R0012627.JPG カカシの足元一本足

2011年06月13日

スーパーノヴァか

なんか夕方くらいから風邪がぶり返してきやがりましてね。

熱っぽかったので、いつものロキソニンさん飲んで寝てたんですけど、急に今になって眼が冴えてきてしまった。
熱は下がったみたい。







ちょっと忘れない為のメモ的なものを書く。


なんか、一昨日井坂奈津子さんの作品を見てから、どうも自分の中であれがなんなのかが上手く掴めないのがもどかしくて仕方がなくて、おかしな話だけど、熱が出てなんとなくそれに気付けた気がする。
バンプオブチキンの唄みたいで自分でも苦笑いものだが。
実際それも聞いた。



井坂さんの作品に神々しさみたいなものを覚えたのは、純化されたものを感じたからだったんだけど、それが自分の中で当てはまるのは「赤ん坊」だ。
そう、赤さん。

よく自分の作品は子供みたいなものだという人は多いけど、それは制作者の愛着というノスタルジックでセンチメンタル(過程とか背景とか)な部分が被さって生まれる感情のことだと思う。
自分はそういうタイプかもしれない。

でも、井坂さんのは何か違う気がする。
その作品を創造する瞬間から、紙粘土が手に触れる瞬間からその愛情(というのが正しいかどうかはわからない)が育まれているのじゃないだろうかと思う。


僕は赤ん坊っていう存在に対して、少し恐怖感がある。

その繊細で純粋無垢なものという僕の認識が「うかつに触ってはいけないもの」という感覚を生み、いつも赤ちゃんの前ではたじろいでしまう。
いや、恐怖感というか、眩しいものに対して直視できず、目を細めてしまう感じと言う方が正しいかもしれない。

そういった感覚を井坂さんの作品にも感じたから、眩しさ、神々しさみたいなものを覚えたのかもしれないと、今になって思う。

紙粘土という素材は、その手に伝わる触覚に独特な一体感を感じさせるし、その扱いやすさから、感性の赴くままの造形をするに、まさにうってつけの素材だ。
素材としては確かに安価で、そこまでの強度もないが、かえってそこに「子供らしさ」みたいな無垢な表情を生み出すことに成功しているのだと思う。

僕は井坂さんの作品を「赤ちゃん」という捉え方をしてはいるが、作り手の彼女は母であって子供でもあるのだろう。



作品と言うものは本来なら観る人の直感を頼りにその良さを探るもので、こうやって何かに当てはめようとすること自体はあんまり良いことではないのかもしれないけれど、まあでもちょっとすっきりしたな。


もし許可が出れば、今度はその作品に触らせてもらえたらいいな、と、ちょっと思っている。


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