滝川一益

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滝川 一益(たきがわ かずます)は、織田信長に重用されたスナイパー忍者 [1] 海賊である。彼の出自の謎は豊臣秀吉明智光秀をも超える。しかし残念ながら器用貧乏に定評があり、更には織田四天王の中で一番忘れられがちで記事作成も最も遅い悲劇の人物である。

概要[編集 ]

「かずます」が一般的だが「いちます」とある資料や子孫が「いちしろまるしろまる」を名乗ることから名前すら不確かである。当時は通称として「左近」と呼ばれていたが、後年島左近が爆発的ヒットを遂げたために広くは知られていない。鉄砲とコミュ力と海賊船と生まれ持った軍才がある一益が大量生産されていれば、光秀も秀吉も九鬼嘉隆柴田勝家もみんないらなかっただろうに。万能さを称されて「進むも滝川、 退くも滝川」という異名をとった。

前歴[編集 ]

近江甲賀の出身である。その家系は信長の乳兄弟・池田恒興の一族とも、戦国無双5でやっちまった中村一氏と同様の甲賀二十一家の出とも、更には後で述べるが人脈の関係から伊勢志摩 スペイン村出身ともいう。しかしどれ一つとして確実ではなく謎に包まれた出生を遂げている。

若年期[編集 ]

1525年に誕生。父は滝川資清(一勝)という。初め楽市楽座著作権を信長に奪われている六角定頼に仕えていた。しかし一益は博打を好んで借金まみれとなり、一族に追放されて尾張 ネバーランドに流された。また一説には鉄砲の達人で知られていたが河内で高安某を殺してしまい指名手配になって流浪したともいう。どっちにしても若い頃はヤンチャだったのだ。

信長との出会いは1550年代のダンスパーティーだった。一益は餓鬼の役で鉄砲ルーレットをしていたのだがこれに信長が一目惚れし、スカウトされた。おそらく信長のスカウト第一号であるとされる。鉄砲の射撃と製造技術を学んだとされ百発百中の腕前を披露することで召抱えられた話は、朝倉家における明智光秀と共通する。そして何故か「外様」ではなく「譜代」と表記される資料が多い、意味不明である。

無双開始[編集 ]

スカウトされてすぐに仕事が回ってきた。1560年桶狭間の戦いで大量に逝った家臣を補充するために柴田勝家や佐久間信盛と並び、家老として政務に駆り出されたのだ。これは余裕でクリアしている。同時に信長へ天下統一への道を作るため伊勢支配を進言している[2] 。こいつすげーわ。徳川家康との清洲同盟も担っている。長島城主の服部友貞の追放後城主となっている。

戦場に駆り出されたのは1567年からの北畠具教ら伊勢攻略である。一益は知り合いでのち一門の滝川雄利 [3] を通じて具教の弟・木造具政を調略し伊勢を攻略、戦後処理も恙なくこなしている。戦後は安濃津・渋見・木造の三城の城主となった。既にすごい。

1570年織田一族が尽く犠牲となった石山合戦長島一向一揆にも参戦し隙間を練っては一乗谷城の戦い[4] など各地を転戦している。1574年、3度目の長島一向一揆では「海賊大名」九鬼嘉隆と共に水軍を率い、ロシア軍が如く海上から射撃を行い貢献した。戦後推定20万ともなる北伊勢5郡を領地とした。このころには「老臣」として扱われ浪人出身とは考えられない出世を遂げている。

司令官として[編集 ]

1575年の長篠の戦いでは、鉄砲隊の総指揮を執り武田軍に壊滅状態ともいえる被害を与えている。越前一向一揆にも出向き1万人を狩っている。紀州征伐では雑賀衆第二次世界大戦並みの撃ち合いを行っている。1578年の第二次木津川口の戦いでは九鬼嘉隆が黒船6隻を率いる中で一益は白船1隻に乗りイキっている。なお、この戦で大活躍した鉄甲船建造の責任者は一益であった。有岡城の戦いにも参戦して鉄砲隊が乱射し、弓隊が町屋を放火しするなど荒木村重に対して精神的な攻撃を見せている。信長は勝利を確信して鷹狩りキャンプファイヤーを楽しんでいる。 木津川・有岡の二つの戦いの影響は大きく、戦闘坊主・下間頼廉を用する本願寺顕如も降伏に至った。

絶頂期[編集 ]

1580年、汁かけ飯で異常なほどディスられがちな北条氏政が信長に使者を送った際には代表として[5] 受付を行っている。この年佐久間信盛が追放されており、信長の精神異常が始まっている。大和の検地や伊賀攻めなども務め休む暇が一切なかった。

1582年の甲州征伐では武田勝頼を追い詰め、天目山で自刃させる大功を挙げている。この功績から一益はグンマー帝国と隣接する信濃小県郡・佐久郡を与えられ「関東御取次役 [6] という役職についている。しかし一益は老化による体調不良で苦しんでおり信長に引退を申し入れていたが、「まだ働けるじゃん」と一蹴されている。可哀想だ。

「関東八州の御警護」及び「東国の儀御取次」という仕事は高齢の一益には過酷であり、一益は領地よりも茶器の「珠光小茄子」が欲しいと愚痴ったが、信長に一切無視されている。 この話は当時の茶器流行を示すものとして知られているが、一方で信長による一族集権化・家臣の地方配置を示すものでもある。

グンマー帝国なんて本当いらないよ!って思うだろうけど、当時は50万石という日本屈指の超大国であったのだよ。でも地方で単身赴任はつらいよね[7]

破滅のフラグ[編集 ]

地方で頑張っていた一益の元に悲報が届く。本能寺の変である。一益は必死に隠していたが、忍者なのかアインシュタイン稲ちゃんなのか分からない風魔小太郎によって北条氏政が察知し、家臣の狩野一庵にニッコリと「北条はこれからも滝川さんとはダチっすよ」と言わせておいてグンマー帝国侵攻を進めていた。一益は「京都の情勢は、信長死去以後なんとも聞いてはおりません、別に変わったことはありません」と噓をついていたが内心怖かっただろう。

信長の野望で知っての通り、数の暴力を用する北条氏には勝てないことを前提で一益は「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ」と述べ、反乱を起こした藤田信吉を返り討ちにすると神流川の戦いで北条氏と激突、初戦は優勢だったが数の暴力には勝てず敗走した。

一益はグンマー帝国と信濃の武将の人質を解放し、別れの酒宴を開き、太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を与えると京都に帰った。なお道中一益が真田昌幸の老母を解放したことの昌幸は感動し、道中手助けをしており、一益は感謝している。一方木曾義昌は一益の通行を拒否し、一益は義昌に「通してくれれば佐久郡・小県郡の人質を進上しよう」ともちかけ、許可させている。真田昌幸は「表裏比興の者」と言われるが、人徳には厚い人物であると伝える逸話であり、のち滝川家との縁に繋がる。

終焉[編集 ]

帰ってみると勝手に清洲会議がされており、秀吉に「お前の席はねえからな!」と言われている。流石にキレた一益は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に味方し、領地の伊勢で秀吉方の大軍7万近くを相手に奮戦したが、肝心の勝家が敗北・自刃し、孤立した一益は降伏する。所領を全て没収され、出家の上で越前に謹慎させられた。悔しいですね。

小牧・長久手の戦いでは秀吉にこき使われて蟹江城合戦で活躍するが、忍者ハットリくんにいじめられ敗北している。

秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられ、自身にも3千石を与えられたが、嫡男の一忠は蟹江での敗戦の責任を負わされ追放されている。

その後、秀吉の東国外交を手伝い佐竹義重と手紙の交換をしている。なお一益は書状にて秀吉による小田原征伐を予告しており、関東諸大名が秀吉に臣従するきっかけを作っている。きっと北条氏への復讐だったのだろう。

1586年)9月9日に死去。享年は62。

失明した一益が、京都の寺から領国の越前大野への途中、今立大滝に立ち寄った際、かつて信長の越前一向一揆攻めの際に滝川軍に焼き討ちされたことを恨む大滝村民が襲撃し、一益は惨殺されたと大滝の地元では伝えられている。しかしこれは噓である。これは前波吉継という朝倉から織田へ寝返った武将で、どうしようもない政治家であったために同様な最期を遂げていてこの話が流入したとされる。

後日談[編集 ]

大名としての滝川家は滅んだが、一族や家臣は一益の武功を慕う諸大名によってスカウトされ、江戸時代に各地で栄えた。一益の孫・滝川一積は追放されて浪人であった一忠の子で、かつての縁から真田氏の元にいた。関ヶ原の戦いの際に石田三成の父・正継の猶子・宇多頼次と離縁していた昌幸の娘を託されている。大坂の陣で討死にした真田信繁の娘を養女に迎え、結婚の手続きを手伝うなど真田と滝川の繋がりは大きかった。のち一積は徳川秀忠に仕えたが、信繁の娘を養女として蒲生家[8] の家臣に嫁がせたことを咎められ、除封されている。しかし御家人としてつづいた。

脚注[編集 ]

  1. ^ 忍者の出身というのは論理の飛躍らしい。...カッコつけたって罰は当たらないじゃん、ケチ!
  2. ^ 信長が天下統一を宣言するのは1567年であり、一益の先見の明が見て取れる。
  3. ^ 彼も有能な指揮官である。一益死後の滝川家は雄利の血筋であり、幕末には大目付滝川具挙が出るなど大いに栄えた。
  4. ^ 後れを取って信長に叱責されているが、殆ど信長からのパワハラである。
  5. ^ 関東によしみがあったという。本当にあんたはなにもんだ?
  6. ^ 関東の治安維持に勤める「関東管領」の名だけバージョン。室町幕府の役職なのでこの時既に存在していない役職だ。
  7. ^ 蒲生氏郷会津若松で似たようなことを愚痴っている。
  8. ^ この頃、松山藩蒲生忠知の治世では内紛が起きており、騒動にまきこまれたとされる。
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