コンテンツにスキップ
Wikipedia

「野中広務」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
20行目: 20行目:
自民党郵政事業懇話会の会長を務め、「郵政族のドン」としても知られ、[[特定郵便局長会]]に強い影響力を持ったほか、地方自治の長い経験や自治相経験から、自治省(後の[[総務省]])にも影響力を持っていた。
自民党郵政事業懇話会の会長を務め、「郵政族のドン」としても知られ、[[特定郵便局長会]]に強い影響力を持ったほか、地方自治の長い経験や自治相経験から、自治省(後の[[総務省]])にも影響力を持っていた。


[[2006年]]以降、テレビなどでも[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]との関係が囁かれており、さまざまな疑惑がある。(削除) 関西の情報番組で (削除ここまで)北朝鮮問題の専門家である早稲田大学教授・[[重村智計]](削除) に (削除ここまで)、司会者(削除) が (削除ここまで)「野中広務氏の事をどう思うか」と尋ねた(削除) ところ (削除ここまで)、「私この人の名前聞きたくも無いんですよ。北朝鮮の疑惑を調査していると幾らでもこの人の名前が出てきますから」と発言している。
[[2006年]]以降、テレビなどでも[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]との関係が囁かれており、さまざまな疑惑がある。北朝鮮問題の専門家である早稲田大学教授・[[重村智計]](追記) は (追記ここまで)(追記) 関西の情報番組で (追記ここまで)司会者(追記) から (追記ここまで)「野中広務氏の事をどう思うか」と尋ね(追記) られ (追記ここまで)(追記) 際 (追記ここまで)、「私この人の名前聞きたくも無いんですよ。北朝鮮の疑惑を調査していると幾らでもこの人の名前が出てきますから」と発言している。


== 人物 ==
== 人物 ==

2006年9月26日 (火) 09:42時点における版

野中 広務(のなか ひろむ、1925年 10月20日 -)は、京都府 船井郡園部村(後の園部町南丹市園部町)出身の政治家自由民主党の元衆議院議員。衆院議員時代の選挙区は京都4区(当選7回)。日中友好協会顧問。日本行政書士政治連盟最高顧問。平安女学院大学客員教授。

経歴

旧制京都府立園部中学校(後の京都府立園部高等学校)卒業。日本国有鉄道職員、衆院議員・田中好の秘書、園部町議会議員(3期)、園部町長(2期)、京都府議会議員(3期)、京都府副知事を経る。府議の12年間は野党として共産党の蜷川府政と対峙する。

1983年8月に前尾繁三郎谷垣専一の両衆院議員死去に伴う衆議院旧京都2区補欠選挙で初当選し国政に参加、自治大臣国家公安委員会委員長、自民党幹事長代理、内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任し、2003年10月政界を引退。

金丸信の議員辞職に端を発した竹下派(平成研究会)分裂の際に、反小沢一郎グループの急先鋒として頭角を現した。

1994年の「自社さ」連立の村山富市政権発足時に、自治大臣・国家公安委員長として初入閣。1995年に起きた一連のオウム真理教のテロ事件に関して、同教団への破防法適用を強硬に主張した。内閣総理大臣村山富市公安調査庁に破防法適用申請を認めたものの、公安審査委員会の審議により否決された。

1996年橋本龍太郎内閣では、小沢一郎率いる新進党と連携を図ろうとする梶山静六(官房長官)ら「保保大連合」派と対立する「自社さ」派の中心メンバーとして、加藤紘一(幹事長)を支えた。

1998年の参院選の大敗で橋本が首相を退陣すると、後継の小渕恵三内閣で官房長官を務めた。小渕政権では一転して自自公連立を推進。

2000年に小渕が倒れると、密室協議(談合)で森喜朗首相を選出させた。この密接協議は、野党から厳しく批判され、追及された。また、国民にもこの談合を厳しく非難された。その後、幹事長に就任。国会で小渕の死を悼む発言をした鳩山由紀夫に対し「小渕前総理のご心労の多くがあなたにあったことを考えると、あまりにも白々しい発言」と厳しく批判した。同年秋の加藤の乱では、加藤派古賀誠(国会対策委員長)らと連携し、加藤派の多くを切り崩した。2003年の自民党総裁選で、主戦論を唱え、青木幹雄(参院幹事長)、村岡兼造(元官房長官)らと激しく対立。藤井孝男(元運輸相)を擁立して臨んだ総裁選では、首相・自民党総裁の小泉純一郎に大敗した。しかし議員引退後も各種マスコミを利用しての反小泉の活動に余念が無い。

2005年第44回衆議院議員総選挙では、かつて選挙区で後継者指名をした田中英夫が、郵政民営化法案に造反し反対票を投じたため自民から公認を得られず無所属で出馬。刺客として自民公認で出馬した中川泰宏に敗れた。中川は野中の議員時代の腹心で後継者と目されたこともあったが、2002年の京都府知事選で立候補・落選して以来、野中と対立していた。亀井静香藤井孝男野田聖子古賀誠らかつての反小泉の勢力も落選・非公認などで権力抗争から外れていったため、彼らを支援していた野中の影響力も次第に低下していった。

自民党郵政事業懇話会の会長を務め、「郵政族のドン」としても知られ、特定郵便局長会に強い影響力を持ったほか、地方自治の長い経験や自治相経験から、自治省(後の総務省)にも影響力を持っていた。

2006年以降、テレビなどでも北朝鮮との関係が囁かれており、さまざまな疑惑がある。北朝鮮問題の専門家である早稲田大学教授・重村智計は、関西の情報番組で司会者から「野中広務氏の事をどう思うか」と尋ねられた際、「私この人の名前聞きたくも無いんですよ。北朝鮮の疑惑を調査していると幾らでもこの人の名前が出てきますから」と発言している。

人物

小泉純一郎と正反対の立場から抵抗し続けていたが、2003年10月、政界を引退した。外交に関しては極左翼であり、この点でも小泉とは対立しているという見方もできる。政治姿勢としてもかなりの左派であり、自民党総裁選に際し、一部の議員をポスト目当てで小泉支持に回っていると批判し、「毒まんじゅう」という言葉を残した。

かなりの創価学会嫌いで有名で批判を繰り返してきたが、自自公連立の後はなぜか全くしなくなった。「戦後混乱期に日本が共産化されなかったのは、創価学会のおかげだ」との発言もある。裏では、かなり太いパイプがあったともいわれている。

同じハト派の古賀誠と関係が強い。

野中は自身が被差別部落出身者であることを公言しており、野中の人生は徹底した差別との闘いでもあったと、本人は語っている。この点を見ても世襲議員が要職の多数を占める自民党内で野中が特殊な存在であったことが分かる。政治的には部落解放同盟との折衝やえせ同和行為を取り締まる上で武器として利用した。


野中は国会議員としては遅咲きであったため当選回数でいうと村岡ら派の他の幹部と比較して少ない方であり、弟子筋にあたる古賀誠と同じで初当選が補選であった分、野中のほうが国会議員歴が実質短い。それだけに原則的に年功序列であったかつての自民党において野中がいかに強烈な「叩き上げ」だったかがわかる。また古賀、亀井静香鈴木宗男など協力関係にあった人物にも「叩き上げ」タイプが多い。

魚住昭の『野中広務 差別と権力』によると、世襲議員の一人である麻生太郎(本人は地盤は引き継がずと主張)は「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と発言したという。山崎拓も麻生に似た発言をして野中に徹底的に目を付けられ、野中は、編集長の父親が自分の後援会長である『週刊文春』を介して「山崎バッシング」を展開した。

また、武部勤農林水産大臣在職時の牛海綿状脳症問題発生の際、「野中を中心とする食肉業界関係の族議員などに徹底的に重要な情報を封じられた」とされ、それにより「対応の初期段階で武部の行動がやや頓珍漢だったのはこのためである」とする意見もある。その後武部は、野中との対決姿勢を取り始め同じく族議員を批判していた野党・さきがけ(後のみどりの会議)の中村敦夫から声援まで送られた(「大臣を代えてどうする」)とされる。

これらの背景は「野中が事実上押さえていた」とされるもうひとつの利権・電波(テレビ等はかつて郵政省の管轄であり、野中は「郵政のドン」としても有名だった)を介するマスメディアでは事実上黙殺されている状態であるといわれる。

「『同和利権の真相』シリーズや、野中とのつながりがあったとされるハンナン会長の浅田満逮捕の報道等で風向きは若干変わってきた」という見方もあるが、一方では「いまだ大きな風穴を開けるまでには至っていない」「依然としてマスコミはタブー扱いである」という。ハンナンの一件は「小泉以前では暴かれることはなかったのでは」という見方もある。また「小泉が、世間ではマイナスイメージのある山崎や武部を重用しているのは、政界を退いても黒幕として動く野中と対決するためである」とも言われている。

また、地元政界のみならず京都府内の各界に対する影響力が大きく、村山内閣の厚生大臣であった新党さきがけ井出正一が京都で地元選出の同党議員(当時)前原誠司と密かに会食をしていた事を帰京後の最初の閣議において野中に指摘されたというエピソードはその事を象徴している。

外交的にはハト派の野中は、中国・韓国・北朝鮮に対する土下座外交から、中国のシンパと言われたり、「拉致問題」等において北朝鮮の同調者と捉えられ、下記の発言等において強い批判を受ける。拉致家族会も野中を厳しく批判している。憲法の改正にも反対している。

  • 「拉致疑惑があるから食糧は送るなとの意見は強いが、(北朝鮮とは)従軍慰安婦植民地強制連行があった。近くて近い国にしたい。日本はコメが余っているのに隣人を助けることができないのは恥ずかしい。壁を破ってでも食糧援助をすべきだと思って環境整備をしている」(産経新聞・平成10年4月7日)
  • 「ご生前中に三度にわたりご会見の栄を得ましたことに感謝し、金日成主席閣下の不滅の遺徳が、朝鮮民主主義人民共和国の永遠の発展と日本国との友好発展の上に、大いなるお導きを願い、永久不変万年長寿をお祈りいたします」(1999年12月2日(幹事長代理当時)北朝鮮錦繍山記念宮殿を訪問した時の言葉)
  • 「隣国が困っているのに援助せず、心を通わせないで、拉致疑惑をはじめとする問題が解決するか」(平成11年12月5日・NHK 日曜討論)
  • 「日本人の拉致問題を解決しないでコメ支援はけしからんと言うが、日本国内で一生懸命吠えていても横田めぐみなんて返ってこないんだよ」(2000年3月島根県での講演において)

Template:生

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /