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September 16, 2005

総選挙結果を見て

日曜日に行なわれた総選挙で、自民党が、公明党とあわせて議席の3分の2を取った。そして当選した8割の議員が「改憲」派だという新聞報道もある。

すごい時代に生きているものだ。「憲法を変えて戦争に行こう、と主張する議員が増えた」とか、そんな大括りで物を言いたくないけれど、これまで作られてきた法律の数々や、これから作られようとする法案の数々が、あの人たちによってなされることを想像するだけで、ため息がこぼれる。

障害者自立支援法。「社会保障制度がその利用者の「自立」を「阻害」してきた」なんて言い分を、私たちは受け入れてしまうのだろうか。「この穀つぶしが」という言葉を障がい者に向けて発する心性に、私たちの政府が後押ししようとしているように思えてならない。

イラク自衛隊派兵。小泉首相がイラク派兵を決めたことを首相官邸で語った2年前のあの日のテレビ映像を思い出す。戦後初めて日本の軍隊の名で外国に派兵することを決めた時、彼は「国民に問いたい」とは言わなかった。憲法九条との齟齬が明らかにあって、支持を集められないと思ったからだろう。最高法規の憲法も立法府である国会も無視して、内閣(行政府)の決定のみで、自衛隊員たちはイラクに連れられていった。彼らの生命の危険は、そうして生み出されたのである。(民主党は今回、「12月撤退」を主張した。このことの持つ重みに、有権者がもう少し自覚的であるべきだったと思う。)

「共謀罪」。ウワサや冗談ですら警察の取り締まり対象にしてしまう「共謀罪」。この間、各地自治体で条例化されつつある「生活安全条例」の類と、この「共謀罪」は連関する。これら法案や条例は、「普通の市民」という主体を生産しながら、そこから外れるものたちを、いつも「犯罪者」として遺棄しつづける。マイノリティが監視の下に置かれ、現場では警察が法を超越した権力を行使する。そんな社会が、刻々と生み出されようとしている。(この点では、人権擁護法案に反対する2ちゃんねらーやヲタたちに、僕は強い共感を覚える。)

沖縄基地移設問題。マスコミが選挙報道に熱心だった今月頭、防衛施設庁は来年度予算の請求を提出した。それは今年と同額、来年度も変わらず辺野古に基地を建設する意思を示している。決断が早くて信念を押し通すといわれる小泉首相が、沖縄では、アメリカの機嫌を伺い続けている。「日帝自立」論を主張するレアな左翼もいるけれど、僕は断固として、「アメリカ従属」論者だ。日本がアメリカに従属していないのなら、日米地位協定くらいすぐに改定しろと言いたい。

憲法改定。現行憲法では改憲には、衆参両院の3分の2の賛成の上に、国民投票で過半数が必要なのだそうだ。だけど日本には「国民投票」をするための法律がない。そこで今自民党が通したがっているのが、「国民投票法案」である。これまでこの法律が無かったこと自体、立法不作為だったと思う。けれど、自民党が作成している「国民投票法案」がどういうものなのか、知っている人はどれくらいいるのだろう?自民党案では、国会が国民投票を発議した後、デモや集会すらできなくなってしまう。投票日まで、有権者はテレビから垂れ流される自民党に都合のいい情報だけを受け取り、粛々と投票所に向かうことを強制されるのである。自民党案は、現行の公選法をもとに作られている。つまり現行の公選法自体が、選挙に関るデモや情報の発信という、人びとの自発的な意思表示や情報のアクセシビリティを押さえつけるものとしてあるのだ。そのことに、もっと目を向けなければならない。僕は、公選法改定と、自民党と異なる国民投票法の制定を、主張したい。

話が多岐に及びすぎた。それくらい、本当はこの選挙のなかで考えなければいけないことが多かったのだと思う。「小さな政府か大きな政府か」、「改革派か抵抗勢力か」、そんなことが私たちのくらしのなかでの願いや希望を語りうる言葉であったとは到底思えない。私たちに必要な未来に形を与えていく、そんな作業の、端くれにもなりえていないのではないかと思う。だけど、実際には小泉首相の発した言葉が、現在を変えてくれる魔法の言葉のように「取り違え」られた。そうして当選したくだらない議員たちが、我が物顔でテレビに出ているのを見ると、僕はまた、ため息をこぼしてしまう。

有事関連7法が国会を通過したのは、つい去年のことだった。いま、「政局」論議のかしましさのなかで、「国家意思」という、国家の制度的枠組みからは決して抽出できない超越的なマジックワードだけが、一人歩きを始めている。靖国問題や教科書問題における反「反日」ナショナリズムを見ればいい(何が「嫌韓流」だ、ばかばかしい)。ジェンダーフリーバッシングや外国人参政権批判を見ればいい(それらは、呆れかえるほど稚拙だけど)。「戦争反対」や「植民地支配への国家責任を」と叫ぶものは、「国家意思」に異を唱える「非国民」だとされ、「非国民」に「国家意思」が侵食されると恐怖を煽っている。あるいはまた、ナショナリズムや市場経済に批判的な言葉を手向けるものたちは頭の固いヤツだと言わんばかり。挙句は「机上の理想論や夢はいらない、現実主義的になれ」と一蹴されてしまう。だけど、ナショナリズムや市場経済こそが、いまを生きる一人ひとりの生活スタイルや意見を、たった一つの「型」に押し込んできたのではないだろうか?「現実主義」の言う「現実」とは、「支配的なルールに従え」という生き方の強制の上に成り立つ「現実」ではなかったのか?そんな生きぐるしい社会は、もういらない。

テレビでは選挙速報の合間に、ニューヨークでのテロ追悼式典の映像が流されていた。公式の式典にもかかわらず、マイクを握った遺族たちは、ブッシュへの批判を何度も繰り返していた。「テロ対策とブッシュが言い出してから、生活がますますしにくくなった。生きぐるしさを感じる」と。今からでも遅くはない。そうした生きぐるしさを出発点にしながら、いくつもの「理想」や「夢」にカタチを与えていく行動を始めようではないか。


追記:
総選挙では、最高裁判事の国民審査があった。
「従軍慰安婦」に対する国家賠償訴訟を棄却させた者、内閣法制局で盗聴法を策定した者、東京都が在日朝鮮人の雇用を取り下げた件の訴訟を棄却させた者・・・。知らないままに、信を与えたつもりのないままに、またぞろ、裁判官にとどまり続けるのだそうだ。
ふざけるな!

written by zappatista


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