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「ハリド・シェイク・モハメド」の版間の差分

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'''ハリド・シェイク・モハメド'''(英:Khalid Sheikh Mohammed、{{lang-ar|'''خالد شيخ محمد'''}} {{transl|ar|DIN|ḫālid šaiḫ muḥammad}}、[[1964年]][[3月1日]] - )は、[[クウェート]]生まれの[[イスラム原理主義]]活動家、[[テロリスト]]。[[アルカーイダ]]の元幹部。
'''ハリド・シェイク・モハメド'''(英:Khalid Sheikh Mohammed、{{lang-ar|'''خالد شيخ محمد'''}} {{transl|ar|DIN|ḫālid šaiḫ muḥammad}}、[[1964年]][[3月1日]] - )は、[[クウェート]]生まれの[[イスラム原理主義]]活動家、[[テロリスト]]。[[アルカーイダ]]の元幹部。


[[1999年]]から(削除) は (削除ここまで)アルカーイダの対外宣伝を担当(削除) するが (削除ここまで)、甥の[[ラムジ・ユセフ]]と共に複数のテロ事件([[世界貿易センター爆破事件]]、[[バリ島爆弾テロ事件 (2002年)|バリ島爆弾テロ事件]]、[[ボジンカ計画]](削除) など)に関与した。[[2003年]]3月、潜伏中の[[パキスタン]]の[[ラーワルピンディー]]で (削除ここまで)、[[アメリカ(削除) 合衆国 (削除ここまで)]](削除) の諜報機 (削除ここまで)(削除) に支援された[[軍統合情報局|パキスタン統合情報局]](ISI)によって[[逮捕]]され (削除ここまで)た。
[[1999年]]からアルカーイダの対外宣伝を担当(追記) し (追記ここまで)、甥の[[ラムジ・ユセフ]]と共に複数のテロ事件([[世界貿易センター爆破事件]]、[[バリ島爆弾テロ事件 (2002年)|バリ島爆弾テロ事件]]、[[ボジンカ計画]]、[[アメリカ(追記) 同時多発テロ事件 (追記ここまで)]](追記) など)に (追記ここまで)(追記) 与し (追記ここまで)た。

[[2006年]]、[[グァンタナモ米軍基地]]に移送、[[収監]]された。[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]の起案者とされ、[[2007年]]、これらの容疑を認めた。[[2008年]]、[[マイケル・ヘイデン]][[中央情報局]]長官は、モハメドに対し、[[ウォーターボーディング]]による[[水責め]]尋問を行ったことを認めた<ref>{{cite news |title=CIA長官、アルカイダ容疑者への「水責め」認める|author=AFP|newspaper=[[フランス通信社]]|date=2008年02月06日|url=http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2346882/2603472|accessdate=2011年03月11日}}</ref>。[[2012年]]に[[グァンタナモ米軍基地]]の軍事法廷で他4名と共に[[裁判]]が開始されることが全米各紙で[[報道]]され、[[死刑]]を[[求刑]]する予定とも報じられていたが、最終的に2019年8月30日に、死刑を求刑する裁判は2021年1月11日に開廷されると決定した<ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/2019/08/30/us/politics/sept-11-trial-guantanamo-bay.html|title=Trial Date for Men Charged With Plotting Sept. 11 Attacks Is Set for 2021|last=Rosenberg|first=Carol|date=2019年08月30日|work=The New York Times|access-date=2019年08月30日|language=en-US|issn=0362-4331}}</ref>。


== 経歴 ==
== 経歴 ==

2021年9月11日 (土) 23:04時点における版

ハリド・シェイク・モハメド
خالد شيخ محمد
ファイル:Khalid Sheikh Mohammed in 2001.jpg
モハメドの指名手配写真(2001年)
生年 1964年 3月1日、もしくは1965年 4月14日
生地 クウェートの旗 クウェート
活動 世界貿易センター爆破事件ボジンカ計画アメリカ同時多発テロ事件バリ島爆弾テロ事件
所属 ムスリム同胞団アルカーイダ
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ハリド・シェイク・モハメド(英:Khalid Sheikh Mohammed、アラビア語: خالد شيخ محمدḫālid šaiḫ muḥammad1964年 3月1日 - )は、クウェート生まれのイスラム原理主義活動家、テロリストアルカーイダの元幹部。

1999年からアルカーイダの対外宣伝を担当し、甥のラムジ・ユセフと共に複数のテロ事件(世界貿易センター爆破事件バリ島爆弾テロ事件ボジンカ計画アメリカ同時多発テロ事件など)に関与した。

経歴

パキスタンバローチスターン州出身の両親の元でクウェートで生まれた。

生年は1964年とされるが、1965年とする説もある。16歳でムスリム同胞団に参加、直後にパキスタンに移った。3歳年少の甥のラムジ・ユセフ(世界貿易センター爆破事件の主犯)も同じような境遇である。その後、勉学のためにアメリカに渡る。その際の幾つかの屈辱的な経験が、テロへと向わせた動機だとされる。

ノースカロライナ州の大学で機械工学の学位を取得すると、アフガニスタンに移った。同地では、兄弟たちとソビエト連邦アフガニスタン侵攻ムジャーヒディーンとして参戦した。そこで当時アフマド・シャー・マスードに近かったアブドゥル・ラスル・サイヤフと知り合う。

1987年には発展途上国の支援をするアメリカの団体の資金援助を受けて、静岡県の建設機械メーカーで研修を受けるため、3ヶ月間日本に滞在している[1] [2] 。アフガニスタンでのソ連との戦いの後は1992年まで電子機器の会社で働き、その後、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にムスリム義勇兵として参加、その後、カタールの政府機関でエンジニアとして働いた。

その後、世界貿易センター爆破事件やボジンカ計画を立案。1994年からカタール合板の輸出業者としてフィリピンに渡った。またサラエボにも赴き、ボスニア・ヘルツェゴビナの市民権を得ている。CIAの捕捉を恐れてパキスタンに戻り、ボジンカ計画の発覚後はカタールに移動、イエメンマレーシアブラジルなどを工作活動で転々とし、スーダンウサーマ・ビン・ラーディンと会っていることが確認されている。

アメリカ合衆国連邦政府からカタール政府に逮捕を要請されると、アフガニスタンに逃亡した。スーダンを追放されたビン・ラーディンも移り、彼の指導下に入っていった。チェチェン共和国に入ろうとするが果たせず、カンダハールに戻りアルカーイダの幹部に迎え入れられた。対外宣伝を担当し、特にジェマ・イスラミアと密な関係を築いた。

アメリカ同時多発テロ事件

拘束後のモハメド

その後、ボジンカ計画のアメリカ国内版とも言える、国内の東西の地区で航空機を同時に爆破する計画をアルカーイダに提案、ビン・ラーディンは当初は関心を示さなかったが、1998年末にロサンゼルスなどを対象から除外した上で最終的に計画を承認した。

1999年の春から、ビン・ラーディンやアルカイダの軍事部門の指導者ムハンマド・アーティフが計画を練っていった。ビン・ラーディンは資金を提供し、作戦の実行責任者としてモハメド・アタを選出すると、モハメドは技術的な細部を担当した。

イスラエルアリエル・シャロン岩のドームの訪問を強行したことをきっかけにインティファーダが起こっていたことから、ビン・ラーディンは2000年中にテロをアメリカで起こすように急かされたという。

その他

  • アラビア語の発音の転写の違いによって、カリド・シィク・ムハンマド、カリド・シーク・ムハンマド、カリッド・シェイク・ムハメッドなどと表記されることもある。アラビア語表記を正確に転写すれば、ハーリド・シャイフ・ムハンマドと表記される。

脚注

  1. ^ "アルカイダナンバー3、結成前の87年に来日 米団体資金で研修". 朝日新聞: pp. 34ページ. (2003年6月16日) 
  2. ^ "アルカイダのメンバーが4回入国 新潟市内に潜伏". 朝日新聞 (2004年5月19日). 2015年7月1日閲覧。

関連項目

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