場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか

〈第十五章 都市の感受性〉1
村上春樹『風の歌を聴け』/村上龍『コインロッカー・ベ
イビーズ』/田中康夫『なんとなく、クリスタル』
前田速夫


自己愛と自傷

「場所は記憶する」ということで、主に文学作品が扱うトポスに焦点を当てながら、近現代の代表的な小説を見てきました。峠、水辺、部屋、路上、異郷、谷間......。それぞれの場所が作中の人物と切り離せない関係にあり、そこで生じた固有のドラマが、私たち読者に鮮やかな記憶として印象づけられる。そして、このことが、たとえ時代は変わろうと、現代を生きる私たちの生を支えてきたことが、お分かりいただけたのではないでしょうか。
ところが問題は、困ったことに現代に近づけば近づくほど、その肝心の場所の特徴が薄れ、それにつれて記憶もぼんやりしてしまい、私たちの生を支える根拠が曖昧になってきてしまったことです。この章では村上春樹、村上龍、田中康夫、金原ひとみ、村田沙耶香といった今日の第一線の作家が、現代の代表的なトポスである都会と、そこに生きる若者たちをどのように描いているかを見るなかで、そのことを考えてみたいと思います。
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(講談社文庫)は、昭和五十四年に発表されました。「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」と始まり、こうした気のきいたアフォリズムやラジオのディスク・ジョッキー、さらにはイラスト、ポピュラー音楽の訳詩まで含めて、四十の断章からなるこの斬新なスタイルの小説は、それでもストーリーめいたものがないわけではありません。
東京の大学の三年生の「僕」は、夏休みに海辺の街に帰省します。日中は本を読み、夕方になると昔なじみの「ジェイズ・バー」で、中国人のバーテンダー、ジェイや友人の「鼠」とビールを飲みながら、会話を交わす。ストーリーは、このジェイの店を中心に展開します。
ある晩、「僕」はこの酒場の洗面所で酔いつぶれた女の子を見つけ、彼女を部屋まで運ぶ。恋人に自殺された「僕」と、妊娠しているのに恋人に棄てられた彼女。けれども、二人はお互いの内面に踏み込むようなことは避け、小指のない女の子が中絶手術を受けた後のある夜、何もせずに抱き合って眠り、両者にとってそれが最後の夜となります。
「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている」。ただ、「1970年の8月8日にはじまり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る」と、時間だけが指定され、消費されて、何ごとも起きません。
帰省の話でありながら、実家の記述は全くなく、そこが日本のどういう土地であるかも分かりません。アメリカの一都市といったほうがいいくらいです。それもこれも、自分に抑圧を加えてくる現実からの切り離し(OFF)、デタッチメントの試み、といっていいのかも知れません。つまりは、これが70年代になって初めて登場した新世代の感性というわけで、この作品が群像新人賞を受賞したとき、選考委員の一人、丸谷才一は次のように評しました。

《村上春樹さんの『風の歌を聴け』は現代アメリカ小説の強い影
響下に出来あがつたものです。カート・ヴォネガットとか、ブロー
ティガンとか、そのへんの作風を非常に熱心に学んでゐる。その勉
強ぶりは大変なもので、よほどの才能の持主でなければこれだけ学
び取ることはできません。昔ふうのリアリズム小説から抜け出さう
として抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、
たとへ外国のお手本があるとはいへ、これだけ自在にそして巧妙に
リアリズムから離れたのは、注目すべき成果と言っていいでしょ
う。》

第二作『1973年のピンボール』(講談社文庫)、第三作『羊をめぐる冒険』は、『風の歌を聴け』の続篇です。三つを『風の歌を聴け』三部作と呼ぶ人もいます。前者『1973年のピンボール』は
『風の歌を聴け』の三年後で、「僕」は渋谷で友人と翻訳事務所を始めますが、そのライフ・スタイルに変わりはありません。

《多かれ少なかれ、誰もが自分のシステムに従って生き始めてい
た。それが僕のと違いすぎると腹が立つし、似すぎていると悲しく
なる。それだけのことだ。》
《僕の心と誰かの心がすれ違う。やあ、と僕は言う。やあ、と向
うも答える。それだけだ。誰も手を上げない。誰も二度と振り返ら
ない。》
《いや、と僕は首を振った。無から生じたものがもとの場所に
戻った。それだけのことさ。》

しかし、こうした日々を自省し、心の底の疑念と向き合うようにもなります。

《何ヵ月も何年も、僕はただ一人深いプールの底に座りつづけて
いた。温かい水と柔らかな光、そして沈黙。そして、沈黙......。》
《何処まで行けば僕は僕自身の場所をみつけることができるの
か? 例えば何処だ?》

そうして、「僕」は死んだ恋人「直子」の故郷を訪ねたり、ジェイズ・バーにあった一台のピンボール・マシーンを探したりすることになります。
後者の『羊をめぐる冒険』は、「鼠」から送られてきた羊の群れの写真の出所を突きとめるために、北海道の牧場を訪ねる話です。牧場の奥にある別荘地に辿りつくと、「羊男」が現われますが、彼は「鼠」の亡霊で、別荘を爆破することを「僕」に依頼します。前二作が、伝達しないための伝達という捩れた関係によって成り立っていたとすれば、ここには意図しないにもかかわらず、他者という存在の不気味で不透明な手ざわりが否応なくせり上がってきています。
このあと、さらに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』と、喪失感に苦しむ青年男女の苦い恋愛を描いて、若い読者の心を鷲づかみにしてきた村上春樹ですが、転機は『ねじまき鳥クロニクル』に挑んだときに訪れます。このことについては、後段で述べることにしましょう。


グラウンド・ゼロ

次は、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』(講談社文庫)。彼は村上春樹より三歳年下ですが、『風の歌を聴け』より三年前の昭和五十一年(一九七六)、『限りなく透明に近いブルー』で、横田基地の周辺の街でドラッグとセックスに明け暮れるアモラルな若者たちの生態を描いて、衝撃のデビューを果しました。
『コインロッカー・ベイビーズ』は、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(河出文庫)と同じ一九八〇年に刊行された、著者初の書下ろし長編。同じ都会の若者を描いても、村上春樹はソフィスティケイテッドだし、田中康夫はスノッブなのに対して、村上龍の場合は、ざわざわと熱く暴力的です。前二者が草食系男子なら、後者は肉食系男子といったところでしょうか。時代の最先端風俗や社会問題を果敢に取り入れる旺盛な筆力、発信力の強いメッセージ性が、村上龍の特徴です。
『コインロッカー・ベイビーズ』の主人公は、コインロッカーに遺棄され、横浜の乳児院に収容されて育った、キクとハシ。幼児期に入り自閉的な傾向を示しはじめた二人に、精神科医は母胎の心音を繰り返し聴かせます。小学校入学を前に、九州の廃坑の島に住む桑山夫妻に引き取られたキクとハシは、ガゼルという男から、「人を片っぱしから殺したくなったら、このおまじないを唱えるんだ」と、「ダチュラ」という謎の言葉を教わります。
やがて高校に進学すると、ハシは母親の消息を尋ねて家出し、キクはハシを探すため、東京にとどまります。ところ変わって、ここは通称薬島。悪性の科学物質で汚染され、建前上は封鎖されていますが、ハシがここにいると知ったキクは、鉄条網を乗り越えて再会を果たすものの、ハシは子供のときに聴いた音を探すため歌手になることを告げ、男色のプロデューサーDに伴われて去ります。
薬島を出たキクは、美少女アネモネと共にダチュラの製作をはじめ、同じ名前の化学兵器が存在することを突きとめます。同じ頃、歌手デビューしたハシのプロモーションとして、母親と再会させる企画が進行していることを知って、精神が脆弱なハシを守るため、再会の現場に走り、弾みで女を殺してしまうのですが、それは自分の母親でした。
少年院に送られたキクは、アネモネと連絡を取りながら脱獄の機会を狙い、同時に、八丈島の深海に沈むダチュラを引き揚げるための船舶試験を受講して、訓練を続けます。訓練航海の日、少年院の仲間と脱走したキクは、アネモネと合流、すぐに八丈島に向います。ダチュラ引き揚げ後、それを飲んだ仲間は殺し合いをはじめ、生き残ったのはキクとアネモネだけ。ダチュラは東京に撒かれます。ハシは廃墟の東京をさまよい、一人の妊婦と出会います。

《そうか、お前が僕をコインロッカーに捨てたんだな、ハシはそ
う呟いた。ハシはその自分を産み捨てた女の胸を引き裂いた。内臓
を搔き分けてその中に入った。ヌルヌルとして暖かく、濡れてヒク
ヒクと収縮する赤い塊りがあった。心臓だ。とうとう見つけたぞ、
ハシは叫んだ。この心臓の音だったのか、僕を産んだ女の心臓の音
だったのか、僕は空気に触れるまでずっとこの音を聞いていたん
だ。(中略)
ハシは息を吸い込んだ。涼しい空気が舌と声帯を冷やす。母親が
胎児に心臓の音で伝える信号は唯一つのことを教える、信号の意味
は一つしかない。ハシはまた息を吸い込んだ。冷たい空気が喉と唇
をつなぐ神経を一瞬甦らせ、ハシは声を出した。初めて空気に触れ
た赤ん坊と同じ泣き声をあげた。もう忘れることはない、僕は母親
から受けた心臓の鼓動の信号を忘れない、死ぬな、死んではいけな
い、信号はそう教える、生きろ、そう叫びながら心臓はビートを刻
んでいる。筋肉や血管や声帯がそのビートを忘れることはないの
だ。
ハシは妊婦の顎から手を離した。赤ん坊と同じ声をあげながら女
から遠去かる。無人の街の中心へと歩き出した。ハシの叫び声は歌
に変っていく。聞こえるか? ハシは彼方の塔に向かって呟いた。
聞こえるか? 僕の、新しい歌だ。》

どこか劇画的なシーンもあって、粗削りではありますが、その筆力は圧倒的で、読者は息をつく暇がありません。


カタログ文化

田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(河出文庫)は、村上春樹が地名その他の固有名詞には極端に禁欲的だったのとは対照的に、地名はもとよりさまざまなブランド品などの固有名詞があふれかえっているので、カタログ小説と悪口を言われたものでした。
主人公の由利は二十歳。幼稚園はロンドン、高校卒業までは神戸で過ごしましたが、総合商社勤務の父親が現在はシドニーにいるため、家族から離れて東京で大学生生活を送っています。住まいは神宮前四丁目のマンション。恋人のキーボード奏者淳一(大学五年生)と「共棲」中です。大学の授業には興味がなくて、単位が取れればいいという程度。モデル業をしていて、月四十万円の収入があります。
「なんとなく気分のいい方を選んでみると、今の私の生活になっていた」と言う由利がブランド品を身に着けるのは、決して贅沢や虚栄のためではなくて、それが良い気分にさせてくれるからです。
「クリスタルなのよ、生活が。なにも悩みなんてありゃしない
し」。生活感覚が同じ男と気軽に関係しながら、なんとなく気分の良いものに囲まれて、熱中することもないが、といって醒めきっているのでもないこの生活を、いつまでも続ける。

《私が普通の学生だったら、ここで淳一にベッタリくっつい
た、「同棲」という雰囲気になってしまっていたかもしれない。で
も、幸か不幸か、私にはモデルという仕事があった。一緒に住んで
いるとはいっても、私にもそれ相応の経済的にみた生活力があっ
た。
おたがいを、必要以上には束縛をし合わずに一緒にいられるの
も、考えてみれば、経済的な生活力をおたがい備えているからなの
だった。淳一によってしか与えられない歓びを知った今でも、彼の
コントロール下に「従属」ではなく、「所属」していられるのも、
ただ唯一、私がモデルをやっていたからかもしれなかった。
だから、いつまでたっても私たちは、同棲でなく、共棲という雰
囲気でいられるのだった。
いつも、二人のまわりには、クリスタルなアトモスフィアが漂っ
ていた。(中略)
淳一と私は、なにも悩みなんてなく暮らしている。
なんとなく気分のよいものを、買ったり、着たり、食べたりす
る。そして、なんとなく気分のよい音楽を聴いて、なんとなく気分
のよいところへ散歩しに行ったり、遊びに行ったりする。》

高度経済成長の恩恵を受け、トレンド指向の若者のこうしたバブリーでクリスタルな生活を、今の若い皆さんはどう思うでしょう。長引く不況、就職難、非正規雇用、デフレ、少子化、外国人労働者の急増等々で、東京の街の様子も、だいぶ変わってきました。ごく一部の富裕層の子女は知らず、その心のうちも、相当にかけ離れたものになってきているはずです。
発表時、この小説は巻末に、ブランド・スラング・レストラン・散歩コース・音楽など、274項目にも及ぶ注(NOTES)がついていて話題を呼びました(単行本では438項目)。こうした固有名は、時の流れとともに古びてしまうのが通例で、その古び具合を、私は今度読み返しながら、意地悪く期待したのでしたが、意外なことに、現在でもそのまま通用することに驚きました。
しかも、何と何とその後、長野県知事や国会議員を経験した作者の田中康夫が、いまや50代になった由利と再会する『33年後のなんとなく、クリスタル』(河出書房新社)を刊行、その単行本の帯に、次のような推薦文が載っているではありませんか。これは、一体どういうことでしょうか。

《クリスタル・ボールの中で旋回する、私的な、また社会的な記
憶の欠片。その中から時間という主題が浮かび上ってくる。これは
そういうほとんどプルースト的な小説なのだ。――浅田彰
単なる後日談でも、アラフィフの群像劇でもない。戦後日本の激
変を流れる、プルーストやジョイスにも似た小説内の時間感覚。ク
リスタルの紋章をペダントした平民という貴族たちによる異端社会
小説、待望の続篇。――菊池成孔
彼はぜんぜん懲りていない。激動の同時代を生きてきた同世代の
富国裕民に贈る「"自伝的"風俗」小説。――斎藤美奈子
ずっとずっと待っていた。小説家・田中康夫が戻って来るのを。
いま、この時代こそ、緊急に、彼の小説を必要としているのだ。
――高橋源一郎
飲んで集まって恋をして...クリスタル族に終わりなし。450円
のTシャツ着て、125円のカップ麺を啜りながら、33歳、ため
息。――檀蜜
透明性、多面性、輝き、勇気、筆力、独創性。そしてなによりも
その予言性。「微力だけれど無力ではない」と言いつつ黄昏の光に
向かって歩くラストシーン。これはまさに現代の黙示録である。
――なかにし礼
クリスタルの中の黄昏。その向こう側に新たな夜明けはあるの
か。大人になった「なんクリたち」の憂いと成熟が光る。――浜矩

この33年間に何があっただろう。私は「脱ダム」宣言のあの美
しい文章を思い出した。田中康夫は何者にもまして、たえず言葉を
紡ぐ人であり続けたのだ。――福岡伸一
33年間の熟成期間を経て開くブーケが香る物語。――山田詠美
由利が生きる上で捨てざるを得ないことも、背負い込むことも、
とても美しい。「もとクリ」よりずっと暖かく、素敵な女性に変
身! ボクは終わりまで彼女を見つめて、一気に読み切った。
――ロバート・キャンベル》

推薦文という性質上、いくぶん割り引いて受け取る必要がありますが、どれも半ばからかっているようでいて、結構本気です。そこで、筆者は次のように考えました。つまり、80年代で、現代の都市生活の表層部分はおおかた完成してしまい、そこが行き止まりだったのだと。

著者略歴
前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。

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