「テレサ・テン」の版間の差分
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2011年6月9日 (木) 12:43時点における版
テレサ・テン | |||||
---|---|---|---|---|---|
繁体字 | 鄧麗君 | ||||
簡体字 | 邓丽君 | ||||
漢語拼音 | Dèng Lìjūn | ||||
粤拼 | dang6 lai6 gwan1 | ||||
出生名 | 鄧麗筠 | ||||
生誕 |
(1953年01月29日) 1953年 1月29日 台湾 雲林県 褒忠郷田洋村 | ||||
死没 |
(1995年05月08日) 1995年 5月8日(42歳没) タイ-チェンマイ | ||||
墓地 | 金宝山 | ||||
別名 | 小鄧 | ||||
英語名 | Teresa Teng | ||||
職業 | 歌手 | ||||
ジャンル | C-POP、J-POP、演歌 | ||||
レーベル | Polydor/PolyGram、EMI、Columbia、Atlantic | ||||
活動期間 | 1967年 – 1995年 | ||||
祖籍 | 河北省 大名県鄧台村 | ||||
受賞
| |||||
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テレサ・テン(鄧麗君、デン・リージュン、1953年 1月29日 ‐ 1995年 5月8日)は、1970年代から1990年代にかけて主に中華圏 アジアと日本を中心に活躍した台湾の歌手。日本や台湾、香港をはじめとする東アジアで絶大な人気を誇っていることから、「アジアの歌姫」と呼ばれている。台湾を代表する歌手の一人。
英語名のテレサ (Teresa) は、彼女自身が尊敬するマザー・テレサに因んでつけたものと言われてきたが、実際はカトリック信徒だった彼女の洗礼名を転用したことが明らかにされている。テンは本名の姓『鄧』の中国語音をウェード式表記し、英語読みしたものである。
作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えるという[1] 。
経歴
1953年に台湾の雲林県で生まれた外省人。父親は中国大陸 河北省、母親は山東省出身の共に外省人で、父親は元国民党軍(国府軍)の職業軍人だった。彼女自身生前軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、台湾では「軍人の恋人」というニックネームでも有名。
日本ではどちらかというと演歌歌手のイメージが強いが、実際はかなり幅広いジャンルの歌を歌っており、台湾や香港などで出されたアルバムには、演歌やムード歌謡に加えて台湾民謡や英語のポップス、日本語ポップスのカバー曲なども多数含まれている。外国語にも堪能であり、北京語に加えて台湾語、広東語、日本語、英語に堪能で、山東語、マレー語、フランス語などの言葉も話せたと言われる。日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越す。
1973年に香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔(のちトーラスレコード社長)との出会いがきっかけで日本での活動を開始、ユニバーサルミュージック(当時は「日本ポリドール」)と契約し、アイドル歌謡曲路線の『今夜かしら明日かしら』でデビューしたが、売れ行きが思わしくなかったため不発。演歌路線に変えたところ、日本でのデビュー2作目となる『空港』が大ヒット、第16回日本レコード大賞新人賞を獲得する。その後米国で暮らし、再来日を果たすまでは、香港を活動の拠点にしていた。中華圏のCDショップでは今でも、1982年 - 1984年頃の香港や台湾での公演の様子を収めたDVDがよく売られている。
1984年再来日。レコード会社をトーラスレコード[2] に移籍、日本でリリースした『つぐない』、『愛人』がそれぞれ150万枚[3] 、『時の流れに身をまかせ』が200万枚[4] を売る大ヒットとなる。1984年から1986年にかけ、日本有線大賞及び全日本有線放送大賞の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞した。1985年12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらしたNHKホールコンサートが開催される。この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして高い評価を得ている。
1987年、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動を殆ど休止するようになった。1990年以降はパリに居住。中華人民共和国の北京における天安門事件に対する反対集会にも参加し、亡命した民主化活動家とも交流を持った。1990年代に日本をはじめとするアジア各国で二回ほど彼女の死亡説が流れたりもした(一度目は1990年5 - 6月に父親の葬儀への欠席をきっかけに病死説が、二度目は翌1991年4 - 5月に病死説・暗殺説が流れている。死亡説に対してはそれを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げられた)。1980年代後半以降のテレサは演歌・ムード歌謡というよりもJ-POP寄りで、ASKAや桑田佳祐、ZARDの坂井泉水らの曲も歌っているため、必ずしも演歌歌手とはいえない部分が多い。日本での最後のテレビ出演は、1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』(仙台市にて公開録画)だった。
1995年 5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳の若さだった。
富と名声はあるのに、孤独な独身生活を送っていた。
同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。墓所は台北市の北東に位置する台北県 金山郷の金宝山にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「筠園」と呼ばれている。墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。没後10年目に当たる2005年5月8日には、日本をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず防腐加工などを施され土葬された。没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこのような形で眠っているのは、蒋介石、蒋経国、テレサ・テンの三人だけである。
1995年の春にレコーディングする予定で作られた新曲「泣かないで」は、テレサが亡くなった翌年に新人歌手が歌い追悼にした。のち、「忘れないで - time to say good-bye -」として、七回忌に当たる2001年にアグネス・チャンと北原ミレイによって同時にレコーディングされ、追悼の意が表された。
日本における発売元であるユニバーサルミュージックは、テレサの死後もCDやDVDを発表し、2008年5月時点で計200万枚を売り上げている[5] 。
(テレサ・テンの活動年次は、「平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』晶文社」に基づく)
テレサ・テンと有線放送
テレサ・テンと有線放送は切っても切れない関係にある。1985年に大ヒットした『愛人』は、有線放送のリクエストチャートで14週連続1位を記録。また、全日本有線放送大賞では1984年の『つぐない』、1985年の『愛人』、1986年の『時の流れに身をまかせ』で3連覇を達成して、浜崎あゆみが2003年に4連覇を達成するまでは誰も破ることが出来なかった。また、日本有線大賞でもやはり1984年の『つぐない』、1985年の『愛人』、1986年の『時の流れに身をまかせ』で3連覇を達成しているが、東西有線大賞3年連続同時大賞・グランプリ達成という記録は2008年現在誰にも破られていない。
テレサ・テンと中華人民共和国
テレサ・テンの歌は、1974年頃から音楽テープによって、中国共産党の一党独裁国家で、表現の自由だけでなく、諸外国の音楽の流入も制限されていた中華人民共和国に入り始めた。
彼女が歌う「何日君再来」は、1980年代初頭に日中戦争中の抗日歌として解釈され、中国大陸で爆発的にブームとなった。中華人民共和国と敵対関係にある台湾国民党政府は、中国大陸に隣接する金門島から彼女の歌声を大音量で大陸に向けて流したり、音楽テープを付けた風船を大陸に向けて飛ばしたりすることで、中華人民共和国における反日感情を反政府感情にシフトさせる宣伝の道具として彼女の歌を利用した。そのため中華人民共和国の当局は、彼女の歌を不健全な「黄色歌曲」(ピンク歌曲)と位置づけて音楽テープの販売・所持等を禁止する措置を取り、これは1983年末まで続けられた。中華人民共和国で彼女の歌が禁止されていた時期でも実際には海賊版の音楽テープなどがかなり流布しており、それらを通して彼女の歌声を聞いていた人も多かった。1987年に両政府の関係改善がおこなわれ、台湾の商品を大陸で販売できるようになったことから、オリジナルの音楽テープが入るようになった。
中華人民共和国での彼女の人気の高さを物語るエピソードとして、当時、中華人民共和国の国民の間で「昼は老鄧(鄧小平)のいうことを聞き、夜は小鄧(鄧麗君:テレサ・テン)を聴く」、「中華人民共和国は二人の鄧(鄧小平と鄧麗君)に支配されている」といったようなジョークが流行っていたことなどを挙げることができる。
1989年 6月4日に発生した中国共産党政権による反政府活動弾圧・虐殺事件である天安門事件の際には、香港で行われた民主化デモ弾圧に対する抗議集会に参加、民衆の前で歌を披露し、自ら中華人民共和国の民主化実現を訴えた。中国共産党政府による一党独裁を否定したテレサは、イギリスから中華人民共和国に返還・譲渡されることが決まっていた香港を発ち、フランスのパリへ移住した。生前、彼女は中華人民共和国でのコンサートを熱望していたものの、天安門事件で中国共産党政府に失望し、実際にそれが実現することはなかった。
以上の行動から、テレサ・テンを「中華民国(台湾)の広告塔」ととらえる見方もあった。
代表曲
日本で発表した主な楽曲
- 今夜かしら明日かしら(1974年3月1日)
- 空港(1974年7月1日 第16回日本レコード大賞新人賞)
- 雪化粧(1974年10月21日)
- 女の生きがい(1975年3月21日)
- 夜の乗客(1975年7月1日)
- アカシアの夢(1975年10月21日)
- 夜のフェリーボート(1976年6月1日)
- ふるさとはどこですか(1977年2月1日)
- あなたと生きる(1977年8月21日)
- 東京夜景(1978年5月10日)
- ジェルソミーナの歩いた道(1981年2月28日)
- つぐない(1984年1月21日 日本有線大賞大賞)
- 愛人(1985年2月21日 日本有線大賞大賞)
- 時の流れに身をまかせ(1986年2月21日 全日本有線大賞大賞 第28回日本レコード大賞金賞 )
- スキャンダル(1986年11月21日)
- 別れの予感(1987年6月21日 全日本有線大賞大賞)
- 恋人たちの神話(1988年1月25日 東京音樂節)
- 香港〜Hong Kong〜(1989年3月8日)
- 悲しい自由(1989年7月26日)
- 涙の条件(1990年3月28日)
- 悲しみと踊らせて(1991年7月)
- あなたと共に生きてゆく(1993年5月12日)
- 愛的陽差(1992年5月27日)
国語(台湾)の主な楽曲
- 一個小心願
- 又見炊煙
- 千言萬語
- 小村之戀
- 小城故事
- 不管你是誰
- 少年愛姑娘
- 月亮代表我的心
- 四個願望
- 再見!我的愛人
- 高山青
- 中華民國頌
- 往事如昨
- 風從那裡來
- 香港之夜
- 原鄉人
- 原鄉情濃
- 海韻
- 酒醉的探戈
- 彩雲飛(我怎能離開你)
- 情人的關懷
- 梅花
- 淚的小雨
- 甜蜜蜜
- 幾多愁
- 雲河
- 雲深情也深
- 愛人
- 獨上西樓
- 償還
- 襟裳岬
※(注記)1983年に、中国の古典詩に曲を付けて歌ったアルバム『淡淡幽情』が香港から発売され、香港の『アルバム・オヴ・ザ・イヤー』を受賞。収録曲に『独上西楼』『但願人長久』など。
広東語の主な楽曲
- 漫步人生路
- 忘記他
- 遇見你
- 風霜伴我行
- 浪子心聲
- 雪中情
- 東山飄雨西山晴
- 遇到舊情人
- 向日葵
- 從今日起
- 檳城豔
- 雨中追憶
- 相思涙
- 誰在改變
- 有誰知我此時晴
台湾語(閩南語)の楽曲
- 天黑黑
- 思想起
- 走馬燈
- 快樂的出帆
- 望春風
- 雨夜花
- 碎心戀
- 祖母的話
- 難忘的愛人
- 人生是一條路
- 賣肉粽
- 三聲無奈
- 安平追想曲
- 舊情綿綿
- 六月茉莉
- 心酸酸
- 勸世歌
- 十一哥
- 心酸孤單女
- 縁投囝仔
- 阿里山的姑娘
日本語歌謡曲の中国語カバー曲
- 愛人(愛人)
- 償還(つぐない)
- 我只在乎你(時の流れに身をまかせ)
- 情人的關懷(空港)
- 夏日聖誕(MERRY X'MAS IN SUMMER)
- 漫歩人生路(ひとり上手)
- 襟裳岬(襟裳岬)
- 遇見你 (北酒場)
- 再來一杯(二人でお酒を)
- 再見我的愛人(グッド・バイ・マイ・ラブ)
- 誰來愛我(港町ブルース)
- 我和你(北国の春)
- 一片落葉(津軽海峡冬景色)
- 四個願望(四つのお願い)
- 愛的理想(あなた)
- 無奈(鵜戸参り)
- 如果我有勇氣(勇気があれば)
- 山茶花( みちづれ (牧村三枝子の曲))
※(注記)かっこ内は原曲の名称。日本語歌謡曲のカバー曲は他にも多数存在する。詳細については外部リンク参照。
テレビドラマ出演
- 子供が見てるでしょ! 第7話「愛人」(1985年、TBS) - 本人役
パチンコ
演じた女優・歌手
関連文献
- 平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』晶文社、1996年、ISBN 4794962525
- 宇崎真・渡辺也寸志著『テレサ・テンの真実』徳間書店、1996年、ISBN 4198604134
- 篠崎弘著『カセット・ショップへ行けばアジアが見えてくる』朝日新聞社、1988年、ISBN 4022558660
- 上村幸治著『台湾 アジアの夢の物語』新潮社、1994年、ISBN 4104016012
- ファンキー末吉・古川典代共著『中国語で歌おう!まるごとテレサ・テン編』アルク、2001年、ISBN 475740381X
- 有田芳生著『私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実』文藝春秋、2005年、ISBN 9784163668406
- 鈴木章代著『純情歌姫"テレサ・テン最後の八年間"』角川書店、2007年4月10日、ISBN 9784048839457
脚注
- ^ 邓丽君的生前身后幕后事--专访邓丽君大弟邓长禧先生、SOHU.com、2003年5月6日(中国語)
- ^ 当時は東芝EMIが流通を担当。後にユニバーサルミュージックの再編でニュートーラスを経てユニバーサル本体に併合
- ^ 長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』社会思想社、2002年、296頁。ISBN 4390116495
- ^ 長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』297頁。
- ^ 「あすは何の日 『アジアの歌姫』死去」朝日新聞 2008年5月7日付夕刊、p.16。
関連項目
外部リンク
第1回 - 第10回 (1968年 - 1977年) | |
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第11回 - 第20回 (1978年 - 1987年) | |
第21回 - 第30回 (1988年 - 1997年) | |
第31回 - 第40回 (1998年 - 2007年) | |
第41回 - 第50回 (2008年 - 2017年) |