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'''丹波 敬三'''(たんば けいぞう、[[1854年]]([[安政]]元年) - [[1927年]]([[昭和]]2年))は、[[明治]]・[[大正]]期の[[薬学者]]。[[摂津国]]走井村(現[[大阪府]][[豊中市]])出身。[[蘭方医]][[丹波元礼]]の三男。[[丹波直次]]、[[丹波哲郎]]、[[丹波明]]の祖父。先祖は[[丹波康頼]]。そして直系である丹波家がその末裔。
'''丹波 敬三'''(たんば けいぞう、[[1854年]]([[安政]]元年) - [[1927年]]([[昭和]]2年))は、[[明治]]・[[大正]]期の[[薬学者]]。[[摂津国]]走井村(現[[大阪府]][[豊中市]])出身。[[蘭方医]][[丹波元礼]]の三男。[[丹波直次]]、[[丹波哲郎]]、[[丹波明]]の祖父。先祖は[[丹波康頼]]。そして直系である丹波家がその末裔。


[[東京大学]]製薬学科(現在の[[薬学部]])第一期の卒業生で、[[ドイツ]]の[[フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク|エアランゲン大学]]に自費[[留学]]して[[衛生学]]・[[裁判化学]]を学ぶ。[[1887年]]帰国後、改組されて[[東京大学|東京帝国大学]]医科大学薬学科となった母校の[[教授]]となり、[[梅毒]]治療薬「[[サルバルサン]]」を研究し、これを国産化。「タンバルサン」と命名し、国内で販売すると共に、[[薬事法]]の概要の制定に携わる<ref>実際にこの法が施行されたのは[[1960年]](昭和35年)からである。</ref>など、日本の近代薬学の基礎を築いた。[[1912年]]第5代[[日本薬剤師会]]会長となる。[[1917年]][[東京薬学専門学校 (旧制、1917年 - )|東京薬学専門学校]](現在の[[東京薬科大学]])校長となり、同年[[勲一等瑞宝章]]受章。1927年死去し、[[多磨霊園]]に葬られる。
[[東京大学]]製薬学科(現在の[[薬学部]])第一期の卒業生で、[[ドイツ]]の[[フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク|エアランゲン大学]]に自費[[留学]]して[[衛生学]]・[[裁判化学]]を学ぶ(追記) <ref>明治17年留学生のメンバーは[[森林太郎]]、[[片山国嘉]]、[[丹波敬三]]、[[長與稱吉]]、[[田中正平]]、[[宮崎道三郎]]、[[隈川宗雄]]、[[萩原三圭]]、[[穂積八束]]、[[飯森挺造]]、の10名、鴎外がこの10名を日東十客ノ歌を書いている。(鴎外留学始末、1999年、5項)</ref> (追記ここまで)。[[1887年]]帰国後、改組されて[[東京大学|東京帝国大学]]医科大学薬学科となった母校の[[教授]]となり、[[梅毒]]治療薬「[[サルバルサン]]」を研究し、これを国産化。「タンバルサン」と命名し、国内で販売すると共に、[[薬事法]]の概要の制定に携わる<ref>実際にこの法が施行されたのは[[1960年]](昭和35年)からである。</ref>など、日本の近代薬学の基礎を築いた。[[1912年]]第5代[[日本薬剤師会]]会長となる。[[1917年]][[東京薬学専門学校 (旧制、1917年 - )|東京薬学専門学校]](現在の[[東京薬科大学]])校長となり、同年[[勲一等瑞宝章]]受章。1927年死去し、[[多磨霊園]]に葬られる。


==脚注==
==脚注==

2013年1月3日 (木) 01:10時点における版

丹波 敬三(たんば けいぞう、1854年(安政元年) - 1927年(昭和2年))は、明治大正期の薬学者摂津国走井村(現大阪府 豊中市)出身。蘭方医 丹波元礼の三男。丹波直次丹波哲郎丹波明の祖父。先祖は丹波康頼。そして直系である丹波家がその末裔。

東京大学製薬学科(現在の薬学部)第一期の卒業生で、ドイツエアランゲン大学に自費留学して衛生学裁判化学を学ぶ[1] 1887年帰国後、改組されて東京帝国大学医科大学薬学科となった母校の教授となり、梅毒治療薬「サルバルサン」を研究し、これを国産化。「タンバルサン」と命名し、国内で販売すると共に、薬事法の概要の制定に携わる[2] など、日本の近代薬学の基礎を築いた。1912年第5代日本薬剤師会会長となる。1917年 東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)校長となり、同年勲一等瑞宝章受章。1927年死去し、多磨霊園に葬られる。

脚注

  1. ^ 明治17年留学生のメンバーは森林太郎片山国嘉丹波敬三長與稱吉田中正平宮崎道三郎隈川宗雄萩原三圭穂積八束飯森挺造、の10名、鴎外がこの10名を日東十客ノ歌を書いている。(鴎外留学始末、1999年、5項)
  2. ^ 実際にこの法が施行されたのは1960年(昭和35年)からである。
先代
下山順一郎
日本薬剤師会会長
第5代:1912年 - 1914年
次代
丹羽藤吉郎

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