コンテンツにスキップ
Wikipedia

「ランボルギーニ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
94行目: 94行目:
* クインオート/[[ジーライオングループ]](名古屋)
* クインオート/[[ジーライオングループ]](名古屋)
* 光岡自動車(大阪)
* 光岡自動車(大阪)
* [[タジマモーターコーポレーション]](仙台・広島)
* [[(追記) 田嶋伸博| (追記ここまで)タジマモーターコーポレーション]](仙台・広島)
* アール・ピー・エム(福岡)
* アール・ピー・エム(福岡)



2021年6月2日 (水) 06:59時点における版

ロゴ
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"ランボルギーニ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2018年9月)
アウトモービリ ランボルギーニ S.p.A.
Nuova Automobili Ferruccio Lamborghini S.p.a

種類 株式会社
本社所在地 イタリアの旗 イタリア
サンターガタ・ボロニェーゼ
設立 1963年 5月7日
業種 自動車の製造.農業機械の製造
事業内容 自動車の製造,販売
代表者 ステファン・ヴィンケルマン CEO
売上高 1790億円(2018年)
主要株主 ドイツの旗 アウディ
関係する人物 フェルッチオ・ランボルギーニ(創業者)
外部リンク Lamborghini.com
テンプレートを表示

ランボルギーニ(Lamborghini)は、イタリアの高級スポーツカーメーカーである。正式名称はヌオーヴァ・アウトモービリ・フェルッチオ・ランボルギーニ SpA(Nuova Automobili Ferruccio Lamborghini SpA)。1999年以降フォルクスワーゲングループに属する。

本社、製造工場、ランボルギーニミュージアムボローニャ県 サンターガタ・ボロニェーゼにある。

自動車メーカーとしての成り立ち

ランボルギーニのトラクター、プレミアム1050
フェルッチオ・ランボルギーニハラマ(1970年)

創業者であるフェルッチオ・ランボルギーニは、第二次世界大戦後、イタリアにトラックが不足していることに目を付け[1] 、軍が放出するトラックを民生向けに改造し販売することで富を得た。大戦中、ロドス島にて兵器メンテナンスに当たっていた彼の経験が活かされるかたちとなった。1947年、当時から自動車好きであった彼は、これを元手に小さなチューニングショップを開いた。

1948年、彼は友人と共にミッレミリアに参戦した。車両はフィアット・トポリーノで、自作のOHV ヘッドが載せられていた。しかし途中で友人が運転を誤り、レストランに突っ込んでしまう。この際、彼は友人と共に車外に投げ出され、大ケガを負った。後に彼がレース界から距離を置くようになったのは、この経験が一因であるとされている。

その後、彼はトラックに続いてトラクターの自社開発に取り組み、1949年ランボルギーニ・トラットリーチ SpAを設立した。当初はただ同然で手に入れた軍放出車両のモーリスエンジンを用いた一般的なものであったが、後に自ら開発した排気熱で軽油を気化するイン・パボリザトーレというシステムを使って高性能なトラクターを作った。これは当時高価であったガソリンをエンジンの始動と暖気に使うだけで済み、後は安価な軽油で充分に動かせたため、大ヒットに繋がった。また1960年にはランボルギーニ・ブルチアトーリ SpAを設立し、ボイラーエアコンの製造販売を手掛け、これも成功を収めた。

巨万の財を築いた彼はエキゾチックカー収集するようになる。しかし、どの車も暑すぎたり、スピードが十分でなかったり、狭すぎたりしたため、フェルッチオを満足させるものではなかった。のちにエキゾチックカーの生産に乗り出したフェルッチオは、「助手席に座るレディのメイクアップが(汗で)落ちないような快適な車を作りたい」と語ったという。やがて彼は富の象徴、フェラーリのオーナーとなるが、当時のフェラーリにはクラッチに決定的欠陥があった。所有するフェラーリの度重なるクラッチ故障に頭を痛めた彼は、自社のトラクター工場でフェラーリを修理することを思いつく。いざクラッチを分解してみると、使われていたのはなんと自社のトラクター用パーツと同型のボーグ&ベック製のクラッチ板であり、しかも全く同一のパーツにフェラーリはトラクター用の十倍の値段を付けていた。

元々は優秀なメカニックでもあった彼は、クラッチ修理と同時にフェラーリに装着されていたウェーバー製のダウンドラフト型キャブレターをサイドドラフト型の物に改め、シリンダーヘッドをオリジナルのSOHCから当時は市販のフェラーリに採用されていなかったDOHCに改造した。完成した車は公道でのテスト走行中の新型フェラーリを「カモ」にできるほど速かったという。

既存のエキゾチックカーに少なからず不満を抱いていた彼は、これがきっかけで自動車ビジネスに乗り出す決意をしたといわれる。前述のフェラーリのパーツに見られるような高額な価格設定に触れ、「この商売は儲かる」と踏んでもいた。フェルッチオはこのとき、有望なビジネスモデルとして高級車業界を見ており、スポーツカーへの愛情とその財力を背景にアウトモービリの創設を決意した。

Lamborghini 350 GTV
Lamborghini 350 GTV リア

この1963年トリノショーに出品された350GTVは非常に目を引く独創性にあふれたフランコ・スカリオーネのデザインによるボディラインを持ち、性能面や上質なインテリア等で一定の評価を得たが、居住性やGTとしての使い勝手で酷評を受ける。 この評を受けてすぐにフェルッチオは根本的な改修を指示、翌年カロッツェリア・トゥーリングにより手直しを受けたボディを纏った市販車としての第一号350GTをロールアウト。ここに市販車メーカーとしてのアウトモービリ・ランボルギーニの歴史は幕を上げた。

ランボルギーニ・350GT

当初こそ、伝統のあるマセラティやフェラーリを引き合いに出されてはトラクターメーカーとしての出自を揶揄されたが、翌年に後継の400GTがロールアウトされる頃になると独創的なスタイルと快適性の高次での両立がエグゼクティブの間で話題となり、350GTは130台以上、400GTでは250台以上、当時の超高級GTとしては非常に良好なセールスを記録している。この後1966年のランボルギーニ・ミウラ、1971年のランボルギーニ・カウンタック(クンタッシ)とあまりにも有名な名車を次々と送り出し、押しも押されもせぬ世界的スーパースポーツの代名詞ともいえるブランドとなった。

トラクターの他にヘリコプターも作ったが、認可が下りず、結果的に、プロトタイプの2台しか現存していない。

イタリア・モデナにあるトニーノ・ランボルギーニ・ムゼオにフェルッチオが関わったランボルギーニ製品が展示されている。

社歴

  • 1962年4月 - 農業機械(トラクター)製造で成功を収めていたフェルッチオ・ランボルギーニが設立。
  • 1963年10月26日 - トリノ・オートショーで1号車になる「350GTV」を発表。
  • 1971年8月 - ボリビアで起こったクーデターにより、親会社であるランボルギーニ・トラットリーチ SpAと前政府との間に結ばれていた、5000台のトラクター購入に関する契約を破棄される。資金難に陥ったランボルギーニ・グループはランボルギーニ・トラットリーチ SpAの全株をフィアットに移譲。自動車部門の株式51%をスイス人投資家のジョルジュ=アンリ・ロゼッティ(Georges-Henri Rossetti)に売却。
  • 1974年9月 - 石油ショックの影響から、ロゼッティの友人であるレイネ・レイマーに残り49%の株式を売却し、創業者フェルッチオ・ランボルギーニの手から離れる。
  • 1978年4月 - BMWから委託されていたM1の生産の遅れから契約を破棄され倒産。イタリア政府の管理下に置かれる。
  • 1981年 - フランスの実業家パトリック・ミムランが250万ドルで購入。
  • 1987年 - クライスラー傘下となる。
  • 1993年10月 - インドネシアの新興財閥であるSedtcoグループのメガテックに譲渡。
  • 1999年 - アウディ傘下となる。アウディ・グループの意向でそれまでドイツのフィアットAGに在籍していたシュテファン・ヴィンケルマン (英語版)がCEOに就任。ガヤルドやムルシエラゴのデザインをルク・ドンカーヴォルケ(今は、スペインの自動車メーカーセアトに在籍している)が手がけた。以降は、アウディ・グループ内のデザイン部門主任、ワルテル・デ・シルヴァが務める。
  • 2013年 - ランボルギーニ創立50周年。記念イベントとして、ミラノからローマ、そして本拠地へと戻るパレード「グランデ・ジロ」を開催した。同パレードのため、世界各地からミラノに350台にも及ぶランボルギーニが集結したという。
  • 2016年3月 - スクーデリア・フェラーリの元チーム代表・ステファノ・ドメニカリがCEOに就任。
  • 2020年12月 - ステファノ・ドメニカリに代わり、ブガッティ・オトモビル代表のステファン・ヴィンケルマンがCEOを兼任[2]

販売

2006年の総納車台数は2,087台、2007年では2,580台、2015年の年間世界販売台数が3,245台だった。

日本での販売

現在の正規輸入販売はアウディ・ジャパンの事業部として2001年に設立された「ランボルギーニ・ジャパン」(Automobili Lamborghini Japan東京都世田谷区)が行っている。ランボルギーニ・ジャパンの設立以降は本格的に正規ディーラー網を整備し、サービス品質の向上や全店統一CIの導入などにより、日本でのブランド再構築を進めている。

2006年の年間販売台数は、176台(統計資料、JAIA日本自動車輸入組合)。2007年3月には、ランボルギーニ大阪を経営する光岡自動車の顧客情報がインターネット上に公開されてしまう事件が起きた。

日本での正規ディーラー網(2019年現在)

ちなみに、ランボルギーニトラクターも日本国内で販売されており、かつてフェラーリの輸入元であったコーンズの関連会社である株式会社コーンズエージーが販売を行っている。

車種一覧

エンブレムにちなみ、ほとんどが闘牛に関連した車名である。

ディアブロ
ガヤルド
ウラッコ
カウンタック
チェンテナリオ


現行車種

外観 車名 排気量 エンジン 駆動方式 座席数 解説
ウラカン 5.2L V型10気筒 DOHC RWD4WD 2 ドアは横開き
アヴェンタドールS 6.5L V型12気筒DOHC 4WD ドアは跳ね上げ式
アヴェンタドールの次世代モデル
アヴェンタドールSVJ 6.5L V型12気筒DOHC 4WD ドアは跳ね上げ式
ウルス 4.0L V型8気筒 ツインターボ 4WD 4・5 ドアは横開き

ワンオフ

コンセプトカー

コンセプトバイク

  • デザイン90

過去の主な車種

モータースポーツ

かつては創業者のフェルッチオが「レースには出ない」ことを社是としていた。これは「当時のフェラーリがレースを本業として市販車はそのための資金稼ぎと位置づけ、ユーザーをないがしろにしていたことに対し反発したため」「フェルッチオの息子が反対を押し切る形でレースに夢中になっており、刺激しないため」「フェルッチオ自身がレース中の事故により大ケガを負った経験によるもの」など様々な説があったが、会社から正式なアナウンスは出ていない。

F1

クライスラー傘下に入った後の1989年、ラルースチームへのエンジン供給の形で、F1グランプリ参戦を開始した。

1990年に、メキシコで結成されたチーム「グラスF1」向けにF1マシンを含めて製作を行っていた。エントリーが認められたものの、グラスF1設立を提言したメキシコ人の富豪が資金を持ち逃げしたこともあり、資金が底をつき参戦困難となった。これによる参戦キャンセルによる違約金支払を回避するために、ランボルギーニが実質的なワークス・チーム、モデナに再編成して参戦した。しかし、マウロ・フォルギエリが設計したマシンは時代遅れもはなはだしいもので、目立った成績をあげることはなく、同年に撤退した。エンジンのレイアウトはV12で、独特な高音の排気音であり、それについては同じV12エンジンを搭載したフェラーリへの評価を上回るものだった。

1993年にはエンジンを再設計し大幅にパワーアップ(親会社のクライスラー名義)、翌年のエンジン供給を考慮して、コスワース HBエンジンの非力さに苦しみ、ルノーエンジンに匹敵するパワーのあるエンジンを求めていたマクラーレンがテストを実施したものの[3] 、マクラーレンはプジョーとの提携を選び、この結果ランボルギーニはF1を去ることとなった。テストでステアリングを握ったのはミカ・ハッキネンで、同時に彼がランボルギーニエンジン搭載車の最後のドライバーとなっている。

なお鈴木亜久里日本グランプリで日本人としてはじめて3位入賞を飾ったローラ・LC90もランボルギーニ製ユニットを搭載していた。

供給したチーム

SUPER GT

SUPER GTには、JLOC(Japan Lamborghini Owner's Club)より、全日本GT選手権の初期から参戦している。当初は漫画家の池沢さとしがドライバーを務めた。参戦時のマシンはカウンタックだったが、1995年2004年にディアブロ、2004年からはムルシエラゴ、2007年からガヤルド、2016年からウラカンにて参戦している。これにランボルギーニも全面的に協力しており、このレースのためにディアブロ以降のマシンをワンオフ作成している。2005年からはGT300クラスにエントリーし2006年第1戦にて初優勝した。ランボルギーニがFIAの国際格式レースで優勝したのはこれが初めてのことだった。

スクアドラ・コルセ

ランボルギーニのレース部門である。各国のサーキットを転戦するワンメイクレース「ブランパン・スーパ-・トロフェオ」シリーズは、2009年にヨーロッパで始まり、2012年にはアジアで、翌年から北米でも開催されている。

ポロ・ストリコ

同社の歴史的モデルに関するレストアや鑑定を行う部門として2015年春に新設。 記念すべき最初のプロジェクトでレストアされたのは、シャシーナンバー「4846」を与えられたグリーンの1971年式「ミウラSV」である。

アーキヴィオ・ストリコ・ランボルギーニ

ポロ・ストリコのアーカイブ専門部署。歴代モデルについて使用されたパーツやその技術に至るまで、全てをデジタル化しアーカイブしている。

アド・ペルソナム

2006年に開始され、2013年から規模を拡張。同社のモデルを個別にカスタマイズしたいという顧客に対応するスタジオである。 ランボルギーニ製造施設内に設置された同スタジオでは、新車購入時にカラーリングやインテリアトリムなどを思い通りに仕上げたいという顧客の要望に応えるため、エキスパートスタッフが個別対応する。

人物

脚注

  1. ^ トニーノ・ランボルギーニ 著、大矢アキオ 訳「「農民のトラクター」がない」『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』光人社、2004年、46-47頁。 
  2. ^ "ランボルギーニ、F1新代表就任のドメニカリ後任を発表。ヴィンケルマン氏がブガッティ社長と兼任へ". autosport web (2020年11月25日). 2020年12月7日閲覧。
  3. ^ ハッキネンのテスト走行中、ルノーエンジンに対抗するため余りにも無理矢理パワーを上げ過ぎたエンジンは、ハッキネン曰く「大爆発」と言われるほどの激しいエンジンブローを起こし大破した。

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ランボルギーニ に関連するメディアがあります。


ランボルギーニ S.p.A. ロードカータイムライン 1963-
タイプ 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3
MR(含ミッドシップ4駆) V12 ミウラ カウンタック ディアブロ ムルシエラゴ アヴェンタドール レヴエルト
イオタ レヴェントン ヴェネーノ チェンテナリオ エッセンツァ シアン カウンタック
V8/V10 シルエット ジャルパ ガヤルド ウラカン
2+2 ウラッコ
FR GT 350GT
2+2 400GT イスレロ ハラマ
エスパーダ
クロスカントリー4WD
SUV
LM002 ウルス
オーナー
親会社
フェルッチオ・ランボルギーニ ロセッティ、
レイマー
イタリア政府管理下 ミムラン クライスラー メガテック Vパワー アウディ
試作レーシングカー: ランボルギーニ・イオタ(1969)、ランボルギーニ・ハラマRS(1973)、ランボルギーニ・ウラッコ・ラリー(1973)
コンセプトカー: ランボルギーニ・エストーケ(2008)、ランボルギーニ・エゴイスタ(2013)、ランボルギーニ・アステリオン(2014)、ランボルギーニ・テルツォ ミッレニオ(2017)
人物: フェルッチオ・ランボルギーニジャンパオロ・ダラーラマルチェロ・ガンディーニパオロ・スタンツァーニ
公式WEBサイト: Automobili Lamborghini Holding Spa

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /