「啓徳空港」の版間の差分
2008年1月17日 (木) 17:15時点における版
旧香港国際空港 (啓徳空港) (閉鎖) | |||
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Quick Info | |||
空港種別 | 民間 | ||
開港日 | 1925年 | ||
閉鎖日 | 1998年7月7日 | ||
近隣都市 | 香港 | ||
市街地からの距離 | 0km | ||
緯度 | 北緯22度20分 | ||
経度 | 東経114度11分 | ||
IATAコード | ICAOコード | ||
滑走路 | |||
方向 | 全長 | 表面 | |
13L/31R | 3,390m | 舗装 | |
統計 | |||
1996年 | |||
乗降客数 | 29,500,000人 | ||
貨物 | 1.56トン |
啓徳空港(かいたっくくうこう、中: 啟德機場, 英: Kai Tak Airport)は、1925年 1月24日から1998年 7月5日にわたって香港・九龍のビクトリア・ハーバーに面した九龍城地区、九龍半島の北東端にあった国際空港。
正式な名称は「香港国際機場」だったが(後述)、所在地付近の地名から「啓徳機場」と通称された。日本語では、広東語読みとそれから音写されたアルファベット表記から「カイタック(またはカイタク)」と読まれることが多かったが、日本語の音読みで「ケイトク」とも読まれることもあった。
沿革
いきさつ
「啓徳」という地名の由来は、何啓氏と區德氏が経営した「啓德投資公司」が、ビクトリア・ハーバーに面した九龍湾北岸の辺りを埋めたことから、新しくできた土地が、二人の名前であり、会社名でもある「啓徳濱」と名づけられた。
のちにアメリカ人のハリー・アボット(Harry Abbott)は、航空学校を設立するため、「啓徳濱」の一部を貸し、滑走路を作ったが、あっという間に閉鎖された。1927年3月「啓徳濱」は香港政府に徴用され、新しい軍用空港として生まれ変わり、1937年には軍民両用の空港となった。これが「啓徳空港」である。
拡張
1941年 12月8日、太平洋戦争勃発と伴い日本軍による香港侵攻の際、空港は猛烈な爆撃を受け、空港内にあったイギリス軍の航空機や施設がほとんど破壊された。同年12月25日、香港は陥落した。1942年 3月、日本軍は数千人を動員し、周辺の村々に加え、宋王台などの文化財、さらに九龍城砦の城壁などを取り壊し、そこから得た石材で滑走路の延長など設備の充実が図られたが、1945年に入ると連合国の反撃により空港は再び爆撃を受け、甚大な被害を受けた。
戦後、香港政府は空港を修復するため、取り壊された宋王台の跡地をそのまま利用した。現在空港跡地の近くにある宋王台の石碑は実はレプリカで、大きさは実物の三分の一に過ぎない。その後ジェット機の就航などに伴い滑走路が延長されるなど設備の充実が継続して行われ、1962年に正式名称が香港国際空港(香港國際機場、Hong Kong International Airport)となった。
廃港
1998年、ランタオ島北側の赤鱲角(Chek Lap Kok、チェク・ラプ・コック)に新しい香港国際空港が完成、7月6日開港が決定したのをうけて、啓徳空港は7月5日の最終便をもって閉鎖された。啓徳空港に割り当てられていたIATA 空港コードのHKGとICAO空港コードのVHHHは新空港に引き継がれた。
空港の閉鎖後、建物が取り壊されるまでに、滑走路はBEYOND、張惠妹などの大型コンサートに数回使用された。空港の跡地には、公園およびショッピングセンター、高層アパート、オフィスなどが建設される予定である。
香港カーブ
啓徳空港といえば、滑走路13へのアプローチの際大きく機体を傾けつつ九龍仔公園上空近辺で機体を右旋回させ、ビル群すれすれの高さを飛行して着陸する「香港アプローチ(香港カーブ)」が有名であった。香港アプローチは、香港を訪れる観光客や航空ファンには人気で、香港名物とも言われた。
しかし、着陸に際してはパイロットにとっては相当な技量が要求されるものであり(カーブするアプローチのため計器着陸装置を解除しなくてはならない)、飛行すべき場所の目安となるようにチェッカーボードがビルの屋上などに取り付けられていた(中でも旋回前に正面に見える丘にある巨大なチェッカーボードは撮影ポイントとしても有名)。
それでも、アプローチに失敗して着陸復航したり、オーバーランして滑走路先の海中に突っ込んだり、しりもち着陸をしたり、エンジンを地面に接触させたりする旅客機が少なくなかった。
主な事故
滑走路をオーバーランして海中に突入したり、着陸時にしりもちを起こすなどの事故は多かったものの、パイロットが過度に緊張するためか、着陸に失敗し市街地に突っ込むような事故は皆無であった。また当時は、着陸誘導灯と誤認しないために、香港内の全てのネオンサインは点滅させてはいけない決まりになっていた。
- 1946年9月25日、香港発ベトナムのサイゴン(現ホーチミン市)行きのイギリス空軍 C-47輸送機が離陸後、九龍塘に墜落。19人死亡。
- 1951年3月11日、パシフィックオーバーシーズエアラインのC-54が離陸後、操作ミスで山に衝突。26人死亡。
- 1958年8月31日、沖縄発香港行きのアメリカ空軍C-54輸送機が13/31滑走路と07/27滑走路の交差点で衝突事故を起こしたが、けが人はなし。残骸は07/27滑走路を塞いだため、空港側は翌日開放予定の13/31新滑走路を早めに開放した。
- 1965年8月24日、アメリカ陸軍のC-130輸送機が離陸直後、滑走路先の海中に突入。59人死亡。啓徳空港で起こった最悪の事故となる。
- 1967年6月30日、タイ国際航空のSud Aviation SE210カラベル旅客機が着陸時にオーバーランし滑走路先の海中に突入。14人死亡、56人負傷。原因は台風という悪天候と操作ミスだった。
- 1967年11月5日]、キャセイ・パシフィック航空のコンベア880型機が離陸に失敗し、滑走路先の海中に突入。1人死亡、14人負傷。
- 1988年8月31日、中国民航の広州発香港行きトライデントTr-2Eが着陸時にオーバーランし滑走路先の海中に突入。乗員6名、乗客1名が死亡。
- 1993年11月4日、中華航空の台北発香港行きボーイング747-400型機が着陸時にオーバーランし滑走路先の海中に突入。1名死亡。
閉港後の変化
閉港後、ターミナルビルは取り壊されずに残され、香港政庁の合同庁舎(啓德政府大樓・Kai Tak Government Building)として、従前の設備を利用して税関や入国管理当局の訓練所などとして利用され、この他、出発ターミナルだった場所にはゲームセンターや屋内ゴーカート乗り場などのアミューズメント施設も入居していたが、2004年 9月頃から始まった工事により、現在では取り壊されてしまった。現在では再開発が進み、滑走路跡地は大量の土が盛ってある。
市街地の上空を飛行機が通過する都合上、空港周辺ではビルの高さに制限が設けられていた。空港に近づくにつれて低いビルしか建てられないというものだったが、空港が無くなった現在はその規制も撤廃された。 そのため、例えば高級住宅地の九龍塘では、従来12階建て相当の高さに規制されていたが、現在ではその内の数軒が30階建て程度のマンションに建て替えられるなど、景観に変化が出始めている。
また、空港に誘導するための着陸誘導灯が無くなったため、市街地でのネオンサインの点滅が解禁となった。
乗り入れ航空会社(一部)
ハブを置いていた会社
乗り入れていた航空会社
- 日本航空
- 全日空
- チャイナエアライン
- エバー航空
- 民航空運公司
- 中国国際航空
- 大韓航空
- アシアナ航空
- フィリピン航空
- タイ国際航空
- マレーシア航空
- シンガポール航空
- スリランカ航空
- エミレーツ航空
- ブリティッシュ・エアウェイズ(英国海外航空)
- エールフランス航空
- アリタリア航空
- スカンジナビア航空
- パンアメリカン航空
- ノースウエスト航空
- ヴァリグ・ブラジル航空
- カンタスオーストラリア航空
- マダガスカル航空
- 南アフリカ航空