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那覇市中心部に位置する。西側に[[松山 (那覇市)|松山]]、北側に[[前島 (那覇市)|前島]]、東側に[[牧志]]、東南側に[[松尾 (那覇市)|松尾]]、[[泉崎 (那覇市)|泉崎]]、南西側に[[久米 (那覇市)|久米]]、[[東町 (那覇市)|東町]](削除) に (削除ここまで)接し、[[沖縄県庁舎]]や[[那覇市役所]]にも近く、[[金融機関]]や[[放送局]]などが立地する[[オフィス街]]で、沖縄県の[[経済]]の中心地である。の(削除) 東、 (削除ここまで)美栄みー橋から泉崎いずんざち橋にかけての久茂地くもじ川両岸に沿う。南は泉崎いずんざち村、東は古波蔵くふあんぐわ村・牧志まちし村、北は泊とうまい村。普門ふもん寺という寺があったことから、もとは普門寺(削除) ふもんじ (削除ここまで)村と称し、普文寺村とも記された(琉球国由来記)。もとは久米村の東側に位置する那覇役人の管轄する地域で、わずかに久米村に属する内金うちがにく宮周辺に数軒の家がある荒野であったという。康熙六年(一六六七)久米村の紫金大夫金正春城間親方が王命により宅地として整備、その際に普門寺の名をとって村名にし、この時から久米村の所属となったという(『球陽』尚質王二〇年条)。(削除) 「 (削除ここまで)中山伝信録(削除) 」 (削除ここまで)には普門寺があったところから普門地というとある。久米村の丘陵に近い地域を上の平(削除) ( (削除ここまで)いーのふいら(削除) ) (削除ここまで)といい、普門寺村はこの地域にあたるという(『南島風土記』)。その後那覇と同様宅地不足となり、尚敬王二一年(一七三三)には周辺の汀地が宅地として開発された(『球陽』)。轆轤の技術を琉球に伝えたとされ、安里掟となった大隅出身の鮫島六郎兵衛は当村に定住した((削除) 「 (削除ここまで)久米村日記(削除) 」 (削除ここまで)沖縄教育史要)。以後当地には職人や技術職人が多数居住した(『南島風土記』)。
那覇市中心部に位置する。西側に[[松山 (那覇市)|松山]]、北側に[[前島 (那覇市)|前島]]、東側に[[牧志]]、東南側に[[松尾 (那覇市)|松尾]]、[[泉崎 (那覇市)|泉崎]]、南西側に[[久米 (那覇市)|久米]]、[[東町 (那覇市)|東町]](追記) と (追記ここまで)接し、[[沖縄県庁舎]]や[[那覇市役所]]にも近く、[[金融機関]]や[[放送局]]などが立地する[[オフィス街]]で、沖縄県の[[経済]]の中心地である。
(追記) 古い文献では次 (追記ここまで)の(追記) 記載がある。 (追記ここまで)
(追記) [[ (追記ここまで)美栄(追記) ]]( (追記ここまで)みー(追記) ) (追記ここまで)橋から泉崎(追記) ( (追記ここまで)いずんざち(追記) ) (追記ここまで)橋にかけての久茂地(追記) ( (追記ここまで)くもじ(追記) ) (追記ここまで)川両岸に沿う。南は泉崎(追記) ( (追記ここまで)いずんざち(追記) ) (追記ここまで)村、東は古波蔵(追記) ( (追記ここまで)くふあんぐわ(追記) ) (追記ここまで)村・牧志(追記) ( (追記ここまで)まちし(追記) ) (追記ここまで)村、北は泊(追記) ( (追記ここまで)とうまい(追記) ) (追記ここまで)村。普門(追記) ( (追記ここまで)ふもん(追記) ) (追記ここまで)寺という寺があったことから、もとは普門寺村と称し、普文寺村とも記された((追記) 『[[ (追記ここまで)琉球国由来記(追記) ]]』 (追記ここまで))。もとは久米村の東側に位置する那覇役人の管轄する地域で、わずかに久米村に属する内金(追記) ( (追記ここまで)うちがにく(追記) ) (追記ここまで)宮周辺に数軒の家がある荒野であったという。康熙六年(一六六七)久米村の紫金大夫金正春城間親方が王命により宅地として整備、その際に普門寺の名をとって村名にし、この時から久米村の所属となったという(『(追記) [[ (追記ここまで)球陽(追記) ]] (追記ここまで)』尚質王二〇年条)。(追記) 『[[ (追記ここまで)中山伝信録(追記) ]]』 (追記ここまで)には普門寺があったところから普門地というとある。久米村の丘陵に近い地域を上の平(追記) ( (追記ここまで)いーのふいら(追記) ) (追記ここまで)といい、普門寺村はこの地域にあたるという(『(追記) [[ (追記ここまで)南島風土記(追記) ]] (追記ここまで)』)。その後那覇と同様宅地不足となり、尚敬王二一年(一七三三)には周辺の汀地が宅地として開発された(『球陽』)。轆轤の技術を琉球に伝えたとされ、安里掟となった大隅出身の鮫島六郎兵衛は当村に定住した((追記) 『[[ (追記ここまで)久米村日記(追記) ]]』 (追記ここまで)沖縄教育史要)。以後当地には職人や技術職人が多数居住した(『南島風土記』)。
雍正一三年(一七三五)普門寺村から久茂地村へと名称が変更された(『球陽』尚質王二〇年条)。久茂地の名は久米村人が縁起のよい文字を選んだものという(南島風土記)。同年二月二六日の久茂地村屋敷図(県立図書館蔵)が作製された時期はまだ普門寺村で、その二、三ヵ月後に久茂地村への改名の申請が行われた(『球陽』)
雍正一三年(一七三五)普門寺村から久茂地村へと名称が変更された(『球陽』尚質王二〇年条)。久茂地の名は久米村人が縁起のよい文字を選んだものという(南島風土記)。同年二月二六日の久茂地村屋敷図(県立図書館蔵)が作製された時期はまだ普門寺村で、その二、三ヵ月後に久茂地村への改名の申請が行われた(『球陽』)
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*[[パレットくもじ]] - [[県庁前交差点 (沖縄県)|県庁前交差点]]の西側に立地する9階建ての[[複合商業施設]]
*[[パレットくもじ]] - [[県庁前交差点 (沖縄県)|県庁前交差点]]の西側に立地する9階建ての[[複合商業施設]]
**[[リウボウインダストリー|リウボウ]]
**[[リウボウインダストリー|リウボウ]]
**パレット市民劇場
**(追記) [[ (追記ここまで)パレット市民劇場(追記) ]] (追記ここまで)
**シネマパレット
**(追記) [https://startheaters.jp/theaters/5/ (追記ここまで)シネマパレット(追記) ] (追記ここまで)
**[[美栄橋郵便局]]([[ゆうちょ銀行]]那覇支店)
**[[美栄橋郵便局]]([[ゆうちょ銀行]]那覇支店)
**[https://www.city.naha.okinawa.jp/shisetsu/bunkasisetu/nahashimingyarari.html 那覇市民ギャラリー]
*[[沖縄テレビ放送]]
*[[沖縄テレビ放送]]
*[[コンフォートホテル]]那覇県庁前
*[[コンフォートホテル]]那覇県庁前
*ホテルサン沖縄
*(追記) [https://www.hotel-sunokinawa.co.jp/ (追記ここまで)ホテルサン沖縄(追記) ] (追記ここまで)
*[[大同火災海上保険]]本店
*[[大同火災海上保険]]本店
*[http://mapfp.kagin.co.jp/b/kagin_m/info/982/ 鹿児島銀行沖縄支店]
*[https://www.oki-hikitsugi.go.jp/ 沖縄県事業承継・引継ぎ支援センター]
*[https://gaigo.biz/ 沖縄ビジネス外語学院]
*[https://www.sankei.jp/company/branch 産経新聞那覇支局]
*[https://www.nikkei.co.jp/nikkeiinfo/corporate/branch/ 日本経済新聞那覇支局]
*[http://www.softokinawa.net/ 沖縄県ソフトウェア事業協同組合]
*[http://ryukyu-mie.com/ 琉球料理美榮]
=== 久茂地二丁目 ===
=== 久茂地二丁目 ===
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*[[三菱UFJモルガン・スタンレー証券]]那覇支店
*[[三菱UFJモルガン・スタンレー証券]]那覇支店
*[[第一生命保険]]那覇支社
*[[第一生命保険]]那覇支社
*[https://www.palace-okinawa.com/sunpalace/ ホテルサンパレス球陽館]
=== 久茂地三丁目 ===
=== 久茂地三丁目 ===
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*[[台北駐日経済文化代表処那覇分処]]
*[[台北駐日経済文化代表処那覇分処]]
*[https://bunmitu.com/ 日本分蜜糖工業会]
2024年11月21日 (木) 08:23時点における最新版
久茂地(くもじ)は、沖縄県 那覇市の地名。現行行政地名は久茂地一丁目から久茂地三丁目。郵便番号は900-0015。
那覇市中心部に位置する。西側に松山、北側に前島、東側に牧志、東南側に松尾、泉崎、南西側に久米、東町と接し、沖縄県庁舎や那覇市役所にも近く、金融機関や放送局などが立地するオフィス街で、沖縄県の経済の中心地である。
古い文献では次の記載がある。
美栄(みー)橋から泉崎(いずんざち)橋にかけての久茂地(くもじ)川両岸に沿う。南は泉崎(いずんざち)村、東は古波蔵(くふあんぐわ)村・牧志(まちし)村、北は泊(とうまい)村。普門(ふもん)寺という寺があったことから、もとは普門寺村と称し、普文寺村とも記された(『琉球国由来記』)。もとは久米村の東側に位置する那覇役人の管轄する地域で、わずかに久米村に属する内金(うちがにく)宮周辺に数軒の家がある荒野であったという。康熙六年(一六六七)久米村の紫金大夫金正春城間親方が王命により宅地として整備、その際に普門寺の名をとって村名にし、この時から久米村の所属となったという(『球陽』尚質王二〇年条)。『中山伝信録』には普門寺があったところから普門地というとある。久米村の丘陵に近い地域を上の平(いーのふいら)といい、普門寺村はこの地域にあたるという(『南島風土記』)。その後那覇と同様宅地不足となり、尚敬王二一年(一七三三)には周辺の汀地が宅地として開発された(『球陽』)。轆轤の技術を琉球に伝えたとされ、安里掟となった大隅出身の鮫島六郎兵衛は当村に定住した(『久米村日記』沖縄教育史要)。以後当地には職人や技術職人が多数居住した(『南島風土記』)。
雍正一三年(一七三五)普門寺村から久茂地村へと名称が変更された(『球陽』尚質王二〇年条)。久茂地の名は久米村人が縁起のよい文字を選んだものという(南島風土記)。同年二月二六日の久茂地村屋敷図(県立図書館蔵)が作製された時期はまだ普門寺村で、その二、三ヵ月後に久茂地村への改名の申請が行われた(『球陽』)
以下のバス停が存在する。
- 県庁北口バス停
- パレットくもじ前バス停(市内線用・片側のみ設置)
- 沖銀本店前バス停(市内線用・片側のみ設置)
- 琉銀本店前バス停(市内線用・片側のみ設置)
- 沖縄タイムス前バス停
- 若松入口バス停
- 松尾バス停(市内線用)
- 久茂地公民館前バス停
- 美栄橋駅前バス停
上記バス停のいずれかに停車する全ての路線を掲載する。
- 1番・首里牧志線 (那覇バス市内線)
- 2番・識名開南線 (那覇バス市内線)
- 5番・識名牧志線 (那覇バス市内線)
- 7番・おもろまち線 (沖縄バス)
- 10番・牧志新都心線 (那覇バス市内線)
- 11番・安岡宇栄原線 (那覇バス市内線)
- 15番・寒川線 (那覇バス市内線)
- 20番・名護西線 (琉球バス交通・沖縄バス)
- 21番・新都心具志川線 (琉球バス交通)
- 23番・具志川線 (琉球バス交通)
- 25番・普天間空港線 (那覇バス市外線)
- 27番・屋慶名(大謝名)線 (琉球バス交通・沖縄バス)
- 28番・読谷(楚辺)線 (琉球バス交通・沖縄バス)
- 29番・読谷(喜名)線 (琉球バス交通・沖縄バス)
- 30番・泡瀬東線 (東陽バス)
- 31番・泡瀬西線 (東陽バス)
- 32番・コンベンションセンター線 (沖縄バス)
- 33番・糸満西原(末吉)線 (那覇バス市外線)
- 45番・与根線 (那覇バス市外線)
- 46番・糸満西原(鳥堀)線 (那覇バス市外線)
- 52番・与勝線 (沖縄バス)
- 55番・牧港線 (琉球バス交通)
- 56番・浦添線 (琉球バス交通)
- 63番・謝苅線 (琉球バス交通)
- 77番・名護東(辺野古)線 (沖縄バス)
- 80番・与那城線 (沖縄バス)
- 87番・てだこ線 (沖縄バス)
- 88番・宜野湾線 (琉球バス交通)
- 90番・知花(バイパス)線 (琉球バス交通)
- 97番・琉大(首里)線 (那覇バス市外線)
- 98番・琉大(バイパス)線 (琉球バス交通)
- 99番・天久新都心線 (琉球バス交通)
- 101番・平和台安謝線 (那覇バス市外線)
- 109番・大里(真境名)線 (沖縄バス)
- 110番・長田具志川線 (琉球バス交通)
- 112番・国体道路線 (琉球バス交通)
- 120番・名護西空港線 (琉球バス交通・沖縄バス)
- 200番・糸満おもろまち線 (沖縄バス)
- 235番・志多伯おもろまち線 (沖縄バス)