323, 「出羽三山歩き」と「鉄道の旅」 ( 六十里越旧街道 )
'10/10/23 (土) 晴
今日は「六十里越(ロクジュウリゴエ)旧街道」を歩く予定ですが、昨日の月山登山の後遺症?て両太腿・脹ら脛がパンパンに張っていて痛い。それに左足土踏まずに鈍痛がある。
マァ止めるわけにいかないので歩き出してみようか
Photo_22 5時方向にあるのが昨夜お世話になった「湯殿山ほてる」(何故カタカナを使わないのでしょうか 判りません)
宿からは国土地理院の地図にも載っていないようなルートを歩くが、観光案内所から送ってもらったルート図を頼りに歩いてみると、ルートはシッカリと付いていてこれなら安心して歩けそうだし、途中いろいろな名所?もあるようだ。
Dscn6153 ルートにはこのような標示板もあって、歩く者にとっては有り難い。
けれども擦れ違いは出来ず一方通行(笑)
Dscn6157 「塹壕跡」
戊辰戦争の時、官軍の来襲に備えて掘ったという塹壕跡
解説によると・・・ 『歴史に残る戌辰の役といわれる戦さが慶応四年(1888)の春から秋にかけて奥羽の各地で起った。
会津藩が落ちたあと幕府勢の最後の砦として残ったのが奥羽列藩同盟の主力である庄内藩だった。
庄内軍は自分の領内での戦闘を避けるため、積極的に領外へ進行して秋田・新潟・狩川・六十里越の要所を固めた。
六十里越街道は庄内進行を決定する最も重要な戦略地点であり、薩長軍(官軍)の主力はここに集中した。
最も激しく戦闘が行われたのがこの六十里越と寒河江地方だった。この戦いは春と秋の二回に分けられ、春は庄内勢が他の利をいかして優勢に立ったが、秋には庄内藩は降伏した。
六十里越街道沿線の村人は人足に駆り出され、終戦後も官軍の通行や庄内軍の差し出した武器の輸送にあてられ、村人の負担は非常に大きなものであったという。』
Dscn6162 「砲台跡」
同じく戊辰戦争で官軍を迎え撃つために砲台が設置された跡
塹壕跡も砲台跡も、いつヤッテ来るか判らない敵をこんな所で待つのは心細かろうなぁ
Photo_23 歩きながらの色模様
Dscn6166 「湯殿山神社遙拝所」
からの望遠。
街道を歩く人たちは街道から少し外れるが、この高台に登って遙かに見える湯殿山神社に参拝したのだろう。
Dscn6178 「旧街道」
このU字形の路は、今春歩いた「塩の道のウトウ」と同じなのか?
ここでは少しでも路が平らになるよう削り取った と言われている。
一方の「塩の道」では、ボッカや牛馬が歩いて自然と凹地に変わってしまった となっていたような・・・
Dscn6171 「細越峠」
標高は900メートルだそうだがその様な標識は無かったようだし、視界が開けているわけでもなくそのまま通り過ぎる
Dscn6183 「護摩壇石」
弘法大師がここで火を焚いて祈祷祈したといわれている所で、湯殿山道普請供養塔が建っている。
Dscn6187 「千手ブナ」
と呼ばれているもので、枝が千手観音のように広がっているブナの巨木。
それにしても四方に枝を伸ばしている姿に惹かれる。
Dscn6195 「弘法茶屋跡」
弘法大師が街道越えの途中で休んだ と言われている。
ここにはトイレ(水洗)も有るし、ベンチもあった。(トイレは自主判断だが有料)
Dscn6200 「蟻腰坂の出入口?」
蟻腰坂は急坂のため蟻のように這って上らなければならないことが名前の由来と言われている。
幸いなことに私はここを下ってきたわけで、村道?から蟻腰坂を撮ったもの。
右に小さな小屋があるが、これは登山者名簿を記入し、これに入れるらしい。
Dscn6198 「七ツ滝」
蟻腰坂を下ってきて村道を左に少し登ると「七ツ滝」が良く見えた。
そしてここはもう「田麦俣(タムギマタ)」の集落である。
Dscn6203 「田麦俣番所跡」
田麦俣には内陸から入ってくる者と、庄内から入ってくる者に対する番所が2ヶ所置かれていたそうで、ここがその跡らしい。
が何故時計なのかが判らない。
Dscn6213_2 「田麦俣の多層民家」
多層民家として有名な田麦俣も、今は2軒を残すのみだそうです。
昔は、このあたりの民家はすべて茅葺だったそうでだ。
いずれも江戸文政年間の築で、当初は寄棟だったが、明治に入って養蚕が盛んになり、かぶと型の屋根に改造された とのことで、1階は住居、2階が下男の住居兼作業場・物置、3階が養蚕作業場で、4層構造 とのこと。
Dscn6206 或る1軒を撮ったもの。
〜〜〜〜〜〜
ここまで歩いてきたが、どうも両足の脹ら脛と太腿が張っていて痛い。
マァ歩けないことはないが、これから先も距離としては可成りありそうなのでギブアップすることに決めた。
(一人旅はこの様な気楽だから止められない とは負け惜しみ)
なお、この街道では「塩の道」とは違って数人の人と擦れ違いました。
それにしても今春の「塩の道」と今回、続けてのギブアップはナサケナイ !!
【 続く 】
2010年11月 6日 (土) ★ 出羽三山と列車の旅 | 固定リンク
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コメント
足にまめが出来るほど歩くとは! 凄い体力、気力ですね。
「多層民家」これは重要文化財にでもなっているのでしょうか? 自分の足で一つ一つ名所を捜し歩くというのは、大変でしょうが、巡り合ったと言う感動ものですね。
投稿: お玉 | 2010年11月 9日 (火) 15時48分
お玉さん、コメントを有り難うございました。
下記もパクリです。
『日本海に面した庄内地方と内陸部を結ぶ「六十里越街道」の中間点であった「田麦俣」は湯殿山神社への参拝客が立ち寄る宿場町としての性格を有していた。
また、豪雪時の出入りを容易にするためと、山間地であるため広い敷地の確保が困難なことから、三層構造で居住空間と客人を泊める空間を立体的に確保した茅葺きの建築形式が発展した。
これらの民家は明治に入り養蚕業が盛んになると、2階・3階部分の採光と通風を確保するため、寄棟屋根の平部分には屋根窓が設けられ、妻面側は屋根を垂直に切り上げた兜造りへ改造されるようになった。
1965年に致道博物館へ移築された旧渋谷家住宅は1969年に「国の重要文化財」に指定され、1974年には「旧遠藤家住宅が山形県指定有形文化財(ブログに載せた写真の家)」となっている。
この田麦俣で土地の人と話をしたのですが、「最近のことだが、クマが道を歩いているのが目撃された」とのことでした。
投稿: 北村 | 2010年11月 9日 (火) 22時34分
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