火縄銃
火縄銃(ひなわじゅう)とは、日本人の魔改造技術と変態的な執念でガラパゴス的な発達を遂げた銃器である。
概要[編集 ]
元々は15世紀辺りにドイツで生まれたマッチロック式マスケット銃が、「火縄」を用いる点火方式であったことからこう呼ばれる。ただし火縄は「携帯しにくい」「湿気ると使えない」「夜戦では位置が丸見えになる」とデメリットが多すぎてすぐに廃れてしまった[1] のだが、こと日本に於いてはまったく廃れることがないまま何百年も使われ続けることになる。
そもそもの段階で日本の鉄砲技術は「ポルトガル人が捨てていったスクラップの火縄銃」をレストアした種子島から始まっているため火縄銃への愛着は強くてもおかしくないのだが、湿気が多く火縄には不向きなこの国で延々と先進技術へ発展しないまま使い続けたのは正しく執念のなせる技だろう。実際、フリントロックに繋がる着火機構は戦国時代の段階で既に実用化されており、転用しない理由はなかったはずである。しかし日本人はそれをせず、先鋭的な火縄銃を作り続けていった。二連水平式や複数銃身式(所謂ペッパーボックス)なども開発され、各地で職人が腕をふるっていたのである。
その後明治維新以降は欧米列強からの文化侵害で雷菅式小銃が国内に入ってくるようになり、また腕の良い職人が海外へ流出したこともあり普及量が江戸時代以降減少するものの、第二次世界大戦末期にも「国民簡易小銃」として生産されるなどその人気は高い。
性能の特徴[編集 ]
上記のような文化侵害により火縄銃は不当に低性能扱いされがちだが、日本における「戦争」の形態を考えそれに最適化して進化を遂げた高性能銃器であることは疑う余地がない[要出典]。デモンストレーションを兼ねた試し射ちでは基本的に「劣り弾」と呼ばれる口径の合わない廉価弾が使われることが多く[2] 、その火力も低く見えるのが通例だったのである。
その初速は現代の拳銃よりも早く、また障害物の無い平地で正面から大群をぶつけあう日本の戦において超遠距離戦闘などあり得ない為最大射程は200mあれば十二分であった。近距離での殺傷力は現代の散弾銃(スラッグ弾)をも上回り、フルプレートメイルが存在しない事もあって火縄銃は必殺の兵器として君臨することとなったのである。