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{{複数の問題
{{POV}}
| 出典の明記 = 2020年5月
'''場の空気'''(ばのくうき)とは、[[コミュニケーション]]の場において、言語では明示的に表現されていない諸要素のこと。「場の」はつけず、ただ「'''空気'''」と表現されることも多い。
| 独自研究 = 2020年5月
}}
'''場の空気'''(ばのくうき)とは、日本における、その場の様子や社会的[[雰囲気]]を表す言葉<ref>林四郎ほか「例解新国語辞典第六版」2002年1月 「空気(くうき)」の項の2</ref>。とくに[[コミュニケーション]]の場において、対人関係や[[社会集団]]の状況における情緒的関係や[[力関係]]、[[利害関係]]など言語では明示的に表現されていない(もしくは表現が忌避されている)関係性の諸要素のことなどを示す[[日本語]]の慣用句である。近年の日本社会においては、いわゆる「[[KY語]]」と称する[[俗語]]が[[流行語]]となって以来、様々な意味を込めて用いられるようになっている。


「場の」はつけず、ただ「'''空気'''」と表現されることもある。
==概要==
現在では、集団や個々人の心情・気分、あるいは集団の置かれている状況を指すことが多いが<ref> 福田健『「場の空気」が読める人、読めない人―「気まずさ解消」のコミュニケーション術』2006年 PHP研究所, ISBN 4569654657 での「場の空気」の定義におおむね沿ったもの</ref>、人によって指し示す範囲は若干異なる。


== 概要 ==
書籍としての初出は[[山本七平]]の著『「空気」の研究』([[1977年]])である<ref>山本七平『「空気」の研究』文藝春秋、1977年。</ref>。
現在では、[[集団]]や個々人の[[心情]]・[[気分]]、あるいは集団の置かれている状況を指すことが多いが<ref group="注釈">{{harv|福田健|2006}}での「場の空気」の定義におおむね沿ったもの</ref>、人によって指し示す範囲は若干異なる。[[社会心理学]]では「場の空気」が起こす[[集団思考|集団心理]]の危険性に着目することが多く、ビジネス等では逆にコミュニケーション能力として肯定的に解釈することが多い。
<!--{{要出典}}もとは漫才やコントなどをやる芸人が使う業界用語だと主張する者もいる。--><!--最初に言い出した芸人は誰か、番組名、放送日時を明記せよ-->
<!--{{要出典}} 「空気を読め」という用法で、「客の反応などに応じて、うまく笑わせたり盛り上げたりしろ」といったような意味であった。
しかし時代が進みTVでバラエティー番組やお笑い番組が増え、楽屋裏の事情などを見せて笑いを取ったりする番組(番組名を特定せよ)が増えると、一般人もこれの影響を受けて、冗談半分で「空気を読め」などとこの言葉を使用するようになった。 ←左のような説明をしている書籍名を明示せよ-->


「空気」をある種の時代の気分や[[流行]]、[[文化]]や考え方の比喩として使用する例は古くからあり、[[夏目漱石]]は『[[三四郎]]』予告で「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入つた三四郎が新しい空気に触れる」と記している<ref>「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入つた三四郎が新しい空気に触れる、さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して色々に動いて来る、手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈である、あとは人間が勝手に泳いで、自ら波乱が出来るだらうと思ふ、さうかうしてゐるうちに読者も作者も此空気にかぶれて此等の人間を知る様になる事と信ずる、もしかぶれ甲斐のしない空気で、知り栄のしない人間であつたら御互に不運と諦めるより仕方がない、たゞ尋常である、摩訶不思議は書けない。」岩波版漱石全集1993.12</ref><ref group="注釈">対象に含まれる精神([[アリア]])、あるいは卑近にその場面を支配する雰囲気を表現する主旨でのairの用法は英語にもあり、例えば1800年代の書籍には "Blackstone, a celebrated commentator on the laws of England, he it was, who first gave to the law <ins>the air of science</ins>." あるいは "(the) vulgar air and attitude・・"といった用例が見られる(RECOLLECTIONS OF CURRAN AND SOME OF HIS COTEMPORARIES. (CHARLES PHILLIPS, 1818))。</ref>。
'''場の空気を読む'''、すなわち場の空気を意識することは[[暗黙知]]であり、[[心理学]]ではこのような能力を「社会的知能(ソーシャル・インテリジェンス)」と呼んでいる<ref>内藤誼人『「場の空気」を読む技術』サンマーク出版, 2004年, ISBN 4763195948 p.36</ref>。そのような能力は「[[EQ]]」([[情動指数]]、[[心の知能指数]])という呼び方でも知られている。特に対人心理学では、このようなコミュニケーション上の機微を習得可能なもの(=技能)として捉え、[[社会技能]]と呼ぶ。つまり、対人心理学においては、対人関係の巧拙を生得的なもの(=性格)としては捉えない。
<!--{{要出典}}古今東西を問わず場の空気を読むということはどのような人であれ人間関係を維持する上である程度は要求されることであり、一定のスキルを身につけることが望ましいとされる。ただし、後述のごとく批判的にとらえる人もいる。-->


[[山本七平]]が著した『[[「空気」の研究]]』では、社会心理学の観点から場の空気を捉え、[[三菱重工爆破事件]]、[[坊ノ岬沖海戦]]、[[日中戦争]]の本格化、[[西南戦争]]などで「空気の一方向支配」を具体的に挙げている{{sfn|山本七平|1977|p=12-20, p.47-54}}。集団内に蔓延する空気支配によって、意思決定が歪み、誤った方向へ事態が進むことを危惧・問題提起し、「水を差す」ことの重要性を提示した{{sfn|山本七平|1977}}。
日本特有の事象だ、とする人もいる{{要出典}}。


場の空気を読む、すなわち場の空気を意識することは[[暗黙知]]であり、[[心理学]]ではこのような能力を「社会的知能(ソーシャル・インテリジェンス)」と呼んでいる{{sfn|内藤誼人|2004|p=36}}としている。そのような能力は「[[心の知能指数|EQ]]」(情動指数、心の知能指数)という呼び方でも知られ、習得可能なもの(=技能)として捉え、[[社会技能]]と呼んでいる。つまり、対人心理学においては、対人関係の巧拙を生得的なもの(=性格)としては捉えない。
[[2007年]]には、「空気を読めない」を略して'''[[KY語|KY]]'''という言葉がマスメディアで取り上げられる様になり、同年の[[新語・流行語大賞]]にもノミネートされた。<ref>ユーキャン新語・流行語大賞公式サイト http://singo.jiyu.co.jp/ 2007年度候補語解説</ref>


また場の空気を読むことがすなわち協調であると考える者も多く、ある側面において日本特有の事象であるとする説もある。[[場の空気#冷泉彰彦による空気の分類・分析と問題改善の提案|(下記参照)]]
== 場の空気を「読む」とは ==
大きく分類すれば次の4つの要素からなる、ともされる<ref>内藤誼人『「場の空気」を読む技術』p.36-38</ref>。
1. まず状況を把握する
2. 言うべき相手を確認する
3. 適切な言葉を選ぶ
4. 適切なタイミングを選ぶ。


[[2007年]]には、「空気を読めない」<ref>KYは[[wikt:否定|否定]]形(読めない)だけではなく、「空気(を)読め」など、空気を読むことをお願いする言い方の略ともされる場合がある。</ref>を略して'''[[KY語|KY]]'''という言葉が一部のマスメディアで取り上げられる様になり、同年の[[新語・流行語大賞]]候補にもなった<ref>[http://singo.jiyu.co.jp/ ユーキャン新語・流行語大賞公式サイト] 2007年度候補語解説</ref>。
===相手の表情から気持ちを読むこと===
「場の空気を読む」ということは、集団や社会への親和性という面から見れば、周囲の人の反応を意識することと言える。他人の表情や言動と言ったものの中から、自分が何がしかの行動を取ったことへの評価に相当する情報を見つけ出すことである。


== 相手の表情から気持ちを読むこと ==
場の空気を読むことに長ける人は集団への親和性が高くなり、逆に場の空気を読めない人は集団内の人々からの評価が低くなる傾向が見られる。これは日本に限ったことではなく、他の国々でも同様の傾向がある<ref>内藤誼人の前掲書(p.26-27, p.31-32)。同書によると、カナダでの調査およびアメリカでの調査でも「場の空気」を読めない人に対する評価は次第に低くなる、との結果が出ている。 </ref>。
「場の空気を読む」ということは、「顔色を窺う」ことと同義といってもよい。集団や社会への親和性という面から見れば、周囲の人の反応を意識することであり、他人の表情や言動から、自分の行動への評価を見つけ出すことである。


場の空気を読むことに長ける人は集団への親和性が高くなり、逆に場の空気を読めない人は集団内の人々からの評価が低くなる傾向が見られる。これは日本に限ったことではなく、他の国々でも同様の傾向があると思われる<ref group="注釈">{{harv|内藤誼人|2004|p=26-27, p.31-32}}によると、カナダでの調査およびアメリカでの調査でも「場の空気」を読めない人に対する、集団からの評価は次第に低くなる、との結果が出ている。</ref>。
内藤誼人は自著『「場の空気」を読む技術』において、'''顔の表情を読む'''こと、なかでも相手の'''眼を見る'''ことの重要性を強調している。相手の言っていることと相手の表情とが一致しなかったら、表情のほうが相手の真情なのだと気づくことが大切である。例えば相手が「怒っていないよ」と言っている時に怒っている表情をしていたら、相手は怒っていると気づくことが必要なのである<ref>内藤誼人、前掲書 p.40</ref>。


「場の空気」が読めない人は、相手の顔(削除) の表情 (削除ここまで)や眼元の表情を見ないで(削除) 話す傾向がある。 (削除ここまで)うつむきがちに話したり、顔ではないところや、手元の資料を見ながら話す傾向がある。それにより耳から入ってくる言葉にばかり注意が向き、相手の真意・心情を理解し損ねる(削除) のであ (削除ここまで)(削除) <ref> (削除ここまで)内藤誼人(削除) 、前掲書 (削除ここまで)p(削除) . (削除ここまで)41(削除) </ref>、と内藤は述べている (削除ここまで)
(追記) 内藤誼人は自著『「場の空気」を読む技術』において、顔の表情を読むこと、なかでも相手の眼を見ることが重要だとしている。相手の言っていることと相手の表情とが一致しなかったら、表情のほうが相手の真情として優先させるということである。例えば相手が「怒っていないよ」と言っている時に怒っている表情をしていたら、相手は怒っていると捉えることである{{sfn|内藤誼人|2004|p=40}}。 (追記ここまで)「場の空気」が読めない人は、相手の顔や眼元の表情を見ないで(追記) 、 (追記ここまで)うつむきがちに話したり、顔ではないところや、手元の資料を見ながら話す傾向がある。それにより耳から入ってくる言葉にばかり注意が向き、相手の真意・心情を理解し損ね(追記) てい (追記ここまで)(追記) とされ (追記ここまで)(追記) {{sfn| (追記ここまで)内藤誼人(追記) |2004| (追記ここまで)p(追記) = (追記ここまで)41(追記) }} (追記ここまで)
「場の空気を読めない人」というのは、年齢・性別にかかわらず存在しているとされる。


しかしながら、「空気」を読んで理解したはずの相手の真意・心情は、本当にその相手の真情であるとは限らず、当人の勝手な[[先入観]]や[[思い込み]]であることも多い。
場の空気を読むには人の心理を読む必要があるが、その人の基本的なものの見方、考え方、信条などを知るようにし、たとえそれが自分の考え・信条と相容れないものでも理解しようと努めれば、よりうまく読めるようになる<ref>内藤誼人 p.72</ref>。


==(削除) = (削除ここまで)「場の空気」を読んだうえでどのように振舞うか(削除) = (削除ここまで)==
==(追記) (追記ここまで)「場の空気」を読んだうえでどのように振舞うか(追記) (追記ここまで)==
「場の空気を読む」ことと、それを踏まえて「どのように振舞うか」ということは、また別の要素である。無数の主体的な選択肢が、各人の(削除) 技量・ (削除ここまで)[[価値観]]・[[道徳観]]・[[哲学]]・[[人生観]](削除) ・生き様 (削除ここまで)などと呼ばれるものに応じて、その瞬間瞬間に存在している。
「場の空気を読む」ことと、それを踏まえて「どのように振舞うか」ということは、また別の要素である。無数の主体的な選択肢が、各人の[[価値観]]・[[道徳観]]・[[哲学]]・[[人生観]]などと呼ばれるものに応じて、その瞬間瞬間に存在している。


一般(削除) 論 (削除ここまで)(削除) して述べるならば (削除ここまで)(削除) よほど切迫した事 (削除ここまで)(削除) が無い限り、 (削除ここまで)好ましいと感じている反応が(削除) 相手の表情に (削除ここまで)出たら行動を積極的に行い、否定的な反応が出た場合は、自分が直前に取ったような行動は抑制する(削除) というのが (削除ここまで)(削除) おおむね賢い方法であることは多い。 (削除ここまで)つまり「場の空気」を読んで発言や行動を(削除) 控える、「場の空気」を読んで場に相応しい発言を (削除ここまで)する(削除) 、 (削除ここまで)とい(削除) った振る舞いなど (削除ここまで)である。
一般(追記) 的に「場の空気を読む」 (追記ここまで)(追記) は (追記ここまで)(追記) 相手の表 (追記ここまで)(追記) に (追記ここまで)好ましいと感じている反応が出たら(追記) 、 (追記ここまで)行動を積極的に行い、否定的な反応が出た場合は、自分が直前に取ったような行動は抑制する、つまり「場の空気」を読んで発言や行動を(追記) 左右 (追記ここまで)するとい(追記) うこと (追記ここまで)である。


(削除) だがそのような振る舞いだけでなく (削除ここまで)(削除) もっと (削除ここまで)主体的な振る舞いも存在する。例えば、「場の空気」が"陰鬱"と読ん(削除) で (削除ここまで)自ら(削除) 「 (削除ここまで)(削除) の空気」の主導権 (削除ここまで)(削除) 握り (削除ここまで)明るいものにする、「場の空気」が"いじめ"あるいは"犯罪的"と読んで適切・適法な行動を取る、(削除) あるいは「場の空気」が"自分の身に危険"と読んで早めにその「場」そのものから離れる、等々等々 (削除ここまで)の選択肢も存在(削除) してい (削除ここまで)る。
(追記) また逆に (追記ここまで)、主体的な振る舞いも存在する。例えば、「場の空気」が"陰鬱"と読ん(追記) だら、 (追記ここまで)自ら(追記) その (追記ここまで)場を明るいものにする、「場の空気」が"いじめ"あるいは"犯罪的"と読んで適切・適法な行動を取る、(追記) など (追記ここまで)の選択肢も存在(追記) す (追記ここまで)る。


しかしながら、一般的にはこのような振舞いは、「場をしらけさせる」「空気を読んでいない」とされることが非常に多い。
振舞い方については、各人の技量・[[価値観]]・[[道徳観]]・[[哲学]]・[[人生観]]・生き様に関連することだけあって、唯一の正解があるというわけでもないので、議論が尽きない。
===「場の空気」を読む能力の習得===
一般的には、相手の表情を読んで自分の行為・発言に対する評価に相当する反応を見出す能力は、これに関する[[訓練]]や実地[[体験]]の積み重ねによって伸ばすことができる。通常、このような訓練は主に成長過程で、[[家庭教育]]において極めて自然な形式で行われているので、各家庭ごとの文化的基盤の差の影響を受けやすい。
また成人してから、[[形式知]]のような形で理知的にこれを理解しようという場合は、マナー教育などを通して、学習することも可能である。また、このためのマナー関連の[[ハウツー]]本(マニュアル本)なども多く出回っている。


==(削除) = (削除ここまで)「場の空気を読(削除) めない人」にいかに接するか= (削除ここまで)==
==(追記) (追記ここまで)「場の空気(追記) 」 (追記ここまで)を読(追記) む能力の習得 (追記ここまで)==
この能力は、これに関する[[訓練]]や実地体験の積み重ねによって伸ばすことができる。通常、このような訓練は主に成長過程において極めて自然な形式で行われているので、社会環境の影響を受けやすい。
いわゆる「場の空気を読めない人」と呼ばれる人々の中にも数種類のタイプの人がいる。「場の空気」自体を読めない人と、「場の空気」はおおよそ読めているが適切な振る舞いを思いつかない人や、思いついてもあえて場の空気に即した振る舞いを行わない人がいる。
また成人してから、マナー教育などを通して[[形式知]]として理知的にこれを理解しようとする場合もある。


==「場の空気」を読む危険性==
「場の空気を読めない人」に対して「場の空気を読め」とだけ叱って済ませてしまうことは、決して賢い方法ではない。内藤誼人によると、「場の空気」自体を読めない人は、場の空気に対する自覚が無いことが多いので、単に「場の空気を読め」と叱るよりも、むしろ「さっきはお客様の話に相槌を打つこともせず、書類ばかり見ていたね」といったように具体的なことを伝える方が状況改善、問題改善につながることが多い。指摘のタイミングについても、その場の状況を忘れてしまわないよう早い方が望ましいとしている<ref>内藤誼人、前掲書 p.183-184</ref>。
{{See also|集団思考}}
アーヴィング・ジャニスは、[[ピッグス湾事件]]、[[ベトナム戦争]]の[[トンキン湾事件]]による拡大政策、[[ウォーターゲート事件]]などの事例から、[[アメリカ合衆国大統領]]とその側近がいかに優秀であっても、集団になると馬鹿げた意思決定をしてしまう現象('''集団浅慮''')を分析している。固定的な組織が似通った構成員により作られ、公平なリーダーシップがない状況で、外部から強い圧力を受ける場合、[[全会一致の幻想]]を抱き、他人の勧告や他の情報を意図的に無視し、集団のコンセンサスを逸脱する議論に圧力をかける「全会一致への圧力」が生じるとする。


この結果、閉鎖的な仲の良い集団が、調和を尊重しすぎるあまり、重大な意思決定に際して、不合理な[[リスキーシフト]]を起こす。[[リスキーシフト]]とは集団で討議したのち、意思決定がより危険性の高いものにシフトする心理法則・心理現象を指す<ref>{{Cite journal|和書|author=阿部孝太郎 |title=日本的集団浅慮の研究・要約版 |journal=商學討究 |ISSN=04748638 |publisher=小樽商科大学 |year=2006 |month=dec |volume=57 |issue=2/3 |pages=73-84 |naid=110004856535 |url=https://hdl.handle.net/10252/282}}</ref>。
「場の空気」は読めているものの適切な振る舞いを思いつかない人に対しては、適切な振る舞いの例を言葉で語ったり、具体的に自分でおこなって見せるなどの方法もあるだろう。
また「場の空気」自体は読めて適切な振る舞いも知っているが、あえてそれを実行しない人については、何故そのような態度をとるようになったのか、まずはその人の事情・真情・考え方などを探った上で適切な対処をとるほうがいいこともあろう。あるいは、むしろ反対に、集団内に広まっている考え方や行為を反省、すなわち自己反省すべき場合もあろう。時には「場の空気」を醸し出している側が、適法・適切ではない考え方や行為等をしている場合もあるからである。


== 冷泉彰彦による空気の分類・分析と問題改善の提案 ==
「場の空気を読めない人」への接し方も、振舞い方に関する判断と同様に、技量・[[価値観]]・[[哲学]]・[[人生観]]・[[生き様]]などにかかわることなので、唯一の正解があるわけではなく、やはり議論が尽きない。
[[冷泉彰彦]]は3人以上の場における空気と、二人だけの会話における空気を区別して考察している<!--{{要出典}}猶、冷泉は「空気」を日本人特有のものであるとしている。--><!--{{要出典}}本質主義的に捕らえていることに注意。-->(冷泉は、著書において表現を簡略化するために、3人以上の場合の空気を「場の空気」、二人だけの場合を「関係の空気」と呼び分けているが冷泉以外は基本的にそのような表現を用いていないのでこの名称自体は日本語としては受け入れられていないと考えられるのでここではその用語は控える)。そしておおまかに言えば3人以上の空気に問題が生まれがちで、2人だけの場合の空気は必要なもので肯定されるべきものとといった仮説のもとで書いている。


冷泉は二人の場合の「空気」とは、二人の間、聞き手と話し手の間で共有されている情報のすべてだとする{{sfn|冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」|p=23}}。事前にラーメンについて語っていた二人が、実際にラーメン屋でラーメンを食べた後で「うーむ」とだけ言った場合の例などを分析して、あえて全てを言葉で表現しないで省略することで、もともと二人のあいだに情報を共有しているというメッセージが送れるのだから、共感性や親近感が高まるコミュニケーションとなる、と述べる。また、恋人同士の他愛のない言葉のやりとりの例も挙げ、二人にだけは何を語っているのか明白な状況であえて具体的な話題そのものを口にしないことで互いに親密の度合いを楽しんでいるとし、肯定する{{sfn|冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」|p=30-32}}。
==冷泉彰彦による空気の分類・分析と問題改善の提案==
冷泉彰彦は3人以上の場における空気と、二人だけの会話における空気を区別して考察している。(冷泉は、著書において表現を簡略化するために、3人以上の場合の空気を「場の空気」、二人だけの場合を「関係の空気」と呼び分けているが冷泉以外は基本的にそのような表現を用いていないのでこの名称自体は日本語としては受け入れられていないと考えられるのでここではその用語は控える)。そしておおまかに言えば3人以上の空気に問題が生まれがちで、2人だけの場合の空気は必要なもので肯定されるべきものとといった仮説のもとで書いている。

冷泉は二人の場合の「空気」とは、二人の間、聞き手と話し手の間で共有されている情報のすべてだとする<ref>『「関係の空気」「場の空気」』23頁</ref>。事前にラーメンについて語っていた二人が、実際にラーメン屋でラーメンを食べた後で「うーむ」とだけ言った場合の例などを分析して、あえて全てを言葉で表現しないで省略することで、もともと二人のあいだに情報を共有しているというメッセージが送れるのだから、共感性や親近感が高まるコミュニケーションとなる、と述べる。また、恋人同士の他愛のない言葉のやりとりの例も挙げ、二人にだけは何を語っているのか明白な状況であえて具体的な話題そのものを口にしないことで互いに親密の度合いを楽しんでいるとし、肯定する<ref>『「関係の空気」「場の空気」』30-32頁</ref>。
日本人には言葉の表現スタイルを相手に合わせようとする習性があるとする。日本人は幼児相手には幼児風に話してしまうし、外国人と話す時は無意識のうちに外国人風の不完全な日本語を話したりするし、業界人と話す時は普段使わないような業界用語を使ってしまう、相手が省略語を使うとそれに合わせる省略語を使って省略語を世に氾濫させたりする、とする。それもこれも二人の間で空気を維持したい、親密さを維持したいということなのだとする。この場合の空気は一対一の関係性そのもので、重要な要素であるとし、肯定する。
日本人には言葉の表現スタイルを相手に合わせようとする習性があるとする。日本人は幼児相手には幼児風に話してしまうし、外国人と話す時は無意識のうちに外国人風の不完全な日本語を話したりするし、業界人と話す時は普段使わないような業界用語を使ってしまう、相手が省略語を使うとそれに合わせる省略語を使って省略語を世に氾濫させたりする、とする。それもこれも二人の間で空気を維持したい、親密さを維持したいということなのだとする。この場合の空気は一対一の関係性そのもので、重要な要素であるとし、肯定する。


ただし、関係が維持できているうちはいいのだが、複雑化した現代、人間同士の関係が破綻することは起きるのであって、そのような時には錯綜する利害関係の調整しなければならないが、空気重視、親密さ重視の日本語(日本人の表現スタイル)が事態に追いついていない、日本語の表現スタイル・日本人のコミュニケーションスタイルは「複雑さ」とうまくやってゆく機能が不足していると冷泉は指摘する(削除) <ref>『 (削除ここまで)「関係の空気」「場の空気」(削除) 』 (削除ここまで)61-66(削除) 頁</ref> (削除ここまで)
ただし、関係が維持できているうちはいいのだが、複雑化した現代、人間同士の関係が破綻することは起きるのであって、そのような時には錯綜する利害関係の調整しなければならないが、空気重視、親密さ重視の日本語(日本人の表現スタイル)が事態に追いついていない、日本語の表現スタイル・日本人のコミュニケーションスタイルは「複雑さ」とうまくやってゆく機能が不足していると冷泉は指摘する(追記) {{sfn|冷泉彰彦 (追記ここまで)「関係の空気」「場の空気」(追記) |p= (追記ここまで)61-66(追記) }} (追記ここまで)


冷泉は山本の『空気の研究』で使った「抗空気罪」などの表現に言及した上で、山本の死後も日本の状況は変わっていないと述べ、企業や学校での例を挙げる。3人以上のコミュニケーションでの空気は様々な問題を生んでいると指摘する(削除) <ref>『 (削除ここまで)「関係の空気」「場の空気」(削除) 』 (削除ここまで)120-150(削除) 頁</ref> (削除ここまで)。日本人は、省略表現、指示代名詞、略語、ニックネームなどの一種の暗号を頻繁に用いることで、互いに共通のデコード情報を共有していること、共通の理解があることを確認しあっており、目先の親密さ維持だけを重視するあまり、親密さの表現のスタイルが乱れるだけでもそれに感情的に反応して、「抗空気罪」を適用して断罪するのだ、(削除) とする。 (削除ここまで)そこに問題がある、とする。というのは、一対一の場合ならば、「暗号」が復元できないでも、「"例の件"って何だっけ?」と気軽に聞き返せるのに、3人以上の場では空気を乱したとして顰蹙を買い「抗空気罪」が適用されるため尋ねることもできず、情報の伝達が滞り、聞き手には疎外感が残り、話し手には"分からないやつがいる不快感"が生まれてしまう、とする(削除) <ref>『 (削除ここまで)「関係の空気」「場の空気」(削除) 』 (削除ここまで)157-162(削除) 頁</ref> (削除ここまで)。一対一の時には有益な話法であっても、それが3人以上の会話、公的な場に持ち込まれると、権力を暴走させてしまうことになり合理的な判断や利害調整を妨害し始める、と指摘する(削除) <ref>『 (削除ここまで)「関係の空気」「場の空気」(削除) 』 (削除ここまで)180(削除) 頁</ref> (削除ここまで)
冷泉は山本の『空気の研究』で使った「抗空気罪」などの表現に言及した上で、山本の死後も日本の状況は変わっていないと述べ、企業や学校での例を挙げる。3人以上のコミュニケーションでの空気は様々な問題を生んでいると指摘する(追記) {{sfn|冷泉彰彦 (追記ここまで)「関係の空気」「場の空気」(追記) |p= (追記ここまで)120-150(追記) }} (追記ここまで)。日本人は、省略表現、指示代名詞、略語、ニックネームなどの一種の暗号を頻繁に用いることで、互いに共通のデコード情報を共有していること、共通の理解があることを確認しあっており、目先の親密さ維持だけを重視するあまり、親密さの表現のスタイルが乱れるだけでもそれに感情的に反応して、「抗空気罪」を適用して断罪するのだ、そこに問題がある、とする。というのは、一対一の場合ならば、「暗号」が復元できないでも、「"例の件"って何だっけ?」と気軽に聞き返せるのに、3人以上の場では空気を乱したとして顰蹙を買い「抗空気罪」が適用されるため尋ねることもできず、情報の伝達が滞り、聞き手には疎外感が残り、話し手には"分からないやつがいる不快感"が生まれてしまう、とする(追記) {{sfn|冷泉彰彦 (追記ここまで)「関係の空気」「場の空気」(追記) |p= (追記ここまで)157-162(追記) }} (追記ここまで)。一対一の時には有益な話法であっても、それが3人以上の会話、公的な場に持ち込まれると、権力を暴走させてしまうことになり合理的な判断や利害調整を妨害し始める、と指摘する(追記) {{sfn|冷泉彰彦 (追記ここまで)「関係の空気」「場の空気」(追記) |p= (追記ここまで)180(追記) }} (追記ここまで)
<!--また、冷泉彰彦は、[[2005年]]に行われた[[第44回衆議院議員総選挙]]で[[自由民主党|自民党]]が大勝した原因の一つとして、[[小泉純一郎]][[内閣総理大臣|首相]](当時)が作り出した空気の支配を挙げた(削除) <ref> (削除ここまで)冷泉彰彦(削除) 『 (削除ここまで)「関係の空気」「場の空気」(削除) 』講談社現代新書、2006年、ISBN 4061498444、 (削除ここまで)p(削除) . (削除ここまで)129(削除) 。</ref> (削除ここまで)。-->
<!--また、冷泉彰彦は、[[2005年]]に行われた[[第44回衆議院議員総選挙]]で[[自由民主党|自民党]]が大勝した原因の一つとして、[[小泉純一郎]][[内閣総理大臣|首相]](当時)が作り出した空気の支配を挙げた(追記) {{sfn| (追記ここまで)冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」(追記) | (追記ここまで)p(追記) = (追記ここまで)129(追記) }} (追記ここまで)。-->


そうした問題点を解決するために、日本人はもっと聞き手のことを配慮して、省略表現やニックネームなどの「暗号」の使用を控えて、例外的なメンバーのことも意識しつつ多少冗長であってもいいからものごとをきっちりと言葉で説明するようにすべきだと冷泉は提案する(削除) <ref>『 (削除ここまで)「関係の空気」「場の空気」(削除) 』 (削除ここまで)180-183(削除) 頁</ref> (削除ここまで)。また他にも、慣れ合いを感じさせる語尾を安易に用いず、自分が目上であろうが目下であろうが「です、ます」などの表現を標準表現として積極的に用いるべきことなど、いくつかの提案をしている(削除) <ref>『 (削除ここまで)「関係の空気」「場の空気」(削除) 』 (削除ここまで)180-210(削除) 頁</ref> (削除ここまで)
そうした問題点を解決するために、日本人はもっと聞き手のことを配慮して、省略表現やニックネームなどの「暗号」の使用を控えて、例外的なメンバーのことも意識しつつ多少冗長であってもいいからものごとをきっちりと言葉で説明するようにすべきだと冷泉は提案する(追記) {{sfn|冷泉彰彦 (追記ここまで)「関係の空気」「場の空気」(追記) |p= (追記ここまで)180-183(追記) }} (追記ここまで)。また他にも、慣れ合いを感じさせる語尾を安易に用いず、自分が目上であろうが目下であろうが「です、ます」などの表現を標準表現として積極的に用いるべきことなど、いくつかの提案をしている(追記) {{sfn|冷泉彰彦 (追記ここまで)「関係の空気」「場の空気」(追記) |p= (追記ここまで)180-210(追記) }} (追記ここまで)


==精神医療との兼ね合い==
==(追記) (追記ここまで)精神医療との兼ね合い(追記) (追記ここまで)==
{{出典の明記|section=1|date=2011年9月}}
{{Medical}}
精神医療分野では、社会性に影響のある幾つかの症状も存在する。これらに関係する者は、場の空気に馴染まない傾向も否定出来ない。
精神医療分野では、社会性に影響のある幾つかの症状も存在する。これらに関係する者は、場の空気に馴染まない傾向も否定出来ない。


しかし、これらでは「際立った(削除) [[ (削除ここまで)個性(削除) ]] (削除ここまで)」が「場の空気を乱している」と評される傾向も否定できず、これも前出の「場の空気」という考え方に対する否定論に繋がっている。勿論、周囲の人に迷惑を掛ける個性では困るが、「とりたてて迷惑ではない」程度の個性に関しては寛容になることも重要と言え(削除) よう (削除ここまで)
しかし、これらでは「際立った個性」が「場の空気を乱している」と評される傾向も否定できず、これも前出の「場の空気」という考え方に対する否定論に繋がっている。勿論、周囲の人に迷惑を掛ける個性では困るが、「とりたてて迷惑ではない」程度の個性に関しては寛容になることも重要と言え(追記) る (追記ここまで)

[[精神疾患]]の[[うつ病]]では、過度に干渉すると悪化する危険性も指摘されている。場の空気を盾に無闇に干渉することは、医学上の禁忌である。

===発達障害と「場の空気」===
社会技能は訓練による習得を前提とした概念であるものの、[[広汎性発達障害]]を持つ人物の場合、社会技能の習得が生理的に不可能か、かなりの困難を伴う。即ち、場の空気を読むことができない。これは性格や家庭教育の問題ではなく、脳の先天的な機能([[心の理論]])の欠陥によるものである。但し、これらの発達障害による問題行動は、成長に伴って減少する傾向がある。

===人格障害と「場の空気」===
長期に渡って周囲と円滑なコミュニケーションが営めず、当人がその状態を苦痛と感じる場合、精神医学では[[人格障害]]と診断する。但し、人格障害だから場の空気が読めないのではなく、場の空気が読めないことを本人が苦痛と感じる場合に人格障害と診断されるという点に留意する必要がある。また、人格障害は「広義」の精神疾患であり、一般的な精神疾患のように責任能力の有無に関わる判断材料にはなりえない。

== ネット上のコミュニティにおける場の空気 ==
近年ではコンピュータ通信や[[インターネット]]の発達に伴い、従来には無かった形式の様々なコミュニケーションの形式が生まれたりネット上に様々な[[コミュニティ]]が生まれており、そこにおいても「場の空気」に相当するものが見られることがあるものの、「空気」の位置づけに関しては、それなりに新しい状況も見受けられる。


[[精神疾患]]の[[うつ病]]では、過度に干渉すると悪化する危険性も指摘されている。場の空気を盾に無闇に干渉することは、医学上の[[禁忌 (医学)|禁忌]]である。
インターネット上のコミュニティにおけるコミュニケーションは、現実に人と人が顔を合わせながら直接行うコミュニケーションとは異なり、多くが文字によるコミュニケーションであるため、顔の表情・眼元・声色といった「場の空気」の読解にかかわる重大な非言語的シグナルの大部分が抜け落ちてしまっているので、相手の真情を察することは(直接のコミュニケーションに比べれば)困難なことも多い。


=== 発達障害と「場の空気」 ===
そのため、インターネットネット上のコミュニティでは、メンバー間の感情的衝突の回避などは、「場の空気」ではなくて、管理者や中心的メンバーがルール・ガイドライン・コンセプトなどを文字によって明示的に示すことやその明示的ルールに基づいて強制的に文章を削除する措置によってようやく実現していることも多い。
社会技能は訓練による習得を前提とした概念であるものの、[[広汎性発達障害]]を持つ人物の場合、社会技能の習得が生理的に不可能であったり、著しい困難を伴うことがある。即ち、場の空気を読むことが出来ない。これは性格や家庭教育の問題ではなく、脳の先天的な機能([[心の理論]])の欠陥によるものである。


これらの発達障害による問題行動は、成長に伴って減少する傾向があるが、定型発達者と全く同じ振る舞いが出来るほど改善するケースは、極めて稀である。よって、そうした少数のケースだけにしか目を向けないまま、発達障害の人間に場の空気を読む努力を強いることは、当人に計り知れない精神的な負担をかけ、うつ病や対人恐怖症などの二次障害を引き起こさせてしまう可能性が非常に高い、ということを周囲は認識しておかなければならない。
もっとも、それでもネット上のコミュニティの中にも各コミュニティごとの不文律的なもの、雰囲気、「場の空気」に類似したものをやはり持っていると言われているコミュニティも存在する。明示されたガイドラインなどではなく、「過去[[ログ]]」などの形で残された、過去のやりとりの大量の記録によって、参加者間に「場の空気」に相当する認識・意識が生まれていることもあるのである。<ref>注. ただし、そのログが後発参加者には実際上参照困難である場合などでは、そのような意識が浸透しないこともある。</ref>


原則として、
===関連項目===
* 本人が場の空気を読めないことを「自覚」して受け入れ、周囲に対して心を開くとともに、理解や支援を求める。
*[[ネチケット]]
* 周囲もそれを「言い訳だ」などと切り捨てたり、場の空気を読むことを押し付けたりせず、至らない点があれば、何が良くなかったのかを解りやすく諭すなど、可能な限りそれを受け入れる。
ことが、最も有効である。


=== パーソナリティ障害と「場の空気」 ===
<!-- 以下は出典が欠如した上に、説明が脱線しすぎでしょう。許容範囲を超えている。
長期に渡って周囲と円滑なコミュニケーションが営めず、当人がその状態を苦痛と感じる場合、[[精神医学]]では[[パーソナリティ障害]]と診断する。但し、パーソナリティ障害だから場の空気が読めないのではなく、場の空気が読めないことを本人が苦痛と感じる場合にパーソナリティ障害と診断されるという点に留意する必要がある。また、パーソナリティ障害は「広義」の精神疾患であり、一般的な精神疾患のように責任能力の有無に関わる判断材料にはなりえない。


==インターネット上での「場の空気」==
中にはこのコミュニティを台無しにすることに生き甲斐を見出しているような[[荒らし]]や[[厨房 (ネット用語)|ネット用語の「厨房」]]といった奇妙な行動をみせる個人も存在している。ただこれらの者は「構われる程に喜びを見出す」という性質も多々見られるため、[[コンピュータネットワーク]]の性質上で設けられている[[アクセス禁止]]といった措置が取られることも少なくない。
日本のインターネット上で一部のコミュニケーションにおいては、発言内容をベースにやりとりするというよりも、むしろ互いに発言同士を連鎖させていくことが重視されており、これを[[社会学者]]の[[北田暁大]]は[[つながりの社会性]]と呼んでいる<ref>[[北田暁大]] 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 [[日本放送出版協会]]、2005年、203頁など。ISBN 978-4140910245。</ref>(ネガティヴに作用すると[[ブログ]]の[[炎上 (ネット用語)|炎上]]などを引き起こすことになる<ref>北田暁大「ディスクルス(倫理)の構造転換」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』 [[河出書房新社]]、2010年、159頁。ISBN 978-4309244426。</ref><ref name="ised">[[濱野智史]]「まえがき」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』4頁など。</ref><ref>[[荻上チキ]] 『ネットいじめ――ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」』 [[PHP研究所]]、2008年、236頁。ISBN 978-4569701141。</ref>)。


[[批評家]]・社会学者の[[濱野智史]]は、日本において一部のネットサービス([[2ちゃんねる]]・[[ニコニコ動画]]・[[mixi]]など)の多くはこのような場の空気を読む文化に基づいているとしており<ref>「ポストised、変化したことは何か1」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』461頁。</ref>、他の先進国とは違って、内容ベースの熟議を行う電子公共圏の構築(討議プロセスを含む[[E-デモクラシー|電子民主主義]]の実現)が困難になるなどの弊害が指摘されている<ref name="ised" /><ref>濱野智史 『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』 [[エヌ・ティ・ティ出版]]、2008年、135-136頁。ISBN 978-4757102453。</ref>。他方で、インターネット上でも場の空気を読むことが求められているのは日本の現実世界での[[暗黙のルール]]をオンライン上にも無意識に持ち込んでしまっているからに過ぎず、現代社会の「[[人間関係]]の流動化」が今後も加速していけば(すなわち空気が読めないほどに流動性が上昇すれば)、インターネット上での場の空気にひきずられた[[サイバーカスケード]]的な現象はおさまっていくのではないかという見方もある<ref>「流動化する社会の中で」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』447頁。</ref>。
しかし、アクセス禁止を回避する代替手段があるため、ガイドラインを明示すると共に、より積極的方法で問題ユーザーの対応策が行われる場合もある。また、容認し難い程の揉め事は該当地域の法令に照らし合わせるなどして刑事罰や民事訴訟などの処罰を求める場合もあるが、国境が無いというインターネットの特性上で仕方がないと妥協し放置してしまうという消極的代替手段を用いる必要もある。ただ、場合によっては国際法規、[[基本的人権]]や[[表現の自由]]が保障されていない国の法令で罰せられるケースに発展する場合もあるなど、放置によって発生しうるリスクは大きい。テロリスト関連のデータを放置したために捜索を受けた事件も起こっている。


== 批判 ==
コミュニティで楽しむ場合には、やはり一定の社会技能があったほうが、楽しいことには違いないため、ルールの把握は最低限必要なのだろう。-->
物事の判断が「場の空気」に支配される事象は、古今東西を問わずしばしば見られ、先にも述べたように様々な弊害を引き起こし得る。


山本七平は、例として[[日本軍|旧日本軍]]の[[真珠湾攻撃|対米開戦]]、[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]の[[沖縄県|沖縄]]出撃、[[日中国交回復]]、[[イタイイタイ病]]事件、自動車[[公害]]に関する[[世論]]等を挙げ、細かいデータおよび明確な根拠があるにもかかわらず、科学的根拠の全く無い判断が「空気」によって最終的に決定されたと指摘している。この事象をもって、山本は「それ(空気)は非常に強固で、ほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ[[超能力]]である」と述べた{{sfn|山本七平.「空気」の研究|p=16, 22}}。
==批評==
<!--物事の判断が場の空気に支配される事象は、古今東西を問わずしばしば見られる。{{要出典}}-->
<!--これが行き過ぎた場合、先にも述べたようにさまざまな弊害を引き起こしうる。{{要出典}}-->


[[白田秀彰]]は、学校社会において空気の支配が蔓延していると指摘した。子供たちは場の空気に怯え、設定される[[キャラ (コミュニケーション)|キャラクター]]に戦々恐々としている。学生が新しい「場」に入ったときに、この「場」が強制してくるキャラクターを受け入れ、それを演じうることが「場の空気が読める」ということであり、場が設定したキャラクターを演じつづけられる限りは、彼はそれなりに人気を得たり、居場所を得ることができる<ref>白田秀彰の「インターネットの法と慣習」 意思主義とネット人格・キャラ選択時代:Hotwired [http://hotwired.goo.ne.jp/original/shirata/050607/02.html]</ref>。しかし、彼がこうしたキャラクターを演じるのを放棄した場合は、[[いじめ]]の標的になるか、逃避行動としての[[不登校]]を選ぶことが多い。最近では、日本の高校で[[電子メール]]をめぐる空気の支配が蔓延しており、絵文字がない、極端な短文、返信が少しでも遅いなどといったことがあると「キレてる」「空気が読めない」と思われるのだという。そのため、「そのような風潮になじめない人にとっては大学で初めて個人的自由が得られる」と指摘された([[スクールカースト]]も参照)。
山本七平は、例として[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]の[[沖縄]]出撃を挙げ、出撃は無謀であると判断するに至る細かいデータおよび明確な根拠があるにもかかわらず、明確な根拠の全くない出撃が「空気」によって最終的に決定されたと指摘している。この事象をもって、山本は「それ(空気)は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ超能力である」と述べた<ref>山本七平『「空気」の研究』(文庫版)、文藝春秋、1983年、ISBN 4167306034、p.16, 22。</ref>。


[[劇作家]]の[[鴻上尚史]]は、[[著書]]「"世間"と"空気"」([[講談社]]現代新書)において、「日本人が、[[世間]]を喪失したのが大体[[バブル景気|バブル期]]だ。世間を喪失した現代人は、相手や周囲の顔色を見ながら言動の適否を判断せざるを得ない。空気しか知らない世代が、[[社会人]]になるのが心配だ」と述べている。具体例として、[[子役]]の[[オーディション]]で、[[1980年代]]前半までは、「君の[[学級|クラス]]はどんなクラス?」と聞くことができたという。子供にとっての世間とは、クラスのことであった。しかし、1980年代後半以降、「君のグループはどんなグループ?」と聞かざるを得なくなり、[[21世紀]]に入ってから、その傾向が強まっているとする。KYという語が、既に流行語ではなく、[[世相]]を反映した語だというのである。
<!--近年では、学校社会において空気支配が蔓延しているという指摘もある。
子供たちは場の空気に怯え、設定される[[キャラクター|キャラ]]に戦々恐々としている。学生が新しい「場」に入ったときに、この「場」が強制してくるキャラを受け入れ、それを演じうることが「場の空気が読める」ということであり、設定されたキャラを演じつづけられる限りは、彼はそれなりに人気を得たり、居場所を得ることができる<ref>白田秀彰の「インターネットの法と慣習」 意思主義とネット人格・キャラ選択時代:Hotwired http://hotwired.goo.ne.jp/original/shirata/050607/02.html</ref>。しかし、彼がこうしたキャラを演じるのを放棄した場合は、[[いじめ]]の標的になるか、逃避行動としての[[不登校]]を選ぶことが多い。-->


[[色川大吉]]は、「ある昭和史―自分史の試み」で場の空気を「[[天皇]]を頂点に[[一君万民]]、自分達を超越し利害を調停してくれる絶対者を常に求め、仲間内さえ良かれという社会体制に起因するものであり、日本特有のもの」とした。
<!--最近では、日本の高校で[[メール]]をめぐる空気支配が蔓延しており{{要出典}}、絵文字がない、極端な短文、返信が少しでも遅いなどといったことがあると「キレてる」「空気が読めない」と思われる{{要出典}}。そのため、そのような風潮になじめない人にとっては大学で始めて個人的自由が得られる{{要出典}}という指摘もある。-->


[[集団思考]]の問題については欧米でも複数の報告や研究事例があるが、日本では「[[個人主義]]が未発達の日本」という文脈の上で「場の空気」の論題を日本人論のひとつとして論じられる文書がある。
<!--負の側面もあり、集団内において場の空気を読むことが過度に強調された場合、往々にして個性的な人・考えへの抑圧や、いじめなどの原因にもなりかねない。{{要出典}}-->


==(削除) 関連文献 (削除ここまで)==
==(追記) 脚注 (追記ここまで)==
{{脚注ヘルプ}}
(以下基本的に出版年順)
=== 注釈 ===
*[[山本七平]]『「空気」の研究』文藝春秋、1977年、1983年、ISBN 4163340203 ISBN 4167306034
{{Notelist}}
*鮫肌文殊『空気の壁―空気を読める人読めない人』太田出版 2004年 ISBN 4872338855
=== 出典 ===
*内藤誼人『「場の空気」を読む技術』サンマーク出版、2004年、ISBN 4763195948
{{Reflist|30em}}
*中島 孝志『頭のいい人は「場の空気」が読める!―たった1分で"うまくいく流れ"をつくるノウハウ』青春出版社 2005年 ISBN 441303533X
*横井 暁子『空気の読めない夫たち』ポプラ社 2005年、ISBN 4591089177
*中谷 彰宏『空気を読める人が、成功する。―機転をきかせてチャンスをつかむ50の具体例』ダイヤモンド社 2005年 ISBN 4478703396
*秋庭 道博『1秒で「場の空気」が読めれば、すべてうまくいく―ビジネスや人間関係は、いつもこの能力を見られている! 』 ゴマブックス 2006年、ISBN 4777104850
*上條晴夫『教室の空気を変える!授業導入100のアイデア』たんぽぽ出版、2006年、ISBN 4901364472
*内藤 誼人『空気のよみかた』ベストセラーズ、2006年、ISBN 4584189285
*福田健『「場の空気」が読める人、読めない人―「気まずさ解消」のコミュニケーション術』2006年 PHP研究所, ISBN 4569654657
*和田 秀樹『一瞬で空気を変えるバカ』ビジネス社、2006年、ISBN 4828412573
*冷泉彰彦『「関係の空気」「場の空気」』講談社現代新書、2006年、ISBN 4061498444


== 参考文献 ==
*生活情報研究会『やばい敬語―あぶない会話 気まずい空気』ごま書房、2006年 ISBN 4341083414
(以下基本的に出版年順)<!--実際に引用した文献を記載する-->
*キャスリン スチュワート『アスペルガー症候群と非言語性学習障害―子どもたちとその親のために』2004年 明石書店 ISBN 4750319015
* {{Cite book|和書|author=山本七平 |title=[[「空気」の研究]] |publisher=[[文藝春秋]] |year=1977 |NCID=BN02778185 |ref={{harvid|山本七平|1977}} }}
** (文庫版){{Cite book|和書|author=山本七平 |title=「空気」の研究 |publisher=文藝春秋 |year=1983 |series=[[文春文庫]][や-9-3] |NCID=BN04378359 |ISBN=978-4167306038}}
** (全集版){{Cite book|和書|author=山本七平 |title=「空気」の研究 |publisher=文藝春秋 |year=1997 |series=山本七平ライブラリー |NCID=BA30391443 |ISBN=4163646108}}
** (文庫新装版){{Cite book|和書|author=山本七平 |title=「空気」の研究 |publisher=文藝春秋 |year=2018 |series=文春文庫 [や-9-14] |NCID=BB27341444 |ISBN=978-4167911997}}
* {{Cite book|和書|author=内藤誼人 |title=「場の空気」を読む技術 |publisher=サンマーク出版 |year=2004 |NCID=BA68336459 |ISBN=4763195948 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007631713-00 |ref={{harvid|内藤誼人|2004}}}}
* {{Cite book|和書|author=福田健 |title=「場の空気」が読める人、読めない人 : 「気まずさ解消」のコミュニケーション術 |publisher=PHP研究所 |year=2006 |series=PHP新書 404 |NCID=BA77322331 |ISBN=4569654657 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008214459-00 |ref={{harvid|福田健|2006}}}}
* {{Cite book|和書|author=冷泉彰彦 |title=「関係の空気」「場の空気」 |publisher=講談社 |year=2006 |series=講談社現代新書 1844 |NCID=BA7730808X |ISBN=4061498444 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008218622-00 |ref={{harvid|冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」}}}}


==(削除) 出典 (削除ここまで)==
==(追記) 関連項目 (追記ここまで)==
{{関連項目過剰|date=2024年5月}}
{{脚注ヘルプ}}
* [[全会一致の幻想]]
{{reflist}}
* [[幻想]] - [[虚構]]
* [[詭弁]] - [[忖度]] - [[同調圧力]]
* [[集団主義]] - [[集団態度]] - [[農本主義]]
* [[時代精神]]
* [[疑似環境]]
* [[山本七平]] -[[「空気」の研究]]
* [[和の文化]] - [[京の茶漬け]] - [[遠慮のかたまり]]
* [[責任転嫁]]
* [[アビリーンのパラドックス]]
* [[校風]] - [[隠れたカリキュラム]]
* [[管理教育]] - [[サイレント・マジョリティ]]
* [[斉一性の原理]]
* [[タブロイド思考]] - [[本音と建前]] - [[以心伝心]]
* [[村社会]]
* [[パリ症候群]]
* [[失敗の本質]]
* [[甘えの構造]]
*[[十七条憲法]](第1条に「[[和を以て貴しと為す|和を以て貴しとなす]]、忤うこと無きを宗とせよ」と定める)


==関連項目==
*[[心の理論]]
*[[空気嫁]]
*[[不文律]] - 類似するが、より広義の概念。
*[[:en:Mood (psychology)]] (同一概念というわけではないが、一部重なっている英語版項目)
*[[山本七平]]
<!--*[[いじめ]]{{要書籍の出典}}-->
<!--*[[全体主義]]{{要書籍の出典}}-->
*[[社会心理学]]
*[[自由]]
*[[雰囲気]]
*[[和の文化]]
*[[アビリーンのパラドックス]]
<!--
==外部リンク==
*[http://freshers.mycom.co.jp/seminar/seminar_2h.html 内藤誼人セミナーの様子]
-->
{{DEFAULTSORT:はのくうき}}
{{DEFAULTSORT:はのくうき}}
[[Category:(削除) コミュニケーション (削除ここまで)]]
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[[Category:同調]]

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場の空気(ばのくうき)とは、日本における、その場の様子や社会的雰囲気を表す言葉[1] 。とくにコミュニケーションの場において、対人関係や社会集団の状況における情緒的関係や力関係利害関係など言語では明示的に表現されていない(もしくは表現が忌避されている)関係性の諸要素のことなどを示す日本語の慣用句である。近年の日本社会においては、いわゆる「KY語」と称する俗語流行語となって以来、様々な意味を込めて用いられるようになっている。

「場の」はつけず、ただ「空気」と表現されることもある。

概要

[編集 ]

現在では、集団や個々人の心情気分、あるいは集団の置かれている状況を指すことが多いが[注釈 1] 、人によって指し示す範囲は若干異なる。社会心理学では「場の空気」が起こす集団心理の危険性に着目することが多く、ビジネス等では逆にコミュニケーション能力として肯定的に解釈することが多い。

「空気」をある種の時代の気分や流行文化や考え方の比喩として使用する例は古くからあり、夏目漱石は『三四郎』予告で「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入つた三四郎が新しい空気に触れる」と記している[2] [注釈 2]

山本七平が著した『「空気」の研究』では、社会心理学の観点から場の空気を捉え、三菱重工爆破事件坊ノ岬沖海戦日中戦争の本格化、西南戦争などで「空気の一方向支配」を具体的に挙げている[3] 。集団内に蔓延する空気支配によって、意思決定が歪み、誤った方向へ事態が進むことを危惧・問題提起し、「水を差す」ことの重要性を提示した[4]

場の空気を読む、すなわち場の空気を意識することは暗黙知であり、心理学ではこのような能力を「社会的知能(ソーシャル・インテリジェンス)」と呼んでいる[5] としている。そのような能力は「EQ」(情動指数、心の知能指数)という呼び方でも知られ、習得可能なもの(=技能)として捉え、社会技能と呼んでいる。つまり、対人心理学においては、対人関係の巧拙を生得的なもの(=性格)としては捉えない。

また場の空気を読むことがすなわち協調であると考える者も多く、ある側面において日本特有の事象であるとする説もある。(下記参照)

2007年には、「空気を読めない」[6] を略してKY という言葉が一部のマスメディアで取り上げられる様になり、同年の新語・流行語大賞候補にもなった[7]

相手の表情から気持ちを読むこと

[編集 ]

「場の空気を読む」ということは、「顔色を窺う」ことと同義といってもよい。集団や社会への親和性という面から見れば、周囲の人の反応を意識することであり、他人の表情や言動から、自分の行動への評価を見つけ出すことである。

場の空気を読むことに長ける人は集団への親和性が高くなり、逆に場の空気を読めない人は集団内の人々からの評価が低くなる傾向が見られる。これは日本に限ったことではなく、他の国々でも同様の傾向があると思われる[注釈 3]

内藤誼人は自著『「場の空気」を読む技術』において、顔の表情を読むこと、なかでも相手の眼を見ることが重要だとしている。相手の言っていることと相手の表情とが一致しなかったら、表情のほうが相手の真情として優先させるということである。例えば相手が「怒っていないよ」と言っている時に怒っている表情をしていたら、相手は怒っていると捉えることである[8] 。「場の空気」が読めない人は、相手の顔や眼元の表情を見ないで、うつむきがちに話したり、顔ではないところや、手元の資料を見ながら話す傾向がある。それにより耳から入ってくる言葉にばかり注意が向き、相手の真意・心情を理解し損ねているとされる[9]

しかしながら、「空気」を読んで理解したはずの相手の真意・心情は、本当にその相手の真情であるとは限らず、当人の勝手な先入観思い込みであることも多い。

「場の空気」を読んだうえでどのように振舞うか

[編集 ]

「場の空気を読む」ことと、それを踏まえて「どのように振舞うか」ということは、また別の要素である。無数の主体的な選択肢が、各人の価値観道徳観哲学人生観などと呼ばれるものに応じて、その瞬間瞬間に存在している。

一般的に「場の空気を読む」とは、相手の表情に好ましいと感じている反応が出たら、行動を積極的に行い、否定的な反応が出た場合は、自分が直前に取ったような行動は抑制する、つまり「場の空気」を読んで発言や行動を左右するということである。

また逆に、主体的な振る舞いも存在する。例えば、「場の空気」が"陰鬱"と読んだら、自らその場を明るいものにする、「場の空気」が"いじめ"あるいは"犯罪的"と読んで適切・適法な行動を取る、などの選択肢も存在する。

しかしながら、一般的にはこのような振舞いは、「場をしらけさせる」「空気を読んでいない」とされることが非常に多い。

「場の空気」を読む能力の習得

[編集 ]

この能力は、これに関する訓練や実地体験の積み重ねによって伸ばすことができる。通常、このような訓練は主に成長過程において極めて自然な形式で行われているので、社会環境の影響を受けやすい。 また成人してから、マナー教育などを通して形式知として理知的にこれを理解しようとする場合もある。

「場の空気」を読む危険性

[編集 ]
集団思考」も参照

アーヴィング・ジャニスは、ピッグス湾事件ベトナム戦争トンキン湾事件による拡大政策、ウォーターゲート事件などの事例から、アメリカ合衆国大統領とその側近がいかに優秀であっても、集団になると馬鹿げた意思決定をしてしまう現象(集団浅慮)を分析している。固定的な組織が似通った構成員により作られ、公平なリーダーシップがない状況で、外部から強い圧力を受ける場合、全会一致の幻想を抱き、他人の勧告や他の情報を意図的に無視し、集団のコンセンサスを逸脱する議論に圧力をかける「全会一致への圧力」が生じるとする。

この結果、閉鎖的な仲の良い集団が、調和を尊重しすぎるあまり、重大な意思決定に際して、不合理なリスキーシフトを起こす。リスキーシフトとは集団で討議したのち、意思決定がより危険性の高いものにシフトする心理法則・心理現象を指す[10]

冷泉彰彦による空気の分類・分析と問題改善の提案

[編集 ]

冷泉彰彦は3人以上の場における空気と、二人だけの会話における空気を区別して考察している(冷泉は、著書において表現を簡略化するために、3人以上の場合の空気を「場の空気」、二人だけの場合を「関係の空気」と呼び分けているが冷泉以外は基本的にそのような表現を用いていないのでこの名称自体は日本語としては受け入れられていないと考えられるのでここではその用語は控える)。そしておおまかに言えば3人以上の空気に問題が生まれがちで、2人だけの場合の空気は必要なもので肯定されるべきものとといった仮説のもとで書いている。

冷泉は二人の場合の「空気」とは、二人の間、聞き手と話し手の間で共有されている情報のすべてだとする[11] 。事前にラーメンについて語っていた二人が、実際にラーメン屋でラーメンを食べた後で「うーむ」とだけ言った場合の例などを分析して、あえて全てを言葉で表現しないで省略することで、もともと二人のあいだに情報を共有しているというメッセージが送れるのだから、共感性や親近感が高まるコミュニケーションとなる、と述べる。また、恋人同士の他愛のない言葉のやりとりの例も挙げ、二人にだけは何を語っているのか明白な状況であえて具体的な話題そのものを口にしないことで互いに親密の度合いを楽しんでいるとし、肯定する[12] 。 日本人には言葉の表現スタイルを相手に合わせようとする習性があるとする。日本人は幼児相手には幼児風に話してしまうし、外国人と話す時は無意識のうちに外国人風の不完全な日本語を話したりするし、業界人と話す時は普段使わないような業界用語を使ってしまう、相手が省略語を使うとそれに合わせる省略語を使って省略語を世に氾濫させたりする、とする。それもこれも二人の間で空気を維持したい、親密さを維持したいということなのだとする。この場合の空気は一対一の関係性そのもので、重要な要素であるとし、肯定する。

ただし、関係が維持できているうちはいいのだが、複雑化した現代、人間同士の関係が破綻することは起きるのであって、そのような時には錯綜する利害関係の調整しなければならないが、空気重視、親密さ重視の日本語(日本人の表現スタイル)が事態に追いついていない、日本語の表現スタイル・日本人のコミュニケーションスタイルは「複雑さ」とうまくやってゆく機能が不足していると冷泉は指摘する[13]

冷泉は山本の『空気の研究』で使った「抗空気罪」などの表現に言及した上で、山本の死後も日本の状況は変わっていないと述べ、企業や学校での例を挙げる。3人以上のコミュニケーションでの空気は様々な問題を生んでいると指摘する[14] 。日本人は、省略表現、指示代名詞、略語、ニックネームなどの一種の暗号を頻繁に用いることで、互いに共通のデコード情報を共有していること、共通の理解があることを確認しあっており、目先の親密さ維持だけを重視するあまり、親密さの表現のスタイルが乱れるだけでもそれに感情的に反応して、「抗空気罪」を適用して断罪するのだ、そこに問題がある、とする。というのは、一対一の場合ならば、「暗号」が復元できないでも、「"例の件"って何だっけ?」と気軽に聞き返せるのに、3人以上の場では空気を乱したとして顰蹙を買い「抗空気罪」が適用されるため尋ねることもできず、情報の伝達が滞り、聞き手には疎外感が残り、話し手には"分からないやつがいる不快感"が生まれてしまう、とする[15] 。一対一の時には有益な話法であっても、それが3人以上の会話、公的な場に持ち込まれると、権力を暴走させてしまうことになり合理的な判断や利害調整を妨害し始める、と指摘する[16]

そうした問題点を解決するために、日本人はもっと聞き手のことを配慮して、省略表現やニックネームなどの「暗号」の使用を控えて、例外的なメンバーのことも意識しつつ多少冗長であってもいいからものごとをきっちりと言葉で説明するようにすべきだと冷泉は提案する[17] 。また他にも、慣れ合いを感じさせる語尾を安易に用いず、自分が目上であろうが目下であろうが「です、ます」などの表現を標準表現として積極的に用いるべきことなど、いくつかの提案をしている[18]

精神医療との兼ね合い

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(2011年9月)

精神医療分野では、社会性に影響のある幾つかの症状も存在する。これらに関係する者は、場の空気に馴染まない傾向も否定出来ない。

しかし、これらでは「際立った個性」が「場の空気を乱している」と評される傾向も否定できず、これも前出の「場の空気」という考え方に対する否定論に繋がっている。勿論、周囲の人に迷惑を掛ける個性では困るが、「とりたてて迷惑ではない」程度の個性に関しては寛容になることも重要と言える。

精神疾患うつ病では、過度に干渉すると悪化する危険性も指摘されている。場の空気を盾に無闇に干渉することは、医学上の禁忌である。

発達障害と「場の空気」

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社会技能は訓練による習得を前提とした概念であるものの、広汎性発達障害を持つ人物の場合、社会技能の習得が生理的に不可能であったり、著しい困難を伴うことがある。即ち、場の空気を読むことが出来ない。これは性格や家庭教育の問題ではなく、脳の先天的な機能(心の理論)の欠陥によるものである。

これらの発達障害による問題行動は、成長に伴って減少する傾向があるが、定型発達者と全く同じ振る舞いが出来るほど改善するケースは、極めて稀である。よって、そうした少数のケースだけにしか目を向けないまま、発達障害の人間に場の空気を読む努力を強いることは、当人に計り知れない精神的な負担をかけ、うつ病や対人恐怖症などの二次障害を引き起こさせてしまう可能性が非常に高い、ということを周囲は認識しておかなければならない。

原則として、

  • 本人が場の空気を読めないことを「自覚」して受け入れ、周囲に対して心を開くとともに、理解や支援を求める。
  • 周囲もそれを「言い訳だ」などと切り捨てたり、場の空気を読むことを押し付けたりせず、至らない点があれば、何が良くなかったのかを解りやすく諭すなど、可能な限りそれを受け入れる。

ことが、最も有効である。

パーソナリティ障害と「場の空気」

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長期に渡って周囲と円滑なコミュニケーションが営めず、当人がその状態を苦痛と感じる場合、精神医学ではパーソナリティ障害と診断する。但し、パーソナリティ障害だから場の空気が読めないのではなく、場の空気が読めないことを本人が苦痛と感じる場合にパーソナリティ障害と診断されるという点に留意する必要がある。また、パーソナリティ障害は「広義」の精神疾患であり、一般的な精神疾患のように責任能力の有無に関わる判断材料にはなりえない。

インターネット上での「場の空気」

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日本のインターネット上で一部のコミュニケーションにおいては、発言内容をベースにやりとりするというよりも、むしろ互いに発言同士を連鎖させていくことが重視されており、これを社会学者北田暁大つながりの社会性と呼んでいる[19] (ネガティヴに作用するとブログ炎上などを引き起こすことになる[20] [21] [22] )。

批評家・社会学者の濱野智史は、日本において一部のネットサービス(2ちゃんねるニコニコ動画mixiなど)の多くはこのような場の空気を読む文化に基づいているとしており[23] 、他の先進国とは違って、内容ベースの熟議を行う電子公共圏の構築(討議プロセスを含む電子民主主義の実現)が困難になるなどの弊害が指摘されている[21] [24] 。他方で、インターネット上でも場の空気を読むことが求められているのは日本の現実世界での暗黙のルールをオンライン上にも無意識に持ち込んでしまっているからに過ぎず、現代社会の「人間関係の流動化」が今後も加速していけば(すなわち空気が読めないほどに流動性が上昇すれば)、インターネット上での場の空気にひきずられたサイバーカスケード的な現象はおさまっていくのではないかという見方もある[25]

批判

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物事の判断が「場の空気」に支配される事象は、古今東西を問わずしばしば見られ、先にも述べたように様々な弊害を引き起こし得る。

山本七平は、例として旧日本軍対米開戦戦艦大和沖縄出撃、日中国交回復イタイイタイ病事件、自動車公害に関する世論等を挙げ、細かいデータおよび明確な根拠があるにもかかわらず、科学的根拠の全く無い判断が「空気」によって最終的に決定されたと指摘している。この事象をもって、山本は「それ(空気)は非常に強固で、ほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ超能力である」と述べた[26]

白田秀彰は、学校社会において空気の支配が蔓延していると指摘した。子供たちは場の空気に怯え、設定されるキャラクターに戦々恐々としている。学生が新しい「場」に入ったときに、この「場」が強制してくるキャラクターを受け入れ、それを演じうることが「場の空気が読める」ということであり、場が設定したキャラクターを演じつづけられる限りは、彼はそれなりに人気を得たり、居場所を得ることができる[27] 。しかし、彼がこうしたキャラクターを演じるのを放棄した場合は、いじめの標的になるか、逃避行動としての不登校を選ぶことが多い。最近では、日本の高校で電子メールをめぐる空気の支配が蔓延しており、絵文字がない、極端な短文、返信が少しでも遅いなどといったことがあると「キレてる」「空気が読めない」と思われるのだという。そのため、「そのような風潮になじめない人にとっては大学で初めて個人的自由が得られる」と指摘された(スクールカーストも参照)。

劇作家鴻上尚史は、著書「"世間"と"空気"」(講談社現代新書)において、「日本人が、世間を喪失したのが大体バブル期だ。世間を喪失した現代人は、相手や周囲の顔色を見ながら言動の適否を判断せざるを得ない。空気しか知らない世代が、社会人になるのが心配だ」と述べている。具体例として、子役オーディションで、1980年代前半までは、「君のクラスはどんなクラス?」と聞くことができたという。子供にとっての世間とは、クラスのことであった。しかし、1980年代後半以降、「君のグループはどんなグループ?」と聞かざるを得なくなり、21世紀に入ってから、その傾向が強まっているとする。KYという語が、既に流行語ではなく、世相を反映した語だというのである。

色川大吉は、「ある昭和史―自分史の試み」で場の空気を「天皇を頂点に一君万民、自分達を超越し利害を調停してくれる絶対者を常に求め、仲間内さえ良かれという社会体制に起因するものであり、日本特有のもの」とした。

集団思考の問題については欧米でも複数の報告や研究事例があるが、日本では「個人主義が未発達の日本」という文脈の上で「場の空気」の論題を日本人論のひとつとして論じられる文書がある。

脚注

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注釈

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  1. ^ (福田健 2006)での「場の空気」の定義におおむね沿ったもの
  2. ^ 対象に含まれる精神(アリア)、あるいは卑近にその場面を支配する雰囲気を表現する主旨でのairの用法は英語にもあり、例えば1800年代の書籍には "Blackstone, a celebrated commentator on the laws of England, he it was, who first gave to the law (追記) the air of science (追記ここまで)." あるいは "(the) vulgar air and attitude・・"といった用例が見られる(RECOLLECTIONS OF CURRAN AND SOME OF HIS COTEMPORARIES. (CHARLES PHILLIPS, 1818))。
  3. ^ (内藤誼人 2004, p. 26-27, p.31-32)によると、カナダでの調査およびアメリカでの調査でも「場の空気」を読めない人に対する、集団からの評価は次第に低くなる、との結果が出ている。

出典

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  1. ^ 林四郎ほか「例解新国語辞典第六版」2002年1月 「空気(くうき)」の項の2
  2. ^ 「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入つた三四郎が新しい空気に触れる、さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して色々に動いて来る、手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈である、あとは人間が勝手に泳いで、自ら波乱が出来るだらうと思ふ、さうかうしてゐるうちに読者も作者も此空気にかぶれて此等の人間を知る様になる事と信ずる、もしかぶれ甲斐のしない空気で、知り栄のしない人間であつたら御互に不運と諦めるより仕方がない、たゞ尋常である、摩訶不思議は書けない。」岩波版漱石全集1993.12
  3. ^ 山本七平 1977, p. 12-20, p.47-54.
  4. ^ 山本七平 1977.
  5. ^ 内藤誼人 2004, p. 36.
  6. ^ KYは否定形(読めない)だけではなく、「空気(を)読め」など、空気を読むことをお願いする言い方の略ともされる場合がある。
  7. ^ ユーキャン新語・流行語大賞公式サイト 2007年度候補語解説
  8. ^ 内藤誼人 2004, p. 40.
  9. ^ 内藤誼人 2004, p. 41.
  10. ^ 阿部孝太郎「日本的集団浅慮の研究・要約版」『商學討究』第57巻第2/3号、小樽商科大学、2006年12月、73-84頁、ISSN 04748638NAID 110004856535 
  11. ^ 冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」, p. 23.
  12. ^ 冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」, p. 30-32.
  13. ^ 冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」, p. 61-66.
  14. ^ 冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」, p. 120-150.
  15. ^ 冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」, p. 157-162.
  16. ^ 冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」, p. 180.
  17. ^ 冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」, p. 180-183.
  18. ^ 冷泉彰彦「関係の空気」「場の空気」, p. 180-210.
  19. ^ 北田暁大 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 日本放送出版協会、2005年、203頁など。ISBN 978-4140910245
  20. ^ 北田暁大「ディスクルス(倫理)の構造転換」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』 河出書房新社、2010年、159頁。ISBN 978-4309244426
  21. ^ a b 濱野智史「まえがき」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』4頁など。
  22. ^ 荻上チキ 『ネットいじめ――ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」』 PHP研究所、2008年、236頁。ISBN 978-4569701141
  23. ^ 「ポストised、変化したことは何か1」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』461頁。
  24. ^ 濱野智史 『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』 エヌ・ティ・ティ出版、2008年、135-136頁。ISBN 978-4757102453
  25. ^ 「流動化する社会の中で」『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』447頁。
  26. ^ 山本七平.「空気」の研究, p. 16, 22.
  27. ^ 白田秀彰の「インターネットの法と慣習」 意思主義とネット人格・キャラ選択時代:Hotwired [1]

参考文献

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(以下基本的に出版年順)

関連項目

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