新自由主義の行方とその先
- 2013年12月16日
- 社会
- 新自由主義
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- 木下元文
2013年12月2日、国立京都国際会館(京都市左京区宝ヶ池)で京都・国際シンポジウム「グローバル資本主義を超えて 〜Beyond Global Capitalism〜」が開催されました。
このシンポジウムでは、20世紀から21世紀初頭にかけて世界を席巻した「グローバル資本主義」を乗り越える方途を探るという目的から、新自由主義に対する批判が積極的に為されていました。確かに、新自由主義と資本主義が結びついたグローバル資本主義は、世界を大混乱に陥れたのです。
新自由主義は思想的学問的に敗れ去っている
では、その混乱の元凶である新自由主義は、思想的にどう位置づけられているのでしょうか? 細かい話は置いておきますが、シンポジウムの登壇者の著作を読めば、思想的には新自由主義のいかがわしさを適確に批判しきっていることが分かると思います。
つまり、思想的学問的な厳密性において、新自由主義は敗れ去っているのです。では、それで一安心と言えるのでしょうか? そんなことはありませんよね。まったくもって安心できるような状況ではないのです。では、それは何故でしょうか?
それは、新自由主義を長い間抱えて生きてきた者たち、新自由主義を高らかに歌い上げてきた者たち、そのような人たちは、論理的な批判などには耳をかさずに間違った思想を抱えて突き進むからです。そもそも、新自由主義というふしだらな思想に染まった人たちに、論理的な間違いを認めるという知的誠実性を求めるのが無理筋だとも言えるのです。ですから、新自由主義はマルクス主義と同じように、論理的な欠陥を指摘されても、それを後生大事に祭り上げる者たちによって延命してしまうのです。
新自由主義の命運は尽きています。ですが、その延命がどこまで続くかは未知数です。ケインズを真似て言えば、「長期的には我々は皆死んでいる」のです。不幸を招く思想には、その延命装置を外して一刻も早く退場してもらわねばなりません。このシンポジウムは、その一助になる有意義なものだったと思います。
新自由主義という思想が退場した後の世も考えておかなければならない
さて、新自由主義批判ももちろん大事なのですが、その先についても考えておかなければなりません。
例えば冷戦構造下では、保守主義者は自由主義者と組んで社会主義者と敵対しました。そのとき、保守派が自由主義との連携を一時的なものと見なしておけば良かったのですが、自由民主党が保守政党だと言われているように、大多数の保守派は自由万歳を疑うことがなかったのです。そのため、新保守主義と新自由主義は見分けがつかなくなるほど似通ったものに成りはててしまったわけです。
その苦い経験を顧みれば、新自由主義という思想が退場した後の世について考えておかなければならないでしょう。例を挙げれば、シンポジウムに先だって発売された『Post
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