場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
〈第四章 部屋の中〉1
田山花袋『蒲団』/宇野浩二『蔵の中』
前田速夫
人生の真実
二葉亭四迷『浮雲』、尾崎紅葉『多情多恨』、田山花袋『蒲団』......。わが国の近代文学は下宿の二階とともに始まりました。たとえば、『多情多恨』の主人公、鷲見柳之助は細君のお類を流行感冒で死なせたあと、親友葉山の家の二階に下宿する。部屋にはお類の肖像画が架かっていて、彼を微寂しい気持ちにさせます。居たたまれずに、つい主の留守中でも階下の茶の間に降りてゆくことになり、はじめは冷ややかだった葉山の細君に惹きつけられていくのが小説の発端でした。
『浮雲』(新潮文庫)の主人公内海文三は、前途ある青年官吏で、やはり叔父の園田家の二階に下宿しています。主の娘のお勢とは婚約者としての将来を黙認されていて、叔母のお政は二人の結婚に望みをつないでいる。ところが、文三が免職となるや態度を変え、今度は文三の同僚で、立ち回りの上手な本田と結婚させようとします。そして、お勢も派手好きな性格から、不活発な文三より、気さくで生活力のある本田に惹かれてゆく。
両者の気持ちの変化、齟齬は、以下のくだりに示され、それには二階の文三の部屋と階下のお勢の部屋とを結ぶ梯子段が重要な役割を果たしていています。
《居間へ戻ッて燈火を点じ、
臥て見たり起きて見たり、立て見た
り坐ッて見たりして、今か今かと文三が一刻千秋の思いをして
頸を
延ばして待構えていると、
頓て
格子戸の開く音がして、縁側に優し
い声がして、
梯子段を上る
跫音がして、お勢が目前に現われ
た。》
《前へ
一歩、
後へ
一歩、
躊躇ながら二階を降りて、ふいと縁
を廻わッて見れば、部屋にとばかり思ッていたお勢が入口に柱に
靠着れて、空を
向上げて物思い顔......はッと思ッて、文三立ち止
まッた。お勢も何心なく振り返ッてみて、急に顔を曇らせる......ツ
と部屋へ入ッて跡ぴッしゃり。障子は柱とに
額合わせをして、二三
寸跳ね返ッた。
跳ね返ッた障子を文三は恨めしさうに
凝視めていたが、やがて思
い切り悪く
二歩三歩。わななく
手頭を引手へ懸けて、胸と共に障
子を躍らしながら開けて見れば、お勢は机の前に
端坐ッて、一心
に壁と
睨め
競。》
《人の心というものは同一の事を間断なく思ッていると、遂に考
へ
草臥て思弁力の弱るもので。文三もその通り、始終お勢の事を
心配しているうちに、何時からともなく注意が散って
一事には集
らぬようになり、おりおり互に何の関係をも持たぬ
零々砕々の事を
取締もなく思う事も有った。
曾つて両手を
頭に敷き、仰向けに
臥 しながら天井を
凝視めて初は例の如くお勢の事をかれこれと思って
いたが、その
中にふと天井の
木目が眼に入って突然妙な事を思っ
た、「こう見たところは水の流れた
痕のようだな」》
結局、この作品は未完のままとなりますが、それはおそらく結末での破綻が避けられなくなったせいで、ここには早くも否応なく近代と向き合わなくなった自我の運命が予告されているようです。
次の『蒲団』(岩波文庫)は、作者の田山花袋をして当時の文壇の中心人物たらしめ、日本自然主義文学の性格を決定づけたとされる作品。女弟子の芳子が下宿していた自家の二階でのラストシーンは、あまりに有名です。
《時雄は雪の深い十五里の山道と雪に埋れた山中の田舎町とを思
い
遣つた。別れた後そのままにしておいた二階に上つた。懐かし
さ、恋しさの余り、
微かに残ったその人の面影を
偲ぼうと思った
のである。武蔵野の寒い風の
盛に吹く日で、裏の古樹には
潮の
鳴るやうな音が
凄じく聞えた。別れた日のように東の窓の雨戸を
一枚明けると、光線は流るるように
射し込んだ。机、本箱、
罎、
紅皿、依然として元のままで、恋しい人はいつものように学校に
行つているのではないかと思われる。時雄は机の
抽斗を明けて見
た。古い油の
染みたリボンが其の中に捨ててあった。時雄はそれを
取って匂いを
嗅いだ。
暫くして立上って
襖を明けて見た。大き
な
柳行李が三箇
細引で送るばかり
絡げてあって、その向うに、芳
子が常に用いていた
蒲団――
萌黄唐草の敷蒲団と、綿の厚く入っ
た同じ模様の
夜着とが重ねられてあつた。時雄はそれを引出した。
女のなつかしい油の匂いと汗のにほいとが言いも知らず時雄の胸を
ときめかした。夜着の
襟の
天鷲絨の
際立って汚れているのに顔を押
附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂ひを嗅いだ。
性慾と悲哀と絶望とが
忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団
を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣い
た。
薄暗い一室、
戸外には風が
吹暴ていた。》
芳子の蒲団に顔を埋めて匂いを嗅ぎ、身も世もなく慟哭するこの場面が、中年男の醜悪な性欲を露骨に描いたとしてセンセーションを呼び、またこうしてきれいごとではない人生の真実を勇敢に告白したとして、後続の作家の先駆けをなした本作を、中村光夫は『風俗小説論』で、西欧の作品におけるような「作者と作中人物との距離」や「その立体的な奥行」をまったく理解せずに、「主観的感慨」に甘え、溺れていると酷評し、以後「私小説」というわが国独特の偏狭で歪んだ流派を生んだとして糾弾しました。
しかし、私はそれを尤もと思う反面、傍からはいかに滑稽に見えようと、一読者としての勝手な立場から言うと、作者がこれくらい強く作中人物に付き、一体になってくれなくては、かえって興ざめではないかという思いもあります。いま読み返してみて、描写に無駄はなく、文章は引き締まっています。
元祖引き籠り
宇野浩二『蔵の中』(岩波文庫)は、質屋の二階の部屋で入質中の女性の着物の虫干しをしながら、その一枚一枚にからむ女性の思い出にふけるのを無上の愉しみにしている、貧乏で怠け者の作家が主人公です。
《私は、
半年ぶりで、蔵の二階の片隅の、なつかしい箪笥の前
に立ちました。身につけてゐる物さへ今はこの質屋のものである私
に、小僧は何の不安も抱く必要がありませんので、彼はすぐ私を残
して下におりて行きました。私は、しかし、そつと秘密の戸を開く
やうに、その箪笥の第一の引き出しをあけました。第一の引き出し
をしめて第二をあけ、第二をしめて第三をあけ......私はしばらくの
間ただ何のなす事もなくそんな事をくりかへしてゐました。ああ、
その満たされた箪笥の重みのある引き出しをあけしめしてゐる時の
気持ち、その引き出しの中の物の眺めは申すにおよばず、それをあ
けしめする時のささやくやうな甘い音、それから丸くかたまつて押
し出されて
来る空気の肌ざわり、どうぞ、私のこの言葉を決して誇
張だなぞと思はずに聞いてください。誇張どころか、私には何とそ
れを形容する言葉もないのでいらだつ程なのです。
たとへば、幸福とはどんなものかと聞かれて、即座に誰も答へら
れるものではありませんが、私には
少なくともこの気持ちがその一
つだといふ事ができます。女がこの着物のためにもつとも大切なも
のさへ売るといふことが私には
十分のみこめます。》
世間からすれば、ただの女好きで、何の役にもたたぬ、社会性ゼロのこの男の語りは、その時々でつきあった女性の思い出が、牛のよだれのように切れ目なく、あっちへ飛び、こっちへ飛びしながら、延々続きます。普通なら、馬鹿らしくて途中で放り出してしまいたくなるような内容ですが、そうはさせないのは、作者の話術の力です。今日の言葉で言うなら、元祖引き籠りといったところでしょうが、いつしか読むほうは恍惚としてきて、この虫けらのような男の愉楽と幸福感に声援を送りたくなるから不思議です。名誉とか金銭とか地位とかであくせくしている世間の人間の愚かしさ。不登校の子供の尻を叩き、パートに出てまで塾通いさせる世の教育ママが読んだら、卒倒することでしょう。
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。