源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも、久安3年4月8日(1147年 5月9日) - 正治元年1月13日(1199年 2月9日))は、誰もが認める武士の中の武士、カリスマ将軍とされ、あの織田信長や徳川家康でさえ頼朝に臣下の礼をとってしまったほど権威がある(だけど、無学な豊臣秀吉は同じ天下人で友達だとか言ってタメ口をきいていたが、猿だからしょうがない)。但し頼朝の実体は関東の武士たちから体よく担がれたお神輿で、頼朝本人が見事な戦術で軍を指揮したりとか、敵の屈強な武者と一騎打ちして倒したりといった華々しい武勲はないし、死因は武士らしからぬ落馬であった。
鎌倉幕府初代将軍。一人称は「ボク」「僕ちん」(ひよこ陛下の御前でのみ「余」)。天皇家の親戚かつ親族(広義の皇族)である源氏総領家という尊い身分を持った人。京都生まれ、源義朝の三男で嫡男。お母さんは藤原南家出身の熱田神宮司の娘。
子は源忠頼(千鶴丸、生母の八重姫(藤原維幾の末裔の伊東祐親の娘)とともに継母の政子に殺害された)、源頼家、源実朝、大姫(木曾義仲の嫡子木曾義隆室)ら。
略歴[編集 ]
京都で生まれ育ち、後白河天皇の姉に宮仕えする。三男だったが、母親の家柄のおかげで跡継ぎとして育てられる。長兄の源義平は鎌倉にいて関東の武士たちを束ねて武勲を上げており、このままいけば頼朝と義平の兄弟紛争は起きてもおかしくなかった。しかし兄弟紛争が起きる前に父義朝が乱を起こして平清盛に敗れ、父も兄義平も死亡。頼朝にとって父はともかく兄が死んだことはまさに僥倖で、密かにニンマリしたが、それも束の間で清盛に捕まってしまった。源氏の跡継ぎとして死刑になりそうだったが、「これからは死んだ父と兄の供養で一生を過ごしますから、僕ちんの命をお助けください」と頼朝は心にも思ってないことを全力で主張して清盛に土下座哀願し、さらに頼朝にとって運がいいことにショタコン気味であった清盛の継母が「頼朝殿を死刑にするなら、断食して死にます」と強弁するので、清盛が折れて頼朝の命を助けて伊豆に追放した。なんで源氏の代々の縄張りである関東地方の伊豆に、わざわざ頼朝を追放したのかは大いなる謎で、歴史学者がいくら頭をひねってもわかっていない。清盛は関東へ行ったことがないので、当時は地図も不確かだし伊豆は関東からも遠い辺境だとでも思ったのだろうか。
さて頼朝は伊豆韮山の豪族・北条時政(中臣姓伊豆国造の系統の阿多見氏の系統)の協賛を得て、当時田舎の山寺だった修善寺を改造して一大温泉リゾート地に変えた。元々は伊東に温泉リゾート地を作ろうと構想していたのだが、頑固者の伊東の領主がせっかく頼朝が掘った温泉を埋めてしまったため、修善寺に温泉リゾート地を移したのである。これによって資金源をえたため、平家討伐を決意した。
鎌倉入りまで[編集 ]
伊豆で挙兵して、わずか300の兵で勇敢に関東の平家軍3000と戦うが、陣頭で「僕ちん」と発言したために味方の士気が低下して総崩れで敗れる(石橋山の戦い)。頼朝がお飾りでなくまともに軍を指揮して戦った唯一の戦とみられる。
頼朝を探していた平家方の梶原景時は「僕ちん」という人が頼朝なわけないだろうと思い、見逃した。海路、房総半島に逃れた頼朝だが、「源氏の血統」というだけで敗軍の将であるはずの頼朝の下には3万という大軍が集まり、源氏累代の本拠地である鎌倉に入った。景時は降伏を申し出たが、僕ちんの一件で弱みを握られていた頼朝は景時を重臣として重く用いることを約束せざるをえなかった。景時のほうでも頼朝に魅力を感じ、心から恭順した。
平家滅亡まで[編集 ]
さて鎌倉を制圧した頼朝を撃破すべく、京都から平家軍が押し寄せてきたので富士川を挟んで対峙した。平家軍の大将は清盛の孫の平惟盛である。
自分に戦の才覚がないことを十二分に悟っていた頼朝は、富士川でどう戦えばよいかわからずに逡巡しており、親戚の甲斐源氏に戦を丸投げして、勝ち戦になったらどや顔しとけばいいかなと皮算用していた所で、頼朝にとってまたしても運がいいことに早朝に飛び立つ水鳥の大群の羽音を奇襲と勘違いした平家軍は戦わずして総崩れとなって逃げ去った(富士川の戦い)。狂喜乱舞した頼朝は、平家軍を追って京都へ攻め上ろうと勢い込んだが、家臣である関東の武士たちが「まずは関東を平定して足場を固めるべきだ」と一斉に反対。彼らは表向きは頼朝の家臣となってはいるが、頼朝の事実上の「スポンサー」であり、スポンサーが手のひらを返したら自前の領地も兵もいない頼朝は何もできずに破産するしかないという実態をよくわかっていたので、頼朝はスポンサーの意向に従って関東平定に努めることになった。また、この富士川の戦いの直後、東北地方に落ちのびていた弟の義経と初めて対面を果たす。頼朝は義経に自分にない戦の才能を見出し、やがて戦を丸投げするようになる。頼朝が関東を平定している間に、頼朝のいとこである木曽冠者の源義仲が平家を追い払って京都を制圧したが、しょせん木曽の山猿に京都を統治する能力はなく、後白河法皇が頼朝の夢枕に降り立って上洛と木曽討伐を要請してくる。そこで義経に上洛させて義仲を殺害し、京都を占領する。
その後、頼朝は自宅警備員と称して鎌倉に残り、戦を義経ともう1人の弟の範頼に丸投げする。一ノ谷、屋島において義経のエクストリーム・かくれんぼで平家の裏をつき、平家を壊滅させることに成功した。(一ノ谷の戦い)、(屋島の戦い)さらに、壇ノ浦ではボート競争の末に、平家を滅亡させる(壇ノ浦の戦い)。ところが義経が後白河法皇のマインドコントロールを受けるようになってしまう。
奥州合戦まで[編集 ]
後白河法皇のマインドコントロールにやられるものは増え、頼朝は仕方なくマインドコントロールされていた24名の武士に罵詈雑言を浴びせて関東から追放を命じる。そして後白河法皇のもとへ北条時政を派遣して恫喝し、義経追討令を無理やり出させた。頼朝は義経を全国指名手配犯とし、全国各国に朝廷ではなく頼朝自身が任命した守護・地頭を設置して義経捕縛へ動いた。最近の歴史研究ではこれが鎌倉幕府の始まりとみなされ、頼朝が将軍になった年の「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」ではなく、守護・地頭が設置された年の「1185(いいはこ)作ろう鎌倉幕府」が新しい語呂合わせとなっている。しかし平家との戦いの中で技を極めた義経のエクストリーム・かくれんぼを破ることができず、義経は少年時代を過ごした東北地方(奥州)の主、藤原秀衡に匿ってもらう。ところが、またまた運がいいことに藤原秀衡はすぐに病死。義経を将軍にして頼朝と戦うようにと、跡継ぎの藤原泰衡に遺言していたが、泰衡にその気は全くなく、泰衡は義経を衣川で誅滅した。
泰衡は頼朝から恩賞をもらえると能天気に思ったようだが、頼朝は義経も秀衡もいない奥州なんて楽勝だなと冷笑し、今度は義経を殺したのを理由に、奥州に対し戦を仕掛ける。 泰衡は殺した義経のエクストリーム・かくれんぼを使い、玉造郡に頼朝の軍がきたら逃げ、多加波々城も攻められたら即逃げた。さらに平泉でも自分の館を焼き、逃げる。しかし義経のようにうまくいかず、ついに青森県で自分の家来に殺されてしまう。俗にこれを奥州合戦という。これで頼朝の天下統一は実現した。
その後[編集 ]
ようやく頼朝は自ら上洛して後白河法皇と、夢枕ではなく生で会見する。法皇は得意のマインドコントロールを頼朝にも試みる。しかし頼朝はこれを避け、法皇は逝ってしまった。これにより頼朝は征夷大将軍に任じられた。
建久4年(1193年)、富士の狩場で曽我 兄弟が、頼朝を仇として討とうとしたが失敗。頼朝が討たれたと勘違いしたカバ冠者は政子を励まそうと「まだ弟の俺も居るからだいじょうブイ」と失言してしまい、後に粛清されてしまった。
やがて北条父娘に殺害された亡き長男の忠頼(千鶴丸)を思い出しては泣くたびに、北条氏にあらためて怒りを覚えるようになった。危機感を抱いた妻の政子は弟の北条義時及び妹婿の稲毛重成と共謀して、相模川の橋にトラップを仕掛けた。だらしのないことに頼朝は橋にて落馬した。その傷を癒すための薬に毒薬を盛られて絶命したという。享年53。表向きの死因は、後白河&義経の怨霊の呪いによる非業の死となっている。その後、稲毛だけが後に北条から粛清されて、体よく口封じされたことは言うまでもない。
頼朝と義経[編集 ]
この兄弟を巡る悲劇は歴史上非常に高名であり、1558年に日の本三大兄弟にノミネートされたほどである。頼朝と義経は実の兄弟であったが、父義朝は妻の浮気を疑い、義経ともども勘当してしまう。何故このような運びとなったのかは明らかにされてはいないが、一説によると、平氏との度重なる戦で心労が募った義朝が今朝の星占いの結果を本気にしてしまったためとも言われている。
幼くして生き別れになった頼朝と義経は、それぞれ別の場所で人質としての生活を送ることになる。兄頼朝は平氏の下で草履を尻に敷かれるなどの陰湿ないじめを受けていたのに対し、弟義経は呑気にヒーローごっこに興じて牛若丸を名乗り、弁慶とか言うサクラを退治して遊んでいた。
後に頼朝が平氏打倒の兵を掲げた時に義経との再会を果たす。その夜、頼朝は辛かった少年時代を涙混じりに切々と語ったが、義経は空気を読めずに楽しかった少年時代と題した作文を鼻歌交じりに音読した。この時に頼朝が抱いた殺意と嫉妬と愛しさとせつなさとスリルショックサスペンスは 筆舌に尽くしがたいものであったという。頼朝は最前線で義経をコキ使った。戦死してくれる事を期待したが、ヒーローごっこで鍛えた前口上の力で義経は連戦連勝を繰り返す。どちらかというと戦下手だった頼朝は「幼少の頃にヒーローごっこさえしてればあんな奴に...くやしい、ビクビクッ」と、さらに嫉妬心を募らせる。
平家滅亡の頃には義経に対する感情は頼朝が押えきれないほどに肥大化していた。頼朝は専属カウンセラーと三日三晩相談の結果、義経を追放することを決意。その後、なんか義経が生きていることも辛抱たまらなくなった頼朝は義経の潜伏先である奥州藤原氏にそいつを殺せと脅迫する。びびった奥州側は速攻で義経を殺すが、この頃の頼朝は重度の精神疾患を患っており、(一説には腸閉塞とするものもある)「そんな命令を出した覚えは無い」と逆ギレ。奥州に兵を送り藤原氏をも滅亡させた。
他にも頼朝は義経のみならず六弟の源範頼(お母さんは遊女)にも戦仕事を無理やり手伝わせた挙句、用がなくなったらポイッと粛清したり、さらに同じ源氏である甲斐源氏の一条忠頼、安田義定、摂津源氏の源有綱、さらに叔父の志田義広、源行家(新宮義盛)を粛清するなど、同じ源氏の親族に対して冷淡に接した。これは頼朝の血統に他の源氏が取って代わることを恐れていたからだが、結局、頼朝の死後に頼朝の血統を潰して天下を掌握したのは頼朝の妻の実家の北条氏で、他の源氏は指をくわえてみているだけで頼朝の子孫を何も助けないという皮肉な結果となった。
頼朝語録[編集 ]
- 「平家滅亡後には、美濃尾張(みのおわり)を与えよう」(父義朝をだまし討ちにした長田忠致が降伏してきた時。平家滅亡後に「身の終わり」を与えるといって死刑に処した。頼朝渾身のブラックジョーク)
- 「神社の参道(さんどう)をまっすぐ整備すれば、きっと妻の政子の産道もまっすぐになって安産になるぞ」(鶴岡八幡宮前の大通りの真ん中に今も歩道が走っているのは、頼朝の親父ギャグ由来)
- 「声が悪い禿げ頭のくせに官位をもらってんじゃねえよ」(後白河法皇のマインドコントロールを受けた武士たちへの頼朝の罵詈雑言1)
- 「大法螺吹きしか能がないおまえが馬にまつわる官位をもらうとか、馬をダメにするだけだろwww」(後白河法皇のマインドコントロールを受けた武士たちへの頼朝の罵詈雑言2)
- 「藤原泰衡は東北の主だというが、わしとたった20日間戦っただけで滅んだ。情けねえ奴だわwww」(降伏した泰衡の家来に言ってのけた頼朝だが、泰衡の家来から「あなたの父上は平清盛と戦って1日で滅びましたよね」と論破されて沈黙)
- 「あべし」(死ぬときのセリフ)
関連事項[編集 ]
ハイル・ヒットラー!
この源頼朝は、偉大なる我らがアーリア民族の築き上げた最高の文化的作品である!
この記事を書き上げてこそ、 ユダヤ人を殲滅できるのだ!
この記事をつまらなくする者に宣戦布告を!!ジーク・ハイル!!!! (Portal:スタブ)