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「同性愛」の版間の差分

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[[キリスト教]]の中でも比較的保守的な宗派においては、[[レビ記]]で男性間の性行為を死刑と定めていることなどを根拠に同性愛を禁じている場合が多い。リベラルな宗派の中には、同性愛者が存在し愛情を抱き合うことは異性愛と同様に神の意思に従った自然なことであると考えるものもある。しかしその場合でも、その愛情を性的接触として表現する同性間の'''性的な行為'''は許されないとする教派もある。
[[キリスト教]]の中でも比較的保守的な宗派においては、[[レビ記]]で男性間の性行為を死刑と定めていることなどを根拠に同性愛を禁じている場合が多い。リベラルな宗派の中には、同性愛者が存在し愛情を抱き合うことは異性愛と同様に神の意思に従った自然なことであると考えるものもある。しかしその場合でも、その愛情を性的接触として表現する同性間の'''性的な行為'''は許されないとする教派もある。
また、[[イスラム教]]も教義上は同性愛については否定的な見解を示している(実際には20世紀後半までイスラーム諸国において男色・少年愛は極めて盛んに行われていたが)。
また、[[イスラム教]]も教義上は同性愛については否定的な見解を示している(実際には20世紀後半まで(追記) 、[[ (追記ここまで)イスラーム(追記) ]] (追記ここまで)諸国において男色・少年愛は極めて盛んに行われていたが)。


一方、[[ニューギニア]]のサンビアなどメラネシアの幾つかの社会には通過儀礼の一環として男性同士の[[フェラチオ]]や肛交が定められており、その意味では同性愛行為は一般的であると言える。しかし、そこにあるのは社会的な義務観念であって「性愛」ないし「愛情」をともなう行為とは必ずしも言えないためこれを同性愛と呼べるか否かは疑わしい。上に議論したように当事者の心情を基準として同性愛を定義するならばそこからは外れるであろう。
一方、[[ニューギニア]]のサンビアなどメラネシアの幾つかの社会には通過儀礼の一環として男性同士の[[フェラチオ]]や肛交が定められており、その意味では同性愛行為は一般的であると言える。しかし、そこにあるのは社会的な義務観念であって「性愛」ないし「愛情」をともなう行為とは必ずしも言えないためこれを同性愛と呼べるか否かは疑わしい。上に議論したように当事者の心情を基準として同性愛を定義するならばそこからは外れるであろう。

2007年12月22日 (土) 23:01時点における版

曖昧さ回避 ゲイ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ゲイ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ファイル:Romemo a la Paris Gay Pride 2005.JPG
パリゲイ・パレード(:La Marche des fiertés)の先頭、左からイル=ド=フランス地域圏議会のジャン・リュック・ロメロ議員(国民運動連合)、ヤン・ヴェーリング 緑の党・党首(当時)、Inter-LGBTのアラン・ピルウー代表、パリ市長ベルトラン・ドラノエ, 20056月25日

同性愛(どうせいあい)とは、男性同士または女性同士の間での親愛や性愛。また、その性的指向を含めた、性愛のみに限定されない広義のライフスタイルを指す。

同性愛の性質を持っている人のことを同性愛者、英語でホモセクシュアル(homosexual)という。ホモという略語には侮蔑のニュアンスが含まれているため、今日では通常使われていない。

これに対して異性愛を「ヘテロ・セクシュアル」(heterosexual)、両性愛を「バイ・セクシュアル」(bisexual)という。また、性的対象を持たない無性愛は英語でasexualと表記し、代表的な辞書には「エイセクシュアル(ASEXUALの英語訛り)」という発音が掲載されているが、日本では「ア・セクシュアル」と言うことが少なくない。

男性同性愛者をゲイ(Gay)、女性同性愛者をレズビアン(Lesbian)とも呼ぶことが多い。ゲイという単語は、稀に男性だけでなく女性の同性愛者も含んだ「同性愛者一般」という意味で用いられることもあり、さらに性的少数者一般を「ゲイ」という言葉で代表させる用法があるが、今日では誤りとされる。性的少数者一般を指す単語としては、LGBT(I)が推奨されている(詳しくは下記用語参照)

関連事項:性的嗜好非性愛

用語

ゲイ

男性同性愛者のことを特にゲイと呼ぶ。ホモセクシュアル、略して「ホモ」と言われることもあるが、現今ではこの言葉は差別的で不適切な表現と見なされている。広義には性別を問わず同性愛者すべてを含むが、日本では単にゲイという場合は、後述のレズビアンと区別し、男性同性愛者のみを指すことがほとんどである。ただし、アメリカ合衆国などの英語圏ではレズビアンも含めゲイと呼称する。

英単語の「gay」に由来する。この単語は「陽気な」「派手な」などの意味を持つ。この単語が同性愛者を意味するようになったのは少なくとも19世紀以降で、おそらく実際にはそれ以前からだと考えられている。ヴィクトリア朝イギリスでは、売春婦・男娼が「gay」と呼ばれていた(これは彼らがgaily、つまり「派手に」「華やかに」着飾っていたからである)。それが語源となり、全ての男性の同性愛者を指して用いられるようになった。

レズビアン

キス をする レズビアンカップルフランスの首都パリゲイ・パレードにて、2005年6月
レズビアンカップルフランスの首都パリゲイ・パレードにて、2005年6月
レズビアンカップルフランスの首都パリゲイ・パレードにて、2005年6月

女性同性愛者のことをレズビアンと呼ぶ。

日本では「レズ」という略語も用いられるが、歴史的に含まれてしまった侮蔑的ニュアンスを嫌い、意図的に「ビアン」と略す者もいる。男性同性愛者ほど顕在的なものではないにしろ、レズビアンに対する嫌悪感を抱く人も存在する。

語源ギリシアレスボス島に因む。古代ギリシア時代にこの島に住んでいた詩人のサッポーが、少女の教育を担っていたと考えられる宗教的女性結社の指導者で、アプロディタ女神への讃歌や官能的な恋愛を多数作り、古代において恋愛詩の閨秀詩人として著名であったためである。サッポー自身が女性同性愛者であったという明確な証拠はない。伝説では、サッポーは美青年への恋に失恋したため、崖より身を投げて自殺したともされ、またその作品からしても、同性愛であったかどうかは疑問である。しかし後世、混同が起こり、女性同性愛は「サフィズム」とも呼ばれている。

フィクションにおける同性愛者

フィクションのやおいにおける男性同性愛や、ポルノ雑誌の「レズもの」における女性同性愛者などに対しては、娯楽的観点を重視しすぎており現実の同性愛者に対する誤解・偏見を招くという批判もある。また、男性ヌードの媒体が少ない日本においては、ゲイ産業にその捌け口を求める女性が少なからず存在することが、異性愛者と同性愛者とのトラブルの火種となっているとも考えられる。

定義

同性愛者の定義は、場面によって様々に与えられる。この定義の差異によって人口に占める同性愛者の割合は大きく変化する。

同性愛感情の素因を持っている人

「生育環境が同性愛感情を育む要因を持っており、よい出会いに恵まれたならば、異性愛感情を抱いた可能性がある人」を同性愛者と定義する考え方がある。言い換えるなら、「生物学的にどうしても異性愛感情を抱き得ないというわけではない人」である。

フロイトの考えによれば全ての人間はこの意味での同性愛者である。これは、彼が「先天的にはいかなる対象とも不可逆的に結びついているわけではない幼児性欲が、後天的にいかなる対象に結びつけられるか」が同性愛/異性愛を決定すると考えていたことによる。ただし、フロイト自身はこの意味で同性愛者という言葉を使ったことはない。

より穏当な意見の人々からも、同性愛に抑圧的でない文化においては同性愛感情を経験したことがある人が多く見られることから、この意味での同性愛者の割合は極めて高いと見積もられている。

ただし、この定義における「同性愛者(ホモセクシャル)」は「異性愛者(ヘテロセクシャル)」と背反な概念ではないため、その大部分は「両性愛者(バイセクシャル)」とみなすこともできる。「両性愛者」を除く狭い意味での「同性愛者」、すなわち「生物学的にどうしても同性以外に恋愛感情を抱き得ない人」はより少ない。厳密なパーセンテージについては諸説あるが、人口の10パーセントを超えるとする報告は最近では見られない。

同性愛感情を経験した人

同性愛感情を有している、もしくは有していた人のことを同性愛者と定義する考え方もある。

上で述べたようにこの定義における同性愛者の割合は文化依存性が高い(スタブ)。 しかし、同性愛に抑圧的な文化においては、調査の回答者が同性愛感情の経験を隠そうとする可能性も高い。この意味での同性愛者の割合は実は安定しており、それを公にする人の割合が異なるだけではないかという指摘もある。

唯一確実だと見なされていることは、この定義のもとで、同性愛者が人口の100パーセントを占める文化や、0パーセントの文化は知られていないということである。

Wellingsが1994年イギリスで行った調査によれば、この意味での同性愛者は人口の約6パーセントであった。両性愛者を除く狭い意味での同性愛者は男性の約1パーセント、女性の約0.5パーセントであった。

同性間の性行為を経験した人

同性間の性行為、すなわち同性同士での性的な接触を取り上げて、その経験の有無によってHomosexualityを定義しようとする考え方もある。ただし、この場合日本語においては同性「愛」となっているので言語上の問題がある。また、異性愛者に関しては、性行為がなくても異性愛者と呼ぶことを(異性愛者とも呼ばないほど自然に)受け入れるのに対し、同性愛者を性行為の経験の有無によって定義するのは非対称であり、整合性はないといえ、同性愛をもっぱら性行為のみに限定しようとする多数派意識の反映という指摘もある。

この定義を、感情経験といった主観的なものに比べて科学的な優れた尺度であると考える人もいる。しかし、幾つかの点で問題もある。

  • 同性間の性交行為は文化・制度的に強く規制されることも多く、感情という内面的なものに比べて文化・制度が影響しやすい
  • 同性間の性行為に及ぶに必要とされるパートナーは、人口密度の低い地域では全く見つけられない可能性がある。

そのため、同性愛の生物学的な側面を検討する上ではこの定義は役に立たないと考える人もいる。

また、同性愛感情が無くても同性間の性交行為をすることは可能であるので、このことが統計的なズレをもたらしている可能性もあると指摘される。単なる興味本位や、制度的な強制、売春強姦、刑務所や寄宿舎などで異性と接する機会がない場合など、そのような事態は実際に知られている(参考:機会的同性愛)。

この定義における同性愛者の割合については様々な報告がある。

  • ニューギニアサンビア族では、男性同士の性交行為が通過儀礼として制度化されている。しかしこれをもって、男性の100パーセントが同性愛者であるとするのは間違いである。
  • 上のイギリスにおける調査では、男性の3.6パーセント、女性の1.7パーセントであった。両性愛者を除くと、男性の1パーセント、女性の0.5パーセントであった。
  • 1992年のアメリカ国家世論調査センターによる調査では、男性の2.8パーセント、女性の1.4パーセントであった。
  • 1995年ハーバード大学によるアメリカにおける調査では、男性の6.2パーセント、女性の3.6パーセントであった。

同性に対して性欲を感じる人

これは定義とは言いがたい物ではあるが、これは同性愛であるとする、ないとするで意見が分かれがちである。いわゆる同性の画像、映像に性欲を抱く人、同性の身体やその一部に性欲を抱く人のことである。

多くの場合、(同性に対して恋愛感情を持つ)同性愛者から見ると、「これは同性愛には含めない」と考える人が多く、(同性には一切性欲を感じない)異性愛者から見ると、「これは同性愛の一種である」と考える人が多い様だ。

  • 前者の人から見た場合、これらの人は単に性欲を感じているだけであり、実際に同性に対して恋愛感情がある訳ではなく、単純に生理的な欲求の対象としていると感じられるため、実質的な同性愛ではないとしている事が多い。なんとなれば、恋愛感情という極めて個人的で繊細な主観を以って選択的に対象へ臨む行動様式、つまり「ほれた、すき」を抜きにしており、たとえば異性愛者がいちいち雑誌の異性グラビア頁に恋愛しないのと同等である、といえよう。
  • 逆に後者の人から見た場合、これらの人は多かれ少なかれ、異性ではない同性に性的な感情を抱いていると感じられるため、同性愛の一種とみなしている事が多い。同性愛者とは常に必ず同性を、なんらかの感情、対象として視野においている、という前提の既成観念に基いている。


  • 「ホモセクシュアル」という用語の元たるラテン語の"HOMOSEXUALIS"には「愛」という意味合いは含まれていないので(「ホモセクシュアル」など同義のヨーロッパ諸語も同様だが)、「同性に性欲を感じる人」は、みんな「同性愛者」ということになる。

偏見と実像

同性愛は珍しい存在なのか

性的少数者(性的マイノリティー)は、おおよそ概念上で少数者とされているものであり、実際はそれほど少数ではないと考えられる。 概念上マイノリティーとなる最大の理由は、多くの同性愛傾向を持つ人々が、その偏見から、社会的に及ぼす影響や自身が被る不利を考慮し、同性が好きであることは普通に言い出せる現状にはないと個人的レベルで判断した結果、隠すための努力をする、隠すために最善を尽くすことを選択するからである。一般世間において異性愛規範や結婚規範が強いために、同性愛者でありながらそれを隠すために異性と交際したり、結婚をして子供をもうけたりしている者も決して少数派ではない。このケースでは配偶者も夫や妻が同性愛者であることに気づかないことが多い。

歴史を遡ると、同性愛が公然と行われた時代も存在する。少年愛(パイデラスティアー)が制度化されていた古代ギリシア時代である。(ただし、古代ギリシアにおける同性愛的関係は概ね成人男性と思春期前後の少年のあいだで結ばれるもので、成熟した男性同士の関係は必ずしも多数派ではなかったらしい。)

日本においても、場所や状況によっては同性愛が公然と行われた時代がある。古くから寺院においては、女人禁制の掟があり、女性と性交渉をすることは禁じられていたが、同性間での性交渉を禁じる掟というものはなく、同性を性的対象と見なす(男色)ことには隔たりがなかったという。また、戦国時代の武家社会では男色をたしなむことが当然視されており、同性を性的対象と見なさなかった豊臣秀吉は、むしろ例外的な存在であったと言われている。秀吉が農民出身であったため武家社会における男色の風習になじめなかったこともその一因として考えられるが、庶民や農民階層においても、男色行為は盛んに行われていた。

同性愛は習癖なのか

同性愛をただその方向に習癖として流れたのだと考える向きは未だ根強いが、同性愛はそうあろうとしてあったり、認知するからあるものではなく、傾向として無意識的にあるものだということがわかっている。つまり、流れようと考えて流れたのではなく、もともとそうした傾向(性的指向)を備えていたということになる。

しかし、なぜそうした傾向を備えるかについては、脳説(下記参照)、ホルモンシャワー説など諸説、多くの推測や研究があるものの、未だ断定に至るような同性愛になる原因はわかっていない。

現在、同性愛は国際医学会やWHO(世界保健機関)、日本精神神経医学会といった専門医による見解(下記項参照)によって、治療の対象外であり疾病ではないというのが有力となっている。

しかしながら、一部でこれを治療が極めて困難な精神的な病だと考えている人もいる。一部の心理学の分野では、男性同性愛者のケースにおいて、妊娠時における母親方のストレスや幼少期における長期にわたる父性方の愛情欠如、あるいは父性そのものの存在の無知、コミュニケーション不足、暴力、それらから受ける心的ショックなどによって同性愛になるという学説がある。この心理学における説(同性愛者が訴えた説ではない)は、男性同性愛者当事者においても、幼少期における経験談などから多くの一致を見ることができるとする当事者は少なくないという。

しかしながら、仮にこの心理学の説のように男性の愛情のない環境が原因で同性愛の傾向性が形成されていった場合でも、胎児や幼少期の子供が「自分が同性を好む傾向をもつべきか否か」などといったことを意識的に選択するわけではないのであり、これは習癖に流れたのではなく、可逆性の低い傾向性を環境によって無意識に備えたということである。つまり、性的指向という部分では変わりはないといえる。

同性愛に関し、多方面からさまざまな研究が成されている今日において、性的指向理論自体を合理的に覆すのは困難になっているのは現状としてあるといえる。

同性愛は環境ホルモンに原因があるのか

この説は、化学物質が開発されるずっと以前から同性愛が存在することに関しては何ら意味をもたないため、同性愛の存在そのものに関する根源的な原因説ではない。

環境ホルモン説は週刊誌やいわゆる実用書、また陰謀論的テクスト等によく登場する説であり、医学界・心理学界等の大勢の評価を得ている説ではないが、概ね19世紀以後に開発・使用された人工的な化学物質が人間および動物の同性愛化に影響を与えているという説である(現時点においては、少なくともいわゆる環境ホルモンの人体への影響は極小のものであると考えられており、この点に関して、本説は疑似科学に近い説であるという見解が有力である。環境ホルモンの項目参照)。

本説がもしも事実であれば、一般販売されている農薬汚染・肥料汚染された食品、化粧品石鹸ペンキ等の工業品などを通じて、同性愛傾向を備える可能性が高くなるということになるが、これには遺伝子の持つ免疫力の強さに応じて個人差が出るという。つまり、この裏づけには人の遺伝子の免疫力への影響度そのものの検証データが必要となってくる。しかしながら、現在までのところこうしたことに関する信頼性の高い確実なデータが提示されているわけではない。また実際に、それらの製品によって何ら影響を受けない異性愛者がほとんどであることからも、この説の信憑性は現段階でなかり低いものとなっている。

いずれにしても、化学物質と同性愛傾向に関するこうした説のソースのほとんどは週刊誌等であり、いわゆる科学的検証に耐えうる説であるというには程遠いのが現状である。

同性愛は脳の機能に原因があるのか

同性愛など人間の性的な傾向は、自律神経をつかさどる脳の機能に規定されている可能性が有力であり、さかんに研究がなされている。特に有名なものとしてはスウェーデンの研究がある。 Brain response to putative pheromones in homosexual men

同性愛は治療の対象になるのか

現在、国際医学会やWHO(世界保健機関)では、同性愛は「異常」「倒錯」「変態」とはみなさず、治療の対象から外されている。同性愛などの性的指向については発達障害などとは別のもので、矯正しようとするのは間違いとの見方が主流となっている。 一人一人の中で、「同性指向」と「異性指向」がある一定の割合で存在しているというのが人間という「種」の基本的性質であり、そのパーセンテージは自分の意志で簡単に変えたり選んだりできない可変性の低いものになっている。

また、日本精神神経医学会は、「同性愛はいかなる意味でも治療の対象とはならない」という見解を宣言している。

同性愛者は異性装をするのか

同性愛者は異性装をすると信じていたり、異性装者は同性愛者であると信じていたりする人がいる。

大部分のゲイは女装をしない。身体的に男性の性同一性障害者(MtF-GID)とは異なり彼らは心理的にも男性であるのだから、もともと女性の服をわざわざ着る性的傾向にはないのである。

ただし、ゲイ・タウンの文化の中には、ドラァグ・クイーンのように故意に奇異な女装をしてショーとして見せ、面白がるという習慣も含まれている。すなわち、極少数のゲイが見せ物として女装をするのである。そのほか、ノンケ(異性愛者)好みのゲイが、パートナーの違和感を和らげるためにするということもあるようだ。

また、MtF-GIDとゲイを混同している人から見れば、やはりゲイのうち一定数は女装をすると見える可能性はある。

男装をするレズビアンもまた、多いというわけではない。しかしながら、現在の日本の文化ではかなり「ボーイッシュ」な服装であっても女性の服装として認知されている(「ガーリッシュ」という言葉に市民権がなく、男性の服装と認められていない事実とは対照的である)。「ボーイッシュ」という程度を含めるのであれば、男性的な服装を好むレズビアンは一定数存在する。

身体的に女性の性同一性障害者(FtM-GID)はレズビアンの中にかなりとけ込んでいるので、FtM-GIDの存在がレズビアンの服装傾向をより男性的に見せている可能性はある。

露出度の高い恰好をする男性はゲイなのか

実際には露出度の高い恰好をする男性が必ずしもゲイだなどということはまずあり得ないであろう。ゲイにも(他の男性に性欲を感じる、与える為に)露出度の高い恰好をする人は少なくないが、露出度の多い服装の人が全てゲイである訳ではないし、ゲイが全て露出度の高い恰好を好む訳ではない。単にその様な恰好が好きな異性愛者の男性は決して少なくないであろう。

こうしたイメージは、女性は見られる・触られることに性欲を感じ、男性は見る・触る側になることに性欲を感じることが多いとされるために、また露出度の高い男性向けファッションが日本ではそれほど一般的でない為、そのような偏見があるのではないかという説が有力になっているようである。(性欲 より一部引用)

ゲイは女性的傾向か

ゲイならば必ずしも女性的というわけではない。大部分のゲイは異性愛者男性に見える。ある一個人を先入観なく見たとして、女性的と感じる例はそれほど多くはない。むしろ行動において男らしさを過剰なほど強調するゲイも少なくないし、外見においては異性愛者の男性よりもいかつい男性的な要素を強調するゲイが多い。(短髪・髭・筋肉を強調して男臭く決めたゲイ男性のことをさして「いかにもホモらしい」という意味で、イカホモと呼ぶことがある。)

しかしながら、内面的、文化的に男性的とされる性質がやや薄い傾向が全体的に見てあるという説がある。一部のゲイの間で使われる独特の、極端化され強調された女性言葉の存在がある。これが一般にもっともよく知られる俗にオネエ言葉 と呼ばれるもので、「......だわ」「......よね」といった、現代日本にあってはむしろ女性は使うことが少ない極端な女性言葉である。当人が必ずしもそれを女性的な言葉と意識して使っているとは限らないが、端から見てゲイの女性性を裏付けるように見えるのは事実である。一部の当事者においては、女性性が強いゲイが、その指向を隠そうという意識が極度に薄く、オープンであった場合、その女性性は周囲にかなりはっきり感じられるほど強く、もっといかにもわかりやすいものになるはずであるとしている。無論、必ずしもすべてのゲイに顕著ではないオネエ言葉であるが、わかりやすくインパクトも強いためか、メディアなどを通じ一般にゲイのプロトタイプ的な傾向として認知されてしまっている。

オネエ言葉ほどではないものの、語尾やイントネーションの女性性、また、話し方だけではなく、何気ない仕草や日常動作の体の動き方などの女性性などもゲイに多い特徴として挙げられる。異性愛者の男性においても、特に男性語を使わない優しい口調で物腰が柔らかく、一見、温厚で低姿勢に見える人々は少なからず存在するが、先にも述べた、オネエ言葉のプロトタイプ的傾向認知同様、女性性がゲイに顕著な特徴であるという感覚が一般にあるために、行動に女性性が漂うこと、あるいは男性性が希薄なだけでゲイである可能性を疑われる事態が発生する場合がある。

大部分のゲイは、ゲイに対する社会の差別意識が根強いため、自分が同性愛者であることを公に知られることを恐れている。不当な差別から身を守るために自分の女性性は見せないようにすることが多い。そう考えた場合に男らしさを過剰なほど強調するのもこうした差別への防御反応であるという見方もできる。ただ実際に無意識的に女性性が薄いゲイも割合存在しているため一概にはまとめることはできない。主にオネエ言葉を使い、仕草が女性的なゲイがゲイとして一般社会に認知されやすい傾向にある中、同性愛のこうした繊細さには、しばしば同性愛者同士でさえ盲目になってしまうことさえあるほどである。

このようにゲイは男らしさから女らしさまでをさまざまな割合と形で内包しており、その幅広さはポジションによってはマイノリティー(性的少数者)の中のマイノリティーといったところに位置してしまうこともある。しかしながらどんな当事者にとっても自分本来の恋愛観や性に対する傾向は意識的には周りと違うと判ってはいても、異性愛者にとっての通念と同じく無意識なものであることには変わりはない。

レズビアンは男性的傾向か

レズビアンに関してもほぼ同様である。

服装に関するのと同様、文化的な許容範囲の問題から、男性的なレズビアンは一定数存在すると見ることもできる。

また、「異性装」ではないにしても「ボーイッシュ」という程度の男性的な服装が女性全体に比べて有意に多いと言う指摘もある。しかしレズビアンの中にはFTMの性同一性障害者が紛れ込んでいる(ゲイとMTFは比較的はっきりと区分されている)ため、「レズビアンは男性的傾向の強い人が多い」という印象が増幅されている可能性がある。

異性愛の女性の中にも好戦的、支配的、性急、恩着せがましいといった「男らしさ」を有する人々、男性語の多用や大胆な行動など、「男らしい」振る舞いをすることを好む人々が確実に存在していて、決して少数ではない。

同性愛者は異性恐怖症か

特にレズビアンに対し、男性恐怖症ではないかという誤解が見受けられる。この誤解にもとづいて、男性恐怖症が治れば男性と付き合えるという「助言」をする異性愛者もいる。実際には男性の友人を持っているレズビアンは少なくないのであり、男性嫌悪を抱き女性のみのつきあいを望むレズビアン(セパレイティストと呼ばれる)はかなり限られた存在である。また、過去に男性との交際も経験し、しっくりこなかったなどの理由で自分がレズビアンであるという自覚を持った人も多い。

女性恐怖症のゲイもまた、多いというわけではない(逆にゲイであれば女性と良い友だちになれると思い込むのも早計である)。『ゲイ 新しき隣人たち』(モートン・ハント著、窪田高明訳、河出書房新社)では、男性同性愛者の場合、約半数はいずれかの時点で女性との性交を経験しており、女性に関心も性的感情もまったく抱いたことのない男性のゲイは、全体の四分の一にすぎないとしている。

同性愛カップルには男役と女役がいるのか

一般的な異性愛の「男役」「女役」の性役割の概念を同性愛者に適用していうならば、そのような状態に近いカップルとそうでないカップルが存在するということになる。しかしながら、基本的に同性愛者が恋愛対象として惹かれるのは同性である。必ずしも同性である相手に異性的なものを見出して惹かれ合っているわけではなく、同性として惹かれるポイントがなければ成り立たないということである。

人は文化的、内面的の両方で男性的な部分と女性的な部分とを複雑な割合で内包している。同性愛カップルにおいて、両人に内包されるこうした男性的な部分の度合い・女性的な部分の度合いが完全に一致するということは当然のことながら希である。一方が相手に比べてやや男性的で、相手がやや女性的であるというような、異性関係的なものがあるカップルから、ほとんどそうしたものがない友情の延長上にあるような、兄弟のようなカップルまであり、そのバランスは人によりさまざまである。

セックスの際に、「男役」と「女役」に近い概念があるが、これもおおよそ性別的な概念というよりも、「リードする側」と「される側」というものに過ぎないと考えるのが妥当である。一般に前者は タチ(または セメ)、後者は ネコ(または ウケ)と呼ばれ、どちらも可という者は リバ と呼ばれる。こうした役割概念は人によっては、あまりはっきり持っていない者もおり、また相手や気分によって役割が頻繁に入れ替わるという者も少なくない。当然ながら、こうした「行為」の役割は、外見上のイメージ(見た目の男性性・女性性)及び、精神的な役割などと必ずしも一致するというものではない。

ところで、男性同性愛者はセックスの際、アナルセックスをするというイメージが一般的にあるようであるが、すべての男性同性愛者がアナルセックスをするわけではない。一部の当事者においては、アナルセックスに嫌悪感などがあったり、まったく興味を示さず、しないという男性同性愛者は少なくない、としている。(一方、異性愛者の男性の中にも女性とのアナルセックスを好む者もいる)

同性愛カップルの男役と女役を見出そうという視点は、そもそもは「恋愛に於いては両人の間に異性性が横たわっている」という異性愛者の一般的な概念上で両人の差異を咀嚼した結果、「一方が男性として他方が女性として振る舞っている」と判断するというものであるとも考えられる。実際には、こうした一般的な男女の概念を、同性愛者に完全に当てはめること自体は難しい。一部の当事者においては、こうした疑問や興味自体が、一般的な男女概念上で同性愛を理解しようとした際の、誤解釈の産物である、として、性と性役割が区別されずに、カップルには「男役」と「女役」が必須という誤解の上に成り立っている、としている。また、「男役」「女役」といったものが、それぞれ何を意味しているのかは、一社会・文化に限っても個々人の解釈によって異なることは多く、曖昧なものだ、ともしている。

性別については、内面的な部分と肉体的な部分とがさまざまなバランスで内包されており、その定義が難しい。そのため、生物学的性別、性自認、性役割をそれぞれ分けて考える必要性が生じる。生物学的性別、及び性自認が「男」だからといって、必ずしも「男」の性役割を担うわけではない。

同性愛は人間だけにあるのか

人間以外の生物においても同性愛と解釈できる行動は決して珍しいものではなく、オス同士で互いに精子をかけ合うクジラをはじめ、昆虫の間で見られた等多数の例が報告されている。2006年にノルウェーのオスロ自然史博物館では、世界で初めて「生物の同性愛」をテーマとした展示会が開催された。同性愛的行動が確認された動物は1500種以上であり、そのうち500種の同性愛が立証されている。

くわしくは動物の同性愛

同性愛と社会

文化・宗教における同性愛の位置づけ

同性愛に対する文化・宗教の態度は様々である。ただし、同性愛者が異性愛者に比べて非常に少数であることや、生殖による共同体維持にマイナスに働きうることから、同性愛が異性愛以上に奨励された文化はさほど多くないとされている。

同性愛を禁じている文化・宗教は幾つか存在する。例えば、アブラハムの宗教(セム系の排他的一神教)の多くの宗派は同性愛を禁じている。そのせいで、欧米の伝統的な文化では同性愛は否定的に評価されている。

キリスト教の中でも比較的保守的な宗派においては、レビ記で男性間の性行為を死刑と定めていることなどを根拠に同性愛を禁じている場合が多い。リベラルな宗派の中には、同性愛者が存在し愛情を抱き合うことは異性愛と同様に神の意思に従った自然なことであると考えるものもある。しかしその場合でも、その愛情を性的接触として表現する同性間の性的な行為は許されないとする教派もある。 また、イスラム教も教義上は同性愛については否定的な見解を示している(実際には20世紀後半まで、イスラーム諸国において男色・少年愛は極めて盛んに行われていたが)。

一方、ニューギニアのサンビアなどメラネシアの幾つかの社会には通過儀礼の一環として男性同士のフェラチオや肛交が定められており、その意味では同性愛行為は一般的であると言える。しかし、そこにあるのは社会的な義務観念であって「性愛」ないし「愛情」をともなう行為とは必ずしも言えないためこれを同性愛と呼べるか否かは疑わしい。上に議論したように当事者の心情を基準として同性愛を定義するならばそこからは外れるであろう。

また、古代から近世初期にかけての日本の武士や、ギリシア・ローマでのように男性間の同性愛行為を肯定的に評価したり積極的に利用しようとした文化も存在する。ただし、これらは一部の階級に限られていたり、集団の結束を強固にする目的があったり、成人男性と少年との関係に限られているなど、何らかの意味で現代的な同性愛とは異なるものだと指摘する見方もある。

これらの中間として、同性愛を取り立てて肯定も否定もせず、単なる恋愛・性愛のバリエーションの一つと見なす文化も存在する。[要出典 ]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

同性愛に関する法と政治

同性愛を違法化する「ソドミー法」のようなものを掲げる国や地域も存在する。 日本では、1872(明治5)年に発令された鶏姦律条例および1873(明治6)年に発令された改定律例では男性同士の性行為が犯罪とされた(後者の第266条では懲役刑)。しかし、1880(明治13)年に発令された刑法ではこのような規定がなくなった。以後、日本においては、同性愛は何ら犯罪ではない。

参照:[1] 日本法令索引 明治前期編

関連事項:ヘイトクライム同性結婚

同性愛者の精神疾患

1989年のアメリカ保健社会福祉省調査によれば思春期の自殺者のうち約30%が同性愛者を含めたセクシャルマイノリティである。また、ロンドン大学の調査ではイギリスの同性愛者・両性愛者の3人に2人がうつ病や他の精神疾患を抱えやすいという結果が出ている。日本でも、同性愛者の約6割が自殺を考えたことがあるという研究結果があり、同性愛者の置かれた社会状況が同性愛者の精神状況に影響を与えているものと思われる。

同性愛者同士のコミュニケーションや運動

古来から、通過儀礼として社会的に同性愛が認められている場合を除き、自己が同性愛者であると公に知らしめる行為には、ためらう人が多い。ゆえに、同性愛者同士のコミュニケーションは時・場所が異性愛者同士のそれと比べて少なく、ウェブサイトの掲示板や、同性愛者を客層とするバーなど狭い範囲に限られている。 近年では、自己に誇りを持とうとする運動が繰り広げられ、ゲイ・パレードのような運動や、インターネット上でのコミュニケーションが活発に行われている。これにより、同性愛者への差別意識(参考:ホモフォビア)撤廃などを訴える運動がさかんである。

関連事項:ゲイ用語レズビアン用語ゲイ雑誌ゲイ・タウンゲイ向けゲーム男性向けホストクラブ発展場ホワイトリボンキャンペーン東京都青年の家事件

同性愛にまつわる有名人

この中には実際に同性愛・両性愛者である事を公表している者の他に、テレビの世界だけで実際は異性愛者と見なされている者も含まれる。また「芸風」としてステレオタイプな同性愛者のイメージを過剰に演出したようなキャラクターが強調されがちである。なお、ハードゲイ なる言葉がゲイ用語として日本のゲイコミュニティの中で認知されているわけではない。

同性愛をカミングアウトしている有名人一覧

日本の芸能人についてはカミングアウトしているというよりは、芸人やタレントが自己暴露的に言及しているという例が少なくない。海外では本人がカミングアウトしている人が多く、中でも歴史的な大物ロックスターが目立つ。

日本

海外

同性愛風のキャラクターを売りにしている芸能人一覧

日本

海外

など

同性愛をカミングアウトしている政治家

関連事項

関連文献

  • 「クィア・サイエンス―同性愛をめぐる科学言説の変遷」 ISBN 4326601507
(サイモン・ルベイ著、伏見憲明監修、玉野真路岡田太郎訳、勁草書房2002年)

外部リンク


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