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董 士珍(とう しちん、憲宗4年(1254年) - 延祐元年7月20日(1314年 8月31日))は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は周卿。
概要
董士珍はモンゴル帝国に仕える漢人将軍の董文忠の長男として生まれた。幼い頃より許衡に学び、文武両道の人物であったという[1] 。
至元19年(1282年)には参議枢密院事、至元23年(1286年)には同知上都留守司事に任命された。この頃、尚書省を統べるサンガが専権を振るっていたが、董士珍はサンガに逆らってでも公平に出納を行い、重税を課すことはなかったという。至元28年(1291年)、更に山東東西道肅政廉訪使に選ばれている[2] 。
オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の即位後は兵部尚書に抜擢され、大徳元年(1297年)には吏部尚書とされた。大徳5年(1301年)、江浙行省参知政事に進み、同時に鈔15,000緡を下賜された。大徳7年(1303年)、ブルガン・カトン主導の政変によって政府高官が一斉に入れ替えられると、董士珍も中央に呼び戻されて中書参知政事に任命された。新たな政府高官はハルガスン・アグタイを中心として尚文ら地方政治で実績ある者達が任命されており、董士珍神道碑は「中統・至元の風があった」と評している[3] 。また、この頃河東地方で地震が起こると、董士珍は命を受けて現地に赴き、備蓄の食糧を分配するなどして多くの民の命を救った。大徳8年(1304年)、江西行省左丞に任命されたが病を理由に固辞し、後に陜西行御史台中丞に任命された時も同様に辞退している。クルク・カアン(武宗カイシャン)が即位した直後も江南行御史台中丞の地位を用意されながら固辞したものの、この頃から病はやや回復したという[4] 。
ブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の即位後、数年ぶりに河南江北行省の左丞を拝命し、淮東地方の塩法の弊害改善に努めた。皇慶2年(1313年)、御史台に欠員が出た時には「董士珍にかわる者はいない」として呼び出され、御史中丞に任命された。上奏して受け容れられなくとも、再三にわたって同じ上奏を繰り返して認めさせたことがあり、ブヤント・カアンは「董中丞(董士珍)は直人である」と評した[5] 。
延祐元年(1314年)4月、ブヤント・カアンが夏の都である上都に巡幸するのに従い、そこから帰還しようとする所で7月20日に亡くなった[6] 。ブヤント・カアンは董士珍の死を深く惜しみ、鈔15,000緡を下賜すると同時に遺体を運ぶための駅馬を供給し、これによって同年8月には董氏一族の墓に葬られた。董士珍の没後、大司農の張安がその行状を書き記したが、その後翰林学士の元明善が墓誌銘を作成したことでその業績は広く知られたという[7] 。
藁城董氏
脚注
- ^ 『常山貞石志』巻23太傅趙国清献公董士珍神道碑,「公諱士珍、字周卿、正献公之子也。正献公行第八、世祖親猶家人常以其行呼之、清献行亦第八、以世祖命侍裕宗東宮。裕宗知之、亦呼似行而不名、特加一小字、以別其父焉。清献嗜表峻漯、衆中頑然、寡言罕笑風度凝途。幼従許文正公学、淹貫経史、過国言力超乗、精射芸而能不街所長。与人交終日欽欽、聴共論議、煩簡皆当。裕宗嘗解御衣賜公。命公恒服、公不敢芸、惟侍大燕則服之。職典宮膳、日奉進膳、雖或解后、喜慍不時、第見公至、必為公改容。世皇晚命東官裁決庶政」
- ^ 『常山貞石志』巻23太傅趙国清献公董士珍神道碑,「至元十九年、以公参議枢密院事。蒞政未幾、聴軍戸康氏予死獄、燭微若神、老更咸服其明断。二十三年、進同知上都留守司事。公臨事敬慎而以寬厚行之府中号公長者。時哥立尚書省、崇任苛暴專以銭穀羨餘罔上。希賞公爾典倉庾、出内均平、不事掊克。世祖一日召公詰之。対曰『臣收粟不以高概、多取於民、出粟不以低概、少異於軍。臣不敢為欺、羨餘何従而出』。上大感悟、遂罷賞令。二十八年、選為山東東西道肅政廉訪使。下車風采振厲部内貪墨屏跡」
- ^ 植松1997,305頁
- ^ 『常山貞石志』巻23太傅趙国清献公董士珍神道碑,「成宗登極、召為兵部尚書。大徳元年、省臣議以公為僉書、河南江北行省事。未奏太后有聞、亟遣中使伝旨中書曰『董士珍青宮旧臣、屢聞裕宗称其忠厚共人、宜寞近輔、何為補外』。因留拝吏部尚書、干是銓選称久。五年、進拝江浙行省参知政事、特之官賜鈔万五千緡、使之治装、以旌其廉。浙俗豪奢、請謁無禁。公到官、趣尚倹素、務以清静鎮浮、東南冠蓋遣老、斯時猶有存者、相与領公雅徳。七年、召拝中書参知政事、与右丞相答剌罕・左丞尚文等、同心佐理、機務大治廩然、有中統・至元之風焉。会河東地震、民多死傷、命公往振山之。公躬自存問大、発属郡藏粟以継乏食、悍整獲全、不可勝計。還朝、大見奨異。八年、出為江西行省左丞、疾作不赴、退居稿城之九門。改陜西行御史台中丞、力辞。武宗鸞純、移江南行御史台中丞、又辞。疾稍閏甚、書行田、自楽畎畝有脩然世外之趣」
- ^ 『常山貞石志』巻23太傅趙国清献公董士珍神道碑,「仁宗初立、用故事、起諸老成会議大政、公強起応詔。俄拝河南江北行遣左丞、適淮東塩法積弊、特詔公往治之。公至淮揚、繩削劍右、豪馨銜蠡、塩鐸犬通。皇慶二年、漢人中執法闕、任璽童臣謀其人、既而曰『方今無以易董士珍者』。駅召公還。比入見、趣赴台、台中有爾按劾或不得自至、三復奏、必兪九乃退。仁宗天表英毅、侍臣見公執奏不已、相顧動色。公雌然不回、上輒歎日『董中丞、直人也』。嘗一日論事相前、不合指意、進曰『臣等死生、至微国家政事得失至重臣若顧其至微、而使君有過、挙国有闕政、生何面目立入朝乎』。故臣寧死不願為此、中書以四方災異、欲遣使者循行郡国。公曰『今時急務、選賢万、任守合、刑省歛薄、其民自安。災珍自息使者雖不循行、不善為治。若官冗政弊、使者旁午四出、徒増擾耳』。事遂寢。省・台雜議禁地囲臘、座中有墾苗者、当以極升。公曰『殺其麋鹿者、如殺人之罪、可乎』。倡論者猶未已、公復書曰『刑名各有攸司、法当付刑部議耳。其語遂塞。公在言路、雖直言不諱、然未嘗好訐賣亶、惟恃至誠可以感動、奏稿每自焚之。為宮官、則務持大体、不間丕舌。居中書日、天子下議発兵討西南夷、台臣力諫不納。公侶侍左右、承顧問、従容対曰『台量盲是』。上意自解。立朝四十餘年、絶跡勢塗。公餘那婦人発造其賓次者、如登李膺之間。性少嗜好、侍無媵童、旨動可法。郡従中表、每厳憚之」
- ^ 藤島1986,21頁
- ^ 『常山貞石志』巻23太傅趙国清献公董士珍神道碑,「延祐元年夏四月、扈従上京。秋七月二十日、将還而薨、年五十有九。家貧、璣不註衰日。上間而悼之、賜鈔一万五干緡、給駅馬送其柩南還。以八月日葬於董是之祖瑩。公之初薨、大司農張安状其行。既葬、翰林学士元明善銘其墓、故凡董氏家世伐聞、書之已詳。然公之勳丁、其在中書、則当大徳承乎之世、其在意台、則当皇慶更花之日、朝廷清明、俊叉在列。公生乎学術、得諸父命師訓爾為尊主荒民者、靡不推行於其間、蓋有不可一二而枚敬者。且董氏父子兄弟、前則五献、以忠献為之先、後則情献、以正献為之文。求其立事建功、偉然有自見於父蠅盛名之列、可謂難矣。然正献之神正、清献之為清各皿守且宰恨似於競薬済美並称于時鳥序休哉。曹祖所聃、光禄大夫、大司徒、追封趙国公、謚宣懿。祖俊、龍虎衛上将軍、右副元帥、知中山府、与金兵戦、沒于陣、贈推忠翊迎效節功臣、太傅、開府儀同三司、上柱国」
- ^ 藤島1986, p. 14.
参考文献
- 太傅趙国清献公董士珍神道碑
- 『新元史』巻141列伝38董士珍伝
- 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101。国立国会図書館書誌ID:000002623928。
- 藤島建樹「元朝治下における漢人一族の歩み:藁城の董氏の場合」『大谷学報』第66巻第3号、大谷学会、1986年12月、13-25頁、CRID 1050282676637353088、ISSN 0287-6027。