思想遊戯(6)- パンドラ考(I) 水沢祈の視点(高校)

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一つの神話があります。
例えば、それは"パンドラの匣"。
その物語では、神様がすべての悪を封じ込めた匣を、地上における最初の女性であるパンドラに渡します。それは、決して開けてはいけない匣なのです。開けてはいけないのなら、渡さなければ良いのにと思います。
話の結末は予想通り。開けてはいけない匣は、パンドラの好奇心によって開けられてしまいます。匣からは、ありとあらゆる災厄が飛び出します。パンドラはあわてて匣の蓋を閉めたため、最後に匣の底には希望だけが残ったという、そんな話です。
だから、人間はどんなに悲惨な目にあっても、希望だけは失わずに済むという...。この神話が基になって、開けてはいけないものをパンドラの匣と言うことがあります。

私は、私の中に、パンドラの匣が眠っていることを知っています。
それが開くとき、きっと、愚かでろくでもないことがもたらされます。
その瞬間を、きっと私は待ち望んでいるのです。

第一節 水沢祈の視点(高校)

ところが女はその手で甕(かめ)の大蓋(おおぶた)をあけて、
甕の中身をまき散らし、人間にさまざまな苦難を招いてしまった。
そこにはひとりエルピス(希望)のみが、堅牢無比の住居の中、
甕の縁の下側に残って、外には飛び出なかった。
雲を集めアイギスを持つゼウスの御計らいで、
女はそれが飛び出す前に、甕の蓋を閉じたからじゃ。
しかしその他の数知れぬ災厄は人間界に跳梁することになった。
現に陸も海も禍に満ちているではないか、
病苦は昼となく夜となく、人間に災厄を運んで、
勝手に襲ってくる、
ただし声は立てぬ――明知のゼウスがその声を取り上げてしまわれたのでな。
このようにゼウスの意図は、いかにしても避けることは叶わぬのじゃ。

ヘシオドス『仕事と日』より

第一項

わたしのこころは、少しずつ壊れはじめました。
原因は何だったのでしょうか? 正直、私にも分かりません。
わたしという器に、毎日すこしずつ得体のしれない液体が注ぎ込まれて、それがどんどん重くなって、わたしという器にひび割れが走ったのです。だから、だんだんと壊れはじめた私は、どこかで決壊するのを心のどこかで待ちわびるようになったのです。
私は、何かよく分からなかったのだけれど、許せなかったのです。
......何かを。何かが許せなかったのです。それが分からない私自身も許せなかったのです。訳知り顔の大人に、若者特有の理由のない苛立ちだと指摘されたとしても、言い返せるだけの言葉は持ち合わせていませんでした。だから、誰にも言いません。そんな指摘を受けたら、私は逆上してしまうでしょう。
だから、このまま壊れてもいいやと私は思ったのです。私は、親にも教師にも都合のよい子を続けながら、私という器がいっぱいになって、私が壊れるのを秘かに期待していたのです。
そうです。私の中には、悪魔が棲んでいるのです。私の内に住み着いた悪魔は、私の中で少しずつ成長していきました。私は、私の内に巣くう悪魔を怖れながらも、悪魔が成長していくことに喜びを感じていました。
私は、いわゆるよい子です。親や先生の言うことを素直に聞いていました。勉強も予習や復習をきちんとしていたので、成績についても文句を言われたことはありません。友人関係も、問題がある子はさけて、当たり障りのない子と付き合うようにしていました。だから、特に問題なく過ごすことができていました。私は要領が良かったのだと思います。そつなく物事をこなし、自然に優等生を演じることができていました。
だから、そのまま優等生を続けていけば良かったのです。そのまま真面目に生きて、良い大学に入って、良い会社に入って、良い結婚をして、良い人生を送れば良いのです。そのことに、一体何の不満があるというのでしょう? それは、理想的な人生なのではないでしょうか? それを棒に振るなんて、そんな馬鹿げた理由などあるはずがないでしょう?
真面目に生きて、良い大学に入って、良い会社に入って、良い結婚をして、良い人生を送るのです。そのことに疑問を抱いてはいけません。疑問を抱けば、それは一瞬で膨らんで暴発してしまいます。疑問を抱いてはいけないのです。
人生の意味など、考えてはいけないのです。でも、私の内に棲み着いた悪魔はささやくのです。

良い大学に入ること、良い会社に入ること、良い結婚をすること、それって、本当にそんなに大事なことなのかな? そんなことが、本当に良い人生を保証してくれるのかな?

悪魔は私にささやきます。
マンガやアニメなら、こんなときに悪魔と戦う天使が現れて、両者が戦ってくれます。でも、私の内には、どうやら天使はいないようなのです。だから、悪魔はゆっくりと時間をかけて、楽しむように私にささやくのです。悪魔の言葉は私を揺さぶります。
ああ、そうです。悪魔は邪悪な存在です。悪魔は邪悪な言葉を吐くのです。
ああ、しかし、悪魔の言葉は邪悪ですが、それが真実であることが私には分かるのです。邪悪な真実が、私を揺さぶるのです。悪魔は、私に優しくささやくのです。

そんなことじゃないだろう?
あなたが求めていることは、きっと、もっと違うことじゃないのかい?
そんなことでは、きっと、ないはずだよ?

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西部邁

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