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彼は[[山本五十六]]と同様の経歴([[アメリカ合衆国|アメリカ]][[駐在武官]]・[[大学]][[留学]]経験や軍縮作業等)を持ち、避戦派とされる山本や[[井上成美]]同様彼我の国力差や国民性を熟知しており、初戦で出足を挫き早期講和を意図したとされる山本が提案した真珠湾攻撃の真意を理解した数少ない指導者の一人であった。(但し初戦常勝期に首脳陣以上の拡大策を一案し山本に苦笑されたともいわれている)[[小沢治三郎]]らとともに航空戦略戦術の先駆者であり、敗れたとは言えその戦略戦術および戦歴から、戦後連合国側からも最大級の評価を受けた。
彼は[[山本五十六]]と同様の経歴([[アメリカ合衆国|アメリカ]][[駐在武官]]・[[大学]][[留学]]経験や軍縮作業等)を持ち、避戦派とされる山本や[[井上成美]]同様彼我の国力差や国民性を熟知しており、初戦で出足を挫き早期講和を意図したとされる山本が提案した真珠湾攻撃の真意を理解した数少ない指導者の一人であった。(但し初戦常勝期に首脳陣以上の拡大策を一案し山本に苦笑されたともいわれている)[[小沢治三郎]]らとともに航空戦略戦術の先駆者であり、敗れたとは言えその戦略戦術および戦歴から、戦後連合国側からも最大級の評価を受けた。

一説によると、[[チェスター・ニミッツ|ニミッツ提督]]が山本五十六長官機の撃墜の是非を(「ヤマモトを殺しても、後任により優れた指導者が現れては困る」と)情報部のレイトンらに諮った際、山本の後継者として真っ先に名が挙がったのが山口だったと言われる。レイトンは、彼は既に戦死しているから安心だ、ヤマモトに代わり得る人物は日本には他にいない、と返答したという。


彼と加来の戦死は、[[1943年]][[4月24日]]夜に放送された「提督の最期」と題する番組で公表された。
彼と加来の戦死は、[[1943年]][[4月24日]]夜に放送された「提督の最期」と題する番組で公表された。

2006年10月22日 (日) 16:09時点における版

山口 多聞(やまぐち たもん1892年(明治25年)8月17日 - 1942年(昭和17年)6月6日日本海軍軍人海軍中将 正四位 勲一等 功一級

山口少将の最期(画・北蓮蔵)。

経歴

東京市小石川区に旧松江藩士 山口宗義 貞の子として生まれる。
第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属。水雷砲術出身の士官であり本来の専門は潜水艦だったという。大戦後戦利艦であるUボート回航要員を経験したこともある。軽巡洋艦戦艦の艦長を歴任したが、その中にあって当時発展過程にあった航空機空母機動部隊の真価を直ぐさま理解するだけの柔軟性があった。海兵同期の大西瀧治郎らの勧めもあり航空関係に転向し、次代の日本海軍を担うエースと目された。大陸に於いて第一連合航空隊司令官として大西の第二連合航空隊との合同作戦(重慶爆撃)に従事した。部下との意志の疎通を図るため予定外で陸攻に同乗し飛行食を工面して貰ったり、大西との作戦会議において納得がいくまで双方引かずに議論をやり合ったことなど、この時期於いても彼の人柄を物語るエピソードが少なからず残されている。その後、空母機動部隊の主力の一つである第二航空戦隊に転属した。年功序列の壁に阻まれ、ついに機動部隊司令長官には就くことはなかったが、航空戦隊司令官として真珠湾攻撃を初め緒戦の快進撃に貢献。機動部隊輪形陣(空母を護衛艦で囲む隊形のこと。山口の場合は戦艦巡洋戦艦も含めた)等の新機軸を打ち出すなど、航空戦力の充実研究に心血を注いだ。

太平洋戦争開始時は第二航空戦隊司令官真珠湾攻撃で、主力艦に大損害を与えた第一次攻撃に続き、戦果を徹底すべく第二次攻撃を進言するも、艦隊保全がより重要と考えた南雲忠一 司令長官に一蹴された。結果として、海軍工廠および燃料タンク群を無傷のまま残す事となり、アメリカ海軍は旧式の戦艦を失ったのみで真珠湾を根拠地として継続使用し再起する。ただし身近な者や当時の一航艦参謀吉岡忠一等の証言、残された電文の中にそれらしいものが存在しないことから、意見具申は無かったのではないかとする説も近年の研究では有力になってきている。 ミッドウェー海戦でも二航戦司令官として「飛龍」に座乗。空母らしき艦船を含むアメリカ艦隊発見の報告を受け、「直二攻撃隊発進ノ要アリト認ム。」と、ミッドウェー島第二次攻撃用に陸上攻撃用装備させていた部隊をそのままアメリカ空母戦力の無効化のために差し向けるよう進言するも、艦隊に対して陸上装備では攻撃力に欠け戦果を期待できない事を理由に、南雲司令長官に拒否されてしまう。武装転換に時間を浪費する間にアメリカ急降下爆撃機の奇襲を受け、主力四空母中「赤城」「加賀」「蒼龍」の三空母が、艦載機満載かつ爆弾魚雷が散乱する飛行甲板に被弾、戦闘能力喪失という決定的打撃を受けた。戦況認識と意思決定に関するこのエピソードは、山口の航空戦に対する洞察力と適性を示す端的な例として有名である。

三空母被弾後、第八戦隊旗艦「利根」と機動部隊全艦に対し、「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と発光信号を発し、指揮継承順上位の第八戦隊司令官・阿部弘毅少将(海兵39期、少将進級は同日)に通信、また「飛龍」艦内には、「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」と通報、乗艦「飛龍」とともに、全力を挙げアメリカ機動部隊への反撃に移った。二次に亘る航空攻撃の結果、敵主力空母ヨークタウンを大破(後、潜水艦により撃沈)させるも、第三次攻撃を前に飛龍も被弾。作戦能力喪失と判断するや速やかに総員退艦を命じ、自らは加来止男艦長と共に艦と運命を供にした。角田覚治(兵学校で山口の1期先輩にあたる。当時少将で帝國海軍きっての猛将と謳われた)は、「山口を機動部隊司令長官にしてあげたかった。彼の下でなら、喜んで一部将として戦ったのに。」とその死を惜しんだという。もっとも角田は大佐昇進、少将昇進とも海兵一期後輩の山口より各々1年遅れており指揮継承順位は山口が上であったが。

彼は山本五十六と同様の経歴(アメリカ 駐在武官大学 留学経験や軍縮作業等)を持ち、避戦派とされる山本や井上成美同様彼我の国力差や国民性を熟知しており、初戦で出足を挫き早期講和を意図したとされる山本が提案した真珠湾攻撃の真意を理解した数少ない指導者の一人であった。(但し初戦常勝期に首脳陣以上の拡大策を一案し山本に苦笑されたともいわれている)小沢治三郎らとともに航空戦略戦術の先駆者であり、敗れたとは言えその戦略戦術および戦歴から、戦後連合国側からも最大級の評価を受けた。

一説によると、ニミッツ提督が山本五十六長官機の撃墜の是非を(「ヤマモトを殺しても、後任により優れた指導者が現れては困る」と)情報部のレイトンらに諮った際、山本の後継者として真っ先に名が挙がったのが山口だったと言われる。レイトンは、彼は既に戦死しているから安心だ、ヤマモトに代わり得る人物は日本には他にいない、と返答したという。

彼と加来の戦死は、1943年 4月24日夜に放送された「提督の最期」と題する番組で公表された。

履歴

人物

彼は先妻敏子が亡くなり(三男を出産した後急死)、孝子と再婚した。

海軍兵学校40期卒は宇垣纏大西瀧治郎らそうそうたるメンバーであった。 また、棒倒し合戦の時に山口は大西と共に大暴れしたという話がある。 肥満体ではあったが運動神経は人並み以上に優れており、余暇にはテニスなどを愛好していたという。非常な大食漢としても知られ、商船の食堂のメニューを航海中に全て食べつくすことを同期と競って山口一人だけ成功したり、乗艦の厨房に命じて料理の量を格段に増やしたり、料理の豪華さで有名だった戦艦大和で食事をした際、「料理は美味いが量が足りないね」と言ったことなど、食に関する逸話にも事欠かない。

同じ猛将型の航空部隊指揮官としてアメリカ海軍 ウィリアム・フレデリック・ハルゼー(William Halsey 1882年8月30日-1959年8月16日)と比較されることが多く、どちらも部下からの信望が厚くや一般からの人気が高い。最大の相違点はその性格にあり、直情傾向あるのハルゼーと違い山口の場合は、勇猛さの中にも沈着冷静さを失わなかったことである。

参考文献

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