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== 参考文献 ==
== 参考文献(追記) /小説 (追記ここまで) ==
* {{Cite book|和書 |author = [[神田千里]] |year = 2014|title = 織田信長|publisher = [[筑摩書房]] |series = ちくま新書1093 |isbn =9784480067890 |ref = {{SfnRef|神田千里|2014}}}}
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*[[谷口克広]]『信長軍の司令官』[[中公新書]]、2005年。
*[[谷口克広]]『信長軍の司令官』[[中公新書]]、2005年。
*吉原 実『追放』北國新聞社(北國文華)第81号 2019年秋


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2019年9月13日 (金) 19:39時点における版

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佐久間信盛
『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より佐久間右衛門信成(盛)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永8年/享禄元年(1528年)?
死没 天正10年1月16日(1582年 2月18日)[1] [注釈 1]
改名 牛助(幼名)、信盛、夢斎定盛(号)
別名 通称:右衛門尉、半羽介、半介[注釈 2]
渾名:退き佐久間
戒名 洞無桂巌、宗祐(法名)
墓所 京都府紫野大徳寺 高東院
奈良県 十津川村武蔵
主君 織田信秀信長
氏族 佐久間氏
父母 父:佐久間信晴
兄弟 信盛信辰僧明嶽
前田種利の娘
信栄 、某(兵衛介)、信実安見右近大夫妻、福島正頼室、佐々氏
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佐久間 信盛(さくま のぶもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。平手政秀自害から主君の織田信長による折檻状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。佐久間氏の当主。通称は出羽介右衛門尉。子に信栄信実。従兄弟に佐久間盛次(佐久間盛政佐久間安政柴田勝政佐久間勝之の父)がいる。

生涯

尾張国 愛知郡山崎(現在の名古屋市 南区)に生まれ、織田信秀に仕えた。後に幼少の織田信長に重臣としてつけられ、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与し、信長の弟・信時守山城に置く際に城主だった信長の叔父・織田信次の家臣・角田新五らを寝返らせ、信長の弟・信行の謀反の際も稲生の戦いで信長方の武将として戦った。その功により以後家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」(殿軍の指揮を得意としたことに由来)といわれた。

信長に従って各地を転戦し、織田家の主だった合戦に参戦した。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備し、戦後に鳴海城を与えられた。永禄11年(1568年)の近江国六角義賢義治父子との観音寺城の戦いでは箕作城を落とすなどの戦功をあげた。

吏僚としての活動も見られ、永禄10年(1567年)に徳川家康の長男・松平信康に信長の娘・徳姫が嫁ぐ際に岡崎城まで供奉、家康の領地と接する西三河を任された。翌永禄11年の信長上洛後には畿内の行政担当者の1人に選ばれ、大和国松永久秀を交渉で味方に付けている。浅井長政が信長に敵対した直後の元亀元年(1570年)5月、近江 永原城に配置され、柴田勝家と共に南近江を平定(野洲河原の戦い)、姉川の戦い志賀の陣にも出陣している。

元亀2年(1571年)8月、和田惟政白井河原の戦いで敗死したため松永久秀が惟政の居城・高槻城を接収しようとしたが、信盛が交渉を行い撤兵させている[4] 。9月、比叡山焼き討ちで武功を上げ、知行地として近江国栗太郡を与えられた。11月には松永久秀と争っていた筒井順慶の帰順交渉も担当、久秀と順慶を和睦させたという。

元亀3年(1572年)4月、三好義継と松永久秀・久通父子が畠山昭高交野城を攻囲したため、交野城の救援として派遣され三好等を退散させた。7月には小谷城の城下町を攻撃。10月、武田信玄が織田家への敵対を露わにした際には、岐阜城に2,000余りの兵と共に留守居として入り美濃の守備を固めている。その後11月には平手汎秀水野信元と共に3,000の兵を率い、徳川家康軍8,000の援軍に派遣されるも、信盛は27,000の武田軍を目の当たりにして、ほとんど戦わずして、遠江と三河の国境にある浜名湖付近の今切まで退却した(三方ヶ原の戦い)。

天正元年(1573年)4月、信長の名代として織田信広細川藤孝と共に二条御所に派遣され、将軍・足利義昭と和睦の交渉を行った[5] 。同月、柴田勝家、丹羽長秀蒲生賢秀と共に、六角義治が籠城する鯰江城攻めを命じられ、四方に付城を築いて攻囲した。

8月、一乗谷城の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受ける。その際、信盛は思わず涙を流しながら「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と口答えをしてしまった為に信長をさらに怒らせ、厳罰を命じられそうになる。他の家臣達の取りなしでその場では辛うじて処罰は免れたものの、信長からは相当根に持たれる事となり、後に突きつけられた折檻状の19ヶ条の中に上記の一件も加えられている。

その後は六角氏菩提寺城を攻略し、続いて六角義賢の籠る石部城を包囲。11月には足利義昭を匿った河内 若江城主・三好義継を攻め、自害に追い込んでいる(若江城の戦い)。

天正2年(1574年)4月、前年から包囲を続けていた六角義賢の石部城を攻略。後には信盛の軍勢が入れ置かれた。7月には長島一向一揆攻めに従軍。

天正3年(1575年)の高屋城の戦い長篠の戦いにも出陣している。6月、奥三河の武節城を陥落させると奥平定能信昌父子に城を預け、織田信忠岩村城攻めに援軍として加わった[6] 。8月には転戦して越前一向一揆征伐に参加。11月、嫡男・信忠に家督と岐阜城を譲った信長を自らの館へと迎え入れている。

12月、信盛は与力の水野信元が、前月に降伏して処刑された武田氏秋山虎繁と内通し、兵糧を密かに虎繁が籠っていた岩村城に流していたとして信長に訴えたという。信長はこれに怒り、信元の甥である家康に信元を殺すように命じた。これにより信元は石川数正に三河大樹寺に誘い出されて平岩親吉によって養子の信政共々暗殺された。こうして信元の所領と居城であった刈谷城は信盛の直轄領に組み込まれた。

天正4年(1576年)1月、織田信忠が千秋季信に熱田大宮神職を与えた文書に息子の信栄と連署で副状を発給している。ほかに同様の事例が見られないことから当時、信忠を補佐する立場にあったことが指摘されている [7] 。5月には石山合戦の一環であった天王寺の戦い石山本願寺攻略戦の指揮官である塙直政が戦死したことを受け、信忠の補佐役を離れて対本願寺戦の指揮官に就任。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉紀伊といった7ヶ国の与力をつけられた信盛配下の軍団は当時の織田家中で最大規模であったが、信盛は積極的な攻勢に出ず、戦線は膠着した。この間にも天正5年(1577年)の紀州征伐と松永久秀討伐(信貴山城の戦い)にも織田軍の部将として出陣している。

天正6年(1578年)、与力の若江三人衆・多羅尾綱知が三箇城主の三箇頼照・頼連父子が毛利氏に通じて謀反を企んでいるとの噂を広めた。これを知った信長は激怒して三箇頼連を捕縛させたが、信盛がその無実を訴えたため頼連は許された。しかし多羅尾綱知は執拗に三箇父子を讒言したため、信長は信盛に頼連を誅殺するよう命じたという。この時も信盛が信長を説得して翻意させたため頼連は救われた[8]

天正8年(1580年)3月1日、朝廷より本願寺へ派遣された講和の勅使(近衛前久勧修寺晴豊庭田重保)の目付として松井友閑と共に同行を命じられる。8月2日、教如の本願寺退去を検視する勅使に友閑と共に再び同行した。こうして本願寺との10年続いた戦に終止符が打たれた。この時点まで信盛は近畿の地に織田家中で最大規模の軍団を統括していた。

同月25日、信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられて追放された信盛は、嫡男の信栄と共に高野山へと上った。その後、高野山にすら在住を許されずにさらに南に移動したと伝えられ、佐久間家の郎党も信盛父子を見捨てて去っていった。高野山に落ちる時はつき従う者は2、3名、熊野に落ちる時は1名きりだったという。なお、この最後まで付き従った者は、後に信栄が赦されて帰参が叶った時、その忠誠心を賞されて小者の身分から士分に抜擢されたという。『信長公記』はこの間の佐久間父子の凋落をあわれみをもって記している。信盛失脚後に信長の実質的な本拠地である畿内方面軍の軍団を統率することになったのは明智光秀であり[9] 本能寺の変への機会を与えた。明智軍記には佐久間らへの情け容赦ない処分を引き合いに出して、明日はわが身と家中が反乱に傾いたという記述もあり、これが事実であれば動機面での影響もあったことになる。

ただし、高野山から追い出されたというのは、『信長公記』の誤謬だともされる[10] 神田千里によれば、佐久間信盛自身の書状や『多聞院日記』の記述から、信盛が高野山で平穏に余生を送ったことがわかるという[10]

高野山在住時、山岡景友が平井阿波入道と共に信盛を訪ねてきたことがあったという。信盛はこれに感激し、涙を流して喜んだと伝わる[11]

天正10年(1582年)1月16日、紀伊国熊野あるいは高野山[10] にて死去[1] [注釈 1] した。享年55。法名は洞無桂巌または宗佑。直後に信栄は織田信忠付の家臣として帰参を許された。

資料による検証

佐久間氏の武功を記録した『佐久間軍記』には、追放について「誰かの讒言でもあったのではないか」という意味のことが書かれており、この書が成立した江戸時代初期でもそのような見方が存在していたことが窺える。

また『寛政重修諸家譜』の信栄(正勝)の項には

......後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。信盛死するののち、右府其咎なきことを知て後悔し、正勝をゆるして城介信忠に附屬せしむ。 — 『寛政重修諸家譜』「佐久間家 信榮」

と、「明智光秀の讒言があった」ことが明記されている。ただし、『寛政重修諸家譜』は18世紀末に成立したものであり、また、その内容について出典を明記していない為、注意が必要である。

家臣・与力

信長による19ヶ条の折檻状(現代語訳)

ウィキソースに佐久間信盛折檻状 の原文があります。

一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。

一、信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。

一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。

一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。

一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。

一、信盛の与力・保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。

一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。

一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである。言語道断である。

一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。

一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは高麗南蛮の国でも有名なことだ。

一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。

一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。

一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである。

一、与力ばかり使っている。他者からの攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地を無駄にし、卑怯な事をしている。

一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。

一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。

一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。

一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。

一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。

右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。

登場する作品

脚注

注釈

  1. ^ a b また、天正10年1月24日、十津川で没という説[2] 、はたまた「没年齢不詳、天正9年(1581年)7月24日、十津川で没」[3] と、没年日には異説もある。
  2. ^ 『田島文書』には「ハバノスケ」と振り仮名まで振ってあるというが原本は現存しないため、出羽介の誤りであるという説がある。

出典

  1. ^ a b 信長公記』巻15(天正10年壬午)、『佐久間軍記』続群書類従第20輯下 合戦部16による。
  2. ^ 寛政重修諸家譜』巻第531 平氏良文流佐久間「信盛」の項。
  3. ^ 『高野春秋編年輯録』
  4. ^ 天野忠幸『松永久秀と下克上 -室町の身分秩序を覆す- 』戎光祥出版、 2018年 pp.245-246
  5. ^ 久野雅司『足利義昭と織田信長 -傀儡政権の虚像- 』戎光祥出版、 2017年 p.218
  6. ^ 平山優『武田氏滅亡』角川選書、 2017年 pp.81-82
  7. ^ 木下聡「織田権力と織田信忠」(収録:戦国史研究会編『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年)
  8. ^ 五野井隆史 監修 『キリシタン大名 -布教・政策・信仰の実相- 』宮帯出版社、 2017年 p.368
  9. ^ 谷口克広『織田信長の外交』祥伝社新書、 2015年 pp.278-279
  10. ^ a b c 神田千里 2014, p. 216.
  11. ^ 『當代記 駿府記』続群書類従完成会、2006年、37頁。 

参考文献/小説

関連項目

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