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: 通算本塁打数歴代5位、通算打点数歴代6位、通算サヨナラ本塁打歴代1位、通算死球数・三振数歴代1位。
: 通算本塁打数歴代5位、通算打点数歴代6位、通算サヨナラ本塁打歴代1位、通算死球数・三振数歴代1位。
* [[前田智徳]]<ref>「[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09september/KFullNormal20090901001.html 【9月1日】2007年(平19)前田智徳、打たないわけにはいかなかった2000本安打]」 『[[スポーツニッポン]]』、2009年12月22日閲覧。</ref>
* [[前田智徳]]<ref>「[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09september/KFullNormal20090901001.html 【9月1日】2007年(平19)前田智徳、打たないわけにはいかなかった2000本安打]」 『[[スポーツニッポン]]』、2009年12月22日閲覧。</ref>
: 通算2119安打。規定打席を満たしたシーズン打率3割以上を通算11回達成しているにもかかわらず(削除) 、 (削除ここまで)首位打者経験がない選手。ベストナイン(削除) (4 (削除ここまで)(削除) ) (削除ここまで)、ゴールデングラブ賞(削除) (4 (削除ここまで)(削除) ) (削除ここまで)を獲得している。
: 通算2119安打。規定打席を満たしたシーズン打率3割以上を通算11回達成しているにもかかわらず首位打者経験がない選手。ベストナイン(追記) 4 (追記ここまで)回、ゴールデングラブ賞(追記) 4 (追記ここまで)回を獲得している。
* [[高橋由伸]]
: 通算本塁打数321、通算安打1753、通算打点986。規定打席を満たしたシーズン打率3割以上を通算7回達成しているにもかかわらず首位打者経験がない選手。また[[2007年]]にはこの年の本塁打王の[[村田修一]]に1本差で敗れ本塁打王のタイトルも逃している。
* [[立浪和義]]
: 通算安打2480を記録している。2000本安打を達成しながらタイトル獲得経験がない選手。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞5回(二塁手3回、三塁手1回、遊撃手1回)を受賞している。


=== 大相撲 ===
=== 大相撲 ===

2015年11月7日 (土) 02:31時点における版

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無冠の帝王(むかんのていおう、英:uncrowned monarchもしくはa king without a crown[1] [リンク切れ ][2] )とは、 特定の分野で第一人者の実力を有しながら、大きなタイトルを獲得できない人を指す言葉[3]

概要

特別な地位や肩書きをもっていないが、実質的な実力を備えている人[4] という意味もあり、「無冠の帝王」とほぼ同じ意味で、儒教では孔子を「素王」と呼ぶ[5] 。後半生に渡って貴い地位には縁が無かった孔子を、帝王の徳を持つが帝王の冠を持たない人としてたたえている(同様のことばは道教にもある)。しかし、実際には孔子は幾度も仕官を求め、時には成り上がり者の陽虎(陽貨)のような、儒家・儒教の道徳上では好ましくない人物に出仕しようとした(『論語』陽貨篇)こともあったのである。

元々は新聞記者を指した表現[要出典 ]。これは、新聞記者は特に地位や権力を有しているわけではないが、決して圧力に屈することなく、世論を武器に権力者に対抗するという意味から名付けられたものである。

現在では、相当の実力を持ちながらも、その実力に相応しい賞やタイトルを獲得できていない人物を指す言葉となっている。多くの分野で用いられるが、特にスポーツ選手の実力を賞賛するために使われる例が多い。一方で、肝心なところで勝負強さを発揮できず、賞を取り逃していることから、やや揶揄的な意味を込めて使われることもある。

無冠の帝王となった(なっていた)人物・団体

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(2014年11月)

ボクシング

スキー

ワールドカップ歴代3位の通算36勝、史上最多の表彰台数、総合優勝2年連続2回、世界選手権個人金メダル2、スキージャンプ週間総合優勝5度などの成績を誇りながらオリンピックの個人メダルには最後まで縁がなかった。
ワールドカップ史上最多の46勝、総合優勝4連覇などの快挙を成し遂げながらアホネン同様オリンピック個人のメダルには縁がなく、世界選手権の金メダルも2007年ノルディックスキー世界選手権での1つのみである。
ワールドカップ日本人最多タイの16勝(2014年1月11日の大会では、史上最年長優勝〈41歳7ヶ月〉も果たした)、最多の表彰台などを誇りながら五輪、ノルディックスキー世界選手権とも個人の金メダルには至っていない(スキーフライング世界選手権での金メダル獲得はある。五輪では2014年ソチで銀メダルを獲得した)。
ワールドカップ日本人最多の10勝[6] (2007-08シーズンには日本人初の総合優勝を成し遂げた)、フリースタイルスキー世界選手権では2009年猪苗代大会で2個の金メダルを獲得しながら、五輪では最後までメダルに縁がなかった。ただし、出場した五輪全てに入賞し、しかも一度も順位を落とさなかった点は特筆される(7位〔1998年長野〕→6位〔2002年ソルトレイク〕→5位〔2006年トリノ〕→4位〔2010年バンクーバー,2014年ソチ〕)。

サッカー

ブンデスリーガ等ドイツ国内以外の主要タイトルを取ったことがない。ワールドカップチャンピオンズリーグ欧州選手権の最高成績はいずれも準優勝。
広島時代の2008年にゼロックス杯J2リーグを制しているものの、J1リーグ戦2位が1回、Jリーグ杯準優勝2回、天皇杯準優勝1回と国内3大タイトルは1つも獲得したことがない。
多くのスター選手を輩出する強豪として、国際大会で度々優勝候補に挙げられながら、主要大会でのタイトルはユーロ88のみ。特にFIFAワールドカップにおいては、3度決勝に進出しながらいずれも敗れ優勝を逃している。また、FIFAランキング1位にランクインした7か国のうち唯一ワールドカップ優勝がない。
1998年までにJリーグに参入した18クラブの中で、国内3大タイトルを1度も獲得していない4クラブのうちの一つ(他の三つはアビスパ福岡ヴィッセル神戸コンサドーレ札幌)。天皇杯では3度決勝に進出し、リーグ戦でも2度最終節を首位で迎えながらいずれも敗れタイトルを逃している。

野球

通算本塁打数331、通算安打2095を記録している。
通算本塁打数歴代5位、通算打点数歴代6位、通算サヨナラ本塁打歴代1位、通算死球数・三振数歴代1位。
通算2119安打。規定打席を満たしたシーズン打率3割以上を通算11回達成しているにもかかわらず首位打者経験がない選手。ベストナイン4回、ゴールデングラブ賞4回を獲得している。
通算本塁打数321、通算安打1753、通算打点986。規定打席を満たしたシーズン打率3割以上を通算7回達成しているにもかかわらず首位打者経験がない選手。また2007年にはこの年の本塁打王の村田修一に1本差で敗れ本塁打王のタイトルも逃している。
通算安打2480を記録している。2000本安打を達成しながらタイトル獲得経験がない選手。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞5回(二塁手3回、三塁手1回、遊撃手1回)を受賞している。

大相撲

春秋園事件により日本相撲協会を一時脱退したが、1933年 1月場所に幕内格で帰参。「別席」で地位が明記されていなかったが、この場所11戦全勝で初優勝を果たし、NHKの相撲中継アナウンサーとして名を馳せた山本照から「無冠の帝王」と称された[9] 。翌1934年1月場所西関脇の地位でも優勝(9勝2敗)を果たし、その後第34代横綱となった。
2015年1月場所終了時点で、優勝次点8回、三賞受賞9回(殊勲賞5回,敢闘賞3回,技能賞1回)。また横綱白鵬翔に強く、現役力士で唯一、金星を白鵬から2個挙げている[10] 他、白鵬の連勝記録を63連勝で止めた一番(2010年11月場所)を初め、白鵬の20連勝以上の記録7回のうち3回を止めている(詳細は、白鵬翔#主な成績を参照)。にもかかわらず幕内最高優勝は未だに果たせていない(優勝決定戦も未経験)。また、自身の優勝経験も幕下時代の1回(2004年1月場所)のみである。
第60代横綱。恵まれた体格と素質を活かし順調に出世し1986年7月には直前2場所準優勝2回で優勝経験なしで若くして横綱に昇進した。しかし将来を嘱望されたが昇進後も準優勝や決定戦は何度か経験したものの優勝にはあと一歩で届かない場所が続き、1987年の年末に親方との対立から部屋を脱走し24歳の若さで角界を去った。当時は千代の富士の全盛期であり彼が圧倒的な強さを誇っていたがその中でも対千代の富士戦は6勝8敗、横綱昇進後は2勝3敗とほぼ互角であり千代の富士に対抗し得る唯一の存在であったことは間違いない。ただそれだけの実力を持ち、元横綱でありながらも幕内優勝経験は1度も無い。ちなみに元横綱で優勝経験がないのは彼だけである。
東京農業大学から鳴り物入りで幕下10枚目格付出で角界入り。所要3場所で十両昇進、十両でも全勝優勝し所要5場所で入幕、所要12場所で大関に昇進しすぐにも横綱と期待されたが、大鵬の全盛期とも重なり、13勝・12勝が各4回ありながら幕内最高優勝は果たせなかった(優勝決定戦も未経験)。

テニス

男子テニスではオープン化後以降唯一のグランドスラム優勝経験無しの世界ランキング1位在位者。
全盛期にウィンブルドン選手権で3度決勝に進むもいずれも敗れ準優勝。また世界ランクも2位が最高だった。2001年ウィンブルドン、ワイルドカードから決勝に進出し、決勝でパトリック・ラフターを下して悲願のグランドスラム初優勝を果たし、ようやく無冠の帝王の名を返上した。
世界ランキング1位に67週在位しながら一度もグランドスラム優勝がない

モータースポーツ

F1
1955年から1958年まで4年連続ランキング2位、1959年から1961年に3年連続ランキング3位と、7年連続でランキング3位以内に入るも、チャンピオン獲得はとうとう実現しなかった。1956年に3ポイント差、1958年には1ポイント差、1959年には5.5ポイント差と、僅差でチャンピオンを逃し2位に甘んじることもしばしばであった。通算16勝の記録は、チャンピオンを獲得しなかったドライバー中最多である。
1992年のチャンピオンではあるが、それまでに1986年・1987年・1991年と計3度、惜しいところでチャンピオンを逃した。アラン・プロストネルソン・ピケアイルトン・セナと共に「四強」と称されたが、他の3人が初のチャンピオンを20代半ばで獲得しかつ通算で3回以上チャンピオンを獲得したのに対し、チャンピオン獲得は1度だけで38歳の時であった。
WRC
1970年代から長年トップチームで活躍したが、1度もドライバーズタイトルを獲得できなかった。特に1986年は、1度タイトルを決めた14日後、多くの問題が起こったイタリアのサンレモラリーが無効となったため、ここで優勝していながらその分のポイントを失い、ユハ・カンクネンに破れた。ちなみに、1978年にはFIAドライバーカップを獲得しているが、WRCにドライバーズチャンピオンシップが始まったのは1979年なので、正式なチャンピオンではない。
NASCAR
30年以上のキャリアを持ち、最高峰のスプリントカップ・シリーズでは年間2位を5度獲得しているが、シリーズチャンピオンは獲得していない。スプリント・オールスターレースといった大きなイベントでの優勝経験を持ち、ネイションワイド・シリーズでは歴代2位となる通算49勝を挙げている。また、偉大なNASCARドライバー50人にも選出された。

プロレス

ともに抜群の実力を持ちながら、NWA王座などのビッグタイトルには縁がなかった。しかしこれは、彼らがストロングスタイル(ゴッチ)、ブロディ革命といった独自の価値観を貫き、あえて当時のプロレス界の大勢に順応する道を選ばなかった結果でもある。
新日の最高峰・IWGPヘビー級王座は獲得しているが、いずれも戴冠は1度のみで王座防衛もならず(蝶野は初防衛戦を前に怪我のため王座返上)。
G1クライマックスは1度、NEW JAPAN CUPは3度も制しているが、IWGPヘビー級王座は1度も戴冠したことがない(計7度挑戦)。
デンジャラス・クイーン」の異名を持ち、ジャパン・グランプリ優勝やWCW世界女子王座オールパシフィック王座を獲得しているが、若手時代に負った首の骨折の影響もあって全女の最高峰・WWWA世界シングル王座(赤いベルト)には最後まで手が届かなかった。

K-1

同時期に四天王と呼ばれたアーネスト・ホーストアンディ・フグピーター・アーツの中で唯一チャンピオンになることができなかった。
K-1ではWGPでの優勝がない。

競艇

通算優勝50回・GIレース8度の優勝を誇りながら、艇界最高峰のSGは実に19回も優勝戦に進んでいるが制していない。

競輪

GI(特別競輪)優勝戦で2着6回、3着2回の実績がありながらとうとう優勝まで手に届かず。但し、新人王戦では優勝歴がある。
現在、日本人選手としてオリンピック世界自転車選手権を通じても唯一のケイリン世界王者経験者だが、国内の競輪のタイトルはGIはおろかGIIも皆無。

オートレース

第7回全国地区対抗戦・A級を制したことはあるが、SGは未だに手にしていない。
あと一歩のところでタイトルに手が届かなかったが、1991年 4月29日飯塚で開催された10回オールスターを制してSGウィナーの仲間入りを果たしている。

陸上競技

長距離

モスクワオリンピック 10,000m代表に選ばれるなど、1980年代に日本のトップクラスとして活動したが、フルマラソンでは「サブ10」(2時間10分以内)の自己ベストを記録しながら24回の出場で優勝は一度もなかった。引退レースとなった1991年のボストンマラソンでは選手紹介に「おそらく、いまだ勝っていない選手の中では世界最高のランナー」と記された[11]
大学4年間を通じて三大駅伝(出雲駅伝全日本大学駅伝箱根駅伝)のすべてに出場したものの、区間賞を一度も獲得することができなかった。ただし、4年次の箱根駅伝を除いてすべて区間5位以内で快走している。
フルマラソン15戦10勝(詳細は瀬古利彦#主な記録・成績を参照)、また数々の日本人記録,アジア記録(20,000m,25,000m,30,000mのように未だに破られていない種目もある)を樹立しながら、出場した2度のオリンピックでは入賞すら果たせなかった(ロサンゼルスオリンピック (1984年)で14位、ソウルオリンピックで9位)。同時代のランナーから「世界最強」と称賛されることも多く[12] 山下泰裕高田裕司長崎宏子長義和らとともにモスクワオリンピックボイコットの影響を受けた選手として、しばしば取り上げられている(同様の指摘は、高橋進〔元日本陸連理事〕もしている)。

スプリンター

かつて100m走の世界記録を保持していたが、オリンピック・世界選手権とも同種目で金メダルは獲得していない(オリンピックに至ってはメダルすらない)。
たびたび優勝候補に挙げられながら、オリンピックや世界選手権で3位が多かったため「ブロンズコレクター」と呼ばれた。

競泳

1947年1949年にかけて自由形の中距離種目(400m、800m、1500m)で世界新記録を樹立、日本選手権のみならず全米選手権を制覇しながら、唯一出場したヘルシンキオリンピックでは8位に終わった。これは、全盛期にロンドンオリンピックに参加できなかった事(敗戦国であった日本やドイツは参加を許されなかった)や1950年の南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し本来の力を発揮できなかった事が影響している(但し、ライバルだった橋爪四郎は、ヘルシンキオリンピックで銀メダルを獲得している)。

柔道

78kg超級。世界ジュニアでは2大会連続で金メダルを獲得した。しかし、オリンピックでは地元で開催されたロンドンオリンピックで銅、世界柔道選手権では銀メダル5個、銅メダル2個と世界大会で計8個のメダルを獲得するが、結局一度も優勝することはできなかった[13]
重量級。オリンピックでは銀と銅の2個、世界選手権では銀3個と銅2個と世界大会で計7個のメダルを獲得するものの、結局一度も優勝することはできなかった[14]
72kg級。オリンピックでは銀が2個(公開競技の銅を含めれば3個)、世界選手権では銀2個と銅2個と世界大会で計6個(公開競技を含めて7個)のメダルを獲得するが、結局一度も優勝することはできなかった[15]
100kg超級。オリンピックでは銀と銅の2個、世界選手権では銀2個と銅2個と世界大会で計6個のメダルを獲得するが、結局一度も優勝することはできなかった[16]
52kg級と57kg級。美人選手として有名だが、オリンピックには3度出場しながらメダルを獲得できず、世界選手権では銀4個、銅1個と計5個のメダルを獲得するが、結局一度も優勝には至らない[17] [18]
78kg級と90kg級。国際大会47連勝を記録し、世界選手権でも銅メダルを獲得したが、オリンピックには出場すら果たせなかった[19] [20]

囲碁・将棋

竜王名人棋聖棋王(2回)、王将への計6回タイトルへの挑戦経験があるが、全て獲得に失敗。タイトル戦登場6回はタイトル獲得歴がない将棋棋士では最多で、福崎文吾中村修広瀬章人三浦弘行などタイトル獲得歴があってもタイトル戦登場6回未満の棋士もいる。
2002年に初タイトルである名人を獲得するまでは、何度も非タイトル戦の棋戦優勝経験はあったが、タイトル獲得がなかったため、「無冠の帝王」と呼ばれていた(名人獲得後は数々のタイトルを獲得し、かつての呼び名は払拭)。
女流タイトル戦に6回挑戦(女流棋聖1回・女流本因坊2回・女流名人3回)するが何れも獲得に失敗、挑戦相手は梅沢由香里に1回・謝依旻に5回挑むが失敗。しかし2013年 11月27日、7回目のタイトル挑戦となった第32期女流本因坊戦において因縁の謝を3勝2敗のフルセットで下し、遂に念願の初タイトルを獲得して汚名返上。

エンターテインメント

M-1グランプリの決勝戦に進出した芸人にはキャッチフレーズがつけられる。その中で、第1回大会の決勝戦に進出したDonDokoDonに付けられたキャッチフレーズは「無冠の帝王」であった。これは、DonDokoDonが当時、全国的な知名度があったにもかかわらず、各賞レースなどでは一度も賞を獲ったことが無いことから来ている(但し、爆笑オンエアバトル チャンピオン大会において、初代チャンピオンとなっている)。
爆笑オンエアバトルで歴代最多のオーバー500獲得回数記録を樹立するも、その爆笑オンエアバトル チャンピオン大会では成績が振るわないことが多く、その他の大きな賞を受賞したことがなかったため言われ続けていたが、2009年にM-1グランプリ、2011年にTHE MANZAIでチャンピオンとなり、名実ともに「無冠の帝王」から脱却した。
M-1グランプリファイナリスト4回(2005年の6位が最高)、THE MANZAIファイナリスト3回(2012年,2013年の2位が最高)という実績ながら、両方とも制覇していない。2010年に第5回BGO上方笑演芸大賞を受賞するまでは、大賞の受賞歴はなかった(優秀賞やABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞(2004年)などの受賞歴はあった)。

文壇

1999年に『無情の世界』で野間文芸新人賞を受賞しているが、文壇での高い評価を得ながらも長らく他の主要な文学賞の受賞がなかったため「無冠の帝王」と呼ばれていた。2003年に『シンセミア』で伊藤整文学賞毎日出版文化賞を受賞。2005年に『グランド・フィナーレ』で芥川龍之介賞を受賞し無冠を返上する。
あまりに賞に無縁なことから自称していたが、1994年に『さぎ師たちの空』で路傍の石文学賞を受賞した。

フィクション作品

脚注

  1. ^ スペースアルク英語表現事典 ことわざ・慣用句集
  2. ^ 英語教材エブリデイイングリッシュ ことわざ・慣用句・言い回し集
  3. ^ 国語辞書 - goo辞書
  4. ^ 国語辞書 - goo辞書
  5. ^ 国語辞書 - goo辞書
  6. ^ ライバルの里谷多英は2勝止まりながら、金メダル(1998年長野)、銅メダル(2002年ソルトレイク)を獲得している。
  7. ^ 森祇晶氏「常勝球団の4番、それがタイトル」nikkansports.com 2015年9月14日閲覧。
  8. ^ 【9月1日】2007年(平19)前田智徳、打たないわけにはいかなかった2000本安打」 『スポーツニッポン』、2009年12月22日閲覧。
  9. ^ 東京相撲記者クラブ会友会(1993)、49頁。
  10. ^ 他に、横綱朝青龍からも金星1個を挙げている。
  11. ^ 朝日新聞1991年4月18日
  12. ^ フランク・ショーター(アメリカ,ミュンヘンオリンピック金メダリスト)、スティーブ・ジョーンズ(イギリス、元マラソン世界記録保持者)、ワルデマール・チェルピンスキー(東ドイツ,モントリオールオリンピック,モスクワオリンピックでマラソン連覇)らがコメントしている。瀬古利彦#エピソード参照。
  13. ^ listes des judokas
  14. ^ listes des judokas
  15. ^ listes des judokas
  16. ^ listes des judokas
  17. ^ listes des judokas
  18. ^ 発掘! 海外の美女アスリート
  19. ^ listes des judokas
  20. ^ ユン・ドンシク | 選手名鑑

関連項目

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