「ハリド・シェイク・モハメド」の版間の差分
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2021年9月11日 (土) 23:04時点における版
ハリド・シェイク・モハメド خالد شيخ محمد | |
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ファイル:Khalid Sheikh Mohammed in 2001.jpg モハメドの指名手配写真(2001年) | |
生年 | 1964年 3月1日、もしくは1965年 4月14日 |
生地 | クウェートの旗 クウェート |
活動 | 世界貿易センター爆破事件、ボジンカ計画、アメリカ同時多発テロ事件、バリ島爆弾テロ事件 |
所属 | ムスリム同胞団、アルカーイダ |
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ハリド・シェイク・モハメド(英:Khalid Sheikh Mohammed、アラビア語: خالد شيخ محمد ḫālid šaiḫ muḥammad、1964年 3月1日 - )は、クウェート生まれのイスラム原理主義活動家、テロリスト。アルカーイダの元幹部。
1999年からアルカーイダの対外宣伝を担当し、甥のラムジ・ユセフと共に複数のテロ事件(世界貿易センター爆破事件、バリ島爆弾テロ事件、ボジンカ計画、アメリカ同時多発テロ事件など)に関与した。
経歴
パキスタンのバローチスターン州出身の両親の元でクウェートで生まれた。
生年は1964年とされるが、1965年とする説もある。16歳でムスリム同胞団に参加、直後にパキスタンに移った。3歳年少の甥のラムジ・ユセフ(世界貿易センター爆破事件の主犯)も同じような境遇である。その後、勉学のためにアメリカに渡る。その際の幾つかの屈辱的な経験が、テロへと向わせた動機だとされる。
ノースカロライナ州の大学で機械工学の学位を取得すると、アフガニスタンに移った。同地では、兄弟たちとソビエト連邦のアフガニスタン侵攻にムジャーヒディーンとして参戦した。そこで当時アフマド・シャー・マスードに近かったアブドゥル・ラスル・サイヤフと知り合う。
1987年には発展途上国の支援をするアメリカの団体の資金援助を受けて、静岡県の建設機械メーカーで研修を受けるため、3ヶ月間日本に滞在している[1] [2] 。アフガニスタンでのソ連との戦いの後は1992年まで電子機器の会社で働き、その後、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にムスリム義勇兵として参加、その後、カタールの政府機関でエンジニアとして働いた。
その後、世界貿易センター爆破事件やボジンカ計画を立案。1994年からカタールの合板の輸出業者としてフィリピンに渡った。またサラエボにも赴き、ボスニア・ヘルツェゴビナの市民権を得ている。CIAの捕捉を恐れてパキスタンに戻り、ボジンカ計画の発覚後はカタールに移動、イエメン、マレーシア、ブラジルなどを工作活動で転々とし、スーダンでウサーマ・ビン・ラーディンと会っていることが確認されている。
アメリカ合衆国連邦政府からカタール政府に逮捕を要請されると、アフガニスタンに逃亡した。スーダンを追放されたビン・ラーディンも移り、彼の指導下に入っていった。チェチェン共和国に入ろうとするが果たせず、カンダハールに戻りアルカーイダの幹部に迎え入れられた。対外宣伝を担当し、特にジェマ・イスラミアと密な関係を築いた。
アメリカ同時多発テロ事件
その後、ボジンカ計画のアメリカ国内版とも言える、国内の東西の地区で航空機を同時に爆破する計画をアルカーイダに提案、ビン・ラーディンは当初は関心を示さなかったが、1998年末にロサンゼルスなどを対象から除外した上で最終的に計画を承認した。
1999年の春から、ビン・ラーディンやアルカイダの軍事部門の指導者ムハンマド・アーティフが計画を練っていった。ビン・ラーディンは資金を提供し、作戦の実行責任者としてモハメド・アタを選出すると、モハメドは技術的な細部を担当した。
イスラエルのアリエル・シャロンが岩のドームの訪問を強行したことをきっかけにインティファーダが起こっていたことから、ビン・ラーディンは2000年中にテロをアメリカで起こすように急かされたという。
その他
- アラビア語の発音の転写の違いによって、カリド・シィク・ムハンマド、カリド・シーク・ムハンマド、カリッド・シェイク・ムハメッドなどと表記されることもある。アラビア語表記を正確に転写すれば、ハーリド・シャイフ・ムハンマドと表記される。
脚注
- ^ "アルカイダナンバー3、結成前の87年に来日 米団体資金で研修". 朝日新聞: pp. 34ページ. (2003年6月16日)
- ^ "アルカイダのメンバーが4回入国 新潟市内に潜伏". 朝日新聞 (2004年5月19日). 2015年7月1日閲覧。