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; エベレスト・ジャーマン
; エベレスト・ジャーマン
: 形としては通常の[[ジャーマン・スープレックス]]となんら変わりは無く、また綺麗なブリッジとも言い難いが、彼だけが持ちえる上背の高さを生かした落差とそのスピードから、尊敬と畏怖の念を込めてこう称される。90年代中盤以降、[[四天王 (プロレス)|四天王]]プロレスによって投げ捨てジャーマンが乱発されたため決め技としての価値が薄れてしまっていたが、彼のジャーマンにより(削除) 、 (削除ここまで)再びプロレスの必殺技として価値を取り戻していくことになる。なお、相手の受身の技術を考えてか角度を調節する場合が多い。
: 形としては通常の[[ジャーマン・スープレックス]]となんら変わりは無く、また綺麗なブリッジとも言い難いが、彼だけが持ちえる上背の高さを生かした落差とそのスピードから、尊敬と畏怖の念を込めてこう称される。90年代中盤以降、[[四天王 (プロレス)|四天王]]プロレスによって投げ捨てジャーマンが乱発されたため決め技としての価値が薄れてしまっていたが、彼のジャーマンにより再びプロレスの必殺技として価値を取り戻していくことになる。なお、相手の受身の技術を考えてか角度を調節する場合が多い。
; ダルマ式ジャーマン
; ダルマ式ジャーマン
: 通常のジャーマンとは異なり、相手の両腕を一緒に捕らえてジャーマンに移行する。腕がロックされているので当然受身が取れなく、首のみでマットに叩きつけられる最凶の威力を誇る究極ジャーマン。[[2000年]]に[[小橋建太]]に挑戦した3冠ヘビー級戦(全日本分裂前最後のタイトルマッチとなった)のために開発され、(削除) 全日系統の選手が相手の選手権試合等 (削除ここまで)ここ一番の勝負で試みるが、相手が本気で嫌がり殆ど潰されてしまう為幻の技でもある。高山いわく「人を人とも思わない技」。
: 通常のジャーマンとは異なり、相手の両腕を一緒に捕らえてジャーマンに移行する。(追記) (相手の両手をクラッチするクロスアーム式ジャーマンとは微妙に違う) (追記ここまで)腕がロックされているので当然受身が取れなく、首のみでマットに叩きつけられる最凶の威力を誇る究極ジャーマン。[[2000年]]に[[小橋建太]]に挑戦した3冠ヘビー級戦(全日本分裂前最後のタイトルマッチとなった)のために開発され、ここ一番の勝負で試みるが、相手が本気で嫌がり殆ど潰されてしまう為幻の技でもある(追記) 。こうして失敗している内に、[[本田多聞]]がまったく同じ形の技(クロスアーム式デッドエンド)を先に成功させてしまった (追記ここまで)。高山いわく「人を人とも思わない技」。
; ニーリフト
; ニーリフト
: 膝を使って、ミゾオチを蹴り上げる。ダッシュしてのニーリフトは強力無比で、ヘビー級の相手でもその威力で体が浮き上がり、悶絶しのた打ち回る。エベレスト・ジャーマンと並ぶ高山の代名詞。[[総合格闘技]]に出場した時の主力でもある。タックルに合わせた膝蹴りも得意で、桜庭和志、中邑真輔と言ったタックルの使い手をこの一撃で追い込んだ。
: 膝を使って、ミゾオチを蹴り上げる。ダッシュしてのニーリフトは強力無比で、ヘビー級の相手でもその威力で体が浮き上がり、悶絶しのた打ち回る。エベレスト・ジャーマンと並ぶ高山の代名詞。[[総合格闘技]]に出場した時の主力でもある。タックルに合わせた膝蹴りも得意で、桜庭和志、中邑真輔と言ったタックルの使い手をこの一撃で追い込んだ。

2007年12月28日 (金) 16:31時点における版

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高山 善廣
プロフィール
リングネーム 高山 善廣
本名 高山 善廣
ニックネーム プロレス界の帝王
アパッチ・タワー
身長 196cm
体重 125kg
誕生日 (1966年09月19日) 1966年 9月19日(58歳)
出身地 東京都 墨田区 錦糸町
所属 高山堂
スポーツ歴 ライフセービング
ラグビー
トレーナー 高田延彦
大江慎
デビュー 1992年 6月28日
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高山 善廣(たかやま よしひろ、1966年 9月19日 - )は、元ライフセイバーフリーランスプロレスラー。血液型O型。

長身を生かした、パワフルでダイナミック、かつ、キレのいい技が特色。

常に強い対戦相手を求めているため、プロレスラーとして巨体外国人レスラーと対戦し、格闘家としてPRIDEなどにも参戦していた。数少ない現役「長身日本人レスラー」の一人。

経歴

東海大学付属相模高等学校東海大学文学部文明学科卒業。学生時代にはラグビーをしていて、湘南でライフガードのアルバイトをしていた。

大学卒業後、フジサンケイグループでサラリーマン活動をするが、プロレスラーの夢を捨てられずUWFインターナショナルに入門。練習の厳しさに耐えかねて一旦は夜逃げするも、ライフガードのアルバイト中にUインターの先輩(宮戸優光・現在は引退)と再会し、再入門を果たす。(なお、第二次UWFの入団試験に合格した経験も持っている。)

1992年6月、金原弘光戦でデビュー。

安生洋二、山本健一(現:山本喧一)と、「ゴールデン・カップス」を結成し、新日本プロレスなどに参戦。

1996年7月、バーリトゥードでキモと対戦。秒殺負け。

1996年8月、神宮球場で、全日本プロレス川田利明との対戦が実現するも敗れる。

1996年12月のUインター解散後、兄貴分だった安生洋二の後を追いキングダムに所属する。

1997年3月、前年にUインター神宮球場大会シングル戦にて完敗した川田利明を追い、フリーランスとして全日本プロレスに参戦。ゲーリー・オブライトと組んで、川田、田上明組の世界タッグに挑戦するも敗れる。

1999年5月、後追いで参戦していた垣原賢人と共に全日本プロレスの正式所属選手となる。当時、同じく全日本プロレス所属レスラーの大森隆男らと「NO FEAR」結成。史上初となる世界タッグとアジアタッグの同時制覇を成し遂げる。

2000年三沢光晴らと全日本プロレスを脱退し、プロレスリング・ノア旗揚げに参加。

2001年、再びフリーランスとなり、枠にこだわらず、様々なプロレス団体や、他格闘技団体にも参戦。

2002年NHK 大河ドラマ利家とまつ〜加賀百万石物語〜」に無敗の力士役で出演。撮影時に的場浩司から「ファンだった」と言われる。

2002年6月23日PRIDE.21ドン・フライとの顔が変形するほどの凄惨な殴り合いにより、格闘技ファンにも知られるようになった。ちなみにこの後ギャラが大幅にアップしたという。

2002年9月7日小川良成を破りGHCヘビー級王者を奪取。高山自身初のシングルタイトルとなった。ノア所属の王者に対してヒールの立場で試合に臨んだにも関わらず、試合中は圧倒的に高山を応援する声援が飛んだ。

新日本プロレスにおいて、2003年にIWGPシングル(永年空位だったNWFの二冠を制覇した時期もしばらくあった)を獲得。

2004年 2月1日、北海道立総合体育センターで鈴木みのると組み、天山広吉&西村修からIWGPタッグを奪取する。3大メジャーのタッグを制覇したのはこの時点でベイダーに続き2人目。

2004年6月、ハッスルハウスにて高田総統から「恐れを知らないモンスター」として紹介され、会場に姿を見せた。この興行の前のハッスル3では「高田延彦の遺伝子を継ぐ男」として紹介されている。

2004年8月8日G1 佐々木健介戦後、脳梗塞(当初の発表は脳血栓)で倒れ長期戦線離脱となった。医師からは「自分で体力が戻ったと思ったら、いつでも復帰していいが、その前に診断を受けるように」と言われていた。本人は復帰に向けてトレーニングを続け、2005年の末には、壊死していて以前のような動きができなくなったものに対しては他の器官で欠場前と同じような動きをできるようにするトレーニングや、少しずつ頭部に負荷をかけるトレーニングをはじめていることを明かした。

欠場中は先述のゲスト解説に加えて、ラジオ番組やテレビドラマ「特命係長・只野仁」にゲスト出演するなど、タレント活動に専念していた。鈴木みのるのblogによると、2006年3月5日のノア武道館にゲスト解説として来場した高山がこの日初めて後ろ受け身の練習を行ったことを明らかにしている。

2005年 1月15日TOKYO FMの番組「よんぱち」(13:00〜20:00)に出演。復帰"Xデー"を白紙にするコメント。

2005年7月23日に公開された『魁!!クロマティ高校THE★MOVIE』に竹之内豊役で出演。

2006年3月5日、解説で呼ばれていたノアの武道館大会の試合前に、リングシューズとタイツを身につけ、怪我をして以来初めて受身の練習をする(鈴木みのるが自身のブログで明らかにした)。

2006年4月19日、ビッグマウスラウド第5回興行にて夏頃を目処に復帰する可能性を示唆。天龍・佐々木・鈴木とのいわゆる「外敵四天王」揃い踏みも匂わせている。

2006年7月16日、ノア武道館大会で復帰。秋山準のリストクラッチ式エクスプロイダーに敗れた。その後も新日本などにも出場。10月8日の両国では鈴木みのるとタッグを組み永田裕志 & 山本尚史と対戦。

2006年12月26日、ハッスル・ハウスに、鈴木みのると組み電撃参戦。12月27日ZERO1-MAXに登場し、かつての盟友大森隆男を襲撃。

2007年 1月31日、第1子(男児)が誕生。『徹子の部屋』に出演。

人物

外見は怖いが、試合に対する分析力と笑いの要素も含めた、会話の能力も優れているため、プロレスリング・ノア中継のレギュラー解説者であり、またワールドプロレスリングのゲスト解説のほか、その他の団体・興行中継でも、試合解説者を務めることも多い。また、2006年からはUFCを中継する日テレG+の番組にも解説者として出演している。

1997年3月全日に初参戦。前年に敗れた川田を追い、オブライトと組み、川田、田上の世界タッグに挑戦。当初は非常に痩せた身体で、キック以外はあまり見所の無い選手のように評されていたが、ジャイアント馬場は「こいつは磨けば光る」と目を付けた。馬場から初参戦でいきなりタイトルマッチがOKされたのは異例中の異例である。それほど馬場は高山を高く買っていたという証拠であろう。またトップロープをまたいで入場するようになったのは、デビュー当時は普通にロープをくぐってリングインしていたが、新日本プロレス初参戦時にロープの高さがUWFのものよりも低かったため、跨げるのではと思い跨いでみたところ、本当に跨げたためそれ以降の定番になったと本人の著書の中で述べている。その後浅子覚大森隆男との「NO FEAR」での活躍あたりから体重も増え、技術の向上もあってプロレス界で頭角を現すようになる(体重の増加は、持病である重い気管支喘息の薬の副作用、もしくは下腹部の古傷の保護のためとも言われる)。

強面なイメージがあるが、たとえ自分より年下でも、大森、垣原賢人鈴木みのるなどの先輩選手には「さん」付けで呼ぶ常識人でもある。ただし、大森との喧嘩別れ以後は「あんな奴」と言ったこともある。同年齢の小橋建太には「小橋建太」、秋山準には「準」、永田裕志には「裕志」などと呼び、さん付けをしないが、「〜選手」と敬称を付けることが多い。また、最近は鈴木に対して「みのるちゃん」と呼んでおり、同年齢の佐々木健介にも40歳になった記念として「健ちゃん」と呼ぶようになった。健介はその後咄嗟に高山を「高ちゃん」と呼び、鈴木からは、ノア中継放送内で「金髪の大男」と呼ばれることが多い。

一時期、「インディアンの血が入っている(クォーターである)」というギミックを使用していた。これは安生洋二のアイデアである。

約2年間の休養後、2006年7月16日のノア武道館大会にて復帰することが決定し、佐々木健介とタッグを組んで、秋山準&三沢光晴組との対戦という最高のカードが用意された。プロスポーツ選手で脳梗塞から復帰した前例は無いといわれている(なお、当初は高山のパートナーは小橋であったが、腎腫瘍摘出手術による欠場のため、変更になった)。試合は半分以上高山が捕まる展開となり、その時点で持っている力を出し尽くし、欠場中の小橋へのエールをこめてマシンガンチョップを放ったりしたが、結局三沢のエメラルドフロウジョンと秋山のリストクラッチ式エクスプロイダーを連続して食らって敗れた。この日は高山の復帰を待望していたかのように、日本武道館には超満員の観客が押し寄せた。その間、高山はUWFインターナショナル時代の同士である宮戸優光が主催の「スネークピットジャパン」にて復帰に向けたトレーニングを積んでいたとのことである。試合後、散々三沢の全力のエルボーや秋山のジャンピングニーパットを食らい続けたが、10分程控え室で休んだ後元気そうにプレスルームに現れ、元気に記者会見に応じていた。

また、仮面のメイドガイとのタイアップでメイドコスプレも行ったことがある。キャッチコピーは「こんなメイドに萌えてみろ」

2004年 9月26日に「ウチくる!?」にゲスト出演。その際に馬場猪木(猪木はVTR出演してくれた)とのエピソード・湘南での思い出や、ライフセイバー時代の友人、後輩・桜庭和志、先輩・宮戸優光などが友情出演)

2005年の某日(月日は失念)日本テレビで土曜午前10時台に、日本医師会の提供番組で「芸能人(有名人)が経験した病気」(という様なタイトルの)番組に前述の通り脳梗塞で欠場中の高山が出演。番組進行役の吉田栄作と公園でのインタビューに応じていた。内容としては持病の喘息についてのことで、脳梗塞の点には触れていない。

2006年NHK 大河ドラマ功名が辻〜山内一豊の妻〜」に蜂須賀小六役で出演していたが、本人は自身の日記で「あまりの大根役者ぶりに自分でもびっくりしている」とコメントしている(高山はこの4年前の利家とまつ〜加賀百万石物語〜にも出演している)。この大河がきっかけでスタジオパークからこんにちはにも出演した。NHKでは珍しいプロレスの映像が放送された(永田からIWGPを取った試合)。ドン・フライとの伝説的な試合はトークでは出たが映像は流れなかった。

2006年12月、「ウチくる!?」(フジテレビ)の安藤和津(奥田瑛二の妻でTVコメンテーター)のゲスト時に、友人として登場。舞台は浅草橋であった。

幕内力士北勝力を「英樹」と呼び、弟分のように可愛がっている。また、同年代であるノア・杉浦貴と大変仲が良く、杉浦を「スギ」「スギ様」「おすぎ」などと呼んでいる。それぞれライバルに「試合以外での杉浦貴」「夜の高山善廣」を挙げている。

聖闘士星矢の声優も演じた事がある。この時、高山は自身が乙女座の事もあり乙女座のシャカのTシャツを着てスタジオに現れた。

全日系のマットに上がるきっかけになった川田とは、ノア旗揚げ以降接点が無くなったためシングルでは2007年5月現在未勝利のまま。しかし共にZERO1-MAXにスポット参戦したり、鈴木経由で(一度は消滅した)ハッスル参戦が実現したりと、ストーリーライン的に直接の絡みこそ無いが徐々に接点ができつつあった。そして2007年 6月17日さいたまスーパーアリーナで行われるハッスル・エイド2007において、遂にタッグマッチながら7年振りとなる直接対決が実現する(パートナーは高山側が鈴木、川田側がACHICHI=大谷晋二郎)。

3大メジャーのタッグはすべて制覇したが、シングルは残り一つ三冠王座を取れば3大メジャー制覇となる(未だ3大メジャーのシングルを制覇した選手は一人もいない)。

全日本とは2000年の分裂・退団後接点は全くなかったが、2006年11月8日全日新木場大会に参戦。特別興行とはいえ全日本マットに6年ぶりに上がる。

プロレス界の二大巨頭、馬場猪木が認めるレスラーである。馬場は当時他団体の選手である高山に「昔だったら海外に(当時の全日は選手を海外修行に出させていなかった)参戦させてやりたかった」とか色々とアドバイスをしたり、食事に連れてったりと、高山を一レスラー・人間として非常に気に入っていた。猪木は新日本の選手を差し置いて「プロレス界で一番最もらしいプロレスラー」と評価している、気に入った者しか連れて行かない「イノキアイランド」にも招待している。

入場テーマ曲は『DESTRUCTIVE POWER』。もとはNO FEARのテーマ曲として使用されていたものである。コンビ解消前には『Sympathy for the Devil』(ガンズ・アンド・ローゼズによるヴァージョン)を使用したこともあった。

公式サイトの日記にて大学を卒業して田宮模型に入社していたら今の自分はなかったのだろうといわれるほどのプラモデル好き(玩具フィギュアなどの収集が趣味である)。

得意技

UWFの流れを汲むUインターからレスラー人生を出発させた彼だが、細かいグラウンドテクニックは余り使用しない。元々から細かいテクニックよりもハードキックで試合を組み立てるタイプではあったが、全日本プロレス移籍当初は逆十字等の極め技も使ってはいた。だがその後は専ら現役日本人プロレスラー最長の恵まれた体躯を活かした豪快な打撃で小細工なしのハードヒットなプロレスを展開している。

エベレスト・ジャーマン
形としては通常のジャーマン・スープレックスとなんら変わりは無く、また綺麗なブリッジとも言い難いが、彼だけが持ちえる上背の高さを生かした落差とそのスピードから、尊敬と畏怖の念を込めてこう称される。90年代中盤以降、四天王プロレスによって投げ捨てジャーマンが乱発されたため決め技としての価値が薄れてしまっていたが、彼のジャーマンにより再びプロレスの必殺技として価値を取り戻していくことになる。なお、相手の受身の技術を考えてか角度を調節する場合が多い。
ダルマ式ジャーマン
通常のジャーマンとは異なり、相手の両腕を一緒に捕らえてジャーマンに移行する。(相手の両手をクラッチするクロスアーム式ジャーマンとは微妙に違う)腕がロックされているので当然受身が取れなく、首のみでマットに叩きつけられる最凶の威力を誇る究極ジャーマン。2000年小橋建太に挑戦した3冠ヘビー級戦(全日本分裂前最後のタイトルマッチとなった)のために開発され、ここ一番の勝負で試みるが、相手が本気で嫌がり殆ど潰されてしまう為幻の技でもある。こうして失敗している内に、本田多聞がまったく同じ形の技(クロスアーム式デッドエンド)を先に成功させてしまった。高山いわく「人を人とも思わない技」。
ニーリフト
膝を使って、ミゾオチを蹴り上げる。ダッシュしてのニーリフトは強力無比で、ヘビー級の相手でもその威力で体が浮き上がり、悶絶しのた打ち回る。エベレスト・ジャーマンと並ぶ高山の代名詞。総合格闘技に出場した時の主力でもある。タックルに合わせた膝蹴りも得意で、桜庭和志、中邑真輔と言ったタックルの使い手をこの一撃で追い込んだ。
ミドルキック
ある計測では、全力ではないのにもかかわらず、その破壊力は1,000kgを超えていたという。また、形態はミドルキックだが、長身のため打撃された相手にとってはハイキックと同じ打撃ポジションとなる。
サッカーボールキック
リング中央・花道上等の助走が大きく取れる場所に相手をしりもち状態にしておいて、走りこんで背中に思いっきりキックを入れる。選手権試合等では背中ではなく正面から蹴り上げることもあり、第1回GHC選手権王者決定トーナメント決勝にて三沢光晴にこれを放ち、顎の下に数針縫う裂傷を負わせた。
ギロチン・ドロップ
ジャンプしてマットに倒れている相手ののど下に大腿部を「ギロチン」のごとく叩き落す。全日本移籍初期に純プロレスにシフトチェンジを図るため多用していたが、フィニッシングホールドとしては説得力に欠け、徐々に使用しなくなった。
罵詈雑言
厳密にはプロレス技でないが、自著に記載されているプロフィールに「本当の得意技 罵詈雑言」と書かれている。その名のとおり、試合前後のマイクパフォーマンスではキレのあるコメントをする。

タイトル歴

プロレスリング・ノア

GHCヘビー級王座
第4代(防衛0回)
GHCタッグ王座
第3代(防衛0回) & 大森隆男

全日本プロレス

世界タッグ王座
第38代(防衛0回) & 大森隆男
アジアタッグ王座
第66代(防衛0回) & 大森隆男
(注記)史上初の同時保持となった。

新日本プロレス

IWGPヘビー級王座
第32代(防衛3回)
NWFヘビー級王座
第20代(防衛7回)
中邑真輔(IWGP王者)との統一戦に破れ、同ベルトは封印された。
IWGPタッグ王座
第46代(防衛4回) & 鈴木みのる

WAR

WAR認定6人タッグ
& 安生洋二 & 山本健一

ZERO1-MAX

NWAインターコンチネンタルタッグ
& 佐藤耕平
  • 2002年度 殊勲賞、年間最高試合賞(ベストバウト) VS永田裕志 5/2
  • 2003年度 最優秀選手賞(MVP)
  • 2004年度 最優秀タッグチーム賞(& 鈴木みのる)
  • 2006年度 カムバック賞

関連項目

外部リンク

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