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'''明治丸'''(めいじまる)は、[[日本]]の[[船舶]]。[[灯台見回り船|灯台巡視船]]として[[日本政府]]が[[イギリス]]に発注し、[[天皇]]の乗る(削除) [[ (削除ここまで)御召(削除) し (削除ここまで)(削除) ]] (削除ここまで)や[[練習船]]としても使用された。国の[[重要文化財]]に指定されている。
'''明治丸'''(めいじまる)は、[[日本]]の[[船舶]]。[[灯台見回り船|灯台巡視船]]として[[日本政府]]が[[イギリス]]に発注し、[[天皇]]の乗る御召船や(追記) 船員育成の (追記ここまで)[[練習船]]としても使用された。国の[[重要文化財]]に指定されている。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
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小笠原諸島は江戸時代に回収が行われ、八丈島からの入植も行われたが、その後日本人は撤収していた<ref>『幕末の小笠原』136-187、205-206ページ</ref>。様々な問題を抱えていた明治政府もしばらく小笠原問題には手を出せなかったが、明治8年10月になって小笠原へ外務省の[[田辺太一]]ら委員10名を派遣することとなり、「明治丸」が派遣船に選ばれた<ref>『幕末の小笠原』237-242ページ</ref>。委員を乗せた「明治丸」は明治8年11月21日に[[父島]]へ向かい、11月24日に父島二見湾に到着<ref>『幕末の小笠原』245ページ</ref>。再回収は問題なくなされ、「明治丸」は12月12日に父島を離れて12月16日に横浜に帰還した<ref>『幕末の小笠原』245、248ページ</ref>。
小笠原諸島は江戸時代に回収が行われ、八丈島からの入植も行われたが、その後日本人は撤収していた<ref>『幕末の小笠原』136-187、205-206ページ</ref>。様々な問題を抱えていた明治政府もしばらく小笠原問題には手を出せなかったが、明治8年10月になって小笠原へ外務省の[[田辺太一]]ら委員10名を派遣することとなり、「明治丸」が派遣船に選ばれた<ref>『幕末の小笠原』237-242ページ</ref>。委員を乗せた「明治丸」は明治8年11月21日に[[父島]]へ向かい、11月24日に父島二見湾に到着<ref>『幕末の小笠原』245ページ</ref>。再回収は問題なくなされ、「明治丸」は12月12日に父島を離れて12月16日に横浜に帰還した<ref>『幕末の小笠原』245、248ページ</ref>。


また、御召(削除) し (削除ここまで)船としても用いられており、特に、[[1876年]]には[[明治天皇]]の[[北海道]]・[[東北地方]]への[[巡幸]]に供され、[[7月20日]]に横浜に無事帰港した事を記念して[[1941年]]にこの日が(削除) 『 (削除ここまで)海の記念日(削除) 』 (削除ここまで)(現在の[[海の日]])に制定された{{Sfn|庄司(1996)|p=53}}。[[1875年]][[3月5日]](削除) の (削除ここまで)、[[軍艦]]「[[清輝]]」の[[進水式]]の際にも(削除) 明治天皇は (削除ここまで)乗船している{{要出典|date=2023年3月}}。また[[1879年]]の[[琉球処分]]の際には[[尚泰王|尚泰]]を乗せて東京まで航海し、[[1887年]]には[[横尾東作]]・[[東京都知事一覧|東京府知事]][[高崎五六]]らによる[[硫黄列島]]への探検航海に用いられるなどした{{要出典|date=2023年3月}}。
また、(追記) 「明治丸」は (追記ここまで)御召船としても用いられており、特に、[[1876年]]には[[明治天皇]]の[[北海道]]・[[東北地方]]への[[巡幸]]に供され、[[7月20日]]に横浜に無事帰港した事を記念して[[1941年]]にこの日が(追記) 「 (追記ここまで)海の記念日(現在の[[海の日]])(追記) 」 (追記ここまで)に制定された{{Sfn|庄司(1996)|p=53}}。(追記) 明治天皇は (追記ここまで)[[1875年]][[3月5日]]、(追記) [[横須賀造船所]]で挙行された (追記ここまで)[[軍艦]]「[[清輝]]」の[[進水式]](追記) 臨御 (追記ここまで)の際にも乗船している{{要出典|date=2023年3月}}。また[[1879年]]の[[琉球処分]]の際には[[尚泰王|尚泰]]を乗せて(追記) 那覇から (追記ここまで)東京まで航海し、[[1887年]]には[[横尾東作]]・[[東京都知事一覧|東京府知事]][[高崎五六]]らによる[[硫黄列島]]への探検航海に用いられるなどした{{要出典|date=2023年3月}}。


[[ファイル:"Meiji Maru" ashore after typhoon in Japan (LOC).jpg|サムネイル|left|1910年代、台風で岸に打ち寄せられた明治丸]]
[[ファイル:"Meiji Maru" ashore after typhoon in Japan (LOC).jpg|サムネイル|left|1910年代、台風で岸に打ち寄せられた明治丸]]
その後、[[海軍省]]から譲渡された「新発電丸」が後任に就くと、「明治丸」は[[1897年]]9月に商船学校(現・[[東京海洋大学]])に貸与された{{要出典|date=2023年3月}}。さらに同年11月には同校に移管され、係留[[練習船]]として操帆訓練などに用いられ(削除) た (削除ここまで){{要出典|date=2023年3月}}。[[1901年]][[12月25日]]に現在の東京海洋大学・越中島キャンパスに移動し、[[1911年]]と[[1917年]]には[[台風]]や[[高潮]]で[[バウスプリット]]が折れるなどの被害を受けつつ、[[1923年]]の[[関東大震災]]や[[1945年]]の[[東京大空襲]]の際には数千人の罹災者を収容している{{Sfn|庄司(1996)|p=53}}。
その後、[[海軍省]]から譲渡された「新発電丸」が後任に就くと、「明治丸」は[[1897年]]9月に(追記) 東京高等 (追記ここまで)商船学校(現・[[東京海洋大学]])に貸与された{{要出典|date=2023年3月}}。さらに同年11月には同校に移管され、係留[[練習船]]として操帆訓練などに用いられ(追記) る (追記ここまで){{要出典|date=2023年3月}}。[[1901年]][[12月25日]]に現在の東京海洋大学・越中島キャンパスに移動し、[[1911年]]と[[1917年]]には[[台風]]や[[高潮]]で[[バウスプリット]]が折れるなどの被害を受けつつ、[[1923年]]の[[関東大震災]]や[[1945年]]の[[東京大空襲]]の際には数千人の罹災者を収容している{{Sfn|庄司(1996)|p=53}}。


1945年9月(削除) には (削除ここまで)学校とともに[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐(削除) アメリカ (削除ここまで)軍]]に[[接収]]され、[[酒保]]になっていた{{要出典|date=2023年3月}}。その後[[1951年]]に係船地で(削除) [[ (削除ここまで)(削除) 礁]] (削除ここまで)したのを契機に接収が解除され、[[1952年]]には浮揚させて[[上甲板]]などの修理が行われたが、[[1954年]]に老朽化のため練習船の任務を解除された{{要出典|date=2023年3月}}。その後も[[1975年]]頃までは結索実習などに船内が使われ、[[1978年]][[5月31日]]には船として初めて国の[[重要文化財]]に指定されている{{要出典|date=2023年3月}}。[[1988年]][[1月29日]]に保存修理工事を終え、[[1989年]][[5月16日]]から[[2009年]][[1月]]まで一般に公開されていた{{要出典|date=2023年3月}}。
(追記) 「明治丸」は (追記ここまで)1945年9月(追記) 、東京高等商船 (追記ここまで)学校(追記) のキャンパス (追記ここまで)とともに[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]に[[接収]]され、[[酒保]]になっていた{{要出典|date=2023年3月}}。その後[[1951年]]に係船地で(追記) 沈 (追記ここまで)座したのを契機に接収が解除され、[[1952年]]には浮揚させて[[上甲板]]などの修理が行われたが、[[1954年]]に老朽化のため練習船の任務を解除された{{要出典|date=2023年3月}}(追記) 。[[1963年]]から[[1964年]]にかけて陸上に固定する定着工事が行われ、陸上構築物となる (追記ここまで)。その後も[[1975年]]頃までは結索実習などに船内が使われ、[[1978年]][[5月31日]]には船(追記) 舶 (追記ここまで)として初めて国の[[重要文化財]]に指定されている{{要出典|date=2023年3月}}。[[1988年]][[1月29日]]に保存修理工事を終え、[[1989年]][[5月16日]]から[[2009年]][[1月]]まで一般に公開されていた{{要出典|date=2023年3月}}。


(削除) [[ (削除ここまで)1988年(削除) ]] (削除ここまで)の修理後、経年劣化により再度大規模修復が必要となり、大学と[[文化庁]](削除) との間で協議 (削除ここまで)(削除) 行われ、 (削除ここまで)明治丸修復計画(削除) が (削除ここまで)策定(削除) されている (削除ここまで)。この(削除) 修復 (削除ここまで)計画を基に、周辺の環境整備や海事技術資料の収集、次世代の海事産業を担う青少年への海事意識啓発活動を行う「明治丸海事ミュージアム事業」が進(削除) 行中であ (削除ここまで)る。
(追記) 「明治丸」は (追記ここまで)1988年の修理後、経年劣化により再度大規模修復が必要となり、(追記) 東京海洋 (追記ここまで)大学と[[文化庁]]が明治丸修復計画(追記) を (追記ここまで)策定(追記) した (追記ここまで)。この計画を基に、周辺の環境整備や海事技術資料の収集、次世代の海事産業を担う青少年への海事意識啓発活動を行う「明治丸海事ミュージアム事業」が進(追記) められ、東京海洋大学は[[2009年]]度から修復事業等の費用に充て (追記ここまで)(追記) ため、「明治丸海事ミュージアム事業募金」を設け募金を呼び掛けた (追記ここまで)


[[2011年]][[6月8日]]、[[明仁|天皇]][[美智子|皇后]]は東京海洋大学百周年記念資料館に[[行幸啓]]し、特別展「明治丸の航跡を求めて―海洋立国日本のあけぼの」と「明治丸」船内を視察した。
[[東京海洋大学]]では[[2009年]]度から修復事業等の費用に充てるため、「明治丸海事ミュージアム事業募金」を設置し募金を呼びかけていた。


2013年12月より(削除) 、本 (削除ここまで)学と文化庁(削除) により (削除ここまで)大規模修復工事(削除) が行われていた (削除ここまで)が2015年3月に(削除) 竣工した (削除ここまで)。7月19日に明治丸修復完工記念式典を挙行し、翌20日には船内を含む特別公開を実施した。
2013年12月より(追記) 東京海洋大 (追記ここまで)学と文化庁(追記) で進められていた「明治丸」 (追記ここまで)大規模修復工事が2015年3月に(追記) 完成 (追記ここまで)。7月19日に(追記) 重要文化財 (追記ここまで)明治丸修復完工記念式典を挙行し、翌20日には船内を含む特別公開を実施した。


==構造==
==構造==
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=== 船内 ===
=== 船内 ===
甲板は2層構造で、主甲板は当初細かく区切られて客室が配置されていた。後に(削除) 、[[明治天皇]]のための御座所として (削除ここまで)、公室・[[寝室]]・[[浴室]]の3(削除) 部屋 (削除ここまで)が右舷後方に設けられた。御座所内の[[板絵]]は戦後の接収の際にペンキを塗られたが、後に復元されている。また、主甲板の最後部には[[サロン]]が(削除) あり (削除ここまで)、[[マホガニー]]のテーブルが展示されている。なお、[[1892年]]の修理で従来の操舵室が海図室となり、上甲板に操舵室が設けられた。
甲板は2層構造で、主甲板は当初細かく区切られて客室が配置されていた。後に、公室・[[寝室]]・[[浴室]](追記) 兼厠 (追記ここまで)の3(追記) 室続きの明治天皇御座所 (追記ここまで)が右舷後方に設けられた。御座所内(追記) 公室 (追記ここまで)(追記) 牡丹・木蓮・桃・桐などが描かれた植物画 (追記ここまで)[[板絵]]は戦後の接収の際にペンキを塗られたが、後に復元されている。また、主甲板の最後部には[[サロン]]が(追記) 設けられ (追記ここまで)、[[マホガニー]]のテーブルが展示されている。なお、[[1892年]]の修理で従来の操舵室が海図室となり、上甲板に操舵室が設けられた。


下甲板には石炭庫と[[レシプロエンジン|レシプロ機関]]2機が設置されていたが、[[1927年]]に取り外され、技業練習場が設けられた。
下甲板には石炭庫と[[レシプロエンジン|レシプロ機関]]2機が設置されていたが、[[1927年]]に取り外され、技業練習場が設けられた。

2024年7月15日 (月) 14:07時点における版

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明治丸
満船飾を綴る明治丸
基本情報
船種 鉄製汽船
船級 ロイド船級協会
経歴
発注 1873年
進水 1874年 9月26日
竣工 1874年 11月24日
就航 1875年
除籍 1954年3月
その後 作業場として使用、後に修復され東京都 江東区 越中島2丁目1-6、東京海洋大学越中島キャンパスにて公開
要目
排水量 1027.57トン
全長 68.6m
全幅 9.1m
機関方式 レシプロ機関
出力 1530馬力
速力 11.5ノット
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明治丸(めいじまる)は、日本船舶灯台巡視船として日本政府イギリスに発注し、天皇の乗る御召船や船員育成の練習船としても使用された。国の重要文化財に指定されている。

歴史

明治初頭、洋式灯台の建設に伴って、その測量やメンテナンスのために灯台巡視船が日本にも登場した。灯台の増加により新鋭船が必要となったため、日本政府はイギリスグラスゴーにあるネピア造船所に本船を発注した[1] 。本船は1874年 9月26日進水し、同年11月24日に竣工している[2] 。「明治丸」と命名された本船は、翌1875年 2月20日横浜港に到着し、灯台巡視船の任に就いた[要出典 ]

「明治丸」は、当時の日本国内における最優秀船であった[3] ため、通常の灯台見回り業務の他にも様々な活動を行い、日本の近現代史に業績を残している。

明治8年、「明治丸」は小笠原諸島へ派遣された。 小笠原諸島は江戸時代に回収が行われ、八丈島からの入植も行われたが、その後日本人は撤収していた[4] 。様々な問題を抱えていた明治政府もしばらく小笠原問題には手を出せなかったが、明治8年10月になって小笠原へ外務省の田辺太一ら委員10名を派遣することとなり、「明治丸」が派遣船に選ばれた[5] 。委員を乗せた「明治丸」は明治8年11月21日に父島へ向かい、11月24日に父島二見湾に到着[6] 。再回収は問題なくなされ、「明治丸」は12月12日に父島を離れて12月16日に横浜に帰還した[7]

また、「明治丸」は御召船としても用いられており、特に、1876年には明治天皇北海道東北地方への巡幸に供され、7月20日に横浜に無事帰港した事を記念して1941年にこの日が「海の記念日(現在の海の日)」に制定された[8] 。明治天皇は1875年 3月5日横須賀造船所で挙行された軍艦清輝」の進水式臨御の際にも乗船している[要出典 ]。また1879年琉球処分の際には尚泰を乗せて那覇から東京まで航海し、1887年には横尾東作東京府知事 高崎五六らによる硫黄列島への探検航海に用いられるなどした[要出典 ]

1910年代、台風で岸に打ち寄せられた明治丸

その後、海軍省から譲渡された「新発電丸」が後任に就くと、「明治丸」は1897年9月に東京高等商船学校(現・東京海洋大学)に貸与された[要出典 ]。さらに同年11月には同校に移管され、係留練習船として操帆訓練などに用いられる[要出典 ]1901年 12月25日に現在の東京海洋大学・越中島キャンパスに移動し、1911年1917年には台風高潮バウスプリットが折れるなどの被害を受けつつ、1923年関東大震災1945年東京大空襲の際には数千人の罹災者を収容している[8]

「明治丸」は1945年9月、東京高等商船学校のキャンパスとともに進駐軍接収され、酒保になっていた[要出典 ]。その後1951年に係船地で沈座したのを契機に接収が解除され、1952年には浮揚させて上甲板などの修理が行われたが、1954年に老朽化のため練習船の任務を解除された[要出典 ]1963年から1964年にかけて陸上に固定する定着工事が行われ、陸上構築物となる。その後も1975年頃までは結索実習などに船内が使われ、1978年 5月31日には船舶として初めて国の重要文化財に指定されている[要出典 ]1988年 1月29日に保存修理工事を終え、1989年 5月16日から2009年 1月まで一般に公開されていた[要出典 ]

「明治丸」は1988年の修理後、経年劣化により再度大規模修復が必要となり、東京海洋大学と文化庁が明治丸修復計画を策定した。この計画を基に、周辺の環境整備や海事技術資料の収集、次世代の海事産業を担う青少年への海事意識啓発活動を行う「明治丸海事ミュージアム事業」が進められ、東京海洋大学は2009年度から修復事業等の費用に充てるため、「明治丸海事ミュージアム事業募金」を設け募金を呼び掛けた。

2011年 6月8日天皇 皇后は東京海洋大学百周年記念資料館に行幸啓し、特別展「明治丸の航跡を求めて―海洋立国日本のあけぼの」と「明治丸」船内を視察した。

2013年12月より東京海洋大学と文化庁で進められていた「明治丸」大規模修復工事が2015年3月に完成。7月19日に重要文化財明治丸修復完工記念式典を挙行し、翌20日には船内を含む特別公開を実施した。

構造

明治丸(3本マスト)

外観

当初は外輪船とする計画だったが、スクリュープロペラ船として建造された。帆装は2本マストトップスルスクーナーであった[8] が、1898年品川にある緒明造船所で3本マストのシップに改造された。さらに1937年にはミズンマストの腐敗からバークになったが、1983年からの修復工事で再びシップ型に戻された。また、船首船尾にはアカンサスの文様が描かれている。

船内

甲板は2層構造で、主甲板は当初細かく区切られて客室が配置されていた。後に、公室・寝室浴室兼厠の3室続きの明治天皇御座所が右舷後方に設けられた。御座所内公室の牡丹・木蓮・桃・桐などが描かれた植物画板絵は戦後の接収の際にペンキを塗られたが、後に復元されている。また、主甲板の最後部にはサロンが設けられ、マホガニーのテーブルが展示されている。なお、1892年の修理で従来の操舵室が海図室となり、上甲板に操舵室が設けられた。

下甲板には石炭庫とレシプロ機関2機が設置されていたが、1927年に取り外され、技業練習場が設けられた。

性能

1878年 11月18日グラスゴーで試運転が行われ、排水トン数1235トンで、速力12.66ノット、指示馬力(ihp)1450馬力を記録している。なお、速力や船のサイズなどについては、複数の記録で数値の食い違いが見られる[2]

船長

  • (心得)中尾昌清:1893年11月14日 - 1894年11月26日
  • 中尾昌清:1894年11月26日 -

Captain Mr.Albert Richard Brown(An Eiglish man born in Scotland)printed in the book "The life and times of the illustrious Captain Brown" written by Mr.Lewis Bush. This was written by Seigo Nishida who worked in AR Brown Co.Ltd.[疑問点 ノート ]

脚注

  1. ^ 山尾庸三の生涯
  2. ^ a b 庄司(2007), p. 1.
  3. ^ 庄司(1996), p. 52.
  4. ^ 『幕末の小笠原』136-187、205-206ページ
  5. ^ 『幕末の小笠原』237-242ページ
  6. ^ 『幕末の小笠原』245ページ
  7. ^ 『幕末の小笠原』245、248ページ
  8. ^ a b c 庄司(1996), p. 53.

参考文献

外部リンク

座標: 北緯35度40分2.5秒 東経139度47分25.0秒 / 北緯35.667361度 東経139.790278度 / 35.667361; 139.790278

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