朝倉宗滴
朝倉 宗滴/朝倉 教景(あさくら そうてき/あさくら のりかげ、文明9年(1477年) - 弘治元年(1555年))は、戦国時代に活躍した戦国武将である。朝倉義景の大叔父で、戦国時代に時々出現するヤバイ爺の一人として有名であり、一乗谷の妖怪として他家はおろか朝倉家の一族内でも恐れられた。
略歴[編集 ]
名門守護・守護代の家系である朝倉孝景(7代当主)の八男として生まれた。末っ子だが余りの化け物っぷりを出産直後から垣間見せたため、半分嫡男と同じような扱いを受けたといわれる。父が死んだときにはまだ4歳児であったが家臣や一門衆の間では「マジでこの坊やを当主にした方が良いのでは?」と喧々囂々の議論を起こすハメになり、危うくお家騒動を起こしそうになったという。このとき4歳のショタっ子教景は慌てふためく家臣達を一喝し、跡目を正すために兄である朝倉氏景を当主とする事を提案し、決定させたのである。
なお教景は仮名が父親と同じ小太郎、名前も代々朝倉家当主が名乗ったといわれる教景であるのに対し、兄であり長男でもある氏景の仮名が孫次郎であるあたりからいかに教景がヤバイ存在かを示しているといわれている。こんなとんでもない超人の弟に家臣として仕えられた氏景(彼自身もやり手の戦国大名であったが)はストレスをためてしまい、その五年後に38歳の若さでこの世を去っている。氏景の後継は13歳の彼の子である朝倉貞景が継いだが、もちろん9歳の教景に首根っこをギュっとつかまれた傀儡政権であることは間違いない。
こうして教景は朝倉家の裏番長として朝倉家に君臨して言ったのであるが、そんなある日事件は起こった。文亀3年(1503年)、敦賀城主であった朝倉景豊が「朝倉本家に謀反起こすから手伝ってくれ」と言いに来たのが事の発端である。朝倉家一の化け物である教景が味方にならなければ謀反は成功しないと踏んだのであろうがこれが景豊の命取りとなった。教景はチクった上に景豊をフルボッコにした上で朝倉家への忠誠を示す為に出家したと言われる。ただでさえ怖い教景がスキンヘッドになってさらにイカつい姿で一乗谷をウロウロとされるのである。もう誰も教景(出家して宗滴、『血とか脳漿とか糸宗合的に色んなヤバイ体液を滴らせている』の意)に文句など言えるはずも無いのである。もはやどっちが朝倉家当主かわからない、というかどう見ても宗滴の方がエラいに決まってるという不思議な空気が一乗谷に漂っていたが、ヘタレな朝倉家本家と宗滴の不思議なコンビは何故かうまく行き朝倉家は黄金時代を迎えていったのである。
永正3年(1506年)3月、一向宗の農民どもと不埒な地侍達が朝倉家に喧嘩を売ってきた。この時、一向一揆衆は膨れに膨れ上がってその数30万人、朝倉家は1万1千人の兵で迎え撃った。桁を間違えているのではない、念のため。30分の1の勢力だが、朝倉軍は先頭にたって一向宗を千切っては投げする宗滴に励まされ、そして宗滴の「死ぬ気で戦わない奴は俺が殺す!一向宗と戦って英雄として死ぬか、俺にブチ殺されるか、好きな方を選べ!」という気迫に脅され、見事にこの大軍を撃退するのである。世に言う九頭竜川の戦い である。なお当時の足軽達は「これ、宗滴殿一人でも勝てたんじゃね?」とコメントしている。
大永5年(1525年)には調子に乗って暴れすぎた浅井亮政にヤキを入れるために近江・小谷城に出陣する。この時、小谷城の一角を宗滴は占領し、毎日浅井家に五ヶ月にわたって無言の圧力をかけ続けたのである。浅井家としてはたまったものでなく、深く反省すると約束して宗滴に立ち退いてもらったという。これ以降、宗滴が不法に占領した一角を金吾嶽(金吾は宗滴のこと)と呼び、朝倉家が織田信長に滅ぼされるまで朝倉コンプレックスに悩まされたという。そして織田信長に反旗を翻すという決定的な判断の失敗を犯す事の遠因にもなり、朝倉家が亡んだ後は即時に浅井家も宗滴の亡霊に引きずられて地獄に引っ張り込まれるというハメにもなった。本当にいい迷惑である。
老年になってからの爺もまさに暴れ放題であった。というか老いてからがますます盛んで手がつけられなくなったと言っても過言ではない。近隣勢力を指先一つでフルボッコとか、畿内に行って大暴れしたとかいう話は尽きないので割愛する。晩年記は『朝倉宗滴話記』というブログで武勇伝などを公開していたという。一部を以下に記す。
名言[編集 ]
- 最近の年寄りはけしからん。わしは今でも殿と天下を取る夢を見続けておるのに。
- 「最近の若い者は」で始まるものは多いが、これは珍しい。というか「貴方と一緒にしないで欲しい」と最近の年寄りも殿も考えているようである。
- 良い大将と言うものは勝ちも負けも知っているもの。まだ負けたことがなくて勝ちしか知らんような儂なんてまだまだ青いwww
- このジジイのジョークセンスなら、現代に生きていれば立派なアンサイクロペディアンになれた筈。
- なんという戦国のジャギイズム。情け無用の超スパルタ主義。武者も犬も畜生もたまったものではない。
- 織田信長ってなんか期待できそうで楽しみ。
- 宗滴が期待の新人を見つけた時の喜びが示されており、鑑定眼も凄い。だが宗滴爺さんは彼に朝倉家が滅ぼされる事を知らないし、知っていたら第六天魔王といえども滅ぼされていたかもしれない。実際、爺さんが居る間は手出ししてない。
- 「万貫の太刀一本では国は守れぬが、百貫の槍百本あれば戦ができ候」
- 要するに「たっけえ宝刀一本買ってウホウホしててどーすんだこのクズ! 戦いは数だよ、兄貴! 一機のビグザムより百機のザクだろーが」と説いた一文。
- 宗滴話記付録 「朝倉孝景条々」
- この条々は朝倉家の記録にほぼ残っていないことや、抗争に明け暮れた晩年の孝景が「治に居て乱を忘れるな」と諭すなどの不自然な点から、爺さんが坊ちゃんのために捏造したものであるというのが通説。ちなみにこの条々はたまたま時代設定が古かったため、「戦国初の家法」として全国の教科書に掲載され福井の誇りとなっている。
そんな宗滴も弘治元年(1555年)に、この世を去る事になる。人間五十年の時代に80歳近い年まで大暴れ(死ぬ数ヶ月前まで戦場で暴れていた)しながら天寿を全うしたという大往生であった。人々は宗滴の遺徳を偲ぶのと同時に、ヤバイのがこの世から去ってほっとするので胸が一杯になり涙したという。朝倉家の滅びの始まりである。