場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
〈終章 場所と経験〉1
森敦『月山』/平野啓一郎『日蝕』/車谷長吉『赤目四十
八瀧心中未遂』
前田速夫
よみがえりの場所
近現代文学が扱ったトポスの例を、さまざま紹介してきました。路地、郊外、部屋、銀河、故郷、トンネル、戦場、異国、家族、職場、都市、迷路などは、近代以後の作家が新しく発見したトポスといってよいと思いますが、峠、水辺、洞窟、夢、異界などは、古典文学とも共通のものでした。
無意識のうちにも、近現代の作家はそうした場所に依拠しながら物語を展開してきたことになり、かかる物語を読み返すことで、私たちはいつしか忘却し、見失っていた、過去の記憶、つまり自分たちが辿ってきた歴史と生の証しをよみがえらせることができました。そして、私たちはどこから来て、いまどこに居て、どこへ往こうとしているかという本書のテーマにも、ある程度答えが与えられたのではないかと思います。
近現代文学に特有な場所を新たに発見して、自己の文学を切り開いた作家には、夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、永井荷風、國木田独歩、二葉亭四迷、田山花袋、宮沢賢治、太宰治、大岡昇平、武田泰淳、安部公房、小島信夫、安岡章太郎、遠藤周作、吉行淳之介、庄野潤三、開高健、大庭みな子、後藤明生、黒井千次らがいて、若い世代では、丸山健二、金井美恵子、宮本輝、青野聰、宮内勝典、立松和平、村上春樹、村上龍、高橋源一郎、橋本治、増田みず子、島田雅彦、田中康夫、山田詠美、吉本ばなな、池澤夏樹、中沢けい、高樹のぶ子、辻原登、小川洋子、保坂和志、伊井直行、松浦理英子、柳美里、藤沢周、堀江敏幸、角田光代、リービ英雄、星野智幸、吉田修一、中村文則、長嶋有、阿部和重、多和田葉子、中原昌也、鹿島田真希、青山七恵、絲山秋子、最近では綿矢りさ、金原ひとみ、川上未映子、村田沙耶香、津村記久子、小山田浩子、柴崎友香、今村夏子、上田岳弘、朝吹真理子、宇佐美りんなどもそうでしょう。
今後も文学が消滅しない限り、あるいは地球や人類が消滅しない限り、鋭敏で野心的な作家がその時々に現われて、これまでになかったトポスを発見して、新鮮な刺激を与えてくれるでしょうし、そのことは当然期待すべきことです。
その一方で、私は本書で主にトポスの再発見という角度から取り組んだ作家についても見てきました。島崎藤村、泉鏡花、谷崎潤一郎、柳田國男、折口信夫、川端康成、井伏鱒二、三島由紀夫、島尾敏雄、富岡多恵子、森敦、大江健三郎、古井由吉、中上健次、津島佑子、村田喜代子、佐伯一麦、車谷長吉、辻原登、水村美苗、松浦寿輝、笙野頼子、奥泉光、若手では目取真俊、町田康、川上弘美、平野啓一郎、小野正嗣、磯崎憲一郎なども、そうでしょう。
もちろん、このように截然と分けられるというのではありません。右の作家たちを含め、大多数の作家はこの両方にまたがって仕事をしています。ただ、ここで本篇を振り返ってはっきり言えるのは、近現代の縦に一方向に流れる時間は、この大切なトポスの働きをむしろ弱め、薄めてきたことです。
ことに戦後の日本社会は、表面上は私たちを圧迫する政治的な不自由も、文化的な排斥も存在しません。社会的な階級差別も、身分差別もなければ、好きなときに、いつでも、どこへでも行ける。三島由紀夫が嫌悪した、ノッペラボーでふにゃふにゃした一億総中流社会。おまけに、近年ではヴァーチャルな疑似空間こそがリアルなのだと見なされかねない。そういう時代に生きている私たちが不幸なのは言うまでもありませんが、個々の作品のオリジナリティで勝負する作家は、もっと気の毒です。
そうであればこそ、新しいトポスの発見も大切には違いありませんが、現代が直面しているトポスの消滅という危機をのりこえるために、トポスの再生、トポスの再発見がいっそう重要になってきていると、私は考えるのです。
いかなる時代であろうと、トポスの存在なしには、文学はありえない。私たちの生活や人生も、ありえません。そこは、人と人とが交わり、思索し、経験する場所そのものです。その意味で、ここでは少し前の作品になりますが、森敦の『月山』(文春文庫)を紹介しておきましょう。
これは、別のところで書いたことがあるのですが、私は新米編集者だったとき、この作家が長い放浪時代を終えて、いま東京に戻ってきていると、ある人から聞いて、せっせと氏のもとに通い、同作が完成する寸前に、その掲載を当時「季刊藝術」の編集長をしていた古山高麗雄氏にさらわれるという、悔しい経験をしました。催促するたび、のらくらした言訳の手紙がきて、これはむしろしばらく距離を置いたほうが、先方は見放されてしまうと焦って、かえって筆が進むのではないかと愚かにも考えた、その一瞬のスキを突かれてしまったのでした。
いえ、そんなことはどうでもいい。問題は『月山』の中身です。「未だ生を知らず 焉ぞ死を知らん」――孔子の有名な言葉がエピグラフに掲げられていて、作者と思しい〈わたし〉は、知人の紹介で月山の麓にある注蓮寺に赴きます。
《ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいう
べき
肘折の渓谷にわけ入るまで、
月山がなぜ
月の山と呼ばれるか
を知りませんでした。そのときは、折からの豪雪で、危く行き倒れ
になるところを助けられ、からくも目ざす渓谷に辿りついたのです
が、彼方に白く輝くまどかな山があり、この世ならぬ月の出を
目の
あたりにしたようで、かえってこれがあの月山だとは気さえつかず
にいたのです。しかも、この渓谷がすでに月山であるのに、月山が
なお彼方に月のように見えるのを不思議に思ったばかりでありませ
ん。これからも月山は、渓谷の彼方につねにまどかな姿を見せ、い
つとはなくまどかに拡がる雪のスロープに導くと言うのをほとんど
夢心地で聞いたのです。
それというのも、庄内平野を見おろして日本海の気流を受けて立
つ月山からは、思いも及ばぬ姿だったからでしょう。その月山は、
遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く
鳥海山と対
峙して、右に朝日連峰を覗かせながら
金峰山を侍らせ、左に鳥海
山へと延びる山々を連亙させて、臥した牛の背のように悠揚として
空に曳くながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を強く平野へと
落としている。すなわち、月山は月山と呼ばれる
ゆえんを知ろうと
する者にはその
本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者に
は月山と呼ばれる
ゆえんを語ろうとしないのです。月山が、古来、
死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそはわたしたちに
とってまさに
あるべき唯一のものでありながら、そのいかなるもの
かを覗わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死の
た くらみめいたものを感じさせるためかもしれません。》
早くも死と再生という一編のモチーフが暗示された、見事な導入というべきでしょう。「わたし」は庫裡の二階の、棟木も梁も剥き出しの百畳間の奥の片隅に間借りしました。冬になると、祈禱簿を張り合わせた蚊帳を作って、風や寒さをしのぎます。
「お前さま、和紙の蚊帳をつくっているというんでろ。どげなもんだかや」
「どうって、まァ繭の中にいるようなものかな」
祈祷簿を張り合わせて作った蚊帳は真っ白なはずで、この中に「わたし」が籠ったことに注意してください。繭の中に籠った
蛹と同じです。
「だども、カイコは天の虫いうての。蛹を見ればおかしげなものだども、あれでやがて白い羽が生えるのは、繭の中で天の夢を見とるさけだと言う者もあるもんだけ」
かぐや姫の籠っていた竹の筒、花祭りで還暦を迎えた老人が籠るシラヤマがそうであったように、わが国の民俗では中空の空間は、死者が蘇るための装置でした。それと同じように、この真っ白い空間に籠って冬ごもりした「わたし」は、春の訪れと共に再生して、死の山月山をあとにします。
作者が、奥三河花祭りのシラヤマ行事のことを知っていたとは思えません。風や寒さを防ぐために、必要に迫られて考案したことが、偶然、過去の民俗行事が宿していた根源的なトポスと重なり合っていたとは。
私は、この庫裡の二階の百畳間を実際に見ています。住職から、作者は隅の床の間の前を寝床にしていたと聞いて、咄嗟にこのシラヤマ行事のことを連想したのでした。
トポスの再発見
次は平野啓一郎の『日蝕』(新潮文庫)です。作者は京大四年生のとき、当時「新潮」の編集長だった私あてに手紙を寄越しました。便箋十六枚に、えんえんと自分の文学観が述べてありまして、ニー
チェ、ボードレール、エリアーデと博引傍証、神が死んだ現代、文学は宗教が果たしてきた役割を担わなければならないなどと、まあ生意気なことが書かれてあって、最後に自分が書き上げた小説を読んでみてくれないか、ダメだったらゴミ箱に捨ててくれとあった。
彼が史上最年少で芥川賞を受賞したときは、「三島由紀夫の再来」などとずいぶん話題になって、その手紙を発表させてほしいとあちこちの新聞社から言われたものですが、これは私信なので公にはしないよと、そのとき彼と約束しましたので、以来私はその約束を守っています。
それはともかく、私はその手紙の内容がしっかりしていたので、作品は新人賞応募のものしか受け付けないのが原則なのですが、とにかく原稿を見せてくださいと返事しました。
それが、この『日蝕』で、やたら難しい漢字を使っていて、ワープロでルビまできれいに切り貼りしてありました。半分ほど読み進んだところで、これは只者じゃないと思って、すぐに電話を入れ、京都に赴きました。
京都ホテルに現れた彼は、茶髪で耳にピアスをしていまして、これがなかなかの好青年、こちらが一つ質問すると、四倍も五倍も返事が返ってきて、単に知識が豊富というだけではなくて、思考力も感性もたしかでした。それで、「新潮」としては百年の歴史で初めてという無名の新人の一挙掲載を、その場で決断したのでした。
作品は、ルネサンスの前夜、パリでトマス神学を学んでいた一人の学生が、フィチーノの著したヘルメス文書をもとめて、フィレンツェへの旅に出ます。その途次、リヨンからわずかに離れた寒村に滞在するうち、自分とは信仰も世界観も異にする人々に出会います。堕落した僧侶、狡猾な畸形の男、無垢で聾唖の少年、さらには不思議な錬金術師......。
やがて彼は、この錬金術師の後を追って謎めいた洞窟に潜入し、そこでみずからが漠然と求めていた真の対象と出遭います。なんとそれは、光り輝く両性具有者でした。
けれども、異端訊問の厳しかった時代です。この両性具有者は、魔女の名のもとに捕えられ、焚刑に処せられます。ところが、その処刑のさなか、日蝕が起きる。そして、この特別なときに、はからずも、錬金術師の求めていた黄金が生成し、主人公はその出現を忘我の瞬間として体験します。
この作品にもエピグラフが掲げられています。「神は人を楽園より追放し、再度近附けぬように、その地を囲んだのだ。」(レクタンティウス『神的教理』)
いまどきの学生がなぜ、現代の日本とは極端に異なる時代と場所を選んで、あえて漢字を多用し、鷗外顔負けの擬古文を操って、このような奇態な物語の創作に挑んだのか。それは、冒頭の左の一節がその一端を示唆しています。
《これより私は、
或る個人的な回想を
録そうと思っている。これ
は或いは告白と
云って
好い。そして、告白であるが上は、私は
基督者として断じて偽らず、
唯真実のみを語ると云うことを始め
に神の
御名に
於て誓って置きたい。誓いを
此処に
明にすること
には二つの意義が有る。一つは、これを読む者に対するそれであ
る。人はこの
頗る異常な書に対して、
径ちに
疑を
挿むであろ
う。私はこれを
咎めない。
如何に好意的に読んでみたとて、この書
は
所詮、信を置く
能わざる
類のものだからである。多言を費して
無理にも信ぜしめむとすれば、人は
仍その疑を深めてゆく
許りで
あろう。
然るが
故に、私は唯、神に真実を誓うと云う一言を添え
て置くのである。今一つは、私自身に対するそれである。筆を
行る
ほどに、私は自らの実験したる所に耐えずして、これを偽って
叙さ
むとするやも知れない。或いは、
未だ心中に
蔵匿せられたること
多にして、中途で筆を
擱かむとするやも知れない。これは
猶偽りを
述べむとするに変わる所が無い。これらを
虞れるが故に、私は誓い
を
敢えて筆に
上し、
以て己を戒めむとするのである。
冀、
上の誓いと
倶に、
下の
拙き言葉の数々が主の
御許 へと
致かむことを。》
この小説で、「私」が潜入し、奇跡に出遭った場所も、死と再生のトポスである洞窟でした。私が興奮したわけは、おわかりいただけるでしょう。
反時代的な姿勢が明確なのは、自らを「反時代的毒虫」と称した車谷長吉もそうです。映画にもなった『赤目四十八瀧心中未遂』(文春文庫)は、もっともよく読まれた作品で、この小説には二つの特徴的なトポスが登場します。
一つは尼ヶ崎のはずれ、食い詰め者が流れ込む場末の吹き溜まりです。ここで「私」は来る日も来る日も、焼き鳥に使う臓物をさばいては串刺しにしていますが、同じアパートに住む絶世の美女アヤちゃんに心惹かれる。彼女が兄の借金の肩代わりで、やくざに売り飛ばされることになり、「うちを連れて逃げてッ」と哀願され、二人は関西の各地をさまよい、最後の最後、死地と定めて赤目四十八瀧に着く。ここが第二のトポスです。
鏡花の『高野聖』を想い出してみてください。旅の僧侶は滝壺で美女から水を濯いでもらって癒されますが、ここでは心中の舞台になっています。しかも、通常の小説であれば、近松門左衛門の人形浄瑠璃がそうであったように、ここで二人が心中を遂げれば、読者はカタルシスを得られるわけですが、それがそうはならないところが、現代であるゆえんです。
「うち、あんたを殺すこと
出来へん」。結局、二人は死ぬこともならずに、帰途、近鉄電車の乗換駅の大和八木駅で別れ別れになってしまいます。
《「うち、ここで降りるッ。」
アヤちゃんは起ち上がった。
「うちは、こッから京都へ出て、博多へ行くからッ。」
アヤちゃんがプラットフォームへ飛び出した。咄嗟に私も起ち上
がろうとした。併し片足の指が、下駄の前鼻緒に掛かっていなかっ
た。起った時、ドアが閉まった。アヤちゃんと目が合った。何か恐
ろしいものを呑み込んだ、静止した目だった。電車は動きだした。
私はドアのガラスにへばり付いた。手のひらが冷たかった。アヤ
ちゃんがフォームを五、六歩、駆けて来た。見えなくなった。》
アヤちゃんは、自分が生きる底辺の世界の人間とは違う「私」の正体を見抜いていて、「私」を振り切って、ひとり苦界に向かう電車に飛び乗ったのです。これが、彼女のぎりぎりの強さ、優しさでした。結果的に、赤目四十八瀧は、皮肉にも「私」にとっては死から甦った再生の場所だったわけですが、だからといって、「私」が真に再生したのではないことは、物語が終ったあとに付け足された左の一節が示しています。
《その後、私は四年の間、大阪曾根崎新地、堺三国ヶ丘町、神戸
熊内町、神戸元町に身をひそめていた。三十八歳の夏、また東京
へ出て来て、ふたたび会社員になった。二年後の冬、会社の用で大
阪へ行った時、夜九時を過ぎて、アマへ行くべく阪神電車に乗っ
た。淀川に映る電車の燈が目に流れた。東難波町に伊賀屋を訪ね
た。が、店があったところは、自動車の駐車場になっていた。隣家
の外壁が剥き出しになっていた。私は苦痛を覚えた。
出屋敷へ歩いて行った。アパートの露地口の荒物屋は閉まってい
た。露地を入って、アパートへ入った。一階には人の住んでいる気
配がしたが、二階へ上がると、真ッ暗だった。空気が冷え冷えと死
んでいた。廊下の闇を奥へ進んだ。女が来ていた部屋も、彫眉さん
が仕事をしていた部屋も、扉が閉ざされていた。私が臓物をさばい
ていた部屋の扉には、
蝶番が付けられ、南京錠が掛かってい
た。物音がまったく聞こえなかった。私は闇の中に立っていた。》
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。