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「三沢光晴」の版間の差分

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== 主な獲得タイトル ==
== 主な獲得タイトル ==
=== プロレスリング・ノア ===
=== プロレスリング・ノア ===
(削除) ; (削除ここまで) [[GHC]]ヘビー級王座(3回/初代・第5代・第11代(現王者))
(追記) * (追記ここまで) [[GHC]]ヘビー級王座(3回/初代・第5代・第11代(現王者))
(削除) ; (削除ここまで) GHCタッグ王座(2回/第2代・第8代)
(追記) * (追記ここまで) GHCタッグ王座(2回/第2代・第8代)
: パートナーはいずれも[[小川良成]]。
: パートナーはいずれも[[小川良成]]。



2007年12月29日 (土) 10:16時点における版

三沢光晴
プロフィール
リングネーム 三沢光晴
タイガーマスク(2代目)
カミカゼ・ミサワ
リオン
本名 三澤光晴
ニックネーム エルボーの貴公子
方舟の盟主
アンタッチャブル
ガラスのエース
身長 185cm
体重 110kg
誕生日 (1962年06月18日) 1962年 6月18日(62歳)
出身地 北海道 夕張市
所属 プロレスリング・ノア
スポーツ歴 レスリング
器械体操
トレーナー ジャイアント馬場
ザ・デストロイヤー
ドリー・ファンク・ジュニア
ジャンボ鶴田
デビュー 1981年 8月21日
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三沢 光晴(みさわ みつはる、本名:三澤 光晴1962年 6月18日 - )は、日本の男子プロレスラー北海道 夕張市生まれ、埼玉県 越谷市育ち。プロレスリング・ノア(以下ノア)代表取締役社長。あわせて2006年 9月グローバル・レスリング連盟初代会長に就任。身長185cm、体重110kg。血液型O型。

現在、関東地区で放映中の「リーヴライフ21(ザ・リーヴ)」のコマーシャルに出演中である。

人物

人気・実力などにおいて新日本プロレス蝶野正洋全日本プロレス武藤敬司、プロレスリング・ノアの小橋建太と共に、日本の男子プロレス界の頂点に君臨する。いくら打たれても投げられても立ち上がってくるところから「ゾンビ三沢」「受け身の天才」「アンタッチャブル」と称され、若い頃には端整な顔立ちから「エルボーの貴公子」とも呼ばれたが、一方で全日本プロレス時代はしばしば満身創痍の状態でリングに上がりつづけていたことから、「ガラスのエース」とも呼ばれていた。

一貫してグリーンを基調としたロングタイツを着用し続けている。理由として、

  • 彼が好きだった正統派外国人レスラー、ホースト・ホフマンに倣った物であること
  • 占い師に「貴方は緑がいい」と助言されたこと

などが挙げられている。例外的に、マスクを脱いだ直後の試合で新コスチュームが間に合わず、タイガーマスクのロングタイツを使用して試合を行なった事がある。

また、彼が旗揚げしたプロレスリング・ノアでは、リングマットに自身のイメージカラーと同じエメラルドグリーンの物を使用している。これは「目に優しい色だから」という理由もあるようだが、日本のプロレス・格闘技団体では青を採用することが多いため、プロレス専門誌の写真などでも特徴的な印象を与えている。

経歴

生い立ち〜若手時代

1962年 6月18日北海道 夕張市に生まれる。埼玉県と北海道の間で転居を繰り返すが、両親が離婚したために兄と共に母方の三沢家に引き取られ越谷市に移り住む。幼少の頃、兄と一緒にテレビに流れる全日本プロレス中継を見て「見るもんじゃなくてやるもんだな」「俺ならもっと面白く出来る」と思いプロレスラーへの憧憬を抱く。中学3年の時に家を抜け出し全日本プロレスの事務所まで押しかけたが、事務所の前にいたジャンボ鶴田に「僕は大卒だけど入門が遅すぎたとは思わない。高校を出てからまたおいで。」と説得され、高校への進学を決意。

1978年
  • 長く盟友として苦楽を共にする一つ下の後輩川田利明とはこの時に出会っている。
1981年
  • 3月 - 全日本プロレスに入門。同年8月21日、埼玉・浦和競馬場正門前特設リングにて同期の越中詩郎を相手にプロレスデビュー。同年10月シングル戦初勝利。
1982年
1983年
  • 4月 - ルー・テーズ杯争奪戦で準優勝。

2代目タイガーマスク時代

1984年
  • 3月 - 越中と共にメキシコに遠征に出発。同年7月極秘帰国し、2代目タイガーマスクに変身。東京・蔵前国技館にてお披露目される。
  • 8月26日 - 田園コロシアムにてラ・フィエラを相手にデビュー戦を行い、8分37秒、タイガー・スープレックス'84で勝利。
1985年
  • 6月 - 日本武道館にて小林邦昭の持つNWAインターナショナルジュニア・ヘビー級王座にタイトル初挑戦するも敗退。
  • 8月 - 両国国技館にて再び同タイトルに挑戦し、15分36秒、タイガー・スープレックス'85で小林邦昭に勝利、シングル王座初戴冠。
  • 10月 - チャボ・ゲレロを相手に王座防衛の後、ヘビー級転向のため返上。
1986年
  • 7月 - 両国国技館にて「猛虎7番勝負」番外戦、ザ・グレート・カブキに勝利。
  • 10月 - 岡崎市体育館にて「猛虎7番勝負」第1戦、谷津嘉章に敗北。
  • 11月 - 世界最強タッグ決定リーグ戦にジャイアント馬場とのタッグで初出場。
1987年
1988年
  • 2月 - 後楽園ホールにてカート・ヘニングの持つAWA世界ヘビー級王座に挑戦、リングアウト勝利するもルールによりタイトル獲得ならず。
  • 3月 - 横浜文化体育館にて「猛虎7番勝負」最終戦、鶴田に敗北。
  • 5月10日に現夫人と結婚。同時にタイガーマスクの正体を発表する。
  • 6月 - 仲野信市高木功高野俊二田上明と共に決起軍を結成。
  • 9月 - 試合中の怪我で左膝の靭帯を切断。シリーズを数日間欠場しただけで無理をして復帰する。
1989年
  • この試合後左膝の怪我が深刻化、手術を受けるために長期欠場に入る。この間に決起軍解散(馬場の「全然、決起してない」という一喝から)
1990年
  • この後突如、天龍がSWSに電撃移籍。その後も多くの所属選手が天龍の後を追い、大量離脱騒動が起こる。

素顔〜3冠王座時代

  • 5月14日 - 川田とのタッグで谷津、サムソン冬木(故:冬木弘道)と対戦。試合中冬木の執拗なマスク剥ぎ行為にあい、自らマスクを取って投げ捨て冬木に突進。素顔の三沢光晴に戻る。広島県立体育館にてアジアタッグ王座初防衛後に返上。
  • 現在まで続く三沢のイメージカラーである"緑"はこの時期に固まった。
  • 6月8日 - 日本武道館にてジャンボ鶴田との一騎討ち。これに勝利して下の世代で初めて鶴田越えを達成。
  • 7月 - 松戸市運動公園体育館にてテリー・ゴディが返上した三冠統一ヘビー級王座をスタン・ハンセンと争うことに。しかし惜しくも王座奪取ならず。
  • 8月の強化合宿にて川田・田上・小橋・菊地毅・浅子と共に「超世代軍」結成。
  • 田上は鶴田のパートナー指名を受けて超世代軍としての活動を殆どしないまま離脱。
1991年
1992年
  • 3月 - 日本武道館にてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、敗れる。
  • 6月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界タッグ王座挑戦、鶴田&田上組に敗れる。
  • 8月 - 日本武道館にてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第10代王者に。
  • その直後、鶴田がB型肝炎発症を理由に長期離脱。名実共に全日本のエースになる。
  • 10月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 12月 - 日本武道館にて川田をパートナー世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で田上&秋山準組を下し優勝、第20代世界タッグ王者となる。
1993年
  • 1月、千葉県体育館にて世界タッグ王座防衛戦、ゴディ&ウィリアムス組に敗れ王座転落。
  • 2月、日本武道館にて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 4月、川田が超世代軍離脱を表明。いわゆる四天王プロレスが幕を開ける。

四天王時代

  • 5月 - 日本武道館にてハンセンを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 6月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界タッグ王座挑戦、川田&田上組に敗れる。
  • 7月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 9月 - 日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 10月 - 日本武道館にてハンセンを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナー世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し優勝、第24代世界タッグ王者となる。
1994年
  • 3月 - 馬場から初のピンフォール勝ち。チャンピオン・カーニバルダグ・ファーナス戦で喰らった技が原因で歩行困難に。途中リタイアとなる。
  • 5月 - 札幌中島体育センターにて川田&田上組を相手に世界タッグ王座防衛戦。40分を越える激闘の末、勝利。
  • 6月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座戦を戦い、タイガードライバー'91を解禁し防衛。
  • 7月 - 清水市営体育館にてウィリアムス&ジョニー・エース組を相手に世界タッグ王座防衛戦、王座防衛。日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、ウィリアムスの殺人バックドロップの前に敗れ王座転落。
  • 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でウィリアムス&エース組を下し優勝。第25代世界タッグ王者となる。
1995年
  • 1月 - 山形県体育館にて川田&田上組を下し世界タッグ王座初防衛。
  • 3月 - 日本武道館にてウィリアムス&エース組を下し世界タッグ王座防衛。
  • 4月 - チャンピオン・カーニバルの試合中に川田の蹴りを浴びて左眼窩骨折の重傷。以後、試合に出続けて、日本武道館での優勝決定戦で田上に勝利して初優勝。
  • 5月 - 札幌中島体育センターにてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第14代王者に。
  • 6月 - 日本武道館にて川田&田上組に敗れ世界タッグ王座から転落。
  • 7月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 9月 - 日本武道館にて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 10月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに川田&田上組の持つ世界タッグ王座に挑戦、引き分け。日本武道館にて小橋を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し2連覇。
1996年
  • 1月 - 日本武道館にてゲーリー・オブライトを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 5月 - 札幌中島体育センターにて秋山をパートナーに川田&田上組の世界タッグ王座に挑戦。勝利し第29代王者になる。札幌中島体育センターにて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座戦。田上の迎撃式のど輪落としに敗れ王座転落。
  • 6月 - 日本武道館にてウィリアムス&エース組を下し世界タッグ王座防衛。
  • 7月 - 石川県産業展示館にて川田&田上組を下し世界タッグ王座防衛。
  • 9月 - 日本武道館にてウィリアムス&エース組に敗れ世界タッグ王座から転落。
  • 12月 - 秋山をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦出場。最終戦で敗れ準優勝。
1997年
  • 1月 - 大阪府立体育会館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、40分を越える激闘を制し王座奪取。第17代王者になる。
  • 4月 - 日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。日本武道館のチャンピオン・カーニバル優勝決定巴戦にて川田に初のフォール負けを喫し優勝を逃す
  • 三沢はこの試合の前に小橋と30分フルタイムを戦ったばかりで明らかにスタミナ切れだった。
  • 5月、小橋が超世代軍を正式に離脱。
  • 6月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 7月 - 日本武道館にて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 8月 - 札幌・中島体育センターにて秋山をパートナーにウィリアムス&オブライト組の持つ世界タッグ王座に挑戦するも敗北。
  • 9月 - 日本武道館にて秋山を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 10月 - 日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 10月21日 - 日本武道館にて小橋を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。この年のプロレス大賞・ベストバウト賞に選ばれる大激闘だった。
  • 12月 - 秋山をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦出場。最終戦で敗れ準優勝。
1998年
  • 1月 - 大阪府立体育会館にて秋山を相手に三冠統一ヘビー級王座戦。新技エメラルドフロウジョンを初披露し防衛。
  • 2月 - 日本武道館にてジョニー・エースを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 4月 - 日本武道館のチャンピオン・カーニバル優勝決定戦で秋山を下し2年ぶりの優勝。
  • 5月 - 全日本初の東京ドーム大会開催。川田に敗れ三冠統一ヘビー級王座を失う。長く続く激闘を考慮し、馬場社長の命を受け暫く休養に入る。8月に復帰。この間自ら志願して一部試合のマッチメークを任される。
  • 9月 - 秋山戦に敗れた小川良成に試合後寄り添い、タッグチーム「アンタッチャブル」結成。超世代軍はこれをもって消滅。
  • 10月 - 日本武道館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第20代王者に。
  • この試合でプロレス大賞・ベストバウト賞を2年連続受賞。

馬場時代の終焉〜三沢体制への移行から苦悩の時代へ

1999年
  • 1月 - 全日本の象徴であった馬場が逝去。2月、鶴田が引退。全日本の内情は暫し混迷する。三沢もこの時期かなり悩み、マスコミの取材に対し、弱気な発言をする時もあった。
  • 3月 - 日本武道館にてアンタッチャブルとして小橋&秋山組の持つ世界タッグ王座に挑戦するも敗北。
  • 5月 - 馬場の引退興行として行なわれた東京ドーム大会にてベイダーの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第23代王者に。この大会後、選手会の強い要請を受け全日本社長に就任、三沢体制が誕生する。
  • 6月 - 日本武道館にて小橋を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 7月 - 日本武道館にて川田を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。
  • 8月 - 広島市東区スポーツセンターにてアンタッチャブルとしてノーフィアーの持つ世界&アジア両タッグに挑戦、勝利し第39代世界タッグ王者、第67代アジアタッグ王者に。この時三沢は三冠ヘビー級王座、小川は世界ジュニアヘビー級王座を保持しており、二人で全日本に存在するタイトルを総ナメにした。その後アジアタッグは即返上。
  • 9月 - 日本武道館にて行なわれた5大シングルマッチ開催で川田欠場の代役として2試合に出場。高山に勝つもベイダーに敗れる。社長としてファンに対する責任をきっちり果たして見せた姿に、ファンは惜しみない拍手を贈った。
  • 10月 - 愛知県体育館にて小橋&秋山組を相手に世界タッグ王座防衛戦、王座転落。日本武道館にて三冠統一ヘビー級王座にベイダーの挑戦を受けるも、敗北し王座転落。
2000年
  • 4月 - 松本市総合体育館のチャンピオン・カーニバル公式戦において裏十字固めによりベイダーから初のギブアップ勝ち。
  • これによりベイダーは左腕骨折。
  • この頃、裏ではオーナーの馬場元子夫人との確執が表面化。
  • 5月 - ジャンボ鶴田、肝臓移植で訪れたフィリピンで手術中の出血多量により逝去。三沢が社を代表して記者会見に立つ。
  • 6月 - 東京スポーツの記事で5月に全日本の社長を辞任していたことがスクープされる。
  • 6月13日 - 定例役員会において三沢が口頭で一方的に取締役辞任の意向を伝え散会。同時に小橋・田上・百田も取締役辞任。オーナー側との亀裂は決定的となる。

プロレスリング・ノア誕生

2000年
  • 6月15日 - フロント陣を含めた離脱者全員で全日本に退団届を郵送し受理。
  • 6月16日 - 全日本を退団した選手、スタッフを集めディファ有明にて新団体設立会見。同時に内容証明郵便を全日本事務所を送付。同28日の記者会見で8月5日、6日ディファ有明にて旗揚げ戦を行うことを発表。
  • 7月10日 - 記者会見で新団体名を7月7日付けで「株式会社プロレスリング・ノア」として登記申請したと発表。15日の旗揚げ戦チケット発売日は長蛇の列になり、旗揚げから3戦の計6000枚のチケットが1時間足らずで完売。
  • 8月5日 - 旗揚げ戦開催。メインで田上明と組み小橋建太秋山準組との60分3本勝負のタッグマッチに登場するも、1本目に秋山の意表をついたフロントネックロックにより僅か2分で失神。
  • 10月 - 「アンタッチャブル」を「WAVE」に名称を変更、池田大輔丸藤正道が加わる。
  • 12月 - 有明コロシアムにて因縁のベイダーとのシングルマッチをランニングエルボーで勝利。
2001年
  • 1月 - 大阪にてついに橋本とタッグマッチで対戦。闘魂三銃士と初めて手を合わせる。橋本のシングルマッチ要求に初めてマイクアピールを行なう。
  • 3月2日 - ZERO-ONE旗揚げ戦にノアの宣伝を兼ねて秋山準とのタッグで出場。橋本真也&永田裕志組と対戦し、混戦の隙をついたバックドロップを橋本に見舞いピンフォールを奪う。試合後、小川直也の挑発にエルボーで応戦し初遭遇。
  • この後お互いの求める方向性の違いからZERO-ONEとの交流は頓挫。橋本との遭遇もこれが最後になる。
2002年
  • 2月17日 - 「Navigate for Evolution 2002」最終戦 日本武道館大会において、395日ぶりに復帰した小橋建太とタッグを組み、秋山準永田裕志組と対戦。
  • 4月7日 - 「Encountering Navigation 2002」最終戦 有明コロシアム大会において、冬木弘道と約15年ぶりに対戦し勝利する。
  • 5月2日 - 新日本との交流戦で新日本東京ドーム大会に参戦し蝶野正洋とシングルマッチで対戦、かつてのお互いの団体の主を象徴する技であるランニング・ネックブリーカー・ドロップや卍固めを掛け合う攻防を展開、30分フルタイムで引き分ける。
  • 9月7日 - 「Navigation Over the Date Line 2002」 最終戦 大阪府立体育会館大会において、佐野巧真と組んで王者森嶋猛力皇猛組とGHCタッグ選手権試合に挑むも敗れる。
  • 9月23日 - 「GREAT VOYAGE 2002」日本武道館大会にて高山善廣を下しGHCヘビー級王座奪還に成功、第5代王者に返り咲く。
2003年
  • この試合は2003年度プロレス大賞ベストバウト賞を受賞。
  • 12月6日 - 「Navigation Uprising Spirit 2003」最終戦 横浜文化体育館大会において、越中詩郎と約19年ぶりに対戦し、変形エメラルドフロウジョン(ブレーンバスターからのエメラルドフロウジョン)を初公開し勝利する。
2004年
  • 7月18日 - 恩讐を越えて全日本両国国技館に登場。先の東京ドーム大会において全日本の小島聡から対戦を直訴され、その熱意と礼儀を買って快諾してのものだった。試合はタイガードライバー'91で三沢が勝利。
  • 10月31日 - 全日本両国大会「武藤敬司デビュー20周年記念興行」のメインイベントで武藤とドリームタッグを結成。
2005年
  • しかしこの時の川田のマイクアピールに憤慨した三沢は試合後に川田との絶縁を宣言。
  • 9月18日 - 「2nd GREAT VOYAGE 2005」日本武道館大会において、力皇猛の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗北。
  • これにより1992年より続いていたシングルタイトル挑戦成功率100%の記録が途切れる。
  • 10月1日 - WRESTLE-1代々木第一体育館大会に参戦。とタッグながら初対決し、ランニング・エルボーで勝利する。
  • 11月5日 - 「3rd GREAT VOYAGE 2005」日本武道館大会において、天龍源一郎と18年ぶりに一騎打ちを果たしこれに勝利。
  • 12月4日 - 「Winter Navigation 2005」横浜文化体育館大会において、タッグマッチで柴田勝頼と初対決。
2006年
  • 1月22日 - 「The First Navigation 2006」最終戦 日本武道館大会において、NOAHマットでははじめて(初対決から1年3ヶ月ぶりに)、6人タッグマッチで佐々木健介と対戦する。
  • 7月16日 - 「Summer Navigation 2006」最終戦 日本武道館大会において、秋山準と組んで、高山善廣復帰戦の相手を務める。
  • 9月12日 - グローバル・レスリング連盟(GPWA)が発足。初代会長に就任する。
  • 12月10日 - 「GREAT VOYAGE 2006」日本武道館大会において、丸藤正道の持つGHCヘビー級王座に挑戦。雪崩式エメラルドフロウジョンで勝利し、第11代王者に返り咲く(2007年12月現在、7度防衛に成功)。
2007年
  • 9月9日 - 日本武道館で、藤波辰爾との夢のタッグ戦が実現(三沢、潮崎vs藤波、西村)。パートナーの潮崎が西村に足四の字で敗れる。
  • 12月9日 - シークレット(超大物X名義)でDDTに初参戦(新潟フェイズ大会)。鈴木鼓太郎とのタッグで高木三四郎マッスル坂井組に勝利した。ちなみに本来は坂井ではなく、三沢の偽装レスラー・偽沢光晴こと一宮章一と対戦する予定だったが、一宮が病気のため欠場してしまい、夢の偽装VS本物対決はお流れになった。
  • 12月10日 - プロレス大賞最優秀選手、および12月2日の小橋建太復帰戦で年間最高試合賞を受賞。デビューから26年で初の最優秀選手賞を受賞。

得意技

元々レスリング出身であり、メキシコ遠征〜タイガーマスク時代を経て空中殺法やルチャリブレ系のサブミッション、また各種エルボーという打撃技を習得したことによって、相手がどんなレスラーであっても対応可能な懐深いレスリングが特徴。またキック技も使うが、タイガーマスク時代に重傷を負った左膝の影響もあり、こちらは繋ぎ技として使われることが多い。また人と同じ技を使うことを良しとせず、数多くのオリジナリティー溢れる技を開発し続けているように、持ち技は多彩である。試合の組み立てはエルボーを主とした打撃とスープレックス系が中心だが、近年は年齢的なこともあってスープレックス系の使用頻度が落ち、ほとんどエルボーのみで試合を作っている場合もある。

打撃技

エルボー・バット
三沢の代表的な必殺技。エルボーとは言うが、肘の尖った部分で打つのではなく、肘から下の硬い骨が出ている下腕部で相手の下顎やテンプル等の側頭部を狙って叩き込む。バリエーションも、ローリング式、ランニング式、バックハンド式、マシンガン式、ワンツー式、ダイビング式など豊富にあり、マウント状態で連続で叩き込むエルボーも披露したことがあった。技の出だしも早く連発も容易なため、接近戦において最大の攻撃力を発揮する。しかしそれだけに自分の肘にかかる衝撃は相当なもので、三沢以外の使い手は殆ど皆無(あえて挙げるならZERO-ONE田中将斗)で、三沢自身も常時肘部分に黒いサポーターを装着した状態で放っている。実際この技の多用が原因で三沢の肘の軟骨はボロボロに砕けてしまっている。
エルボー・バット自体は昔から得意としているレスラーがいるが、ムエタイ等と違い、プロレスではあくまで繋ぎ技として使われる程度のものだった。それをフィニッシュに結びつく必殺技にまで昇華させたのは、三沢が初めてである。初めて食らった選手の殆どが「脳が揺れた」「こんなに効くとは思わなかった」と口にする。
2001年高山戦のフィニッシュで披露した、エルボー→ワンツー→ローリング→ランニングを指して特に「ファイナルエルボーコンビネーション」と呼ぶ。
2007年からは相手をマットに座らせた状態で後頭部へエルボーを叩き込む攻撃をフィニッシュホールドにしている。
ハンセンから三冠を奪取する前後から三沢の主力として用いられることになったが、その理由としては「投げ技が難しい大型選手とあたる時には打撃が必要不可欠」「肘くらいしか怪我をしていない部分がなかった」「打った時の感覚が違った」の3つが挙げられる。
ローリング・エルボー(回転式エルボー)
相手と対面状態から素早く左回転し、腰と肩を入れて全力で叩き込むエルボー。通常のエルボーを数発叩き込み、相手の意識が朦朧としたところで使用するのが専らである。基本的にこれで相手は倒れこみ、選手権試合以外ではこの技でフィニッシュになることも珍しくはない。
ランニング・エルボー
一定の距離をとり、走りこんで叩き込むエルボー。インパクトの瞬間は左足で踏み込み、突進力と腰の回転で叩き込む。普段からフィニッシュとして扱われる上に、自分よりもはるかに大きい超重量級が相手の時や、全ての投げ技を使い尽くした時に用いられる為、エルボーバリエーションの中では最強の威力を誇ると思われる。
スピニング・エルボー(旋回式エルボー)
ローリング・エルボーとは逆回転で右に回り、肘から上の上腕で相手の顔面に叩き込む。単体では隙があるためか、ローリング式と同じようにエルボーのコンビネーションの途中で流れるように組み込まれるのが殆どである。なお、この技は呼び方が色々あり、「バックハンド・エルボー」「バックスピン・エルボー」「スピン・エルボー」等がある。
マシンガン・エルボー(速射式エルボー)
左手で相手の首を固定し、スピード重視のエルボーを連続で相手の側頭部に叩き込む。最後の一発は腰を入れて打つのが特徴。
ワンツー・エルボー(ダブル・エルボー)
まず通常の右エルボーを叩き込み、相手の体が左にぶれるやいなや左エルボーを叩き込み、即座に右エルボーで揺り戻す。基本的にはトップレスラーとのビックマッチでしか使用されず、この後にローリング・エルボーが叩き込まれるのが常である。
介錯エルボー
後頭部に叩き込む120%エルボー。エルボーバリエーション中一番危険度が高いため、ビックマッチのフィニッシュとして使われる。
120%エルボー
見た目は全く一緒の対「川田利明」限定エルボー。三沢は相手によって意図的にエルボーの威力を調節しているが、前に立っている人間が川田だと何故か明らかに音が違うエルボーを叩き込むことからこう称される。なお、マシンガン・エルボーも川田が相手だと、足をアストライドポジションにとり全弾腰を入れてアッパー式・打ち下ろし式を交互に織り交ぜて打ち込むようになる。このエルボーを引き出させることが三沢の本気を出させた証明ともなる為、若手時代の秋山などが試合前に宣言をしたことがある。
かかと落とし
テコンドー式の正面から蹴るものではなく、前かがみにした相手のサイドから延髄を狙って前方宙返りをして踵で蹴りつける。タイガードライバーを踏ん張った相手に不意に繰り出し意表をついたりする。
ステップキック
背中にエルボーを叩き込むなりして相手を前のめりにさせた時、はねながら足の甲で相手の胸あたりを蹴り上げる技。その繰り出す体勢から通称"欽ちゃんキック"とも呼ばれる。
2連発で打つことが多い。まれに3連発になることも。全日本時代(阪神・淡路大震災2日後の95年1月19日大阪大会)馬場&鶴田&三沢組 対 秋山&大森&本田組では、この蹴りを一発喰らった本田が2発目が来る前に動いてしまい、モロに顔面に入ってしまった。周囲の病院が震災直後でてんてこ舞い状態で治療が遅れたこともあり、結果的に全治3ヶ月の大怪我を負わせることとなった。

投げ技

タイガードライバー
三沢が2代目タイガーマスク時代にあみ出した必殺技。リバースフルネルソンの体勢から相手を持ち上げ、フックを離し空中で一回転させたと同時に開脚ジャンプして相手を背中から叩きつける。90年代半ばまでは絶対的なフィニッシュとして君臨し続けたが、周りの受身技術が上がり、更に高度な試合へと発展していったことから次第に中盤の中継ぎ技へとなっていった。しかし、現在でも三沢の代名詞として存在し、三沢自身よりも体重の軽い選手を仕留めるフィニッシュ技の定番となっており、またロックしてから相手との持ち上げる持ち上げないの攻防は三沢の試合における定番シーンとなっている。相手が踏ん張った際には一度クラッチを解いてから背面にエルボーや後頭部への踵蹴りを叩き込み再度チャレンジする、もしくは意表をついてダブルアーム・スープレックスに移行するパターンもある。
派生技も多く、トップロープの上からの雪崩式で見舞うタイガー・ドライバー2001、エプロンから場外に叩きつけ断崖式タイガー・ドライバー等がある(いずれも相手は秋山)。2007年丸藤相手のGHC防衛戦では、場外鉄柵に腹部から落とすバージョンも公開した。また、小川良成とのツープラトン技として、クラッチを協力して行なうダブルタイガー・ドライバーが存在する。
なお、初代タイガーマスクが同名の技を使用していたが、三沢のものとは全く違う(DDTとフロントネックチャンスリードロップの中間のような技)。
タイガー・ドライバー'91
前述のタイガー・ドライバーを、空中で回転させずに腕をロックしたまま、または落とす直前にロックを外して脳天から落とす。入り方は通常のタイガードライバーと同じだが、効果としては受身の取れないパイルドライバーに近い。
1991年1月に対田上戦で初公開、同年4月の小橋健太戦でも使用したが、あまりの危険度からすぐに封印。1994年6月の川田戦で3年ぶりにタイガー・ドライバー'91を解禁した。この試合を実況していた福澤朗アナは「殺人タイガードライバー」と呼称している。受身が取れないまま杭を打つかのごとくリングに突き刺さるため桁違いに危険なので、相手によって出し方を変えている。まさしく三沢光晴の秘技であり、その危険度から数えるほどしか使用していない。その為、'91の方が本当の意味での幻の技といわれている。2004年、全日本に参戦した際の小島聡戦で約5年ぶりに封印を解いた。NOAHマットでは2005年の川田戦、2006年丸藤戦、2007年森嶋戦の3度しか使用していない。
エメラルド・フロウジョン
相手をボディスラムの体勢で右肩に抱えあげ、左手で首を、右手で腰をしっかりホールドして自分のサイドに脳天から落とす三沢光晴の決め技。
初出の時は手のロックが反対で一度手を持ち変える必要があり、少々手間取る為に現在の形に改良されたが、そのまま垂直落下になる分コチラの方が威力があるとも言われている。全日時代には殆ど拝むことが出来なかったが、角度調整が左手の差し方で容易に出来るためかノア以降では相手の力量に合わせた形で頻繁に繰り出すようになった。
2006年9月に入り、小川との合体式エメラルドも披露し、12月の丸藤正道戦ではフィニッシュホールドとして雪崩式で繰り出した。なお雪崩式は小川との合体技としての公開が最初。(前述の合体式とはまた別。小川がボディスラムで持ち上げ、コーナートップで待機している三沢に渡して落とす形)
変形エメラルド・フロウジョン
ブレーンバスターの体勢から抱え挙げてエメラルド・フロウジョンと同じ体勢で落とす。落差が増し、基本的に角度もきつくしているのでより威力は高い。
全日本時代はタイガー・ドライバー'91に変わる禁断の技として君臨していたエメラルド・フロウジョンであったが、ノア以降は角度調整の効いたものを選手権試合問わず乱発する傾向になった為、「これが出れば試合が終わる」一撃必殺とはならなくなり、選手権試合クラスでは当たり前のように返す選手が増えてきた。そんな中で登場したのが「改」であり、2003年12月に行われた越中詩郎との再会シングルマッチでフィニッシュとして繰り出した。その後もビッグマッチの時によく使用されている。
また、2007年4月の武道館大会における佐野巧真との防衛戦では、ファイアーマンキャリーの体勢からエメラルド・フロウジョンに落とす新型を公開した。

スープレックス系の投げ技

ジャーマン・スープレックス(原爆固め)
ホールド式、投げ捨て式共に使用し、何度も自身のフィニッシュホールドとしてきた技。
四天王プロレスの中盤に連発するようになった事から決め技としての価値は暴落した。川田利明に放った3連発が特に有名で、ベイダーを投げきることもあった。最近は投げ捨て式をたまに使用する程度にとどまっている。
タイガー・スープレックス'84(猛虎原爆固め)
2代目タイガーマスク時代に習得。後から両腕をチキンウィングの体勢にとらえて、そのまま後方に投げる。腕がロックされているので非常に受身が取りにくい。なお、初代タイガーの佐山聡は両手を相手の背中にベッタリつけるが三沢以下全日・ノア系の選手は両腕でロックする。
最近は非常にレアな技となったが、2003年の小橋建太戦では、花道から場外マットに向け自らも落下しながら投げ捨て式のタイガー・スープレックス(タイガー・スープレックス2003)を出した。この時、沸き返っていた会場は一瞬にしてざわめきに変わった。
タイガー・スープレックス'85
2代目タイガーマスク時代の三沢がヒザを故障し、復帰戦の対小林邦明戦で初公開したオリジナル技。
背後から自らの両腕を相手の両脇に差し入れてスリーパーホールド状に相手をクラッチ、片方の下腕部だけが相手の首から後頭部に回される変形のフルネルソン状態で後方に投げる。首を深くロックされた上で投げられるため、極めて受身が取りづらい。当時は毎年オリジナルのタイガー殺法を編み出すというデビュー時についたお約束のギミックがあり、その一環として編み出された。
当初はダブルジャーマンをこのタイガースープレックス'85と呼称する予定であったが小林に返されてしまい、とっさにこの技を出した、という経緯がある。
なお、ノアを旗揚げしてからは小橋建太戦と丸藤正道戦での2度しか出していない(丸藤戦では雪崩式で繰り出した)。
旋回式バックドロップ
抱え式バックドロップの体勢で自ら回転しながら投げる。繋ぎ技として使用する場合が多い。

飛び技

フライング・ラリアット
ロープに相手を振った後、自分も対角線ロープの反動を利用、ジャンプしながら相手の首に巻きつくようにラリアットを見舞い、横旋回しながら綺麗に着地するという華麗な技。
三沢光晴の身体能力だからこそ可能な技だが、試合中にかわされ古傷である右肩の脱臼を招いた事もある。
エルボー・スイシーダ
場外の相手に肘から突っ込んでいくトペ・スイシーダ。
相手が逃げたりフェイントをかけたりしてきそうな場合は瞬時に判断し、トップロープに両腕を絡め、そこを軸にしてくるっと前方回転してエプロンに着地するという回避ムーブや、ロープ下からスライディングキックで相手の顔面を蹴り上げる場合もあり、リング下の相手は対応がしづらい。更に前者のムーブからの派生として、エプロンからのダイビングエルボーや、再び後方回転して戻って再度エルボー・スイシーダやスライディングキックへ移行することもある。
本来は当時の実況アナ若林健治が良く使っていた「トペ・エルボー」の方が名称としては正解だったと言えるのだが、現在の名称を全日本プロレス中継当時の解説者が最初に「エルボー・スイシーダ」と称したためにそのまま定着している。しかし、語源のラテン語「tope」には「先端(頭)」という意味もあるため、どちらも間違っていない、もしくは「頭」という意味も込めたダブルミーニングだったともいえる。
フロッグ・スプラッシュ
空中を高く飛んでの屈伸式フライングボディプレス。空中での屈伸姿勢が蛙のジャンプする様に似ているために名づけられた。ノア内では丸藤正道がこの技を受け継いでいる。
WWE所属のロブ・ヴァン・ダムの得意技「ファイブスター・フロッグ・スプラッシュ」は全日本参戦時に三沢のフォームを参考に編み出したものである。
ウルトラタイガードロップ
エプロンの上を走り、場外に居る相手に前方回転して背面から浴びせかかっていく技。スピード感に溢れ華やかであるが、当たり具合によっては受身を誤る危険度も高く、めったに見ることは出来ない。
2代目タイガーマスク時代から使っており、当時はコーナートップから繰り出すことが多かった。
猛虎七番勝負での対天龍戦では、リング内からトップロープ最上段に飛び乗り、場外にいる天龍に向かってこの技を繰り出した。

関節技

裏十字固め
相手がうつ伏せの状態にしてかける腕十字固め。三沢の場合は技をかけているときは自身が仰向けの状態になり、相手が逃げようとすると決める方向を変えて脱出できないようにする。2000年チャンピオン・カーニバル松本大会でベイダーの肘関節を破壊した技である(ちなみに、この日は裏の新日本東京ドーム大会で小川vs橋本戦があり、それを上回る強烈なインパクトであった)。なお、この時期は三沢の全日本離脱・ノア設立の直前の時期であり、しばらく後、ベイダーは「骨折させられた恨みを晴らす」として全日本からノアに参戦リングを移した。
フェイスロック
三沢の代名詞の一つである絞め技。しりもち状態の相手の後ろに立ち、右足で相手右腕をロック、右腕下腕部の手首付近の骨の硬い部分で相手顔面の頬のツボや鼻のあたりをこすり上げるようにロック、左手で補佐しながら力強く締め上げる。三沢の場合はしばしば相手の鼻や口の部分を塞ぐ形で仕掛けるため、窒息効果もあるのが特徴的である。現在では中盤で相手のスタミナを奪う繋ぎ技となってしまっているが、かつてはジャンボ鶴田から日本人初のギブアップを奪った決め技であった。
三沢がまだ全日本所属だった時代にこの技を初めて喰らった渕正信が「三沢のフェイスロックは苦しいとかじゃなく、とにかく痛いんだよ。とても耐えられるもんじゃない」とその技の効果についてコメントしている。
リバースネルソン・デスロック
フロントからのインディアンデスロック(リバース・インディアンデスロック)を極めた状態でリバースフルネルソンを仕掛ける。タイガーマスク時代から使用していたが、1995年チャンピオン・カーニバルで前年にフランケンシュタイナーで首を負傷させられたD・ファーナスとの開幕戦でファーナスの力を封じ込めるために久々に公開しギブアップを奪っている。また同シリーズで、川田に顔面骨折をさせられた2日後の秋山準戦ではスタンディング式でギブアップを奪った。この後にもノアの旗揚げ戦(秋山・小橋vs三沢・田上 60分3本勝負)で1本目にフロントネックロックで失神させられた三沢が2本目に秋山にこの技を出している。
キャメルクラッチ
三沢の場合入り方に特徴があって、うつぶせ状態の相手の背中に自分が前転し、そのままこの技に入る。
フェイスロックと合わせて使う場合が多い

返し技

受身の天才と称される三沢は、その一方で相手の技のタイミング、試合の流れを瞬時に読むことに天才的な能力を持っていて、時として素晴らしい技の切り返し方をすることがある。最近はあまり見られなくなった(年齢によるものが大きいと思われる)が、全日本プロレス時代には度々見ることが出来た。プロレスゲームでもこれらの切り返しが収録されているものもある。

今まで行った切り返しは主に以下の通りである。

  • 相手がフォールにきた瞬間の狙ってブリッジで体を反転し逆に自分が上の体勢になってフォール。元はアマレスの動きであり、これでジャンボ鶴田から初フォールを奪った。
  • 秋山準のエクスプロイダーを側転で返す。
  • 田上明のエプロンからの断崖式のノド輪落としをバック転で切り返す。
ウラカンラナ
飛びつき後方回転エビ固め。特にパワーボム系の技を喰らいそうになったときに有効な返し技。また足の位置によってはヘッドシザース・ホイップに切り替えて前方に投げるケースもある。
  • 初披露は全日本時代、対テリー・ゴディ戦。この技で3カウント勝利を収めている。全日本時代、川田のパワーボムを度々これで返していた。2005年7月18日に行われた東京ドームメインでの川田利明戦で久々に繰り出す。2005年9月18日の力皇戦では、花道断崖パワーボムを両足で着地する形で返す。
  • 垂直落下式パワーボムの体勢から反動をつけて2段式ウラカン・ラナで返す。
回転十字固め
両手足をそれぞれ相手の左右の腕にからみつけるように飛びつき、そのまま相手を後ろに倒して両腕を極めたままエビ固めにフォールする。三沢がスタン・ハンセンとの対戦で、ラリアットをかわしてこの技の変形版(ハンセンを前に倒す)を使用してハンセンをフォールした。

リング上での特徴的な動き

  • リングイン時
入場から、リングの上に上がった際に、ロープの感触を確かめるかのように、2・3回背中からロープにもたれかかる。
  • ワイパー・アクション(指ワイパー)
試合中に汗をかいてくると、大体の選手は腕か手で顔の汗をぬぐうものだが、三沢の場合は指を使って、器用に左右に弾き飛ばす。車のワイパーの動きにそっくりな事からこの名が付いた。純粋に汗を弾き飛ばすだけでなく、相手への挑発行為としても使われる時がある。
また、あまりにそのしぐさが特徴的であるため、モノマネ芸人のイジリー岡田が三沢のマネをする際は、大体この動きが見られる。

主な獲得タイトル

プロレスリング・ノア

  • GHCヘビー級王座(3回/初代・第5代・第11代(現王者))
  • GHCタッグ王座(2回/第2代・第8代)
パートナーはいずれも小川良成

全日本プロレス

パートナーは川田利明2回→小橋建太2回→秋山準小川良成。第39代王座戴冠時にアジア・タッグ王座も同時戴冠。
パートナーは小橋健太小川良成
  • PWF認定世界タッグ王座(1回/第3代)
パートナーはジャンボ鶴田
  • NWAインターナショナル・ジュニアヘビー王座(1回/第17代)
ヘビー級転向のために王座を返上。
パートナーは1992年が川田利明→それ以降は小橋建太
  • 1982年 新人賞
  • 1985年 敢闘賞
  • 1990年 殊勲賞
  • 1991年 最優秀タッグチーム賞(パートナーは川田利明)
  • 1992年 特別大賞
  • 1993年 最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
  • 1994年 最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
  • 1995年 年間最高試合賞(川田利明&田上明 vs 三沢光晴&小橋健太)
  • 1997年 殊勲賞、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)ダブル受賞
  • 1998年 年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)
  • 2003年 年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋建太)
  • 2007年 最優秀選手、年間最高試合賞(三沢光晴&秋山準 vs 小橋健太&高山善廣)

入場テーマ曲

  • スパルタンX - ノア移籍後は前奏がある「スロー・バージョン」を使用中。入場時には観衆が音楽に合わせて「みっさーわっ! みっさーわっ!」と合いの手を入れる。

エピソード、語録等

  • 非常にフランクな口調で話す。口癖は「ハッキリ言って」「俺的には」「アレだね」「ぶっちゃけ」で、モノマネのネタになる事も多い。一方で、プロレスラーの多くが好んで行う「リング上でのマイクアピール」は基本的に行わず、せいぜい大大会や年末年始の試合開始前に社長としてファンに御礼の挨拶をする程度である(そのため、後述する橋本真也に対するマイクアピールは大きな話題となった)。
  • 元来礼儀を重んじる性格の上に「プロレスラーもリングを降りれば常識人でなければならない」というジャイアント馬場の教えを受けた人間であるため、筋の通らないことをする人間に対しては非常に厳しい対応をする。
  • 事前交渉もなくファンに見えるところでまずぶち上げるマスコミ・マイクアピール主導の交渉・やり取りが大嫌いである。しかし、新日本プロレスを離脱したばかりの橋本真也にその嫌いな手法で対戦要求をされ続け、2001年1月の三沢&小川対橋本&アレクサンダー大塚戦で敗戦した橋本の「次はシングルだな!」の言葉に対し、「橋本! 次があんのか、この野郎」と勝利者インタビューを除きリング上で初めてマイクアピール合戦を行った。その後の対戦でも「お前らの思うようにはしねえよ! 絶対!」(原文のまま)という言葉も残している。その後タッグマッチで橋本と対戦することはあったものの、シングルマッチで対戦することはついに一度も無かった。
  • 2002年、ZERO-ONEにおけるマーク・ケアー招聘問題で起こった猪木と橋本真也の絶縁問題と、当時猪木軍傘下にあった選手が猪木の命を受けZERO-ONEから撤退してしまった騒動で、「現場に出てない人間の言う事に従うのは考えなきゃいけない」と名前こそ出さなかったものの、暗に猪木を批判した。また、この時猪木に追従したバトラーツ勢に対しての「出ると言ったものはケツを拭け」という発言からも分かるように、筋の曲がった事を極端に嫌う性格でもある。三沢はこの時ZERO-ONE救済として同団体に選手を数名派遣した。
  • 全日本プロレス時代、ジャパンプロレスが参戦した時期のある地方興行で、ジャパンプロレス所属の先輩選手から「地方だから手を抜いていいよな?」と持ちかけられた。この発言に怒った三沢は、当時パートナーだった川田利明に「川田、やるぞ」と小声で呟き、その日の興行で、先輩選手にセメントマッチを仕掛け(受身が取りにくい技を意図的に連発)、徹底的に痛めつけて圧勝した。当時の三沢は、地方でも手を抜かないファイトスタイルでファンから高い評価を得ている(もっとも現在の三沢は体力的な問題もあり、「6人タッグでエルボーする時しか出てこない」などと揶揄されているのが実情である)。
  • 個人的な欲では動かず、地道な活動を身上としている。自団体だけでなく、常にプロレス界全体のことを考えて行動している為、筋を通して交渉してきた団体、選手には理解を示し、他団体の大きな興行がある時には、時として自ら出向き夢のビッグマッチを実現させている。また義理人情に熱く、困っている選手や団体に恩讐を越えて手を貸したりする場面も見られる。
  • ノアを立ち上げて全日本から分裂する際、既に契約のあった興行をキャンセルせずに出場した。曰く「要請がなくても出るつもりだった。全日本さんより、興行主の方に申し訳ないですから
  • 「理不尽大王」として活躍していた冬木弘道が突如三沢を標的にしてきた時、当初は対戦を避け続けたが、最終的には全日本時代に仲の良かった冬木の熱意(三沢を乗せたバスを走って追いかける、事務所までマラソンをする等)に応じて2002年 4月7日にシングルマッチを行った。その翌日、病院の検査で冬木が大腸癌に侵されていた事が発覚。FMWが崩壊し、新団体WEWの旗揚げにも至っておらず基盤を持たない冬木の為に三沢はディファ有明の空いていた4月14日をすぐに確保し、ノア主導で冬木の引退記念興行を打った。そして、その収益の全てを冬木に贈ったそうである。後に三沢はこの事について「別に深い意味はないですよ。冬木さんは大切な友達だからですよ」と述べている。
  • 2001年 2月、当時ノア所属選手だった高山善廣が総合格闘技(PRIDE)に進出する際、高山が準備期間が欲しいため退団を申し入れた。この時三沢は「別に準備期間が欲しいならうちの所属でも構わない。その期間は欠場してもいい」「プロレスをまだ続けたいなら、いつでも帰ってきていいよ」と語り(高山が自書にて告白)相手を思いやる社長ぶりを見せた。その為高山も他団体に比べるとメインでの活躍が少ないにも関わらず義理を重んじノアのリングに上がり続けたり、休養中もゲスト解説としてノアとの関係を良好に継続している。復帰戦をノアで行ったのも三沢の人柄によるところが大きかったと思われる。
  • 全日本時代の日本武道館5大シングルマッチで川田の代役として2連戦を戦った時の試合後のコメントに責任感の強さを見てとれる。
「相手を舐めた覚えはないしプロレスに対してだってそう。それを知った上で、あえて自分で2試合やったんだよ」
「あの時点で誰かに『お前やれ』とは言えない。格闘技は精神的なものが左右するから。それだったら、自分が企画したわけだし、2試合とも勝つのはちょっと無理かもしれないけど、自分の限界がどれくらいか知りたい部分もあったしね」
  • 思慮深く礼儀正しい蝶野正洋とはお互い団体所属の一選手でしかない時代に、とある雑誌の対談で会って以来、意気投合。まだ全日本と新日本のライバル関係が色濃く残っていた時にもかかわらず、「もう、猪木さんや馬場さんの時代じゃない。オレらの世代が自分で動いてプロレス界をなんとかしなきゃいけない」という蝶野の言葉に、「今は難しいかもしれないけど、いつかお互いが責任を取れる立場になったら蝶野選手とだったら協力できる」と返している。その約束を果たす意味で実現させたのが、後の新日本との交流戦である。そこでは一騎討ちを行なったが、後のドリームタッグ結成の時はベビーフェイス(三沢)とヒール(蝶野)の立場を超えて初タッグとは思えない巧みな連携を見せた。またノア初のドーム大会において個人的に三沢を訪れ対戦要求の挨拶を行なった小島聡の誠実さを気に入り一騎打ちを実現させるすべく、分裂以降絶縁状態でもう上がる事は無いだろうと言われていた全日本リングに、7月18日両国国技館で再び足を踏み入れた。
  • 徹底的に相手の技を受けて、相手を光らせた上で自分が勝つという、俗に言われる王道プロレスで育ったため、相手を光らせることなく一方的に試合を終わらるハイスパートレスリングというファイトスタイルを行なう選手はあまり評価していない。特に長州力にはジャパンプロレスの一員として全日本プロレスに参戦した頃、一方的に試合を終わらされたことがきっかけであまり良く思っていない。また橋本真也との遭遇が短期間に終了したのも同じ原因との説もあるが、同じく攻撃型のハンセンやウィリアムスとは何度も試合をしている事や、ゼロワンマックスとは現在も交流が続き、攻撃型の高岩をGHCジュニア王者にしているなどの事実から、団体間の利害関係などの問題で話がまとまらなくなった可能性も考えられる。
  • 1億人の大質問!?笑ってコラえて!』で、「幼稚園児に民話『おおきなかぶ』のエピソードを実体験してもらおう」という企画が行われた際、幼稚園児と綱引きする「かぶ」の役として三沢が登場。いつもの緑のリングコスチュームに加えて「かぶ」のかぶりものを頭に装着し、満更でもないような笑顔を見せ、最後はよってたかって綱を引く幼稚園児たちの力に負けて、地面にひきずられてしまう三沢の姿がゴールデンタイムに放映された。全日本所属選手がバラエティ番組に登場するようになった最初期だったということもあり、この企画はファンの間でしばらく語り草となり、三沢を「かぶ」と呼称する事も流行した。なお、この被り物は本来、小橋健太が行うはずだったが、当日高熱を出してしまったため三沢が代役で出演した。
  • 真面目な印象が強いが、一方でプロレス界一の下ネタ使いとしても知られ、プロレス雑誌の読者投稿欄では三沢の下ネタ・エロネタが定番となっていたほどである。積極的にテレビ出演を始めた当初は寡黙なキャラを守っていたが、次第にテレビ慣れしてきたのか「(小橋と組んで負けた試合の感想を問われ)小橋には、先にイッチャッテごめんね、という気持ちです」「俺おっぱい星人じゃないから」「ぴこぴこぴーん(男性のシンボルが元気になった時の三沢独特の擬音表現)」「(他団体の)プロレスのビデオ見るくらいならアダルトビデオ見たほうがいいよ」などの下ネタ関係の発言を連発。全日本所属時代に大学の学園祭に何度も招聘されていたが、そこで行われたトークショーでも下ネタを頻発している。DJとしてオールナイトニッポンに登場した際には内容の殆どが下ネタトークだった他、「踊る!さんま御殿」は下ネタ御法度であったはずが結局大ウケし、「今週の踊るヒット賞」を獲得。同番組で「エロ社長」の異名をとり、飯島愛からは「爽やかな下ネタ」と評された。三沢の下ネタは受けが良く、下ネタ発言を楽しみにするファンも多かったが、一方で「(寡黙で真面目な)イメージが崩れる」等の批判が上がっていたのも事実であり、その件で渉外部長の仲田龍から「バラエティ番組出演禁止令」が出され、現在は出演を自粛している(しかし、後述のように日本テレビ系列の年末のスポーツ特番などには出演している)。
  • 年末のスポーツ特番で牛乳を口に含み、芸人のネタを見て吐き出すかというゲームがあった。他の出演者が次々と吐き出すなか、三沢だけ吐き出さないという快挙?を達成。なお、三沢はそのとき尋常ではない汗をかいており、実際には相当に苦しかったようである。
  • 三沢はその激戦振りから海外でも高い人気を誇っている。海外のファンの多くは「寡黙な三沢」というイメージしか持っていなかったため、三沢が出演した回の『行列のできる法律相談所』の動画がYouTubeに投稿された際は、そのギャップに驚愕したらしく「あの三沢が笑っている!」という英字コメントが多数寄せられていた。また、2003年に放送された「3年N組 三八先生」(NはおそらくNOAHのN)という番組で、「金八先生」ならぬ「三八(さんはち)先生」と言う先生役で出演していた。ちなみに、このとき出ていたのは「NOAH」の所属選手であり、竹刀を持った体育の先生役として小橋建太で美術の先生(二日酔いで寝ていたという設定で保健室で寝ていただけだが)が田上明で、生徒役に秋山準小川良成池田大輔などが出演している。この番組もYouTubeで放送されている。
  • 大変な悪声で音痴である。冬木弘道は漫画雑誌「漫画サンデー」に寄稿していたエッセイ「奸善超悪」にて「三沢はいいヤツなんだが、ひとつだけ困った面がある。それは歌だ。あまりの音痴な上に、マイクを握ったら離さない」と嘆いていた。三沢の歌声はザ・リーヴのCM「ムード歌謡編」で聞く事が出来る(ザ・リーヴのホームページで試聴可能)。
  • 2005年12月22日に発売されたXbox360用ソフト「レッスルキングダム」のイベントで、ゲーム好きである事を公表している。本人曰く「ゲーム、好きですね。Xbox 360、予約しましたよ。最初に買わないと手に入らなくなるかもしれないから、そのとき買わないと」と、かなりのゲーム好きな一面をのぞかせた。「レッスルキングダム」をプレイした感想については「やってておもしろいですね。やっているうちに手に汗をかいてきて、そのうち全身に汗をかいてきたのでやめましたが」とコメント。「ゲームは現実逃避でやるのがイイから」ということで、普段はシューティングとプロレスゲームはしない。
  • オタク関係に相当造詣が深い。ホビー専門誌で特撮ヒーローの人形収集の趣味がある事を明かしている。また、カラオケに行くと子供時代大好きだったマイナー特撮ヒーローの主題歌を歌い、誰も知らない為、周りの人間は少々困るらしい。また、何人かの若手は「遠征中、ドライブインに寄るたびに三沢社長にガシャポンをやりにいかされる」と暴露している。全日社長時、日テレの素顔がイイねっ!に出演し自宅を公開、子供の大きなポケモンの人形の他、かなり希少なファイナルファンタジーVIIグッズやその他のコレクションが乱雑に並べられていた。その他にもメディアワークス刊「電撃スパロボ」にてスーパーロボット大戦シリーズのファンであることが明かされている。また、相当な漫画好きでも知られている。単行本はあまり買わず、雑誌連載で追いかけるという。元付け人の丸藤は「三沢社長の付け人として最初に覚えることは、雑誌の発売日を覚えること」と語っている。もっとも、ここまであからさまなのにも関わらず、本人は自身が「オタク」であることを頑なに否定している。
  • タイガーマスク時代はプレッシャーで相当苦悩していたようで、左膝の怪我で長期入院していた時は「もう、タイガーマスクじゃなくてもいいんじゃないかって本当に思ったよ」と後に語っている。
  • 同じくタイガーマスク時代、その跳躍力を買われていた三沢は、先輩レスラーに「お前なら走ってくる車を飛び越えられるだろう」と言われ、おもむろに車道へ出て、向かってくるタクシーを飛び越えたという驚くべきエピソードがある。
  • 鶴田越えを果たした後、上の世代とのタイトル戦においてなかなか勝てなかった三沢は1992年ハンセンの三冠タイトルに挑戦する際に「これでもし負けたら俺はもう三冠に挑戦する顔じゃない。最低でも1年は挑戦しない」と宣言。自分を追い込んだ上で勝利を飾り、これ以降2005年に力皇に挑戦して敗れるまで、実に13年もの間、シングルのタイトルマッチで自分が挑戦者として挑む時は勝率100%を誇っていた。
  • 1995年のチャンピオン・カーニバルにおいて川田のキックを受け左眼窩骨折。一般人なら即手術で全3ヶ月という診断にもかかわらず、所属団体だった全日本では休業補償がつかないからという事情から試合に出続け、ついにその年のチャンピオン・カーニバルを制して初優勝してしまった。いくら常人では考えられないタフさを持つプロレスラーといえど、これは異例である。また2年後のチャンピオン・カーニバルでも試合中、右手薬指靭帯断裂、左膝蓋骨骨折の負傷を負いながらも優勝している。怪我があるときほど尋常でない集中力を発揮するタイプである。
  • 師である馬場が亡くなった事に端を発する全日本の混乱の際、苦悩のあまり「もう、プロレスを辞めようと考えていた。なんだか面倒くさいなぁ、と思って」とらしからぬ弱音をもらしたことがある。
  • 1993年の日本武道館大会での三沢対川田戦において、そのあまりに激しい攻防にテレビ解説していた馬場が「試合展開が高度すぎて、もう私にはわからない」と思わず漏らした。
  • どの時期からは不明であるが川田を一方的に嫌うようになっており、様々なインタビューでも川田のことだけは「嫌い」と明言している(少なくとも超世代軍から川田が離脱した後は折に触れてそういう趣旨の発言をしている)。一方、川田は三沢を一貫して崇拝し続けている。

関連項目

外部リンク

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