コンテンツにスキップ
Wikipedia

「篠田康雄」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2023年4月}}
{{出典の明記|date=2023年4月}}
'''篠田 康雄'''(しのだ やすお、[[1908年]][[1月3日]] - [[1997年]][[2月1日]])は[[日本]]の[[神職]]。[[神社本庁]][[神社本庁#歴代の総裁・統理・総長(事務総長)|総長]]、[[熱田神宮]][[宮司]]、[[皇學館大学]][[理事長]]、同総長などを歴任した。
'''篠田 康雄'''(しのだ やすお、[[1908年]](追記) 〈[[明治]]41年〉 (追記ここまで)[[1月3日]] - [[1997年]](追記) 〈[[平成]]9年〉 (追記ここまで)[[2月1日]])は[[日本]]の[[神職]]。[[神社本庁]][[神社本庁#歴代の総裁・統理・総長(事務総長)|総長]]、[[熱田神宮]][[宮司]]、[[皇學館大学]][[理事長]]、同総長などを歴任した。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[1908年]] [[三重県]]宇治山田市(現[[伊勢市]])に[[篠田幸雄]]([[伊勢神宮|神宮]][[禰宜]])の三男として出生。[[1930年]] [[皇學館大学|神宮皇學館]]本科を卒業と同時に[[国幣大社]][[多度大社|多度神社]]に奉職。その後、[[1932年]][[別格官幣社]][[北畠神社]]主典、[[1933年]][[官幣大社]][[多賀大社|多賀神社]]主典を経て[[1939年]]官幣大社熱田神宮禰宜となる。[[1942年]]同神宮[[権宮司]]に就任。[[1945年]]に[[神道指令]]により官制職廃止。引き続き権宮司として[[長谷外余男]][[宮司]](当時)を助け[[熱田神宮]]戦災復興を成し遂げ[[1964年]]熱田神宮宮司に任命され[[1986年]]まで在職し[[名誉宮司]]となり[[1997年]]逝去した。
[[1908年]] [[三重県]]宇治山田市(現[[伊勢市]])に[[篠田幸雄]]([[伊勢神宮|神宮]][[禰宜]])の三男として出生。[[1930年]] [[皇學館大学|神宮皇學館]]本科を卒業と同時に[[国幣大社]][[多度大社|多度神社]]に奉職。その後、[[1932年]][[別格官幣社]][[北畠神社]]主典、[[1933年]][[官幣大社]][[多賀大社|多賀神社]]主典を経て[[1939年]]官幣大社熱田神宮禰宜となる。[[1942年]]同神宮[[権宮司]]に就任。[[1945年]]に[[神道指令]]により官制職廃止。引き続き権宮司として[[長谷外余男]][[宮司]](当時)を助け[[熱田神宮]]戦災復興を成し遂げ[[1964年]]熱田神宮宮司に任命され[[1986年]]まで在職し[[名誉宮司]]となり[[1997年]]逝去した。


また一方で戦後の[[神社本庁]]・[[神社庁]]においては[[1946年]]愛知県神社庁設立に伴い副庁長となり、[[1950年]][[神社本庁]][[理事]]、[[1959年]][[神社本庁]][[常任理事]]、[[1964年]]愛知県神社庁長を歴任。
また一方で戦後の[[神社本庁]]・[[神社庁]]においては[[1946年]]愛知県神社庁設立に伴い副庁長となり、[[1950年]][[神社本庁]][[理事]]、[[1959年]][[神社本庁]][[常任理事]]、[[1964年]](追記) [[ (追記ここまで)愛知県神社庁(追記) ]] (追記ここまで)長を歴任。


[[1974年]]、[[神社本庁]][[神社本庁#歴代の総裁・統理・総長(事務総長)|事務総長]]に就任(1976年に「事務総長」は「総長」に改称)。[[1983年]]迄の3期9年の長きに亘りその地位にあり「[[神社本庁憲章]]」の制定、神社関係出身有識者懇談会の結成、神職の生涯教育・後継者養成のため中央研修所を設置する等、多くの施策を実施完遂した。総長を退任後は神社本庁常任顧問となり、[[1984年]]には長老の称号と鳩杖が贈られた。
[[1974年]]、[[神社本庁]][[神社本庁#歴代の総裁・統理・総長(事務総長)|事務総長]]に就任(1976年に「事務総長」は「総長」に改称)。[[1983年]]迄の3期9年の長きに亘りその地位にあり「[[神社本庁憲章]]」の制定、神社関係出身有識者懇談会の結成、神職の生涯教育・後継者養成のため中央研修所を設置する等、多くの施策を実施完遂した。総長を退任後は神社本庁常任顧問となり、[[1984年]]には長老の称号と鳩杖が贈られた。
21行目: 21行目:


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{(削除) reflist (削除ここまで)}}
{{(追記) 脚注ヘルプ (追記ここまで)}}
{{Reflist}}
{{people-stub}}


{{start box}}
{{start box}}
38行目: 40行目:
}}
}}
{{end box}}
{{end box}}
{{神社本庁統理|統理代務者|1975年 - 1976年}}
{{神社本庁総長||第12代:1974年 - 1983年}}
{{熱田神宮宮司|第7代:1964年 - 1986年}}
{{Normdaten}}
{{Normdaten}}
{{people-stub}}

{{DEFAULTSORT:しのた やすお}}
{{DEFAULTSORT:しのた やすお}}
[[Category:熱田神宮|人しのた やすお]]
[[Category:昭和時代戦前の神職]]
[[Category:昭和時代戦前の神職]]
[[Category:昭和時代戦後の神職]]
[[Category:昭和時代戦後の神職]]
[[Category:平成時代の神職]]
[[Category:平成時代の神職]]
[[Category:熱田神宮|人しのた やすお]]
[[Category:神社本庁の人物]]
[[Category:日本の学校法人の理事長]]
[[Category:日本の学校法人の理事長]]
[[Category:三重県出身の人物]]
[[Category:三重県出身の人物]]

2024年8月11日 (日) 14:02時点における最新版

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"篠田康雄" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2023年4月)

篠田 康雄(しのだ やすお、1908年明治41年〉1月3日 - 1997年平成9年〉2月1日)は日本神職神社本庁 総長熱田神宮 宮司皇學館大学 理事長、同総長などを歴任した。

略歴

[編集 ]

1908年 三重県宇治山田市(現伊勢市)に篠田幸雄(神宮 禰宜)の三男として出生。1930年 神宮皇學館本科を卒業と同時に国幣大社 多度神社に奉職。その後、1932年 別格官幣社 北畠神社主典、1933年 官幣大社 多賀神社主典を経て1939年官幣大社熱田神宮禰宜となる。1942年同神宮権宮司に就任。1945年神道指令により官制職廃止。引き続き権宮司として長谷外余男 宮司(当時)を助け熱田神宮戦災復興を成し遂げ1964年熱田神宮宮司に任命され1986年まで在職し名誉宮司となり1997年逝去した。

また一方で戦後の神社本庁神社庁においては1946年愛知県神社庁設立に伴い副庁長となり、1950年 神社本庁 理事1959年 神社本庁 常任理事1964年 愛知県神社庁長を歴任。

1974年神社本庁 事務総長に就任(1976年に「事務総長」は「総長」に改称)。1983年迄の3期9年の長きに亘りその地位にあり「神社本庁憲章」の制定、神社関係出身有識者懇談会の結成、神職の生涯教育・後継者養成のため中央研修所を設置する等、多くの施策を実施完遂した。総長を退任後は神社本庁常任顧問となり、1984年には長老の称号と鳩杖が贈られた。

1981年10月27日、「元号法制化実現国民会議」を改組する形で、「日本を守る国民会議」の結成式が行われた。篠田は井深大宇野精一らとともに結成式の呼びかけ人に名を連ねた[1]

神道指令により廃絶された母校である国立神宮皇學館大學の再興に情熱を捧げ、1962年には私立皇學館大学として復活をさせる。1982年には同大学理事長、1992年には総長となった。

関連図書

[編集 ]

著書

[編集 ]
  • 『熱田神宮』 学生社<日本の神社シリーズ> 1968年
  • 『緑陰隻語』 熱田神宮宮庁 1985年

追悼文集

[編集 ]
  • 『追想』 篠田康雄大人命を偲ぶ会 1999年

脚注

[編集 ]
  1. ^ 佐藤達也「蠢き始めた〝草の根〟改憲運動 『日本を守る国民会議』の改憲戦略と戦術」 『現代の眼』1982年5月号、現代評論社。
学職
先代
岸信介
皇學館大学総長
第3代:1990年9月 -1996年2月
次代
空席
先代
浜地文平
皇學館大学理事長
第4代:1982年8月 - 1990年8月
次代
櫻井勝之進

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /