。彼女は組織の中で成り上がり、まもなく地方支部の長たる、マスター・ワークマンになった<ref name="Webster" />。1885年、彼女はディストリクト・アセンブリ65の長となったが、ここには42の地方支部と9,000人以上の騎士団員が含まれていた<ref name="Women in World History, 187">{{harvp|Anonymous|2002|p=187}}</ref>。一年後に彼女はオルバニー(Albany)で開かれた地区の会議に出席し、[[バージニア州|ヴァージニア州]]・[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]で開かれた労働騎士団のジェネラル・アセンブリでは5人の地区代表のうちの一人を務めた<ref name="naw101" />。騎士団の全国指導者、テレンス・V・パウダリーの支持を得て、彼女はこの会議の参加者たちによって新設された女性部の代表に選出された<ref name="Working-Class" />。(ジェネラル・アセンブリは女性労働者の労働環境についての情報を集める委員会を創設し、その調査結果によって総調査官が主導の女性部を創設した<ref name="naw101" />。)彼女の役目は「女性の雇用条件を調査し、新たなアセンブリを組織し、同一労働・同一賃金という騎士団の綱領を宣伝し、騎士団に女性を統合する」ことであった<ref>{{harvp|Arnesen|2007|p=146}}</ref>。彼女は有給の労働調査員及び組織家となった初めての女性であった<ref name="northnet.org" />。しかし、同時に「騎士団の中で全国的な役職に就いた唯一の女性」でもあった<ref>{{harvp|Levine|1983|p=332}}</ref>。
バリーが所属した騎士団の地方支部は当時、1,500人の会員を擁していた<ref name="naw101" />。彼女は組織の中で成り上がり、まもなく地方支部の長たる、マスター・ワークマンになった<ref name="Webster" />。1885年、彼女はディストリクト・アセンブリ65の長となったが、ここには42の地方支部と9,000人以上の騎士団員が含まれていた<ref name="Women in World History, 187">{{harvp|Anonymous|2002|p=187}}</ref>。一年後に彼女はオルバニー(Albany)で開かれた地区の会議に出席し、[[バージニア州|ヴァージニア州]]・[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]で開かれた労働騎士団のジェネラル・アセンブリでは5人の地区代表のうちの一人を務めた<ref name="naw101" />。騎士団の全国指導者、テレンス・V・パウダリーの支持を得て、彼女はこの会議の参加者たちによって新設された女性部の代表に選出された<ref name="Working-Class" />。(ジェネラル・アセンブリは女性労働者の労働環境についての情報を集める委員会を創設し、その調査結果によって総調査官が主導の女性部を創設した<ref name="naw101" />。)彼女の役目は「女性の雇用条件を調査し、新たなアセンブリを組織し、同一労働・同一賃金という騎士団の綱領を宣伝し、騎士団に女性を統合する」ことであった<ref>{{harvp|Arnesen|2007|p=146}}</ref>。彼女は有給の労働調査員及び組織家となった初めての女性であった<ref name="northnet.org" />。しかし、同時に「騎士団の中で全国的な役職に就いた唯一の女性」でもあった<ref>{{harvp|Levine|1983|p=332}}</ref>。


主調査官として、バリーは合衆国中の女性たちの賃金と労働条件の改善に人生を捧げ、調査のために国中を旅して回ったが、一方で女性労働者の代(削除) 表 (削除ここまで)としても活動した<ref name="Webster" />。このことによって彼女は二人の子供を残して公的な領域に関わらざるを得なくなったので、伝統的な女性社会に関する彼女の見方は複雑なものになった<ref name="Opdycke">{{harvp|Opdycke|2000}}</ref><ref>{{harvp|Levine|1983}}</ref>。1887年、1888年、1889年に彼女がジェネラル・アセンブリに提出した報告書は、工場における厳しい労働環境や、女性・児童への虐待を伝えていた。これらの報告書により、バリーは初めてアメリカの女性労働者に関する全国的な統計をとった人物となった<ref name="Whitman_57" />。当時は65,000人の女性が労働騎士団に参加しており、騎士団は女性に仕事や廉価な商品を提供したほか、女性の工場労働者の利害を守るためのボイコット運動も組織した<ref name="Opdycke" />。騎士団の地方支部のうち、400ほどが女性を包摂しており、これら(削除) の団員数 (削除ここまで)のうち3分の2は女性に限定されていた<ref>{{harvp|Levine|1983|p=325}}</ref>。しかしながら、女性労働者たちの無関心や騎士団内部の分断、そして男性優位の社会の中で女性が男性を組織することの難しさのために、バリー自身は確固たる(削除) 後継の運動 (削除ここまで)(削除) 築く (削除ここまで)ことは無理だと感じていた<ref name="naw102">{{harvp|Anonymous|1971|p=102}}</ref><ref name="Opdycke" />。また雇用主も彼女が自分たちの向上を調査することを許さなかった<ref name="Whitman_57" />。こうした雇用主の抵抗のために、女性を組織化することは難しく、そしてしばしば、ある程度高給の労働者は自分たちの労働条件が悪化することをそ恐れて労働運動に加担しようとしなかった。バリーが述べているように、女性たちは「自分たちにもたらされた(削除) もの (削除ここまで)についていかなる疑問を持つこともなく従い、受け入れる習性、そして全く希望の光が見えない人生に悲観的な見方」を持っていた<ref>Quoted from {{harvp|Garraty|Carnes|1999|p=253}}</ref>。こうした要因により、バリーは労働者保護のために州や連邦レベルでの立法運動を支持するようになった<ref name="Levine_334">{{harvp|Levine|1983|p=334}}</ref>。この分野での最も顕著な彼女の功績は、1889年にペンシルヴェニア州で初めての工場調査法を通過させたことであった。しかしながらバリーは政治家へのロビー活動はしなかった。なぜなら、彼女がそうした活動を「レディらしくない」と考えていたからであった<ref name="naw102" />。彼女はキャリアを通じて500以上の演説を行ったが、特に1888年7月4日には『労働の尊厳(The Dignity of Labor)』というタイトルで、イリノイ州・ロックフォード(Rockford)の3,000人の聴衆を前に演説を行い、これによって女性のローカル・アセンブリが「母の日(Foremothers’ Day)」とい名前の祝日を作ることにつながった<ref>{{harvp|Levine|1983|pp=333–335}}</ref>。
(追記) 任 (追記ここまで)調査官として、バリーは合衆国中の女性たちの賃金と労働条件の改善に人生を捧げ、調査のために国中を旅して回ったが、一方で女性労働者の代(追記) 弁者 (追記ここまで)としても活動した<ref name="Webster" />。このことによって彼女は二人の子供を残して公的な領域に関わらざるを得なくなったので、伝統的な女性社会に関する彼女の見方は複雑なものになった<ref name="Opdycke">{{harvp|Opdycke|2000}}</ref><ref>{{harvp|Levine|1983}}</ref>。1887年、1888年、1889年に彼女がジェネラル・アセンブリに提出した報告書は、工場における厳しい労働環境や、女性・児童への虐待を伝えていた。これらの報告書により、バリーは初めてアメリカの女性労働者に関する全国的な統計をとった人物となった<ref name="Whitman_57" />。当時は65,000人の女性が労働騎士団に参加しており、騎士団は女性に仕事や廉価な商品を提供したほか、女性の工場労働者の利害を守るためのボイコット運動も組織した<ref name="Opdycke" />。騎士団の地方支部のうち、400ほどが女性を包摂しており、これらのうち3分の2は(追記) 団員が (追記ここまで)女性に限定されていた<ref>{{harvp|Levine|1983|p=325}}</ref>。しかしながら、女性労働者たちの無関心や騎士団内部の分断、そして男性優位の社会の中で女性が男性を組織することの難しさのために、バリー自身は確固たる(追記) 支持者 (追記ここまで)(追記) 集める (追記ここまで)ことは無理だと感じていた<ref name="naw102">{{harvp|Anonymous|1971|p=102}}</ref><ref name="Opdycke" />。また雇用主も彼女が自分たちの向上を調査することを許さなかった<ref name="Whitman_57" />。こうした雇用主の抵抗のために、女性を組織化することは難しく、そしてしばしば、ある程度高給の労働者は自分たちの労働条件が悪化することをそ恐れて労働運動に加担しようとしなかった。バリーが述べているように、女性たちは「自分たちにもたらされた(追記) 条件 (追記ここまで)についていかなる疑問を持つこともなく従い、受け入れる習性、そして全く希望の光が見えない人生に悲観的な見方」を持っていた<ref>Quoted from {{harvp|Garraty|Carnes|1999|p=253}}</ref>。こうした要因により、バリーは労働者保護のために州や連邦レベルでの立法運動を支持するようになった<ref name="Levine_334">{{harvp|Levine|1983|p=334}}</ref>。この分野での最も顕著な彼女の功績は、1889年にペンシルヴェニア州で初めての工場調査法を通過させたことであった。しかしながらバリーは政治家へのロビー活動はしなかった。なぜなら、彼女がそうした活動を「レディらしくない」と考えていたからであった<ref name="naw102" />。彼女はキャリアを通じて500以上の演説を行ったが、特に1888年7月4日には『労働(追記) 者 (追記ここまで)の尊厳(The Dignity of Labor)』というタイトルで、イリノイ州・ロックフォード(Rockford)の3,000人の聴衆を前に演説を行い、これによって女性のローカル・アセンブリが「母の日(Foremothers’ Day)」とい名前の祝日を作ることにつながった<ref>{{harvp|Levine|1983|pp=333–335}}</ref>。


バリーは騎士団内部の政治闘争に巻き込まれ、総書記官のジョン・ヘイズ(John Hayes)と敵対した。1888年、ヘイズは女性部の指揮権を掌握し、バリーに嫌がらせを行って、彼女が1890年に辞任するよう追い込んだ<ref>Robert E. Weir, ''The Nights Unhorsed: Internal Conflict in a Gilded Age Social Movement'' (2000) pp 141-60.</ref>。
As the primary investigator, Barry dedicated her life to improving wages and working conditions for women throughout the United States, traveling across the nation to investigate female working conditions while also serving as the spokesperson for the female laborers. This complicated her views on traditional female society, for it forced her to leave her children and live in the public sphere. Her reports to the General Assembly in 1887, 1888 and 1889 described the hard conditions in factories, with reports of abuse on women and children. These reports made Barry the first person to collect national statistics on the American working woman. About 65,000 women belonged to the Knights at this time; the organization offered jobs and affordable goods to women while also organizing boycotts in support of female factory laborers’ interests. About four hundred of the Knights’ local branches included women; membership in two-thirds of these was limited to women. Barry, however, found herself unable to build a solid following due to the apathy of working women, divisions within the Knights of Labor, and difficulties faced by a woman attempting to organize men in a male-dominated society. Employers also refused to allow her to investigate their factories. Due to this employer resistance, organizing women within the movement was a challenge, and often better paid workers were reluctant to join labor movements for fear that their conditions would worsen. As Barry remarked, some women had a "habit of submission and acceptance without question of any terms offered them, with the pessimistic view of life in which they see no ray of hope." These factors pushed Barry to support state and federal legislation as a means of protecting laborers. Her efforts in this regard are most visible in the 1889 passage of the first Pennsylvania factory inspection act. Barry, however, would not lobby politicians because she considered such activity "unladylike." Yet of her more than 500 speeches during the course of her career including her popular speech, "The Dignity of Labor," one 4 July speech in 1888 in particular before three thousand people in Rockford, Illinois prompted the local women's assembly to rename the holiday, "Foremothers’ Day."


== 後半生と遺産 ==
Barry became enmeshed in the Knights' internal political disputes, and became an opponent of General Secretary John Hayes. In 1888 Hayes took control of the Women's Department and harassed Barry, leading to her resignation in 1890.<ref>Robert E. Weir, ''The Nights Unhorsed: Internal Conflict in a Gilded Age Social Movement'' (2000) pp 141-60.</ref>
彼女の努力が常に成功するとせざるとに関わらず、彼女は女性参政権運動に不朽の遺産を残した。バリーは挫折しても常に前進し続け、彼女が信じる大義のために進んでその身を捧げた。結局のところ「運動は、より伝統的な女性の関心と、公的生活の中で重要な役割との間での難しい選択を迫っていた<ref name="Levine_333" />。」彼女が自らの目標を「飢えや寒さ、欠乏に苦しみ、何度も挫け、ぽっかりと空いた不道徳の穴に落ちてしまうような、我々の街に住む数千人の低賃金女性労働者を暴虐と強欲から」解放することだと自覚していたことを考えれば、彼女を駆り立ててていた動機と情熱がよくわかる<ref>{{harvp|Garraty|Carnes|1999|p=252}}</ref>。


バリーは経済的な必要性がない限り、女性は家庭の外で働くべきではないと考えていた。1890年にオバディア・リード・レイク(Obadiah Read Lake)と結婚したのを機に、バリーは労働騎士団での職を辞し、女性部を廃止させた<ref name="Opdycke" />。
== Legacy and later life ==
Whether her efforts were always successful or not, she left an enduring legacy for the women's rights movement. Barry always kept moving forward amidst setbacks, and she willingly made personal sacrifices for the cause in which she believed. After all, "the movement demanded a difficult choice between more traditional feminine concerns and a significant role in public life."<ref name="Levine_333" /> Given her self-described goal to liberate "from the remorseless grasp of tyranny and greed the thousands of underpaid women and girls in our large cities, who, suffering the pangs of hunger, cold and privation, ofttimes yield and fall into the yawning chasm of immorality," one can understand the motivation and passion that drove her in her cause.<ref>{{harvp|Garraty|Carnes|1999|p=252}}</ref>


騎士団を辞める際、以下のように述べて、彼女は全ての使命を撤回たように見えた。「もし可能だったなら、女性にとって家事以外のいかなる仕事についても学ぶ必要がなかったら良かったのにと思う。なぜなら私は、男性こそが一家の稼ぎ手であるべきだと信じるからである。」こうした思惑は彼女の人生を通じた理念と相反しているように見えるが、彼女は以下のような条件を付け加えていた。「しかし現在の状況ではそうしたことは不可能であるので、女性たちがいかなる職業を選ぼうと、またいかなる職業が自分たちに最も適していると考えようと、女性たちが熟練労働者になるためのあらゆる機会を手にしているべきだと私は信じる<ref name="Levine_334" />。」レイクはセント・ルイスに住む熟練の印刷工で、『[[セント・ルイス・グローブ=デモクラット]](''[[:en:St._Louis_Globe-Democrat|St. Louis Globe-Democrat]]'')』紙の校正と編集を務めていた<ref name="naw102" />。
Barry felt women should not work outside the household except in cases of economic need. Upon her marriage to Obadiah Read Lake in 1890, Barry resigned from her position within the Knights of Labor, bringing an end to the Department of Woman's Work.<ref name="Opdycke" />


彼女はセント・ルイスで退職したのちも、女性参政権運動や禁酒運動、その他の改革運動を代表して講演旅行を続けた<ref name="Webster" />。彼女は女性の労働における平等を求め続けたが、その方法は組織的ではなかった。バリーは主に改革に関しての大衆演説家として活動したが、1893年にシカゴのコロンビア万博で開かれた世界女性代表者会議([[:en:World's_Congress_of_Representative_Women|World's Congress of Representative Women]])で彼女が行った『労働者の尊厳』という演説からもそのことがわかる<ref name="Women in World History, 187" />。(バリーは決して前もって原稿を用意しなかった<ref name="naw102" />。)また彼女は[[コロラド州]]での女性参政権運動でも成功し、その存在感を示した<ref name="naw102" />。
At her resignation from the Knights, she seemed to backtrack on her entire mission by stating, "If it were possible, I wish that it were not necessary for women to learn any trade but that of domestic duties, as I believe it was intended that man should be the bread-winner". While such a sentiment appears contrary to her entire cause, she went on to qualify her statement by adding, "But as that is impossible under present conditions, I believe women should have every opportunity to become proficient in whatever vocation they choose or find themselves best fitted for."<ref name="Levine_334" /> Lake, a trained printer and the [[proofreader]] and telegraph editor of the [[St. Louis Globe-Democrat]], resided in St. Louis.<ref name="naw102" />


1916年に彼女はイリノイ州・ミヌーカに転居して、[[女性キリスト教禁酒同盟]]([[:en:Woman's_Christian_Temperance_Union|Woman's Christian Temperance Union]])やアメリカ・カトリック絶対禁酒同盟([[:en:Catholic_Total_Abstinence_Union_of_America|Catholic Total Abstinence Union of America]])で活動したが、一方でのちの[[ヴォルステッド法]]などにつながる、[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]に関する大衆の支持を集めることも重視した<ref name="Webster" />。野球ファンとして、バリーはしばしばシカゴに観戦に訪れた<ref name="naw102" />。晩年はマザー・レイクとして知られ、1923年7月18日に口腔がんで死んだ<ref name="naw102" />。
Barry continued to travel and speak on behalf of the woman's suffrage movement and the temperance movement, among other reform movements, after her retirement in St. Louis.<ref name="Webster" /> She persevered in her pursuit of labor equality for women but in a less organized manner. Barry served primarily as a public speaker on issues of reform, as illustrated by her 1893 speech before the World's Representative Congress of Women at the Columbian exposition in Chicago on "The Dignity of Labor."<ref name="Women in World History, 187" /> (Barry never used prepared texts.)<ref name="naw102" /> She also proved vital to the successful campaign for woman suffrage in [[Colorado]].<ref name="naw102" />


== (追記) 脚注 (追記ここまで) ==
In 1916 she moved to [[Minooka, Illinois]], and became active in the [[Woman's Christian Temperance Union]] and the [[Catholic Total Abstinence Union of America]] while also placing much emphasis on building public support for [[Prohibition]] and, later, the [[Volstead Act]].<ref name="Webster" /> A baseball fan, Barry frequented Chicago to enjoy games.<ref name="naw102" /> Later in life known as Mother Lake, Barry died on 18 July 1923, of cancer of the mouth.<ref name="naw102" />

== (削除) Notes (削除ここまで) ==
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=== (削除) References (削除ここまで) ===
=== (追記) 参考文献 (追記ここまで) ===
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2024年2月22日 (木) 15:08時点における版

レオノーラ・M・カーニー・バリー(英語: Leonora M. Kearney Barry, 1849年 8月13日 - 1923年 7月18日)はアイルランドのコーク県に、ジョン・カーニーとオーナー・グレンジャー・カーニーの子供として生まれた。労働騎士団(Knights of Labor)で唯一、全国的な役職を得た女性であり、労働改革運動への関与を通じて、女性労働者の状況に注目を集めさせた。また彼女は南北戦争再建期(Reconstruction era)ののちの時代において、女性の権利の進歩を推し進めた人物でもあった[1]

前半生

レオノーラの父、ジョン・カーニー(John Kearney)はアイルランドの農民で、1852年にジャガイモ飢饉から逃れるべく、ニューヨーク州ピアポント(Pierrepont)に移民した[2]

1864年に、レオノーラの母は若くして死んだ。父親が彼女と5歳しか変わらない女性と再婚したのを機に、レオノーラは師範学校に通うことを決めた。新たな母と彼女の間での緊張関係から逃れるために家を出た後、ニューヨーク州・コルトン(Colton)の女学校の校長と連絡をとり、そこで6週間、個人的に指導を受けた[3] 。16歳にして、彼女は教員資格をとり、翌年から学校で教えるようになった[4]

結婚と労働

1871年11月30日、レオノーラはウィリアム・E・バリー(William E. Barry)と結婚した。彼はアイルランド生まれで、カナダ、そしてニューヨークへと移民した画家・音楽家だった。二人はニューヨーク州・ポツダムに移り、1873年には最初の子、マリオン・フランセス(Marion Frances)をもうけた[5] 。南北戦争後に教師は人材不足となっていたにもかかわらず、ウィリアム・バリーと結婚したのちに彼女は職場における差別に直面した。彼女は既婚の女性であるということを理由に、州法で教職を辞めなければならなくなったのである。これにより彼女は肉体労働に従事せざるを得なくなった。一家は頻繁に移住し、マサチューセッツ州・ヘイデンスヴィル(Haydensville)や、ニューヨーク州・アムステルダムを転々とした。そして1875年にはウィリアム・スタンディッシュ(William Standish)、1880年にはチャールズ・ジョセフ(Charles Joseph)という二人の子供を授かった。彼女の夫が肺の病気で死に、娘もすぐにその後を追ったので、バリーは針子として働き始めたが、仕事は非常にきついものであった[5] 。そのため、彼女はアムステルダムの靴下工場で働いたが、ここで彼女やその仲間の女性労働者たちは過酷な労働環境、長時間労働、低賃金に直面した[6] 。彼女はしばしば週に70時間以上働いたが、給与は成果によって決められたので、初日には11セント、最初の週の給料はたったの65セントであった[7]

労働騎士団と労働運動への関与

働く女性が直面する不正に対して行動を起こすために、バリーは1885年、労働騎士団の地方支部に加入した[8] 。当時は労働騎士団の全国組織における会員数がピークに達していた時であった。労働騎士団は本来、フィラデルフィアの衣服労働者たちの秘密結社として活動していたが、労働改革を促進するための組合へと変質していた[5] 。バリーは経済的な必要に迫られて工場労働に従事せざるを得ず、組合の理想的な女性労働者を体現していた[9]

バリーが所属した騎士団の地方支部は当時、1,500人の会員を擁していた[4] 。彼女は組織の中で成り上がり、まもなく地方支部の長たる、マスター・ワークマンになった[6] 。1885年、彼女はディストリクト・アセンブリ65の長となったが、ここには42の地方支部と9,000人以上の騎士団員が含まれていた[10] 。一年後に彼女はオルバニー(Albany)で開かれた地区の会議に出席し、ヴァージニア州リッチモンドで開かれた労働騎士団のジェネラル・アセンブリでは5人の地区代表のうちの一人を務めた[4] 。騎士団の全国指導者、テレンス・V・パウダリーの支持を得て、彼女はこの会議の参加者たちによって新設された女性部の代表に選出された[2] 。(ジェネラル・アセンブリは女性労働者の労働環境についての情報を集める委員会を創設し、その調査結果によって総調査官が主導の女性部を創設した[4] 。)彼女の役目は「女性の雇用条件を調査し、新たなアセンブリを組織し、同一労働・同一賃金という騎士団の綱領を宣伝し、騎士団に女性を統合する」ことであった[11] 。彼女は有給の労働調査員及び組織家となった初めての女性であった[7] 。しかし、同時に「騎士団の中で全国的な役職に就いた唯一の女性」でもあった[12]

主任調査官として、バリーは合衆国中の女性たちの賃金と労働条件の改善に人生を捧げ、調査のために国中を旅して回ったが、一方で女性労働者の代弁者としても活動した[6] 。このことによって彼女は二人の子供を残して公的な領域に関わらざるを得なくなったので、伝統的な女性社会に関する彼女の見方は複雑なものになった[13] [14] 。1887年、1888年、1889年に彼女がジェネラル・アセンブリに提出した報告書は、工場における厳しい労働環境や、女性・児童への虐待を伝えていた。これらの報告書により、バリーは初めてアメリカの女性労働者に関する全国的な統計をとった人物となった[5] 。当時は65,000人の女性が労働騎士団に参加しており、騎士団は女性に仕事や廉価な商品を提供したほか、女性の工場労働者の利害を守るためのボイコット運動も組織した[13] 。騎士団の地方支部のうち、400ほどが女性を包摂しており、これらのうち3分の2は団員が女性に限定されていた[15] 。しかしながら、女性労働者たちの無関心や騎士団内部の分断、そして男性優位の社会の中で女性が男性を組織することの難しさのために、バリー自身は確固たる支持者を集めることは無理だと感じていた[16] [13] 。また雇用主も彼女が自分たちの向上を調査することを許さなかった[5] 。こうした雇用主の抵抗のために、女性を組織化することは難しく、そしてしばしば、ある程度高給の労働者は自分たちの労働条件が悪化することをそ恐れて労働運動に加担しようとしなかった。バリーが述べているように、女性たちは「自分たちにもたらされた条件についていかなる疑問を持つこともなく従い、受け入れる習性、そして全く希望の光が見えない人生に悲観的な見方」を持っていた[17] 。こうした要因により、バリーは労働者保護のために州や連邦レベルでの立法運動を支持するようになった[18] 。この分野での最も顕著な彼女の功績は、1889年にペンシルヴェニア州で初めての工場調査法を通過させたことであった。しかしながらバリーは政治家へのロビー活動はしなかった。なぜなら、彼女がそうした活動を「レディらしくない」と考えていたからであった[16] 。彼女はキャリアを通じて500以上の演説を行ったが、特に1888年7月4日には『労働者の尊厳(The Dignity of Labor)』というタイトルで、イリノイ州・ロックフォード(Rockford)の3,000人の聴衆を前に演説を行い、これによって女性のローカル・アセンブリが「母の日(Foremothers’ Day)」とい名前の祝日を作ることにつながった[19]

バリーは騎士団内部の政治闘争に巻き込まれ、総書記官のジョン・ヘイズ(John Hayes)と敵対した。1888年、ヘイズは女性部の指揮権を掌握し、バリーに嫌がらせを行って、彼女が1890年に辞任するよう追い込んだ[20]

後半生と遺産

彼女の努力が常に成功するとせざるとに関わらず、彼女は女性参政権運動に不朽の遺産を残した。バリーは挫折しても常に前進し続け、彼女が信じる大義のために進んでその身を捧げた。結局のところ「運動は、より伝統的な女性の関心と、公的生活の中で重要な役割との間での難しい選択を迫っていた[9] 。」彼女が自らの目標を「飢えや寒さ、欠乏に苦しみ、何度も挫け、ぽっかりと空いた不道徳の穴に落ちてしまうような、我々の街に住む数千人の低賃金女性労働者を暴虐と強欲から」解放することだと自覚していたことを考えれば、彼女を駆り立ててていた動機と情熱がよくわかる[21]

バリーは経済的な必要性がない限り、女性は家庭の外で働くべきではないと考えていた。1890年にオバディア・リード・レイク(Obadiah Read Lake)と結婚したのを機に、バリーは労働騎士団での職を辞し、女性部を廃止させた[13]

騎士団を辞める際、以下のように述べて、彼女は全ての使命を撤回たように見えた。「もし可能だったなら、女性にとって家事以外のいかなる仕事についても学ぶ必要がなかったら良かったのにと思う。なぜなら私は、男性こそが一家の稼ぎ手であるべきだと信じるからである。」こうした思惑は彼女の人生を通じた理念と相反しているように見えるが、彼女は以下のような条件を付け加えていた。「しかし現在の状況ではそうしたことは不可能であるので、女性たちがいかなる職業を選ぼうと、またいかなる職業が自分たちに最も適していると考えようと、女性たちが熟練労働者になるためのあらゆる機会を手にしているべきだと私は信じる[18] 。」レイクはセント・ルイスに住む熟練の印刷工で、『セント・ルイス・グローブ=デモクラット(St. Louis Globe-Democrat )』紙の校正と編集を務めていた[16]

彼女はセント・ルイスで退職したのちも、女性参政権運動や禁酒運動、その他の改革運動を代表して講演旅行を続けた[6] 。彼女は女性の労働における平等を求め続けたが、その方法は組織的ではなかった。バリーは主に改革に関しての大衆演説家として活動したが、1893年にシカゴのコロンビア万博で開かれた世界女性代表者会議(World's Congress of Representative Women)で彼女が行った『労働者の尊厳』という演説からもそのことがわかる[10] 。(バリーは決して前もって原稿を用意しなかった[16] 。)また彼女はコロラド州での女性参政権運動でも成功し、その存在感を示した[16]

1916年に彼女はイリノイ州・ミヌーカに転居して、女性キリスト教禁酒同盟(Woman's Christian Temperance Union)やアメリカ・カトリック絶対禁酒同盟(Catholic Total Abstinence Union of America)で活動したが、一方でのちのヴォルステッド法などにつながる、禁酒法に関する大衆の支持を集めることも重視した[6] 。野球ファンとして、バリーはしばしばシカゴに観戦に訪れた[16] 。晩年はマザー・レイクとして知られ、1923年7月18日に口腔がんで死んだ[16]

脚注

  1. ^ Levine (1983), p. 331
  2. ^ a b Anonymous (1990)
  3. ^ Arnesen (2007), pp. 145–146
  4. ^ a b c d Anonymous (1971), p. 101
  5. ^ a b c d e Whitman (1985), p. 57
  6. ^ a b c d e Van Doren (1974), p. 68
  7. ^ a b "Leonora Marie (Kearney) Barry, Labor Organizer Archived 25 April 2009 at the Wayback Machine.", Women of Courage Profiles.
  8. ^ American National Biography. 1 Feb. 2000
  9. ^ a b Levine (1983), p. 333
  10. ^ a b Anonymous (2002), p. 187
  11. ^ Arnesen (2007), p. 146
  12. ^ Levine (1983), p. 332
  13. ^ a b c d Opdycke (2000)
  14. ^ Levine (1983)
  15. ^ Levine (1983), p. 325
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  17. ^ Quoted from Garraty & Carnes (1999), p. 253
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  19. ^ Levine (1983), pp. 333–335
  20. ^ Robert E. Weir, The Nights Unhorsed: Internal Conflict in a Gilded Age Social Movement (2000) pp 141-60.
  21. ^ Garraty & Carnes (1999), p. 252

参考文献

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  • Weir, Robert E. The Nights Unhorsed: Internal Conflict in a Gilded Age Social Movement (2000) pp 141–60.
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