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「小槻大社」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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{{神社
{{神社
|名称 = 小槻大社
|名称 = 小槻大社
|画像 = [[File:Otsuki-taisha honden.JPG|280px]]<br />本殿((削除) 国の (削除ここまで)[[重要文化財]])
|画像 = [[File:Otsuki-taisha honden.JPG|280px]]<br />本殿([[重要文化財]])
|所在地 = [[滋賀県]][[栗東市]]下戸山1200
|所在地 = [[滋賀県]][[栗東市]]下戸山1200
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|0|24.42|N|135|59|32.85|E|region:JP-25_type:landmark|display=inline,title|name=小槻大社}}
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|創建 = 不詳
|創建 = 不詳
|本殿 = 一間社[[流造]]
|本殿 = 一間社[[流造]]
|別名 = 小杖社
|別名 = 小杖社(追記) (おづえしゃ)、小杖宮、小杖大明神 (追記ここまで)
|札所等 =
|札所等 =
|例祭 = [[5月5日]](小杖祭り)
|例祭 = [[5月5日]](小杖祭り)
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{{座標一覧}}
{{座標一覧}}
[[File:Otsuki-taisha torii.JPG|thumb|220px|right|{{center|鳥居}}]]
[[File:Otsuki-taisha torii.JPG|thumb|220px|right|{{center|鳥居}}]]
'''小槻大社'''(おつきたいしゃ{{Sfn|小槻大社(平凡社)|1991}}<ref name="神社庁"/>/おつぎたいしゃ{{Sfn|小槻大社・小槻神社(神々)|1986}}/おづきたいしゃ<ref name="国指定 本殿"/>)は、[[滋賀県]][[栗東市]](削除) 下戸山 (削除ここまで)にある[[神社]]。[[式内社]]で、[[近代社格制度|旧社格]]は[[郷社]]。[[神紋]]は「下り藤」(削除) ・ (削除ここまで)「真向の兎」<ref name="神社庁">[http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=368 小槻大社](滋賀県神社庁)。</ref>。
'''小槻大社'''(おつきたいしゃ{{Sfn|小槻大社(平凡社)|1991}}<ref name="神社庁"/>/おつぎたいしゃ{{Sfn|小槻大社・小槻神社(神々)|1986}}/おづきたいしゃ<ref name="国指定 本殿"/>)は、[[滋賀県]][[栗東市]]にある[[神社]]。[[式内社]]で、[[近代社格制度|旧社格]]は[[郷社]]。[[神紋]]は「下り藤」(追記) 、 (追記ここまで)「真向の兎」<ref name="神社庁">[http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=368 小槻大社](滋賀県神社庁)。</ref>。

別称として「小杖社(おづえしゃ)」・「小杖宮」・「小杖大明神」とも。


== 祭神 ==
== 祭神 ==
(削除) 祭神は次 (削除ここまで)(削除) 2柱 (削除ここまで)<ref>境内説明板。</ref>(削除) 。 (削除ここまで)
(追記) * [[落別王|於知別命]](おちわけ (追記ここまで)(追記) みこと) (追記ここまで)<ref>境内説明板。</ref>
*: 「落別命」や「祖別命」とも表記される。第11代[[垂仁天皇]](追記) の (追記ここまで)[[皇子]]で、[[小槻山君]]([[小槻氏]])の祖。文献によっては「[[息速別命]]」の表記も見られるが、息速別命は於知別命の異母兄弟になる。
* [[落別王|於知別命]](おちわけのみこと)
*: 「落別命」や「祖別命」とも表記される。第11代[[垂仁天皇]][[皇子]]で、[[小槻山君]]([[小槻氏]])の祖。文献によっては「[[息速別命]]」の表記も見られるが、息速別命は於知別命の異母兄弟になる。
* [[大国主|大己貴命]](おおなむちのみこと)
* [[大国主|大己貴命]](おおなむちのみこと)
*: [[平安時代]]には小槻大社に境内を接して[[天台宗]]の楽音寺(覚音寺)があり、その関係により[[日吉大社|日吉西本宮]]から[[勧請]]・[[合祀]]されたと推測される。
*: [[平安時代]]には小槻大社に境内を接して[[天台宗]]の楽音寺(覚音寺)があり、その関係により[[日吉大社|日吉西本宮]]から[[勧請]]・[[合祀]]されたと推測される。
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
詳しい創建年代は不明であるが、社伝によると[[古代]]に[[栗太郡]](現・[[草津市]]・[[栗東市]]一帯)の豪族である[[小槻山君]](小月山公)が祖神である[[落別王|於知別命]]を祀ったのが当社の始まりであるという<ref name="小槻大社">[http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=368 滋賀県神社庁 小槻大社]</ref>。
=== (削除) 創建 (削除ここまで) ===
社伝では、[[古代]]に[[栗太郡]](現在の[[草津市]]・[[栗東市]]一帯)の豪族の[[小槻山君]](小月山公)が、祖神として[[落別王|於知別命]]を祀ったのが創祀とする。


小槻山君は栗太郡の古代豪族で、[[朝廷 (日本)|朝廷]]に[[采女]]も献上したという。小槻大社内には小槻大社古墳群が残るほか、周辺には[[下戸山古墳]]・地山古墳・岡遺跡(栗太[[郡衙]]跡)が残り、これらは小槻山君の関係史跡とされる。これらから小槻山君は栗太郡[[郡司]]クラスの家柄であったと推測されている。小槻山君は[[貞観 (日本)|貞観]]15年([[873年]])<ref group="原">『日本三代実録』貞観15年(873年)12月2日条。</ref>に[[平安(削除) 京| (削除ここまで)京]]に居を移し、のち[[小槻氏]]([[官務]]家)として[[朝廷 (日本)|朝廷]]に仕えた。
小槻山君は栗太郡の古代豪族で、[[朝廷 (日本)|朝廷]]に[[采女]]も献上したという。小槻大社内には小槻大社古墳群が残るほか、周辺には[[下戸山古墳]]・地山古墳・岡遺跡(栗太[[郡衙]]跡)が残り、これらは小槻山君の関係史跡とされる。これらから小槻山君は栗太郡[[郡司]]クラスの家柄であったと推測されている。小槻山君は[[貞観 (日本)|貞観]]15年([[873年]])<ref group="原">『日本三代実録』貞観15年(873年)12月2日条。</ref>に[[平安京]]に居を移し、のち[[小槻氏]]([[官務]]家)として[[朝廷 (日本)|朝廷]]に仕えた。


[[六国史|国史]]では「小杖神」・「小丈神」・「少杖神」などの神名で、貞観5年([[863年]])<ref group="原" name="貞観元年"/>に[[神階]]が従五位下、貞観7年([[865年]])<ref group="原" name="貞観7年"/>に従五位上、[[延喜]]11年([[911年]])<ref group="原" name="延喜11年"/>に従四位下に昇叙された旨が記されている{{Sfn|小槻大社(平凡社)|1991}}。
=== (削除) 概史 (削除ここまで) ===
[[六国史|国史]]では「小杖神」・「小丈神」・「少杖神」などの神名で、(削除) [[ (削除ここまで)貞観(削除) (日本)|貞観]] (削除ここまで)5年([[863年]])<ref group="原" name="貞観元年"/>に[[神階]]が従五位下、貞観7年([[865年]])<ref group="原" name="貞観7年"/>に従五位上、[[延喜]]11年([[911年]])<ref group="原" name="延喜11年"/>に従四位下に昇叙された旨が記されている{{Sfn|小槻大社(平凡社)|1991}}。


[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では[[近江国]][[栗太郡]]に「小槻大社」と記載され、関係社の[[小槻神社]]([[草津市]]青地町)とともに[[式内社]]に列している{{Sfn|小槻大社(平凡社)|1991}}<ref>社名「小槻大社」の「大社」は、小槻神社との区別のためと見られる{{Harv|算博士小槻今雄について|2002}}。</ref>。社名の読みは「ヲツキノオホヤシロ」と振られる{{Sfn|小槻大社(平凡社)|1991}}。また、平安時代の[[11世紀]]初頭の作になる木造男神坐像2躯((削除) 国の (削除ここまで)[[重要文化財]])が現在に伝わっている。
[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では[[近江国]][[栗太郡]]に「小槻大社」と記載され、関係社の[[小槻神社]]((追記) 現・ (追記ここまで)[[草津市]]青地町)とともに[[式内社]]に列している{{Sfn|小槻大社(平凡社)|1991}}<ref>社名「小槻大社」の「大社」は、小槻神社との区別のためと見られる{{Harv|算博士小槻今雄について|2002}}。</ref>。社名の読みは「ヲツキノオホヤシロ」と振られる{{Sfn|小槻大社(平凡社)|1991}}。また、(追記) [[ (追記ここまで)平安時代(追記) ]] (追記ここまで)の[[11世紀]]初頭の作になる木造男神坐像2躯([[重要文化財]])が現在に伝わっている。


小槻氏が中央に移ったのちは、付近に拠点を持つ[[青地氏]]の崇敬を受けて社頭が整備され、弘安4年([[1281年]])10月に青地基氏によって現在の本殿内陣の宮殿が新造された(削除) ほか、 (削除ここまで)[[康永]]2年([[1343年]])4月には青地重頼によって四脚門が造営された(非現存(削除) : (削除ここまで)棟木のみ本殿の力棰に転用){{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}。『[[園太暦]]』<ref group="原" name="康永3年"/>によれば、(削除) 康永2 (削除ここまで)年12月には青地重頼(源重頼)の申請によって正一位の極位が授けられている{{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}。その後、[[永正]]16年([[1519年]])には青地元真により現在の本殿((削除) 国の (削除ここまで)重要文化財)が再建された{{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}。しかし青地氏は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に主家の(削除) [[佐々木氏]]( (削除ここまで)[[六角氏]](削除) ) (削除ここまで)の衰退とともに没落(削除) する (削除ここまで){{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}。
小槻氏が中央に移ったのちは、付近に拠点を持つ[[青地氏]]の崇敬を受けて社頭が整備され、(追記) [[ (追記ここまで)弘安(追記) ]] (追記ここまで)4年([[1281年]])10月に青地基氏によって現在の本殿内陣の宮殿が新造された(追記) ている<ref name="小槻大社"/>。 (追記ここまで)[[康永]]2年([[1343年]])4月には青地重頼によって四脚門が造営された(非現存(追記) だが (追記ここまで)棟木のみ本殿の力棰に転用){{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}(追記) <ref name="小槻大社"/> (追記ここまで)。『[[園太暦]]』<ref group="原" name="康永3年"/>によれば、(追記) 同 (追記ここまで)年12月には青地重頼(源重頼)の申請によって正一位の極位が授けられている{{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}。その後、[[永正]]16年([[1519年]])には青地元真により現在の本殿(重要文化財)が再建された{{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}(追記) <ref name="小槻大社"/> (追記ここまで)。しかし青地氏は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に主家の[[六角氏]]の衰退とともに没落(追記) してしまった (追記ここまで){{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}(追記) <ref name="小槻大社"/> (追記ここまで)


[[江戸時代]]には、[[慶長]]13年([[1608年]])に[[膳所藩(削除) |膳所藩主 (削除ここまで)]]の戸田(削除) 左門 (削除ここまで)から田の寄進があり、以後も[[黒印]]により安堵された{{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}。
[[江戸時代]]には、[[慶長]]13年([[1608年]])に[[膳所藩]](追記) 主 (追記ここまで)(追記) [[ (追記ここまで)戸田(追記) 氏鉄]] (追記ここまで)から田の寄進があり、以後も[[黒印]]により安堵された{{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}。


[[明治維新]]後、[[(削除) 明治 (削除ここまで)]](削除) 9年 (削除ここまで)([[(削除) 1876年 (削除ここまで)]])に[[近代社格制度]]において[[村社]]に列し、(削除) 明治14年( (削除ここまで)[[1881年]])に[[郷社]]に昇格した。
[[明治維新]]後、[[(追記) 1876年 (追記ここまで)]]([[(追記) 明治 (追記ここまで)]](追記) 9年 (追記ここまで))に[[近代社格制度]]において[[村社]]に列し、[[1881年]](追記) (明治14年 (追記ここまで))に[[郷社]]に昇格した(追記) <ref name="小槻大社"/> (追記ここまで)


=== 神階 ===
=== 神階 ===
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== 境内 ==
== 境内 ==
(追記) * (追記ここまで)本殿(追記) ([[重要文化財]]) - (追記ここまで)[[室町時代]]後期の再建。一間社[[流造]]で、屋根は[[檜皮葺]]。太い[[木割]]を使用して彫刻装飾が少なく、組物も古式の舟肘木にするなど、全体に簡素ながら雄健な建築になる。棟札写や棟木の墨書では[[永正]]16年([[1519年]])の青地元真による再建の旨が記され、様式上からもその頃のものとされる。本殿とともに棟札2枚も伝わっており、それぞれ[[享保]]8年([[1723年]])・[[文化 (元号)|文化]]12年([[1815年]])の屋根葺替を記す。本殿内陣には宮殿(くうでん)1基を置き、宮殿内に木造の男神坐像2躯(重要文化財)を安置する。宮殿は本殿より古い[[弘安]]4年([[1281年]])の墨書を有する。この本殿は、宮殿・棟札2枚(いずれも附指定)と合わせて重要文化財に指定されている{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|pp=178-179}}{{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}<ref name="国指定 本殿"/>。
=== (削除) 社殿 (削除ここまで) ===
* 幣殿 - [[1956年]]([[昭和]]31年)の造営。屋根は檜皮葺。
(削除) ''' (削除ここまで)本殿(削除) '''は (削除ここまで)[[室町時代]]後期の再建。一間社[[流造]]で、屋根は[[檜皮葺]]。太い[[木割]]を使用して彫刻装飾が少なく、組物も古式の舟肘木にするなど、全体に簡素ながら雄健な建築になる。棟札写や棟木の墨書では[[永正]]16年([[1519年]])の青地元真による再建の旨が記され、様式上からもその頃のものとされる。本殿とともに棟札2枚も伝わっており、それぞれ[[享保]]8年([[1723年]])・[[文化 (元号)|文化]]12年([[1815年]])の屋根葺替を記す。本殿内陣には(削除) ''' (削除ここまで)宮殿(削除) ''' (削除ここまで)(くうでん)1基を置き、宮殿内に木造の男神坐像2躯((削除) 国の (削除ここまで)重要文化財)を安置する。宮殿は本殿より古い[[弘安]]4年([[1281年]])の墨書を有する。この本殿は、宮殿・棟札2枚(いずれも附指定)と合わせて(削除) 国の[[ (削除ここまで)重要文化財(削除) ]] (削除ここまで)に指定されている{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|pp=178-179}}{{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}<ref name="国指定 本殿"/>。
(追記) * 拝 (追記ここまで)殿(追記) - (追記ここまで)[[江戸時代(追記) ]] (追記ここまで)(追記) 再建。 (追記ここまで)[[入母屋造]]、屋根は瓦葺{{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}。

(追記) * (追記ここまで)一の鳥居(追記) - (追記ここまで)[[1930年]](追記) (昭和5年 (追記ここまで))の造営。鳥居に関して、古くは[[延享]]2年([[1745年]])に現在の[[名神高速道路]]付近に建てられた記録があり、その礎石は御旅所に移築され現存する<ref>一の鳥居脇の石標より。</ref>。
(削除) 本 (削除ここまで)殿(削除) 前の幣殿は、昭和31年( (削除ここまで)[[(削除) 1956年]])の造営。屋根は檜皮葺である。拝殿は (削除ここまで)江戸時代の(削除) 造営で、 (削除ここまで)[[入母屋造]]、屋根は瓦葺(削除) である (削除ここまで){{Sfn|小槻大社(式内社)|1981}}。
(追記) * (追記ここまで)御旅所(若宮社)(追記) - (追記ここまで)栗東市岡に所在し、岡遺跡([[栗太郡#郡衙|栗太郡衙跡]])に隣接する({{Coord|35|00|37.81|N|135|59|07.23|E|region:JP-25_type:landmark|display=inline|name=御旅所}})。

(追記) * 小槻大社古墳群 - (追記ここまで)境内には小槻大社古墳群と称される[[古墳時代]]中期から後期(5世紀から6世紀)の[[円墳]]・[[方墳]]10数基が(追記) あ (追記ここまで)る{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}。
(削除) 境内入り口に立つ (削除ここまで)一の鳥居(削除) は、昭和5年( (削除ここまで)[[1930年]])の造営。鳥居に関して、古くは[[延享]]2年([[1745年]])に現在の[[名神高速道路]]付近に建てられた記録があり、その礎石は御旅所に移築され現存する<ref>一の鳥居脇の石標より。</ref>。
*(追記) * 1号墳 - (追記ここまで) 古墳群中最大規模で、直径25メートルの円墳{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}。墳丘上に残る石材から[[横穴式石室]]の可能性が指摘される{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}。

*(追記) * (追記ここまで) (追記) 10号墳 - 当 (追記ここまで)社境内から西方の尾根上に位置する。南北15.5メートル・東西13.5メートルの方墳で、5世紀後半の築造とされる。[[1990年]](追記) ([[ (追記ここまで)平成(追記) ]]2 (追記ここまで)(追記) )と (追記ここまで)[[1999年]](追記) (平成11年 (追記ここまで))の2度発掘調査が行われ、割竹形木棺2基とともに木棺から鉄剣・竪櫛が、周濠から須恵器が出土し(追記) ている{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}。その他の古墳の詳細は明らかでない{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}。これら古墳群の被葬者は、小槻山君一族と推測され (追記ここまで)ている{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}。
御旅所(若宮社)(削除) は滋賀県 (削除ここまで)栗東市岡に所在し、岡遺跡([[栗太郡#郡衙|栗太郡衙跡]])に隣接する({{Coord|35|00|37.81|N|135|59|07.23|E|region:JP-25_type:landmark|display=inline|name=御旅所}})。


(追記) = (追記ここまで)== 摂末社 (追記) = (追記ここまで)==
* 八坂社(祇園社) - 本殿向かって右に鎮座。
* 日吉社(山王社) - 本殿向かって左に鎮座。
* 稲荷社 - 参道横に鎮座。
* 龍王社 - 小槻大社古墳上に鎮座。
(追記) ** (追記ここまで) 境外社
(追記) * (追記ここまで)**(追記) 十二将神社 - (追記ここまで) 鎮座地(追記) は (追記ここまで)栗東市下戸山({{Coord|35|00|17.43|N|135|59|28.81|E|region:JP-25_type:landmark|display=inline|name=境外社:十二将神社}})(追記) 。 (追記ここまで)境内は楽音寺(覚音寺)の跡地と伝わる。
(追記) ** (追記ここまで)** 十二将神社境内社:弁天社、祇園社
(追記) ** (追記ここまで)* 八幡神社
<gallery>
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File:Otsuki-taisha haiden.JPG|拝殿
File:Otsuki-taisha haiden.JPG|拝殿
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File:Otsuki-taisha ichinotorii.JPG|一の鳥居
File:Otsuki-taisha ichinotorii.JPG|一の鳥居
File:Otsuki-taisha otabisho.JPG|御旅所(若宮社)
File:Otsuki-taisha otabisho.JPG|御旅所(若宮社)
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=== 小槻大社古墳群 ===
境内には(削除) 、「 (削除ここまで)小槻大社古墳群(削除) 」 (削除ここまで)と称される[[古墳時代]]中期から後期(5世紀から6世紀)の[[円墳]]・[[方墳]]10数基が(削除) 残 (削除ここまで)る{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}(削除) 。主な古墳は次の通り (削除ここまで)
* 1号墳
*(削除) : (削除ここまで) 古墳群中最大規模で、直径25メートルの円墳{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}。墳丘上に残る石材から[[横穴式石室]]の可能性が指摘される{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}。
* 10号墳
*(削除) : (削除ここまで) (削除) 小槻大 (削除ここまで)社境内から西方の尾根上に位置する。南北15.5メートル・東西13.5メートルの方墳で、5世紀後半の築造とされる。(削除) 平成2年( (削除ここまで)[[1990年]](削除) )と (削除ここまで)平成(削除) 11 (削除ここまで)(削除) ( (削除ここまで)[[1999年]])の2度発掘調査が行われ、割竹形木棺2基とともに木棺から鉄剣・竪櫛が、周濠から須恵器が出土している{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}。
その他の古墳の詳細は明らかでない{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}。これら古墳群の被葬者は、小槻山君一族と推測されている{{Sfn|小槻大社古墳群(続古墳)|2002}}。

== 摂末社 ==
=== 境内社 ===
* 八坂社(祇園社) - 本殿向かって右に鎮座。
* 日吉社(山王社) - 本殿向かって左に鎮座。
* 稲荷社 - 参道横に鎮座。
* 龍王社 - 小槻大社古墳上に鎮座。

(削除) === (削除ここまで) 境外社(削除) === (削除ここまで)
* 十二将神社
** 鎮座地(削除) : (削除ここまで)栗東市下戸山({{Coord|35|00|17.43|N|135|59|28.81|E|region:JP-25_type:landmark|display=inline|name=境外社:十二将神社}})(削除) - (削除ここまで)境内は楽音寺(覚音寺)の跡地と伝わる。
** 十二将神社境内社:弁天社、祇園社
* 八幡神社

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File:Otsuki-taisha Yasaka-sha.JPG|八坂社(祇園社)
File:Otsuki-taisha Yasaka-sha.JPG|八坂社(祇園社)
File:Otsuki-taisha Hiyoshi-sha.JPG|日吉社(山王社)
File:Otsuki-taisha Hiyoshi-sha.JPG|日吉社(山王社)
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== 主な祭事 ==
== 主な祭事 ==
[[5月5日]]に行われる例祭は「'''小杖祭り'''」と通称される。古くは[[卯月]]初卯日であったが、[[(削除) 明治 (削除ここまで)]](削除) 42年 (削除ここまで)([[(削除) 1909年 (削除ここまで)]])から5月5日に斎行される<ref name="神社庁">[http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=368 小槻大社](滋賀県神社庁)。</ref>。祭りの主をなす[[花笠踊|花傘踊り]]は、現在では5地域の輪番制で担当されるが、[[永徳]]2年([[1382年]])の板札によれば古くは「榊本家」と称される有力な家筋が担ったとされる{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|p=281}}。
[[5月5日]]に行われる例祭は「'''小杖祭り'''」と通称される。古くは[[卯月]]初卯日であったが、[[(追記) 1909年 (追記ここまで)]]([[(追記) 明治 (追記ここまで)]](追記) 42年 (追記ここまで))から5月5日に斎行される<ref name="神社庁">[http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=368 小槻大社](滋賀県神社庁)。</ref>。祭りの主をなす[[花笠踊|花傘踊り]]は、現在では5地域の輪番制で担当されるが、[[永徳]]2年([[1382年]])の板札によれば古くは「榊本家」と称される有力な家筋が担ったとされる{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|p=281}}。


祭りでは、岡遺跡(栗太郡衙跡)付近の[[御旅所]]まで神輿が行列とともに渡御し、小槻大社本殿前や御旅所など数ヶ所では特に花傘踊りを奉納する。この花傘踊りの中心はあでやかな衣装を着た子役で、これに傘鉾(花傘)を持った大人が続き、踊り歌を歌いながら華やかに舞う。これは太鼓踊りが風流化したものとされる。この小杖祭りでの祭礼は、1988年(昭和63年)に滋賀県の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択されたのち{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|p=281}}、令和2(削除) 年(2020 (削除ここまで)年)には草津市内の祭礼と合わせて「近江湖南のサンヤレ踊り」として国の重要無形民俗文化財に指定されている<ref>[https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/91997701.html 文化審議会答申(重要有形民俗文化財の指定等)](文化庁報道発表、2020年1月17日)</ref><ref name="令和2年告示">令和2年3月16日文部科学省告示第29号。</ref>。
祭りでは、岡遺跡(栗太郡衙跡)付近の[[御旅所]]まで神輿が行列とともに渡御し、小槻大社本殿前や御旅所など数ヶ所では特に花傘踊りを奉納する。この花傘踊りの中心はあでやかな衣装を着た子役で、これに傘鉾(花傘)を持った大人が続き、踊り歌を歌いながら華やかに舞う。これは太鼓踊りが風流化したものとされる。この小杖祭りでの祭礼は、(追記) [[ (追記ここまで)1988年(追記) ]] (追記ここまで)((追記) [[ (追記ここまで)昭和(追記) ]] (追記ここまで)63年)に(追記) [[ (追記ここまで)滋賀県(追記) ]] (追記ここまで)の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択されたのち{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|p=281}}、(追記) [[2020年]]([[ (追記ここまで)令和(追記) ]] (追記ここまで)2年)には草津市内の祭礼と合わせて「近江湖南のサンヤレ踊り」として国の重要無形民俗文化財に指定されている<ref>[https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/91997701.html 文化審議会答申(重要有形民俗文化財の指定等)](文化庁報道発表、2020年1月17日)</ref><ref name="令和2年告示">令和2年3月16日文部科学省告示第29号。</ref>。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
=== 重要文化財(削除) (国指定) (削除ここまで) ===
=== 重要文化財 ===
* 本殿(附 宮殿1基、棟札2枚)(建造物)
* 本殿(附 宮殿1基、棟札2枚)(建造物)
*: 室町時代後期の造営。1958年(昭和33年)5月14日指定<ref name="国指定 本殿">{{国指定文化財等データベース|102|1438|小槻大社本殿}}</ref>。
*: (追記) [[ (追記ここまで)室町時代(追記) ]] (追記ここまで)後期の造営。(追記) [[ (追記ここまで)1958年(追記) ]] (追記ここまで)(昭和33年)5月14日指定<ref name="国指定 本殿">{{国指定文化財等データベース|102|1438|小槻大社本殿}}</ref>。
* 木造男神坐像 2躯(彫刻)
* 木造男神坐像 2躯(彫刻)
*: [[平安時代]]、[[11世紀]]初頭の作。伝落別命像、伝大巳貴命像の2躯。1997年(平成9年)6月30日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|5159|木造男神坐像(伝落別命)}}</ref><ref>{{国指定文化財等データベース|201|5160|木造男神坐像(伝大巳貴命)}}</ref>。
*: [[平安時代]]、[[11世紀]]初頭の作。伝落別命像、伝大巳貴命像の2躯。(追記) [[ (追記ここまで)1997年(追記) ]] (追記ここまで)(平成9年)6月30日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|5159|木造男神坐像(伝落別命)}}</ref><ref>{{国指定文化財等データベース|201|5160|木造男神坐像(伝大巳貴命)}}</ref>。
** 主神像の伝落別命像は、ヒノキ材の一木造で、像高60.6センチメートル。持物の笏・垂纓は別材とするが亡失。幞頭冠を頂き、朱袍を着る{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|p=281}}。
** 主神像の伝落別命像は、(追記) [[ (追記ここまで)ヒノキ(追記) ]] (追記ここまで)材の一木造で、像高60.6センチメートル。持物の笏・垂纓は別材とするが亡失。幞頭冠を頂き、朱袍を着る{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|p=281}}。
** 配神像の伝大巳貴命像は、ヒノキ材の一木造で、像高48.8センチメートル。持物の笏・垂纓は別材とするが亡失。幅広の冠を頂き、鬚を持ち、緑袍を着る{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|p=281}}。
** 配神像の伝大巳貴命像は、ヒノキ材の一木造で、像高48.8センチメートル。持物の笏・垂纓は別材とするが亡失。幅広の冠を頂き、鬚を持ち、緑袍を着る{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|p=281}}。


=== 重要無形民俗文化財(削除) (国指定) (削除ここまで) ===
=== 重要無形民俗文化財 ===
* 近江湖南のサンヤレ踊り - 小杖祭りのほか、草津市内の祭礼を包括。2020年(令和2年)3月16日指定<ref name="令和2年告示"/>。
* 近江湖南のサンヤレ踊り - 小杖祭りのほか、草津市内の祭礼を包括。2020年(令和2年)3月16日指定<ref name="令和2年告示"/>。


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*: 室町時代の作。[[神輿]]に飾る鳳凰と[[華鬘]]で、いずれも鋳銅製。前者は高さ54.0センチメートル、後者は縦16.7センチメートル・横15.5センチメートル{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|p=315}}。
*: 室町時代の作。[[神輿]]に飾る鳳凰と[[華鬘]]で、いずれも鋳銅製。前者は高さ54.0センチメートル、後者は縦16.7センチメートル・横15.5センチメートル{{Sfn|栗東の歴史 第4巻|1994|p=315}}。


== (削除) 現 (削除ここまで)(削除) 情報 (削除ここまで) ==
== (追記) 所在 (追記ここまで)地 ==
'''所在地'''
* [[滋賀県]][[栗東市]]下戸山1200
* [[滋賀県]][[栗東市]]下戸山1200


(削除) ''' (削除ここまで)アクセス(削除) ''' (削除ここまで)
(追記) == (追記ここまで)アクセス(追記) == (追記ここまで)
* [[JR西日本|JR]][[草津線]][[手原駅]]より[[くりちゃんバス]](治田金勝線)で下戸山宮ヶ谷停留所下車、徒歩3分。
* [[JR西日本|JR]][[草津線]][[手原駅]]より[[くりちゃんバス]](治田金勝線)で下戸山宮ヶ谷停留所下車、徒歩3分。
* [[名神高速道路]][[栗東インターチェンジ|栗東IC]]から車で10分。
* [[名神高速道路]][[栗東インターチェンジ|栗東IC]]から車で10分。


(削除) ''' (削除ここまで)周辺(削除) ''' (削除ここまで)
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* [[下戸山古墳]] - 4世紀末から5世紀初頭の首長墓。直径55メートルの[[円墳]]。栗東市指定史跡。
* [[下戸山古墳]] - 4世紀末から5世紀初頭の首長墓。直径55メートルの[[円墳]]。栗東市指定史跡。
* 地山古墳 - 下戸山古墳に次ぐ5世紀前半の首長墓。墳丘長90メートルの[[帆立貝形古墳]]。
* 地山古墳 - 下戸山古墳に次ぐ5世紀前半の首長墓。墳丘長90メートルの[[帆立貝形古墳]]。
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== (追記) 注釈 (追記ここまで) ===
'''原典'''
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'''出典'''
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2024年7月13日 (土) 12:12時点における版

小槻大社

本殿(重要文化財)
所在地 滋賀県 栗東市下戸山1200
位置 北緯35度0分24.42秒 東経135度59分32.85秒 / 北緯35.0067833度 東経135.9924583度 / 35.0067833; 135.9924583 (小槻大社) 座標: 北緯35度0分24.42秒 東経135度59分32.85秒 / 北緯35.0067833度 東経135.9924583度 / 35.0067833; 135.9924583 (小槻大社)
主祭神 於知別命
大己貴命
社格 式内社(小)
郷社
創建 不詳
本殿の様式 一間社流造
別名 小杖社(おづえしゃ)、小杖宮、小杖大明神
例祭 5月5日(小杖祭り)
主な神事 花傘踊り(5月5日)
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鳥居

小槻大社(おつきたいしゃ[1] [2] /おつぎたいしゃ[3] /おづきたいしゃ[4] )は、滋賀県 栗東市にある神社式内社で、旧社格郷社神紋は「下り藤」、「真向の兎」[2]

祭神

延喜式神名帳の記載における祭神は1座。小槻大社では11世紀初頭の作とされる木造男神坐像2躯(伝落別命像・伝大巳貴命像)が伝えられており、この頃までには祭神は現在の2柱であった。

歴史

詳しい創建年代は不明であるが、社伝によると古代栗太郡(現・草津市栗東市一帯)の豪族である小槻山君(小月山公)が祖神である於知別命を祀ったのが当社の始まりであるという[6]

小槻山君は栗太郡の古代豪族で、朝廷采女も献上したという。小槻大社内には小槻大社古墳群が残るほか、周辺には下戸山古墳・地山古墳・岡遺跡(栗太郡衙跡)が残り、これらは小槻山君の関係史跡とされる。これらから小槻山君は栗太郡郡司クラスの家柄であったと推測されている。小槻山君は貞観15年(873年)[原 1] 平安京に居を移し、のち小槻氏(官務家)として朝廷に仕えた。

国史では「小杖神」・「小丈神」・「少杖神」などの神名で、貞観5年(863年)[原 2] 神階が従五位下、貞観7年(865年)[原 3] に従五位上、延喜11年(911年)[原 4] に従四位下に昇叙された旨が記されている[1]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では近江国 栗太郡に「小槻大社」と記載され、関係社の小槻神社(現・草津市青地町)とともに式内社に列している[1] [7] 。社名の読みは「ヲツキノオホヤシロ」と振られる[1] 。また、平安時代11世紀初頭の作になる木造男神坐像2躯(重要文化財)が現在に伝わっている。

小槻氏が中央に移ったのちは、付近に拠点を持つ青地氏の崇敬を受けて社頭が整備され、弘安4年(1281年)10月に青地基氏によって現在の本殿内陣の宮殿が新造されたている[6] 康永2年(1343年)4月には青地重頼によって四脚門が造営された(非現存だが棟木のみ本殿の力棰に転用)[8] [6] 。『園太暦[原 5] によれば、同年12月には青地重頼(源重頼)の申請によって正一位の極位が授けられている[8] 。その後、永正16年(1519年)には青地元真により現在の本殿(重要文化財)が再建された[8] [6] 。しかし青地氏は、戦国時代に主家の六角氏の衰退とともに没落してしまった[8] [6]

江戸時代には、慶長13年(1608年)に膳所藩主の戸田氏鉄から田の寄進があり、以後も黒印により安堵された[8]

明治維新後、1876年(明治9年)に近代社格制度において村社に列し、1881年(明治14年)に郷社に昇格した[6]

神階

境内

  • 本殿(重要文化財) - 室町時代後期の再建。一間社流造で、屋根は檜皮葺。太い木割を使用して彫刻装飾が少なく、組物も古式の舟肘木にするなど、全体に簡素ながら雄健な建築になる。棟札写や棟木の墨書では永正16年(1519年)の青地元真による再建の旨が記され、様式上からもその頃のものとされる。本殿とともに棟札2枚も伝わっており、それぞれ享保8年(1723年)・文化12年(1815年)の屋根葺替を記す。本殿内陣には宮殿(くうでん)1基を置き、宮殿内に木造の男神坐像2躯(重要文化財)を安置する。宮殿は本殿より古い弘安4年(1281年)の墨書を有する。この本殿は、宮殿・棟札2枚(いずれも附指定)と合わせて重要文化財に指定されている[9] [8] [4]
  • 幣殿 - 1956年(昭和31年)の造営。屋根は檜皮葺。
  • 拝殿 - 江戸時代の再建。入母屋造、屋根は瓦葺[8]
  • 一の鳥居 - 1930年(昭和5年)の造営。鳥居に関して、古くは延享2年(1745年)に現在の名神高速道路付近に建てられた記録があり、その礎石は御旅所に移築され現存する[10]
  • 御旅所(若宮社) - 栗東市岡に所在し、岡遺跡(栗太郡衙跡)に隣接する(北緯35度00分37.81秒 東経135度59分07.23秒 / 北緯35.0105028度 東経135.9853417度 / 35.0105028; 135.9853417 (御旅所) )。
  • 小槻大社古墳群 - 境内には小槻大社古墳群と称される古墳時代中期から後期(5世紀から6世紀)の円墳方墳10数基がある[11]
    • 1号墳 - 古墳群中最大規模で、直径25メートルの円墳[11] 。墳丘上に残る石材から横穴式石室の可能性が指摘される[11]
    • 10号墳 - 当社境内から西方の尾根上に位置する。南北15.5メートル・東西13.5メートルの方墳で、5世紀後半の築造とされる。1990年(平成2年)と1999年(平成11年)の2度発掘調査が行われ、割竹形木棺2基とともに木棺から鉄剣・竪櫛が、周濠から須恵器が出土している[11] 。その他の古墳の詳細は明らかでない[11] 。これら古墳群の被葬者は、小槻山君一族と推測されている[11]

摂末社

主な祭事

5月5日に行われる例祭は「小杖祭り」と通称される。古くは卯月初卯日であったが、1909年(明治42年)から5月5日に斎行される[2] 。祭りの主をなす花傘踊りは、現在では5地域の輪番制で担当されるが、永徳2年(1382年)の板札によれば古くは「榊本家」と称される有力な家筋が担ったとされる[12]

祭りでは、岡遺跡(栗太郡衙跡)付近の御旅所まで神輿が行列とともに渡御し、小槻大社本殿前や御旅所など数ヶ所では特に花傘踊りを奉納する。この花傘踊りの中心はあでやかな衣装を着た子役で、これに傘鉾(花傘)を持った大人が続き、踊り歌を歌いながら華やかに舞う。これは太鼓踊りが風流化したものとされる。この小杖祭りでの祭礼は、1988年(昭和63年)に滋賀県の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択されたのち[12] 2020年(令和2年)には草津市内の祭礼と合わせて「近江湖南のサンヤレ踊り」として国の重要無形民俗文化財に指定されている[13] [14]

文化財

重要文化財

  • 本殿(附 宮殿1基、棟札2枚)(建造物)
    室町時代後期の造営。1958年(昭和33年)5月14日指定[4]
  • 木造男神坐像 2躯(彫刻)
    平安時代11世紀初頭の作。伝落別命像、伝大巳貴命像の2躯。1997年(平成9年)6月30日指定[15] [16]
    • 主神像の伝落別命像は、ヒノキ材の一木造で、像高60.6センチメートル。持物の笏・垂纓は別材とするが亡失。幞頭冠を頂き、朱袍を着る[12]
    • 配神像の伝大巳貴命像は、ヒノキ材の一木造で、像高48.8センチメートル。持物の笏・垂纓は別材とするが亡失。幅広の冠を頂き、鬚を持ち、緑袍を着る[12]

重要無形民俗文化財

  • 近江湖南のサンヤレ踊り - 小杖祭りのほか、草津市内の祭礼を包括。2020年(令和2年)3月16日指定[14]

その他

  • 神輿飾鳳凰・華鬘
    室町時代の作。神輿に飾る鳳凰と華鬘で、いずれも鋳銅製。前者は高さ54.0センチメートル、後者は縦16.7センチメートル・横15.5センチメートル[17]

所在地

アクセス

周辺

  • 下戸山古墳 - 4世紀末から5世紀初頭の首長墓。直径55メートルの円墳。栗東市指定史跡。
  • 地山古墳 - 下戸山古墳に次ぐ5世紀前半の首長墓。墳丘長90メートルの帆立貝形古墳

脚注

注釈

原典

  1. ^ 『日本三代実録』貞観15年(873年)12月2日条。
  2. ^ a b 『日本三代実録』貞観5年(863年)12月3日条。
  3. ^ a b 『日本三代実録』貞観7年(865年)12月5日条。
  4. ^ a b 『日本紀略』延喜11年(911年)2月2日条。
  5. ^ a b 『園太暦』康永3年(1344年)8月29日条。
  6. ^ 『日本三代実録』元慶6年(882年)10月9日条。

出典

  1. ^ a b c d e 小槻大社(平凡社) 1991.
  2. ^ a b c 小槻大社(滋賀県神社庁)。
  3. ^ 小槻大社・小槻神社(神々) 1986.
  4. ^ a b c 小槻大社本殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
  5. ^ 境内説明板。
  6. ^ a b c d e f 滋賀県神社庁 小槻大社
  7. ^ 社名「小槻大社」の「大社」は、小槻神社との区別のためと見られる(算博士小槻今雄について 2002)。
  8. ^ a b c d e f g 小槻大社(式内社) 1981.
  9. ^ 栗東の歴史 第4巻 1994, pp. 178–179.
  10. ^ 一の鳥居脇の石標より。
  11. ^ a b c d e f 小槻大社古墳群(続古墳) 2002.
  12. ^ a b c d 栗東の歴史 第4巻 1994, p. 281.
  13. ^ 文化審議会答申(重要有形民俗文化財の指定等)(文化庁報道発表、2020年1月17日)
  14. ^ a b 令和2年3月16日文部科学省告示第29号。
  15. ^ 木造男神坐像(伝落別命) - 国指定文化財等データベース(文化庁)
  16. ^ 木造男神坐像(伝大巳貴命) - 国指定文化財等データベース(文化庁)
  17. ^ 栗東の歴史 第4巻 1994, p. 315.

参考文献

関連項目

外部リンク

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