ナショナリズム論(1) 国境や国籍にこだわる時代は終わったのか?
- 2014年5月11日
- 思想
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- 木下元文
国境や国籍にこだわらないの?
平成25年9月25日、ニューヨーク証券取引所で安倍内閣総理大臣がスピーチを行いました。
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0925nyspeech.html
ここニューヨークでは、イチロー選手が日米4000本安打という偉大な記録をつくりました。日本で海外の選手が活躍し、米国で日本の選手が活躍する。もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました。
世界の成長センターであるアジア・太平洋。その中にあって、日本とアメリカは、自由、基本的人権、法の支配といった価値観を共有し、共に経済発展してきました。その両国が、TPPをつくるのは、歴史の必然です。
この発言は、特に保守派と呼ばれる方々から批判されました。グローバリストの考え方であって、ナショナリストの考え方ではないように思えるからです。
ここで注目すべきは国境や国籍の役割、つまりは国家(ネーション・ステート)やナショナリズムの問題です。それらの問題について、思想的に理論武装をしておく必要があると思うのです。そうしておかないと、単にグローバル派とナショナル派では好みが違うといった矮小な話になってしまうからです。
ナショナリズムを論じるときの注意点
ナショナリズムを論ずるというのは、非常にめんどうくさい問題です。用語の定義が混乱しているということもありますが、国家(ネーション・ステート)やナショナリズムを近代と結びつけて単純化し、人類史における過渡的な現象としてとらえる傾向があるからです。
『キケロー選集〈8〉』に掲載されている『国家について』では、次のように解説されています。
スキーピオー(キケロー)によれば、国家(res publica)とは国民の物(res populi)である(一巻三九節)。国民とはなんらかの方法で集められた人間のあらゆる集合ではなく、法についての合意と利益の共有によって結合された民衆の集合である(coetus multitudinis iuris consensus et utilitatis communione soiatus)。
キケロ(Marcus Tullius Cicero, BC106~BC43)は紀元前の人物ですが、国家におけるナショナリズムの基本的なアイディアをすでに提示しています。
ナショナリズムを論じるときの陥穽は、どうやら国家(ネーション・ステート)やナショナリズムを近代と結びつける傾向の中にありそうなのです。
「ネーション・ステート=国家」説
ここで、保守思想家の西部邁(1939~ )が『Post
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