東北だより③ 【ふくしま】
9月6日
【ふくしま】
県からの委託を受け、県内の自立生活センター等が中心となり仮設住宅入居者の支援など、日々の被災障害者ニーズにこたえるとともに、放射線被害に対応するための検討が行われています。また、センターふくしまでは、個人情報保護などの課題のあるなか南相馬市から情報開示を受け、4月30日より自治体と協力して、市内に住所のある障害者手帳所持者1139人の実態調査を行いました。
この調査報告書は8月29日 に桜井勝延南相馬市長に提出されました。他の自治体における今後の対応、支援活動のあり方、さらには「災害時要援護者」対策への波及が期待されます。ま た、調査を通じて障害者の実態が浮き彫りになり、さらなる支援が求められるとともに、今回訪問確認ができた方(調査時点で市内に在住していた492人ならびに死去が確認できた方)以外の実態(市外避難等の約600人の方)がなお不明であり、今後の大きな課題として残されています。
○報告書及び調査結果はこちらから↓
http://www.dinf.ne.jp/doc/JDF/0829_houkoku/index.html
東北だより② 【みやぎ】
【みやぎ】
被災地障がい者センターみやぎでは、本部(仙台市)県南支部(亘理町)県北支部(登米市)を拠点として、現在もなお仮設住宅等をまわりながら支援を待つ障害者を探し、必要な支援の提供を行なっています。
また、8月23日に仙台市内のあすと長町仮設住宅交流広場で「永六輔さん・小室等さんと話そう会in長町」を開催しました。仮設住宅で仮住まいしている方々が少しの時間でも心をやすめ楽しんでもらえるようにと企画し、仮設住宅を一軒一軒訪ねて宣伝し、同時に私たちが障害者を中心とする支援活動を行っていることも伝えました。当日は悪天候の中、たくさんの方にご参加いただきました。(永六輔さん、小室等さんは、ゆめ風基金の呼びかけ人として10年間、被災障害者支援の活動を支えてくださっています)
講演会のお知らせ
関係団体から、講演会のお知らせです。
~~~~~~~~~~~~
原発事故は、福島だけの問題ではない。日本の、いや、世界の未来を失ってしまうかもしれないこと。
【講師】: 広河 隆一 (DAYS JAPAN 編集長)
○開催日時: 平成23年9月10日(土) 13:00~16:00
(12:30受付)
○会場: 福島県田村市常葉行政局内 [文化の館ときわ]
(福島県田村市常葉町常葉字町裏1)
○参加費: 無 料
○主催: NPO法人ケアステーションゆうとぴあ
福祉のまちづくりの会
○連絡先: 船引町船引字山ノ内129-8
Tel/Fax 0247-82-5508
担当:鈴木
※ 会場へのアクセスは、車が便利です。駐車場も広いです。
※ 最寄りの駅(磐越東線JR船引駅)から車で15分です。
介護タクシー情報
・「エンジョイライフサポートタクシーちひろ 」080-6005-0671
・三春タクシー(株)介護孫の手 0247 62 8885
・羽場タクシー 0247-82-1137
東北だより① 【いわて】
9月2日
【いわて】
6月末から8月にかけて、兵庫県の自立生活センターが中心となり、「障害者派遣プロジェクト」として、『障害当事者による当事者支援(ピアサポート活動)』を行なってきました。
障害者が直接障害者を訪問し、ニーズを聞き出したり、また自分の自立生活の話を伝えたりすることで、岩手県の障害当事者をエンパワーすることが目的です。障害者と健常者スタッフでペアを組み、これまで7組が岩手に入っています。活動地域は、田野畑村、宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市といった沿岸部が中心です。
「ボランティア受け入れ休止」のお知らせ
これまで、大変多くの方々にボランティア活動へご参加いただき、誠にありがとうございます。皆様方のおかげを持ちまして、当救援本部は被災地における復興支援の一端を担うことができましたこと、心より感謝申し上げます。
当救援本部では、8月末日までのボランティア参加者を募っておりましたが、「センターみやぎ」「センターいわて」とも8月末までのボランティア参加者数が満員となりました。ご協力ありがとうございました。
9月以降につきましては、両センターとも新規ボランティアの受付けを停止する旨、決定いたしました。また、「センターふくしま」につきましては、先日よりボランティア受入を休止させていただいております。
9月以降は、より地域が活性するために、現地の雇用へと繋げてまいりたいと思います。
「被災地障がい者センター」設立から今日まで、皆様方には多大なご支援とご協力を賜り、改めて御礼申し上げます。
当救援本部では、今後も被災地の復興に向けて引き続き支援活動を続けてまいります。ぜひ継続したご支援ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。
東北関東大震災障害者救援本部
被災地障がい者センターいわて
被災地障がい者センターみやぎ
被災地障がい者センターふくしま
あれから3ヶ月、津波被災地をまわる
仙台から多賀城市へ向かう途中、高速道路から見える田には水が満ち、植えられたばかりの青々とした稲が涼しげに風にたなびいている。
この日、仙台から南三陸町、気仙沼市、陸前高田市を見てまわった。
津波被災地域は、3月末に訪れたときとはまったく違う印象だった。
言い方がおかしいかもしれないが、復興にむけてスタートした街には活力が溢れていた。
沿岸部の被災地域は全てが乾ききっていた。3月末の時点ではいまだ瓦礫に生活の匂いが残っており、津波被災地に立つと恐怖心が芽生えてきたが、そこにあった匂いも温もりも、何もかもが乾き飛ばされていた。そこにあるのは集め固められた瓦礫の山であった。
家屋が流された後に残っていた基礎部分は取り除かれ、更地と化している。波にさらわれ壊れた車両は、まるで大型の駐車場に並んだ車の様に、整然と並べられている。コンビニがあった後には、トラックの貨物室を利用した移動式コンビニとATMが店開きをしていた。
人は、いつでも、どんな場所でも、再スタートする力を持っている。
安定した日常に甘んじていた自分を省みた。
千葉県立鴨川青年の家を訪ねて
千葉県鴨川青年の家へ救援本部から3名で訪問してきました。
こちらには福島県の複数の入所施設利用者と職員が避難しており、施設内では各階ごとに事業所が分かれて、皆さん思い思い日中活動をされていました。
利用者の一部の方々からは毎朝「いつ帰るの」「早く仕事をしたい」という声が出てきているそうです。
皆さん、3/12(土)身の周りの物と冬服を着て避難して来られ、今から来る夏はどうしようかと悩んでいました。
救援本部では、出来る限りではありますが、支援していきたいと思います。
(児玉)
「帰りたい・仕事がしたい」の声
社会福祉法人 「福島県福祉事業協会」の知的障害者・職員が集団避難。地震・津波・原発が重なり緊急避難の中で避難所を転々としながら、やっと現在の場所を確保できたが、この先仮設住宅への移動も含めて今後の展望が持てない苦悩をはなされました。利用者達は研修室まで布団を並べ、日中活動も十分に出来ない状態でした。とりあえず避難はしているといった状態で、一日も早い定住の場所をと強く願わずにはいられませんでした。
(高木)
被災地…救援…わたし…(被災地を訪ねて) その2
参加者の皆さんには「はじめまして」の私でしたが、昨夜の懇親会で少しずつ距離が近 づいた感じです。
まずは、午前中 「あいえるの会」訪問
たいむILは、もと酒屋だったというのですが、すてきな建物でした。
挽きたてのコーヒーの香りがいっぱいで、おいしくいただきました。
施設見学とお話 宮下さん
○ あいえるの会のこれまで
1993年 開設
1997年 全国障害者市民フォーラムin福島の開催を機に組織が拡充された
その後 特定非営利活動法人となり、自立支援法の居宅介護事業・移動支援事業を開始し、
事業が大きく膨らんできた。
○ あいえるの会のこれから
組織が大きくなった活動をどう展開していくのか。
運営主体となる当事者を若い世代に引き継ぐには。
次は、福島市を通って、国道115号 399号の山あいの道を南相馬へ
途中 飯舘村の標識が見えると、ちょっと緊張感。
手持ちのガイガーカウンターの針が5マイクロシーベルトに上がり、
今までにない高い数値を示しました。 そして 南相馬の海岸通りへ
新聞やテレビでみたあの惨状が目の前に迫ってきた。
ここは20キロ圏内に近い海岸沿い
見渡す限り、なにもない荒地 人の影もない
ちょっとした高台から海が見える。 この高さが生死を分けた
本当なら、ここからは家々や木々で海なんかみえないはず
目の前には歩けないお年寄りが命を落とした老人ホームが、荒れ果てた姿をさらけ出している。
ホームの職員がここにつかまり、流されそうな方の手を握っていたところだと知らされる
その光景が思わず目に浮かぶ
遠くに折れ曲がった原町火力発電所の搭がかすんでいる
漁師町のあと
残っているのは家の土台だけ 瓦礫もない。
ここは玄関だったろう きっとお風呂場だったろう
道には人たちの往来があっただろう 砂ぼこリが舞い上がる
死傷者の発見された場所に記された赤い丸印の看板
探さずともすぐに見つかる
低地には海水がひたひたと波立っている
漁業組合の建物のコンクリートの階段のみが横倒しになって残されている。
がらんとした 音のない世界がただ広がっていた それから、「ディさぽーと ぴーなっつ」訪問
青田さんのお話
- ここは 地震・津波・原発事故そして風評被害が重なり合っている
残った1万人は自己責任で残った事になっているが、
自己責任とは要するに避難できなかった人達である。
(病人・老人・障がい者そして彼らを抱えている者)
- 目の前の事に追われ、避難する強い気持ちのないままに結局残ることに(と語っていたが)
取り残された人たちとの遭遇
- 居続けたことでみえたこと
コンビニの明かりがついたときに町の息遣いを感じたこと
自己責任ではない、被災弱者だ
支援に駆けつけてくれた方々が見えて、孤立していないとの思い
- これからも居続けるだろう。
早く復興に向けて動き出したい。
穏やかに語る青田さんのことばには、心響くものがあり、今でもあのお顔が浮かんできます 私のメモから
- まだ被災状況が進行形だ
- ここでも自己責任か、お上の言うとおりにできないものに対する切り捨てではないか
- つながることの大切さ。(きてよかった)
さらに、北へ向かう。途中の道路は地震の影響でアップダウンが何箇所もありました。工事中のコーンや標識も多く、被災地をまたまた実感。車中から見えた閉店中の店やレストラン、灯りのついていた葬議場が…。
最後は 「ドリームゲート」訪問
あたりが真っ暗な8時半過ぎの到着にも関わらず、皆さんの歓迎をうけました。
~~~つづく
救援本部
高木
被災地…救援…わたし…(被災地を訪ねて) その1
わたしにもできることは?
この震災のあと誰もが「何かしなければって」と思ったように、私もその1人です。ちょうど3月まで勤めていた学校を退職する予定だったので、ツテのあった「東北関東大震災障害者救援本部」のお手伝いをする事になりました。 4月の頃の本部は、あわただしく動いていました。電話やメールの応対、募金を届けてくれる来客、被災地から要望のあった物資の調達、避難所アンケートの集約など等、その日その日の仕事におわれました。4月下旬になり仕事も一段落してくると、何をしたら被災地障がい者の支援になるのだろうかということを考えるようになりました。 そんな折、被災地を視察する企画があると聞き、これはよい機会だから是非参加させていただこうと思ったわけです。前から被災地に行きたいとの気持ちはあったのですが、ボランティアでもなくただ見たいだけでは現地の迷惑になると思っていましたが、それでもいいよとの声に背中を押されてでかけました。
1日目(5月12日) 原発被災地…郡山
ほとんど いつもの見慣れた町並みでしょう…
私たち普通の生活をしています。マスクをしているのは外から来た方です…
でも、今も震災は進行形です。
原発事故のフクシマ入りは放射能と向き合わなければなりません。でも60才過ぎはとりあえず は構えなくてもすむ身です。目には見えないものの怖さを改めて実感する一方、当地で暮らす方達 の不安もまた改めて痛感しました。 「JDF被災地障がい者支援センターふくしま」を訪問
代表白石さんと岡部さんのお話
- 県内の被災障がい者の支援は一本化して行おうと趣旨で、JDF(日本障害フォーラム)被災地障がい者センターを設置
- 今日までの活動報告
- 安否確認と被災状況報告
- 物資搬入とニーズの調査
- 避難所への支援センターの広報活動
被災者が避難所から地元に戻り始める
- チラシの効果が出始める
- 南相馬市の情報開示を受け、聞き取りを始める
- 福祉避難所設置の検討
- 2次避難所は個別化され、情報が入りにくい。
私のメモから
- 障がい者やその家族は、どこに避難したのか
- 支援する人も被災者である
- 被災地の状況で、障がいが重くなった
- この際、施設入所を勧められた(親からも)。社会的入所ではないか
- 今も続く将来への不安
~~~つづく~~
救援本部東京八王子支部
高木
支援センターいわて報告
被災地障害者支援センターふくしま 報告
4月26日火曜日
代表白石、ほかスタッフ2名
川俣町の主な障がい者の事業所を3つとILセンター福島を訪問しました。
午前中
福島県川俣町のNPO法人 達南精神保健福祉会地域活動支援センター 訪問。
けが人は無かったが、元の建物が古く、移転をされたそうです。
移転先の施設改修はまだで、トイレなどの改修が必要ですが、費用負担が重いので大変とのことでした。要望内容を受け取り、今後の協力関係を確認しました。
昼
段差がない地元食堂へ行く。麺類のみ提供できるとのことでした。お店の方の話では小麦がないとのことでした。
午後
地域活動支援センターめぐみ も移転を余儀なくされた事業所でしたが、事業再開の状況確認をできませんでした。移転先に訪問したのですが、まだ再開してないご様子でした。(訪問当時の状況)
特定非営利活動法人 川俣町セルプかえで 訪問。震災の影響で、4月に入って移転。しかし地下水が、余震のたびに濁るため、飲み水の確保が必要とのこと。
保管場所もあるため、物資の供給手配を行いました。
また市内一部が計画的避難区域となり、風評被害に困っているとのことでした。
ILセンター福島 訪問
状況報告、意見交換を行いました。
ピアカウンセラーの派遣を希望されていました。
埼玉県内を視察
埼玉県にある「さいたまスーパーアリーナ」が避難所として貸し出されてから約1ヶ月の月日が流れ、そこに避難している方々たちは埼玉県の各所へ移られた。被災地支援はもちろんのことながら関東圏へ避難している方々への支援も考えなくてはならないと思い、事務局から5名で日帰りの視察を行いました。
大震災から今までの経過を聞きに埼玉県庁へ足を運ぶ。
県庁では福祉監査課の湯村さんに対応して頂きました。
埼玉県では、震災後福島県浜通り地方の住民の方々を中心に「さいたまスーパーアリーナ」へ避難を受け入れておられ、物資提供も県からされていました。「さいたまスーパーアリーナ」では、当初2963名の方々が避難され3月末日をもって閉鎖となり、埼玉県内の長期利用が可能な避難所へ皆様移動されていったようです。
その後、「三郷市瑞沼市センター」へ足を運びました。こちらは福島県の広野町の方々が避難されており、三郷市の職員の方々が中心になって、動いていらっしゃっいました。三郷市の社会福祉協議会の方々、ボランティアセンターの方々が避難者のサポートに当たられている様子でした。こちらからはビラなどを置かせて頂きました。
県庁で「障害者交流センター」に避難されている障害者の方がいらっしゃるかもという話を聞き、急遽向かうことに。時間も限られていたので、こちらのビラを貼って頂くなどご協力して頂きました。
最後に福島県双葉町の皆様が避難している「旧騎西高校」へ行ってきました。こちらには、1300名が避難されておられ、双葉町役場自体が町民の方々と避難されていました。役場の機能はこの避難所で再び動き出している様子でした。こちらでは、健康福祉課の佐竹さんに対応して頂きました。佐竹さんにはこちらの主旨やこれまでの活動を説明し、快くビラを受け取って頂きました。旧騎西高校内の様子は、各教室は避難者の居室、体育館は物資の保管、講堂は交流のために使われていました。講堂の前では、「スターバックスコーヒージャパン」の方々が避難者の皆さんにコーヒーを配っていらっしゃいました。
今回の視察では、こちらのビラ、ポスター、名刺の配布と今現在の状況についての情報収集に留まったが、この地道な活動がやがて大きなつながりへと発展できるよう今後も活動を続けていきたいと思います。
(こ)
「被災地障がい者センターみやぎ」
現在被災地障がい者センターみやぎ
代表 及川 智
2011年3月11に起きた東北地方太平洋沖地震は、東北から関東にかけての広範囲で未曾有の被害をもたらしました。
このかつてない災害で被害を受けた障がい者の救援を目的に、下記の通り14団体で「被災地障がい者センターみやぎ」を設立しました。
被災地障がい者センターみやぎは、「東北関東大震災障害者救援本部」及び阪神淡路大震災を教訓に生まれた「NPO法人 ゆめ・風基金」の全面的なバックアップを受け、宮城県内の被害状況の調査、ニーズの把握、金銭的・物的・人的救援を考えています。
障がい者が避難できているか、避難所で暮らせているか、日常活動の場所などに破損はないか、必要な物資はあるか、などという課題が、置き去りにされがちになります。
そうした困難やニーズに対して、迅速かつ細やかに「顔の見える関係」「つながり」を大切にしながら救援物資や救援金・人員をお届けしたいと思います。
つきましては、このセンターを周知していただくとともに、情報をお寄せ願います。
1.名称
被災地障がい者センターみやぎ
2.目的
被災地の障がい者の救援
3.活動内容
①被災された障がい者への物資、支援金・人員の提供
②被災された障がい者に関する情報収集・提供・情報交換
③被災された障がい者に関する調査・行政などへの政策提言
4.事務局開設時間
10:00~18:00(FAX受信は24時間対応)
■大地震大津波の影響を受けた障がい者団体のみなさまへ
被災状況をお知らせください
被災地障がい者支援センターみやぎは、ゆめ風基金(阪神淡路大震災救援活動を教訓に生まれた被災障害者支援団体)と協力し、今回の災害によって障がい者市民が被災された状況、障がい者活動拠点の被災状況、救援活動などについて、情報の収集に努めております。
各障がい者活動拠点の建物や設備等に被害がある場合、あるいは被災障がい者救援にあたる場合などは、救援金、物資、人の派遣など必要な支援をお届けしたいと思います。
下記欄に必要事項をご記入の上、FAX返送ください。(FAX022-248-6016)
お忙しいところすみませんが、どうぞよろしくお願いします。
・団体名
・連絡先住所
・メール
・電話
・FAX
・団体の概略
・被害の概要・被害額・障がい者救援活動の概要
★詳細はこちらのページをご覧ください
仙台市太白区長町1-6-1
CILたすけっと気付
TEL 080-3303-3130/080-3303-3131
FAX 022-248-6016
E-mail:cil.bussi★gmail.com(★→@に変えて送信)
茨城県視察
北茨城市
- 災害ボランティアセンターおよび市の社会福祉課を訪問。生活は災害前に戻り、ボランティアの活動は、瓦礫撤去作業と支援物資の仕分け作業のみ。障害者の安否確認は取れていて、支援は必要ないとのこと。
- 街の様子:屋根瓦にブルーシートを掛けている家屋が2割程度。また沿岸部でところどころ津波被害の家屋が見られた。床上浸水程度か。
高萩市
- 総合福祉センターを訪問。災害総合相談窓口にて「本日(21日)すべての避難所が閉鎖された」と聞く。障害者、高齢者の安否確認済み。支援の必要性はない、とのこと。
- 街の様子:ところどころ道路が陥没・隆起。屋根瓦がブルーシートで覆われている家が1割弱。
ひたちなか市
- 途中東海村で原発に立ち寄る。入り口はバリケードが張られ、物々しい雰囲気。
- ひたちなか市社協を訪問。避難所はなく、市民活動も平常時に戻っている、とのこと。宮城県行きのボランティアバスの張り紙がされており、余裕が見られた。
- 街の様子:ところどころ道路が陥没・隆起。屋根瓦がブルーシートで覆われている家が1割弱。
大洗町
- 町役場の福祉課を訪問。安否確認は取れており、町内に作業所や福祉施設はもともとない、とのこと。
- 街の様子:港で津波被害の痕が見られた。フェリー乗り場が封鎖されており、港にあるショッピングモールの1階部に津波が入った様子。住宅地には大きな被害は見られなかった。
蓮舫大臣がJDF東日本大震災被災地障がい者支援センターふくしまを視察
第2期 現地視察
4月7日(木)から2泊3日のスケジュールで福島県郡山市、南相馬市に行って来ました。 東北関東大震災より約1ヶ月の月日が経ち、ライフラインの確保であろう東北道の補修が進んでいるように見受けられた。
4月7日(木)八王子を出発し、約6時間で福島県郡山市へ到着した。その足で富岡町、川内村の方々が避難している「ビッグパレットふくしま」へ向かった。到着したのがお昼時ということもあり裏の出入り口には、食事の配給を待つ人で長蛇の列ができていた。中の様子は、エントランスに皆さん各世帯ごとにダンボールで仕切りを作り、そのスペースで寝起きをし、食事をとってらっしゃるようだ。 各フロアのエントランスも同様だった。各フロアを回る中で、障害者の方に会えるかどうかくまなく探したが会うことができなかった。「ビッグパレットふくしま」の事務局に現状を聞いてみることに。事務局では、7割程度避難者を把握しているようで、避難者の選別なく受入れているので新しく避難された方についてはまだ把握していない部分がある。福島県全体の避難状況は、震災で避難し、原発で避難しというような流れで避難所を点々とすることが震災後あったようで避難状況を掴めていないことが各地でもまだまだあるようだ。
「ビッグパレットふくしま」から「郡山市社会福祉協議会」へ移動。郡山市社会福祉協議会では一時貸付金などで長蛇の列ができていました。担当窓口で市内の障害者の状況を聞いたのですが、まったくわからないという返答でした。足早に「オフィスIL」へ向かうことに。
オフィスIL代表の白石さんを中心に、岡部さん、宮下さん、杉田さんから郡山の現状を聞きました。「総合相談窓口」の開設、障害当事者の避難所から地域へ戻ってきてからの支援、「JDF被災地障がい者支援センターふくしま」の取り組み、郡山市に在住している障害者の名簿の開示を交渉しているなどの情報を聞きました。4月8日(金)今日は朝から南相馬市にある「デイさぽーと ぴーなっつ」の青田さんにお会いしに郡山市を出発する。「デイさぽーと ぴーなっつ」さんは、第1原発半径20km~30km間に位置しており、そちらは屋内退避となっている。青田さんからは地震発生からこれまでの状況をお聞きすることが出来ました。南相馬市は原発問題発生時、大混乱に陥り、「バスによる退避」「ガソリン10リットル給付で各自家用車での避難」「留まる」これらがすべて自己責任と市から言われたようです。青田さんは「その当時、市のできうる最大限だった」と思うとおっしゃっていました。全人口7万人から6万人の人が避難されたようです。知的障害をお持ちの方で、避難している車中でてんかん発作で亡くなった方や避難所で亡くなっている方が数名いるそうです。
青田さん達は、細かなニーズを聞いているうちに避難しおくれて今にいたるようです。 今現在の南相馬市は、避難所から8千人の方々が戻って来られ、1万8千人の方々が生活をなさっているようです。この避難所から戻って来られた方々の多くは、避難所での今後の展望や肉体的、精神的に限界を迎えた方々がほとんどです。生活用品や食料品は地元のスーパーの人が東京や近隣の県へ仕入れに行き、お店を開け、そこへ買いに行き生活を皆さん営んでるようです。 「デイさぽーと ぴーなっつ」の利用者の多くは、知的障害者や重複障害者の方々で、その本人やご家族から再開して欲しいという要望をたくさん頂き、4月11日(月)より再開予定だそうです。なれない避難所生活より知的障害者や重複障害者の方々にとって、「いつものデイに行きたい」「仲間に会いたい」という気持ちの方が強く、「通いたい」という声をたくさん青田さんは聞いている様子でした。
その後、青田さんに案内をしてもらい、福島県浜通りの状況を見に行くことに。 沿岸部は想像を超えた状況で、「ヨッシーランド(高齢者入所施設)」、「火力発電所」などを車で見て回った。 今回の訪問で被災地で起こっていることがよくわかった。それと同時に、今後どのような支援を行っていけば良いか新たな苦悩も出て来た。 しかし我々に退路はなく、進むしかないのだと強く心に思った。
日の当る土地は田畑に、自分たちは日陰に
4月1日、地震から3週間たったこの日、仙台市太白区のCILたすけっとを訪問した。東北道は多少の凸凹はあったが復旧しており、八王子から5時間程度で到着した。
出迎えてくれたスタッフの笑顔にほっとしつつ、割れた自動ドアに地震当時の怖さを感じた。さっそく乗り付けたトラックの荷台から布団や経口栄養剤などの物資とヘルパーの足にと寄付された原付を降ろす。事務所に入り、暖かいせんべい汁をご馳走になりながら、この3週間の話しを聞いた。スタッフは無事であること、市内のライフラインはほぼ復旧し日常生活は営めること、今後近くの市所有地に仮設住宅ができるだろうから介助派遣で支援していくことなど。
4月2日、多賀城市と石巻市の避難所を訪問した。
「やるべき事は、現場を見たらわかる」という佐野さん(ぽてとファーム)の言葉通り、避難所は多くの問題を抱えていた。
多賀城市文化センターは避難者で足の踏み場はなく、むっとする空気で溢れている。和室に入室できた人やロビーのソファーが使えた人はまだ良いが、多くは堅いタイル敷きの廊下にダンボールとせんべい布団を敷いて寝起きをしている。一目で、高齢者や障害者が長期生活ができるような環境ではないとわかる。畳やソファーなどは、高齢者・要介護者の優先使用などの配慮はあったのだろうか。
タイル敷きの廊下の片隅で、ダンボールの上に敷かれた布団がシワ一つ無くきれいに折りたたまれている光景に目を奪われた。辛い避難生活の中にありながら、身の回りのものを整える事を忘れない心遣いが、とても痛々しく、胸がしめつけられた。
避難所生活の壮絶さを初めて目にして言葉もなく、ただ石巻市へトラックを走らせた。津波被害にあった石巻市立病院の患者が避難しているという遊楽館(ゆうがくかん)を目指す。ここはスポーツ施設で、体育館がある。体育館に150~160人の患者がきれいに並べられている(言葉通り、並べられている)のだが、ついたては一切無い。説明によると看護師やヘルパー等の人手が足りず、ついたてがあると患者の急変に対応出来ないからだ、という。
人手不足を解消するために、近所の中学生がボランティアで手伝いに来ており、布団の間を歩き回りながら、患者が手を挙げたら看護師を呼ぶ役割を担っていた。ついたてがないと言うことはプライバシーが無い。オムツの交換が必要な患者は、その場で布団をはぎ取られ、下半身を露わにされてオムツ交換となる。それが、中学生の目の前で行われている。
4月3日、福島県に移動し、福島市、南相馬市、郡山市を訪問。
福島市ではILセンター福島の中手さんと設楽さんを訪ねた。マスコミ報道でも知られているが、福島市は第一原発から30km圏外であるが放射線の測定数値はきわめて高い。中手さんの話しでは、殆どの家庭で子供を他県の親類縁者の所へ避難させていると言う。
「今後、福島県出身だというだけで結婚できない、という福島差別が起こるだろう」
という言葉に、福島の人達が抱える恐怖を垣間見た。
114号線を東へ走り、南相馬市に入る。街は閑散とし、商店は閉まり、人気が無い。とりあえず、と市役所へ行く。日曜日にもかかわらず多くの市民が住民課を訪れていた。転居届を出しているのだろう、と思った。
ボランティアの受付は社会福祉協議会へ、という張り紙を頼りに社協へ。ここは救援物資の受け付け場所にもなっていた。トラックのナンバーが八王子なので気になった、という男性が話しかけてきた。この男性も八王子からボランティア活動を行うために来たという。
男性によると、この物資受付所で10名程度が活動しているが、南相馬市の人は1人だけで、他はボランティアらしい。物資倉庫となっている講堂の中を見せてもらうと、私設の倉庫程度の物資しかなかった。これで現在市内に残っている2万人の市民を支えるのは無理があるだろうと思った。
話しを聞くと理由は原発だ。隣の相馬市なら行ってくれるドライバーはいても、南相馬市へと言うと一様に断わられるらしい。そこで、現在はボランティア達が相馬市の倉庫へ物資を分けてもらいに行っていると言う。
海岸へ向かい、津波被災地を見た。家も田畑も、道路のアスファルトも、高圧電線の鉄塔までも流されてしまった現場で、ゴルフクラブを手に泥の中を歩く住民の姿があった。津波から3週間、毎日何かを探し歩いているのだろう。涙があふれた。
郡山市へ向かう道中、浪江町へと続く道路が警察車両によって封鎖されているのを見た。
オフィスILを訪問。
4月4日、いわき市と田村市を訪問。
原発から20km圏内の川内町等の人々が避難しているビッグパレットふくしまを訪問。1万人ほどの人が避難生活をしているという。施設内には、人目や寒さを防ぐためダンボールで作った小屋が建ち並ぶ。工夫を凝らした生活に、長い期間ここで寝起きしていることが読み取れる。
ここで不思議に思うことが2つあった。一つは障害者の姿を全く見かけないと言うこと。人口の8~10%が障害者であるということからすると、800~1000人程度の障害者がいてもおかしくないのだが。もう一つは、介護が必要な方のスペース、と張り紙がされている場所が2階にあると言うこと。エレベーター前もダンボールハウスで埋め尽くされ、エレベーターが機能していないことが推測できるのだが、どうやって要介護者が2階へ移動するのか、不思議である。
日のある内に被災地を見ておきたくて、いわき市へと急いだ。途中雪が降ってきた。
いわき市もライフラインが復旧しつつあり、街には部活帰りと思われる自転車通学の学生が集団で走っていた。CILいわきには連絡もなく訪ねてしまったが、長谷川さんが快く出迎えてくださった。CILいわきは現在新宿区の戸山サンライズに避難している。しかし、集団避難も時間的に限界があると言う。
曰く、事業を中断している間に一度はなれたヘルパーは二度と戻ってこない、という不安がある。なるべく早く戻り事業を再開しないと、今後の障害者の生活が保障できなくなる、と言葉を続ける。
原発の怖さは常に念頭に置きつつの事業運営となる。いざとなれば150人規模で集団避難できるルートと避難先を確保しなくては、と言う。しかし、いわき市全土が避難勧告が出ると言うことは、福島市も郡山市も同様であり、100万人が避難するということになる。それをどこで受入れるのだろうか。
その時点でも東京が全く原発被害を受けていないわけではないだろうし。
夕方、田村市に鈴木夫妻を訪ねた。
農家は土地を本当に大切にしてきたんです。手を掛けて可愛がれば、土地は応えてくれる。猫の額ほどの土地でも、他人の手に渡らないようにするために近しい親類縁者と結婚して、そうまでして守り抜いて来た。それを手放すのはどんなに辛いか。放射能に汚染された土地でも、見た目には全くわからない。それが悔しい。色が付いていたり、臭いがしたりしてくれれば、あきらめもつくのだけど。
鈴木(き)さんが、涙ながらに話してくれた。
言葉につまる妻にかわって、微笑みながら言葉をつなぐ鈴木(た)さんの
「福島は貧しいところなんです。日の当る土地は田畑にし、自らは日陰に住むんです。」
という言葉が、深く胸に突き刺さった。
多くの介護派遣事業所も被災し、利用者の安否確認が進んでいない。現在仙台と郡山に現地拠点を設置し、その作業にあたっている。
今後、仮設住宅のバリアフリー化、介助派遣の人材確保、ヘルパー講座の講師派遣、被災者の心のケア、ピアカウンセラーの派遣、原発被災者の避難場所の確保、などなど思いつく課題は沢山ある。
ひとつひとつ、しかし早急に進めていきたい。
(安達)
杉田さんからの報告
南相馬市の状況(動画)
滋賀県ぽてとファーム代表の佐野さんが、第4便として救援物資を届けに行った際に撮影された南相馬市の26日の状況です。
[埋込みオブジェクト:http://www.youtube.com/v/7dig6YTQTjE?hl=ja&fs=1]